「影響力がある強者」が「弱者」を「晒す」ことについて

2013/05/21


乙武さんの騒動は、個人的に関心があるテーマによく絡んできます。また書いてしまいました。

以前書いた記事はこちら。

はるかぜちゃんが真理を語っている件

「誰が悪いのか」を決めたがる人間は「三流」ですよ


「影響力がある強者」が「弱者」を「晒す」ことについて

今回の件で多く見られた批判は「乙武さんという影響力のある人間が、小さなレストランの店主を晒すのはひどい」という、強者の倫理性を問う批判。

これ、とても面白いテーマです。ハフポ的に他のユーザーのツイートから紹介しましょう。


まず、中川淳一郎さんが目から鱗の指摘をなさっています。

そもそもネット空間では、影響力的な意味での強者も弱者もない、という示唆を与えてくれます。影響力があろうとなかろうと、「晒し」は機能するわけですね。

ここから導き出せそうなのは、インターネットは万人にとっての「増幅装置」になっているということです。初期値としてのフォロワー数はもはや関係がありません。これをお読みのみなさんも、店舗の実名を挙げて批判すれば、それが「晒し」として機能するでしょう。


次に、古賀洋吉さんのツイート。

非常に示唆に富むツイートです。さすが古賀さん。

まず、ここから読みとれるのは、「どれだけ人間ができていても、感情的に振る舞ってしまうことがある」という当たり前の事実。ぼくもしばしば晒してやりたくなる願望に駆られます。これは人間心理の前提として捉えなければなりません。「晒してはいけない!」というのは理想論としては正しいですが、実質、それを貫徹するのは無理です。


で、もう少し発展して読み解くとすると、「晒し行為の善悪は、影響力の多寡と本質的に関係がない」と言えるのではないでしょうか。

まず事実として、中川さんが指摘するように「影響力がない個人」の晒し行為も、強い力をもつのが今のインターネットです。結果だけ見るなら、影響力の多寡はまさに関係ないわけです。

また、行為の倫理性という意味でも、「晒し」というのは暴力的な行為であり、悪徳に属するものです。はるかぜちゃんが指摘しているように、この晒し行為に正義を認めるのは実に危険な考え方です(「俺は社会のためにこいつを晒し者にするんだ!」)。乙武さん自身も、「感情に流された過ちだった」という発言を残しています。

関連記事:はるかぜちゃんが真理を語っている件


というわけで、個人の名を挙げつらった晒し行為は、根本的に罪悪なのです。影響力があろうとなかろうと、望ましい行為ではありません。

ゆえに、今回大手を振って「あいつが悪い」と個人攻撃をしている人は、漏れなくこの罪悪を犯していることになります。あえて引用しませんが、侮辱的な言葉を使ったブログ記事も見受けられました。


罪悪であることをよく認識した上での決断なら、ぼくはそれを止めることはしません。あとはその行為を社会が判断するのみでしょう。信念を貫くためには、誰かを傷つけることもあります。

ただ、自分がある種の罪を犯していることに気づかず—場合によっては正義を背負ったつもりで—他人を断罪することは、社会を悪い方向へ導く悪行です。影響力がない(=フォロワー数が少ない)ことは、「あいつが悪い」と断罪する権利にはなりえないのです。


人間、どうやっても感情的なミスを犯してしまうわけで、それをことさらにあげつらうのもどうかと思います。乙武さんは「晒し」という罪悪を犯しましたが、ぼくも似たようなことをしたことがあるので、責める気は微塵もわき起こりません。同じ状況ならぼくも同様か、それ以上タチ悪く振る舞っていたでしょうし。

社会の構成員がお互いに許し合うようになれば、もっと生きやすい社会になると思うんですが、いかがでしょうかね。


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