国威宣布の宸翰

2008.10.19
五箇条の御誓文』が出された1868(慶應4)年3月14日、天皇自身の信条を全臣民に認識させる目的で「国威宣布ノ宸翰(しんかん=天皇直筆の文書。宸筆・親翰とも)」が発表された。




国威宣布ノ宸翰

朕幼弱を以て猝(には)かに大統を紹き爾来何を以て万国に対立し列祖に事へ奉らんかと朝夕恐懼に堪えざるなり。蜜かに考ふに中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表には朝廷を推尊して実は敬して是を遠ざけり、億兆の父母として絶えて赤子の情を知ること能はざるやう計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、其が為に今日朝廷の尊重は古に倍せしが如くして朝威は倍(ますます)衰へ上下相離るること霄壌(しょうじょう)の如し。斯る形勢にて何を以て天下に君臨せんや。今般朝政一新の時膺(あた)りて天下億兆一人も其所を得ざるときは、皆朕が罪なれば、今日の事朕躬(みずか)ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古列祖の尽させ給ひし蹤(あと)を践(ふ)み、治績を勤めてこそ、始めて天職を奉じて億兆の君たる所に背(そむ)かざるべし。往昔列祖万機をみずからし不臣の者あれば自(みずか)ら将として之れを征し給ひ、朝廷の政、総(すべ)て簡易にして此の如く尊重ならざる故、君臣相親(したし)みて上下相愛し、徳沢天下に普(あまね)く、国威海外に輝きしなり。然るに近来宇内大いに開け、各国四方に相雄飛するの時に当り、独り我国のみ世界の形勢に疎(うと)く、旧習を固守し、一新の効を計らず。朕徒(いたず)らに九重の中に安居し、一回の安きを偸(ぬす)み、百年の憂を忘るる時は遂に各国の凌悔を受け、上は列祖を辱しめ奉り、下は億兆を苦めんことを恐る。故に朕ここに百官諸侯と広く相誓ひ、列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問はず、親ら四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波涛を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す、汝億兆旧来の陋習に慣れ、尊重のみを朝廷の事と為し、神州の危急を知らず。朕一度(たび)足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜(ふんうん)として、朕が志を為さざらしむ時は、是(これ)朕をして君たる道を失はしむるのみならず、従て列祖の天下を失はしむるなり。汝億兆能能(よくよく)朕が志を体認し、相率(ひき)ゐて私見を去り、公儀を採(と)り、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。







(読み仮名無し版)
国威宣布ノ宸翰(明治元年3月14日)

朕幼弱を以て猝かに大統を紹き爾来何を以て万国に対立し列祖に事へ奉らんかと朝夕恐懼に堪えざるなり窃に考るに中葉朝政衰へてより武家権を専らにし表には朝廷を推尊して実は敬して是を遠け億兆の父母として絶て赤子の情を知ること能はざる様計りなし遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て其が為に今日朝廷の尊重は古に倍せしが如くにて朝威は倍ます衰へ上下相離るること霄壌の如し斯る形勢にて何を以て天下に君臨せんや今般朝政一新の時膺りて天下億兆一人も其所を得ざるときは皆朕が罪なれば今日の事朕躬ら身骨を労し心志を苦め艱難の先に立ち列祖の尽させ給ひし蹤を履み治績を勤めてこそ始めて天職を奉して億兆の君たるところに背かざるべし往昔列祖万機を親らし不臣の者あれば自ら将として之れを征し給ひ朝廷の政総て簡易にして此の如く尊重ならざる故君臣相親み上下相愛し徳沢天下に普く国威海外に輝きしなり然るに近来宇内大に開け各国四方に相雄飛するの時に当り独り我国のみ世界の形勢に疎く旧習を固守し一新の効をはからず朕徒らに九重の中に安居し一日の安きを偸み百年の憂を忘るる時は遂に各国の凌悔を受け上は列聖を辱しめ奉り下は億兆を苦めんことを恐る故に朕ここに百官諸侯と広く相誓ひ列祖の御偉業を継述し一身の艱難辛苦を問はず親ら四方を経営し汝億兆を安撫し遂には万里の波涛を拓開し国威を四方に宣布し天下を富岳の安きに置かんことを欲す汝億兆旧来の陋習に慣れ尊重のみを朝廷の事と為し神州の危急を知らず朕一度足を挙げれば非常に驚き種々の疑惑を生じ万口紛紜として朕が志を為さざらしむる時は是朕をして君たるの道を失はしむるのみならず従て列祖の天下を失はしむるなり汝億兆能能朕が志を体認し相率ゐて私見を去り公儀を採り朕が業を助けて神州を保全し列聖の神霊を慰め奉らしめば生前の幸甚ならん、

 右
御宸翰之通、廣く天下億兆蒼生を思食させ給ふ深き御仁恵の御趣意に付、末々の者に至る迄敬承し奉り、心得違無(レ点)之、国家の為に精々其分を尽すべき事
 総裁 輔弼













 『物語日本史』(平泉澄著)の明治維新の章に”五箇条の御誓文”の項の中に『国威宣布の宸翰』についての言及もあるので引用する。

(以下引用)五箇条の御誓文
 以上幕府の末路をまとめてお話ししてきましたが、今度は本筋に戻って、朝廷のめざましい新政を述べましょう。明治天皇は、明治元年正月十五日御年十七歳にて御元服遊ばされ、やがて三月十四日、百官を率いて紫宸殿に御出座しになり、国是五箇条を立てて、天神地祇に御誓いになりました。五箇条の御誓文と呼ばれるのは、これであります。
(五箇条の御誓文引用略)
 以上の五箇条を御誓いになると同時に、御宸翰(『国威宣布の宸翰』)を群臣に賜りましたが、その要旨は、中世以来、表面には朝廷を尊んで、実は敬して遠ざけたために、君臣の間、遠くかけ離れたが、それでは君臨の意味がない、今度朝政一新の時にあたり、国民の中に一人でもそのところを得ない者があれば、それは天皇の御罪であるから、骨を折り心を苦しめて良い政治を行おうと思う、汝らよくよくこの御方針を心得て、私見を去り、公義を採り、天皇をお助け申し上げて、神州を保全し、御歴代天皇の神霊をお慰め申し上げよ、との御趣意でありました。この御宸翰は、五箇条の御誓文と同様に非常に重いものですが、殊にその中に、「天下億兆、一人も其の処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」と仰せられてありますのは、外国では見られないところで、皇国政治の尊さ、ここにも窺うことが出来ましょう。
 四月の二十一日には、勅命を以て、湊川神社を建て、楠木正成を祭られました。これは先に孝明天皇が、和気清麻呂をお祭りになった後を受け、この後、新田義貞、菊池武時、名和長年、北畠親房、同顕家らを、次々とお祭りになる先例となりましたもので、斯様に昔の忠臣を神として祭り、或いはまた官位をお贈りになることは、やがて来朝したラフカジオ・ハーン(Lafcadio Hearn 後に帰化して小泉八雲)の感嘆した所でありました。
 五月には、徳川の本家、慶喜の譲りを受けて、今は家達が当主となっていますが、これを駿府(静岡)に封じ、七十万石を与えられました。さきには誇称して八百万石といわれたものが、今は御三家の尾州を僅かばかり上回るに過ぎないものになったわけです。
 八月二十七日には、紫宸殿において、古式に則り、御即位の式を挙げられました。そして九月八日、年号を明治と改められました。これまでは前のままに慶応四年と称していましたが、今後は前に遡って、この年を明治元年と唱えることになったのです。また今迄は、天皇御一代の間に幾つもの年号がありましたが、この日の御決定によりこれからは御一代に年号は一つということになりました。
 やがて九月二十日、京都御出発、十月十三日東京へ御着きになり、江戸城を皇居とし、名を改めて東京城と定められました。この江戸を改めて東京とし、これを帝都と定められますことは、七月十七日の詔で、既に決まっていた所ですが、関東は鎌倉といい、江戸といい、長い間に渡って武家の本拠とした所で、もって京都に対抗してきましたのが、今や幕府を覆すと同時に、ここを帝都として天下に号令し給ふようになりましたことは、朝廷の断然たる御意志の表明(あらわれ)でもあり、また全国に渡って人心を新たにする機会を与えられたものでもあって、非常に重大なことでありました。









明治の光輝』(平泉澄著)上編の第三章「明治天皇の宸翰」より引用

 明治天皇の御製、総じて九万三千三十二首と承ります。私共は、其の数の多いのに驚きますと共に、そのいづれを拝誦いたしましても、その中から貴い御教をいただく事の出来ますこと、有り難く感銘に堪えないのであります。そして其の御教の結晶として『教育勅語』を仰ぎ、そこに不断の光を望み、不滅の勇気を与えられる事、どなたも御同様であろうと思います。然るに明治天皇は、教育勅語と相並ぶべき、極めて重大なる御勅諭を、国民の全てに、即ち他ならぬ我々に御下賜になり、そして申し訳のない事には、それは一般には、殆ど忘れ去られているのであります。それは何時の事かといいますと、慶応四年、即ち明治元年の三月十四日でありました。その日は国是五箇条を立てて、天地神明に誓わせ給うた事、どなたも御承知の通りであります。その五箇条は、之を天地神明に誓われたのでありますが、それと同時に、国民全体に宸翰を賜ったのであります。然るに五箇条の御誓文のみ喧伝せられて、誰知らぬ者は無い有様でありますのに、国民全体に呼びかけさせ給うた宸翰の方が、殆ど忘れ去られた事は、不思議でもあり、申し訳の無い事と言わねばなりませぬ。
 今、「岩倉公実紀」によって、その宸翰を掲げましょう。
(”国威宣布の宸翰”略)
此の宸翰の初めに、「朕幼弱を以て」とありますが、明治天皇は、嘉永五年九月二十二日の御降誕でありました。九月二十二日は、後に太陽暦に換算して十一月三日に当たりましたので、その日を明治の天長節としてお祝い申し上げたのであります。嘉永五年は、壬子の歳でありました。明治天皇の崩御は、明治四十五年でありますが、是がまた壬子の歳であります。即ち天皇は壬子の歳に御降誕になり、そして壬子の歳に崩御になったのであります。そこで宝算六十一歳であらせられた事も、記憶しやすくなりますし、又、昭和四十七年も壬子の歳でありましたから、明治天皇崩御の後、昭和四十七年で満六十年の歳月が流れた事も、計算しやすくなるでしょう。
 それは兎も角、嘉永五年のご生誕でありますから、慶応二年十二月二十五日、父帝孝明天皇が御かくれになりました時には十五歳、翌慶応三年正月九日践祚の御時には十六歳、そして今此の宸翰を下し給うた時には十七歳であらせられました。「幼弱を以て」と仰せられる所以であります。次に「猝かに大統を紹(つ)ぎ」とあります。猝という字は、犬がだしぬけに叢の中から飛び出して吠えかかる貌(かたち)で、「急に」、「思いもよらず」、「だしぬけに」という意味だといいます。父帝孝明天皇は、まだ三十六歳という壮年でおはしたのですから、その崩御は全く思いもよらぬ事であり、御不幸は真にだしぬけに起こったのでありました。十五歳にして此の御不幸にお遭いになり、十六歳にして大統を継がせ給うた明治天皇は、その年の内に大政の奉還(十月十五日)をお許しになり、ついで王政復古(十二月九日)の大号令をお下しになり、そして今慶応四年(明治元年)には、正月に鳥羽伏見の戦、二月に東征大総督の進発という大事を経験し給うたのであります。その東征大総督の進発より一箇月の後、三月十四日即ち五箇条の御誓文をお立てになり、同時に此の宸翰を下された時であります。
 さて此の宸翰の中に、「汝億兆」と仰せられた所が、前後二箇所にあります。これは教育勅語に「爾臣民」と仰せられたのと同様、全国民を対象とし、全国民に親しく呼び掛けさせ給うたからであります。それでは何をお呼び掛けになったのであるかと云いますに、色々研究すべき事、説明すべき事はありますものの、大体の御趣意は、一読して再読して、先ず明らかでありましょうから、今ここに細説する事は省略したいと思います。
 全体に亘っての細説は省略させて貰いますが、然し其の中に極めて重大なる政治の原理原則が示されております事は、注意し、審思していただかねばなりませぬ。それは「天下億兆一人も其の処を得ざる時は皆朕が罪なれば」と仰せられた点であります。此の一句には、至って深い意味が籠められ、至って高い原理が示されているのであります。斯様な原理は、不幸にして今日、世界のどの国に於いても考えられず、況んや実行せられていないのであります。今日ある国々に於いては、多数決が政治の原則となっています。若し其の多数が正しい時には、結果的に云えばそれはそれで良いように見えますが、その多数が正しからず、却って少数が正しい場合には、正しいものが少数なる故に、踏み潰されるのであります。またある国々に於いては、名目は民主主義を唱え、委員会を称するにせよ、実質は少数幹部の専断強制によって政治が行われているのであります。そこには異議を唱え異論を差し挟む余地は無く、若しそれを敢えてすれば、鉄槌は直ちに下されるでありましょう。然るに今、明治天皇のお示しになりました政治の原理原則は、「天下一人も其の所を得ざる者無からしむるを期す」というのであります。是に於ては、多数も少数も、強者も弱者も、一様に正道の批判の前に立たされるのであります。
 斯くの如きは、ひとり明治天皇の御理想であったばかりでなく、歴代天皇の常に目指し給うた所であった事は、例えば後醍醐天皇の御事績から考えても明らかでありますが、言葉の上に先蹤(せんしょう)を辿りますと、仁明天皇(にんみょうてんのう 五十四代 833年2月28日- 850年3月21日)の勅の中にも見出されます。仁明天皇の承和九年、橘逸勢は、謀反の罪に問われて伊豆へ流され、配所へ赴く途中、遠江の板築に於て病歿しました。その孫珍令、祖父に随って伊豆へ下ろうとしましたが、はからずも祖父の死に遭い、幼少の身の置き所無きに苦しみました。その時、仁明天皇之をきこしめして、「罪人の苗胤と雖も、猶一物の所を失ふを悲しむ、よろしく更に追還して旧閭に就かしむべし」と勅せられたのでありました事、「続日本紀」に見えております。あゝギリシャの古代に於て理想とせられたる哲人政治、その高遠なる理想は、我が国に於いて、御歴代天皇によって実現せられたと云ってよいでありましょう。
 これに就いて深い感銘を示されたのは、近衛文麿公でありました。昭和十二年正月、国会議事堂の新築落成の際、貴族院議長として祝辞を述べられる事になりました近衛公は、その草案の作製を私に求められました。よって即刻筆を執りました私は、その草案の中に、次のように書きました。

 「この堂々たる新建築に対しまして、我々の反省致します所、反省して深く責任を感じます所は、少なくないのであります。こゝには、其の中の最も重大なる一つに就いて申し述べようと思います。一体、議会を考えます時に、我々の頭に直ちに浮かんで参りますものは、明治の初めの五箇条の御誓文、就中その第一条に掲げられました所の、『広く会議を興し万機公論に決すべし』との御言葉であります。いうまでもなく、この御誓文は万人周知の事でありますが、しかしながらこの第一条の意味は、一般には余りに簡単に、また余り浅薄に考えられているのではないかと思います。即ち之を只多数の意見に従うようにとの御趣意にのみ解しまして、多数決であれば事が済むように考えているのではないかと思うのであります。しかしながらこの万機公論に決すべしとの御言葉は、只多数決というような簡単な機械的な意味ではないと拝察いたします。何故ならば、当時賜りました御宸翰に、天下億兆一人も其の所を得ざる時は、皆朕が罪なればと仰せられているのであります。若し多数でものが決まって少数が否決せられるという事であれば、少数の意見は常に其の所を得ないのであります。然るに明治天皇は、一人も其の所を得ざる時は朕の罪なりと仰せられているのであります。してみれば、万機公論に決すべしとの御言葉は、之を只多数決という風に機械的に解釈し奉る事は出来ないのであります。こゝに思い当たりますのは、同じ御宸翰の中に、『汝億兆、能ゝ朕が志を体認し、相率いて私見を去り公義を採り、朕が業を助けて神州を保全し』云々と勅せられた事であります。即ち、『万機公論に決すべし』との御言葉は、此の『私見を去り公義を採り』との御言葉と相照応するものであります。して見ますれば我々は、只多数で者を決めてゆけばよいというわけではない。形の上から云えば、如何にも多数でものが決まるのであるが、しかしそれだけでは聖旨に副ひ奉る事は出来ないのである。どうしても我々は私見を去り公義を採らなければならないのであります。私見を去り公義を採る事によってのみ、第二条に仰せられました所の『上下心を一にして盛に経綸を行う』事は出来るのであります。而して、斯様に上下心を一にして盛に経綸を行います事によって、初めて第三条に仰せられましたように、天下の人心を倦まざらしめることが出来るのであります。而してかくして初めて旧来の陋習を破り、天地の公道に基づき、また智識を世界に求め、大に皇基を振起しようとの御叡智にそひ奉る事が出来るのであります。天下億兆一人も其の所を得ざる者無きを得るのであります。新築せられました議事堂に対して、色々感ずる所が多いのでありますが、その一つは実にこの私見を去り公義を採らなければならないという事であります」

此の草案をお届けしました時に、近衛公はすぐに之を一読せられましたが、腑に落ちかねる御様子で、「此の明治天皇の御宸翰は、何に載っていますか」と訊ねられました。「岩倉公実記に載せてあります」とお答えしますと、公はその正確さに安心せられて再度之を読み返し、いかにも感嘆に堪えざる如く、大きく目を瞠って云われました。
 「是は宸翰と呼ばずに、勅語と申し上げるべきものですね。そして教育勅語と並べて、全国民に服膺(ふくよう)すべきものですね」
その時示された近衛公の深い感動を、私は今に至って忘れる事は出来ませぬ。
 その後も度々近衛公にはお目に掛かりましたが、此の宸翰に就いてお話の出た事は一度もありませんでした。然し宸翰を拝して受けられた感動は、近衛公の胸に深く刻み込まれて、大政翼賛の根本理念となったに違いありませぬ。それは昭和十五年九月二十七日に下されました詔書に、
 「惟うに万邦をして各々其の所を得しめ兆民をして悉く其の堵に安んぜしむるは曠古の大業にして」
と仰せられてあります事、また同日締結せられましたる日独伊三国同盟条約の前文にも、「万邦をして各其の所を得しむるを以て恒久平和の先決要件なりと認めたるに依り」とある事によって明らかであります。輔弼の重臣として考えます時、近衛公純忠の貴い精神と、聡明にして深い洞察力とには、頭が下がる事であります。
(「日本」昭和四十八年二月号)









 明治元年の「国威宣布の宸翰」は明治天皇の親政の決意表明であり、その文面に込められた覇気、漲る英気が感じられる。この高揚感が明治の雰囲気も感じさせるように思う。
 一方、『明治の光輝』(平泉澄著)の後半に記述されている、大政翼賛や日独伊三国同盟を肯定する文脈で近衛公が”国威宣布の宸翰”から援用したとされる詔書については、全体主義の肯定であり、この部分については、御宸翰の趣意とは異なるのではないかと私見に過ぎないのだが思うのである。しかしまた、『大東亜維新史観』として、当時のアジアが白人帝国主義に蹂躙されていた事、これを排外してアジア諸国を独立させ、人々に文明国としての暮らしを与えるという大東亜戦争の崇高な使命感を指すならば、当に日本国内への御宸翰から全世界、全人類への御宸翰というこの上ない高揚感もまた理解できない事もない。但し、それでも組んだ相手が悪かった。何しろ当時はナチスドイツであったし、日独伊が本来の目標では無く、”日独ソ三国同盟”こそが目標だったのである。ヒトラーとスターリンが同類の、冷血な独裁者に過ぎなかった事を未だこの時、全世界は充分に知らなかったし、松岡洋右外相は彼等に魅せられ、近衛公もまた共産主義、社会主義、全体主義に夢を見ていたようである。それは当時の世界では流行であったし、アメリカもまんまと騙されていた(『第二次世界大戦と日独伊三国同盟−海軍とコミンテルンの視点から』、『大東亜戦争とスターリンの謀略』、『日中戦争再論』)のであり、日本一国、そして当時の首脳ばかりを責めるのも誤りではないかと思うのだ。少なくとも、本論文では、後世から見ると完全に正しいとは言えないものの、大日本帝国は御宸翰の精神を以て大東亜戦争を選んだ、という事が示されているのは確かである。










明治神宮
http://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.html
教育勅語
五箇条の御誓文
国威宣布の宸翰

中野文庫 詔書
http://www.geocities.jp/nakanolib/shou/shousho.htm


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