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視点・論点 「水俣病患者の全面救済を」2013年05月16日 (木)
滋賀大学元学長 宮本憲一
4月16日、最高裁は、行政が水俣病患者として認めなかった2人の被害者を、公害健康被害補償法による水俣病と認める判決を下しました。1956年5月、水俣病が公式に発見されてから実に57年を経たことになります。この長い間、チッソと政府・自治体は法的責任を完全には果たさず、多くの被害者は、水俣病ではなく「偽患者」といわれるなど差別され、基本的人権を侵害され、正当な補償を受けていなかったのです。
紛争が解決しない原因は、政府が司法の判断とは異なる1977年の水俣病の判断基準に固執して、被害者の大部分を水俣病と認めずに、あいまいな政治的解決を取ってきたためです。このような「政府の失敗」は、アスベスト事件の救済や原発事故の補償問題にも通じますので、その原因と今後の解決の方向について述べてみたいと思います。
まず第1は、政府の水俣病の病像の認識が誤っているためです。行政の水俣病の判定基準は司法のそれと異なっています。
水俣病は魚介類に蓄積された有機水銀を口から摂取することにより起こる神経疾患で、その症候は四肢末端の感覚障害に始まり、運動失調、平衡機能障害、求心性視野狭窄、歩行障害などをきたします。この中で共通してみられる症候は四肢末端ほど強い両側性感覚障害です。
司法の判断は有機水銀に汚染された魚を摂取した経歴があって感覚障害があれば、総合判断して水俣病と認めるというものです。これに対して行政の基準は、原則として先の症候の組み合わせ、たとえば感覚障害があり、かつ運動障害が認められるなど、4つの症候の組み合わせがあることとしてきました。この病像の対立は水俣病とは何かという基本的な認識の相違といってよいでしょう。
1959年熊本大学水俣病研究班は、被害者の症状が、労働災害としてのハンターラッセル症候群と類似していることを発見し、有機水銀中毒であると発表しました。しかし、政府もチッソもこれを採用しませんでした。熊本大学研究班はその後も研究をつづけ、ついに原因物質が、チッソのアセトアルデヒドの製造工程から生まれることを突き止め、1963年に学会で発表します。しかしチッソと政府はこれも認めず、1965年に第2の水俣病が新潟で発生し、チッソがアセトアルデヒドの生産を停止した1968年に、ようやく水俣病を公害として認めたのです。
人間の生命健康よりも経済成長第1のチッソや政府の圧力に抗した熊本大学研究班の業績は画期的なものです。しかしこの初期の研究は、労災としての有機水銀中毒症が基準になっています。水俣病は有機水銀が食物連鎖を通じて生物濃縮し、魚に蓄積して、それを食べた住民の脳神経が侵されて発病した環境災害=公害です。故原田正純さんの言うように、日本で初めて発見されたものであり、労災とは異なります。したがって、現場で被害者を診察し、疫学的な調査をし、病理学的な診断を重ねて病像が確定するのです。胎児性水俣病の発見を見ても、水俣病が環境災害の性格を持っていることは明らかでしょう。ところが、政府の77年水俣病認定基準は環境災害としての水俣病の病像を認識せず、初期の労災類似の病像論に固執し、その結果としてチッソの利益と行政上の都合で患者を切り捨ててきたのでないでしょうか。
第2は公害患者を救済する基本法である公害健康被害補償法=公健法に問題がありました。4大公害裁判の結果、経済団体や政府は、これ以上被害の救済を放置して公害裁判や紛争が続くことを恐れ、行政で救済する道を求めました。これによって、公害被害者の多くが救済されました。しかし火事場の騒ぎを早く鎮めたいという目的もあったので、十分な議論をせずに急いで作ったための欠陥があります。
もともとはこの法律は、四日市公害のような深刻な大気汚染事件の解決を目的としたものです。公健法はこの大気汚染患者をもれなく救済できる制度になっていました。それに対して水俣病などは議会でもほとんど審議がなく、無理に紛れ込んだといってよいような状況でした。議会で参考人に呼んだ水俣病やイタイイタイ病の関係者はこの法案に反対しています。当時、労働災害から類推された病像とは違う、環境災害としての広範な神経障害や胎児性水俣病が明らかになっていました。公健法は当然このような変化に対応して、不知火海全域の健康調査をして病像を確定しなければなりませんでしたが、初期の病像のイメージのまま出発したのです。
間もなく石油ショックに始まる世界不況が始まり、チッソは赤字となり、経済界や政府は公害対策を後退させていくことになりました。他方、水俣病認定を求める申請者は急激に増えます。政府はチッソ救済のために補償金を熊本県債で肩代わりをして、乗り切ろうとしましたが、そのために政府の財源の制約が生じました。このような経済・財政の危機状況と急激な患者の顕在化が、重度の患者以外を認めない1977年の認定基準を生み、大量の患者切り捨てをしたのです。
第3は、2度にわたる政治的解決が、病像論や政府の責任論をあいまいにした解決であったためです。
1980年代に入り、国の責任を追及する裁判の圧力で1995年政府は政治的解決をし、当時の村山首相の謝罪と約1万名の被害者にたいして水俣病とは認めないまま一時金などの救済措置を取りました。しかしこれに納得しない患者が訴訟を継続し、2004年最高裁は、感覚障害だけで、水俣病患者と認定し、政府の責任を認めます。この判決によって、再び被害者が政府の責任を求める裁判を起こしました。政府は再び政治的解決を図り、2009年「水俣病被害者の救済などに関する特別措置法」を制定しました。これによって感覚障害と疫学的条件のあるものを「水俣病被害者」と命名し、一時金210万円を支給することにしました。この法律のもう一つの目的はチッソの分社化を認めることにありました。特措法は3年の期限で、昨年の7月、申請受付を停止しましたが、約6万人の住民が申請しています。
これまでの行政の判断が最高裁によって否定されたので、行政はそれに対して答えなければなりません。行政の面子を守ることではなく、沢山の未認定の被害者の権利の回復を図らねばならないのです。補償問題と切り離して、まず77年基準を停止し、感覚障害があり、汚染魚を一定期間摂取し、明らかに疫学的な条件が満たされる被害者を水俣病と認める。その上で被害者にどのような救済策が必要か、広く意見を聞くことです。司法判断のような公害としての水俣病の基準で補償制度を再検討し、公健法を改革すべきです。あるいは、特措法の改革を再提案すべきでしょう。このような行政の対応がなければ、裁判が続き、紛争は終わらないでしょう。