乙武さんの騒動は、個人的に関心があるテーマによく絡んできます。また書いてしまいました。
以前書いた記事はこちら。
「影響力がある強者」が「弱者」を「晒す」ことについて
今回の件で多く見られた批判は「乙武さんという影響力のある人間が、小さなレストランの店主を晒すのはひどい」という、強者の倫理性を問う批判。
これ、とても面白いテーマです。ハフポ的に他のユーザーのツイートから紹介しましょう。
まず、中川淳一郎さんが目から鱗の指摘をなさっています。
乙武氏のフォロワーの多さから「強者が弱者を晒した」的な批判も出てるが、フォロワー少なくてもこの話は多分拡散したと思うよ。以前「酒飲まないんだったら出ていけ」と居酒屋で言われ店舗の実名あげて批判した妊婦がいたが、その時も炎上し、結果店は謝罪。でも彼女は数の上ではネットの強者ではない
— 中川淳一郎さん (@unkotaberuno) 2013年5月20日
そもそもネット空間では、影響力的な意味での強者も弱者もない、という示唆を与えてくれます。影響力があろうとなかろうと、「晒し」は機能するわけですね。
ここから導き出せそうなのは、インターネットは万人にとっての「増幅装置」になっているということです。初期値としてのフォロワー数はもはや関係がありません。これをお読みのみなさんも、店舗の実名を挙げて批判すれば、それが「晒し」として機能するでしょう。
次に、古賀洋吉さんのツイート。
人間は完璧ではないのでキレたり愚痴って不適切な行動を取る事もある。人間、どんなにフォロワーが多くたって感情的になって不適切な事をする事があるものだ。しかしフォロワーが少ない人はすぐキレて名指しで不適切な攻撃をしてよくて、フォロワーが多い人は絶対に許されないのだろうか。
— 古賀 洋吉さん (@yokichi) 2013年5月21日
「無関係の他人が感情的になって店名を名指しで他者を批判している」件に関して、無関係の他人が感情的になって乙武さん名指しで批判しているけど、それは影響力がないのでOKってことなのだろうか。
— 古賀 洋吉さん (@yokichi) 2013年5月21日
影響力があるから責任があるというのはどういう意味なんだろう。規模はともかくフォロワーがいたら誰しも影響力はあるわけでフォローされる度に責任が発生するという意味になる。逆に、フォローすればするほど相手に責任を求めていいということになる。対価なしに責任だけ求めていい根拠がわからない。
— 古賀 洋吉さん (@yokichi) 2013年5月21日
非常に示唆に富むツイートです。さすが古賀さん。
まず、ここから読みとれるのは、「どれだけ人間ができていても、感情的に振る舞ってしまうことがある」という当たり前の事実。ぼくもしばしば晒してやりたくなる願望に駆られます。これは人間心理の前提として捉えなければなりません。「晒してはいけない!」というのは理想論としては正しいですが、実質、それを貫徹するのは無理です。
で、もう少し発展して読み解くとすると、「晒し行為の善悪は、影響力の多寡と本質的に関係がない」と言えるのではないでしょうか。
まず事実として、中川さんが指摘するように「影響力がない個人」の晒し行為も、強い力をもつのが今のインターネットです。結果だけ見るなら、影響力の多寡はまさに関係ないわけです。
また、行為の倫理性という意味でも、「晒し」というのは暴力的な行為であり、悪徳に属するものです。はるかぜちゃんが指摘しているように、この晒し行為に正義を認めるのは実に危険な考え方です(「俺は社会のためにこいつを晒し者にするんだ!」)。乙武さん自身も、「感情に流された過ちだった」という発言を残しています。
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というわけで、個人の名を挙げつらった晒し行為は、根本的に罪悪なのです。影響力があろうとなかろうと、望ましい行為ではありません。
ゆえに、今回大手を振って「あいつが悪い」と個人攻撃をしている人は、漏れなくこの罪悪を犯していることになります。あえて引用しませんが、侮辱的な言葉を使ったブログ記事も見受けられました。
罪悪であることをよく認識した上での決断なら、ぼくはそれを止めることはしません。あとはその行為を社会が判断するのみでしょう。信念を貫くためには、誰かを傷つけることもあります。
ただ、自分がある種の罪を犯していることに気づかず—場合によっては正義を背負ったつもりで—他人を断罪することは、社会を悪い方向へ導く悪行です。影響力がない(=フォロワー数が少ない)ことは、「あいつが悪い」と断罪する権利にはなりえないのです。
人間、どうやっても感情的なミスを犯してしまうわけで、それをことさらにあげつらうのもどうかと思います。乙武さんは「晒し」という罪悪を犯しましたが、ぼくも似たようなことをしたことがあるので、責める気は微塵もわき起こりません。同じ状況ならぼくも同様か、それ以上タチ悪く振る舞っていたでしょうし。
社会の構成員がお互いに許し合うようになれば、もっと生きやすい社会になると思うんですが、いかがでしょうかね。