永井俊哉 が書きました:日本の自殺率が、諸外国と比べて高いことを勘案するなら、日本が取り組むべき課題は、自殺志願者が楽に死ぬことができる方法を見つけることではなくて、自殺志願者を減らす方法を見つけることです。自殺要因の半分を占めるのは、健康問題ですが、経済問題や人間関係など、それ以外の要因もあります。そうした自殺者を減らすために政府がするべきことは、「あなたもGKB47宣言!」といった意味不明の啓蒙活動をすることではなくて、デフレを解消することと社会の流動性を高めることでしょう。
それもそうですね、ちょっと書いている間に考えがぶれてきてしまったようです。
永井俊哉 が書きました:「理由が与えられることが必要だ」
の一文を見て、私がどうして幸福に価値を見出したのか理由があることを書いておこうと思いましたので、一応書きます。
えーとですね、私は小学生のころ、教師か親かなにか本だったかもしれませんが、命の重さはどんな生物でも同じという文を見聞きしたことがあります。それを子供ごころに素直に受け取って、命の重さはみな等しい、だって同じく生きてるんだから!と信じていました。でも、ある時疑問に感じます。命の価値が等しいなら、なぜ人間は他の動物の命を奪って食事をしていいのか、という素朴なものです。でもそれを考えるほど頭が発達してなかったので、とりあえず食事はおいしいから別にいいやみたいなことを考えていました。しかし小学校高学年ぐらいになってくると、けっこう難しいことを考えるようになりました。その時は命の重さは等しいならば、俺が動物を食べようと逆に動物に食べられようと同じことじゃん!!だって命は等しいのだから。人間だけが一方的に動物を食べても、等しいなら問題ない!!と思って結論付けました。だけどしばらくして、今度は動物は植物より劣っている諸悪の根源なのではないかと思い始めました。他の命を奪うことでしか生きていけない動物は植物より劣っているのではないか、命の数を減らして命を保つ動物より、植物のほうがはるかにマシだと思うようになり、こんなに動物だらけの地球は嫌な世の中だなぁ、と思ったものです。
しかし、ある時ドラマやアニメや漫画などで「運命の出会い」だとか「私たちが出会ったのは必然だったんだ」みたいな文句を見たことがきっかけで、運命や必然、偶然について考えるようになりました。そしてこの世界は物理法則に支配されているのだから、どんな偶然もありえなく、全ては過去からの流れの中の必然であり、偶然というのは単にそれが予測できていないだけだという世界観を持つようになりました。そしてその中で、自分という個もまたただ自然法則に支配されたものであり、道端の植物も自然法則に支配された精巧な機械であり、自分自身もまたそうだという考えを膨らませました。
そして中学に入って、あることに気づきました、所詮ただの現象である精巧なロボットのような生命に、価値など何もない。例えば生物学というものがあるように、それには学術的に価値はあるが、世間一般が信じているような価値など生命には一切存在しない。なぜならばただの自然現象であるから。そう、命の価値は0だ。皆等しく0なのだ。「命の重さはどんな生物でも同じ」という文を勝手に命には価値があるという前提を付けて考えるのは間違いだったのだ。命の重さはどんな生物でも同じ、ただしどれも等しく0であると結論付けて、悩むことはなくなりました。
しかし多くの人は命の価値を疑わない、「生きてるだけで丸儲け」という言葉があるように、みんな生きてる価値を疑わない。しかし、よく考えれば命を粗末にしている人はいるではないか、そう自殺者です。そして自殺者に共通するのは唯ひとつみんな死にたいほど「不幸」であったということです。自らの命に価値があると思わない、むしろ-の価値を有すると思う人が自殺するのです。そしてその価値とは「不幸」という感情であり、生命としての命などまるで関係ないことなのです。生物の生存欲求に逆らうほど自殺者はただの生物学的な生命、精巧な機械とはまったく違う、関連性の無い-の価値を持ち続けていた、このことから、不幸=-の価値であり、そこから類推して幸福=+の価値を有すると結論付けたのです。
だから、価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかなのです。
そして具体的に私のいう幸福とは何かといいますと、クオリアです。クオリアとは質感のこと、例えば赤いろのあの赤い感じとかよく説明されますが、この質感は感情にも適応できます。なぜクオリアなどというものがあるのかさえ分からない、この正体がまるで掴めない、脳内で勝手に発生するクオリアがありとあらゆる価値の源泉です。感情もまたクオリアです。そしてこのクオリアにはクオリアごとに価値が存在し、それは+から-まであります。例えば痛みのクオリアは代表的な-のクオリアであり、笑いのクオリアは代表的な+のクオリアです。
自殺者は強い-のクオリアを浴び続けたために、そしてそれを改善できないために、相対的に幸福になるために死ぬのです。死ねばクオリアは発生しないと考えられるからです。クオリアが発生しないと考えられるのはクオリアは少なくとも脳から発生しているものだということは確かで、生命活動の停止は脳の停止を意味し、それはクオリアをまったくもたない生まれてくる前の0に戻るということだからです。
つまり自殺というのは当事者にとっては-から0に価値を増大させる生産的な活動であり、特にその中でも安楽死は死ぬ前にできるもっとも生産的な活動と言えるのです。それは未来の生産の可能性を全て放棄することですが、自殺する者というのは未来に希望が持てないと自己で判断したから死ぬのであって、やはり少なくともその当事者にとって、その時点では安楽死は生産的活動なのです。
問題は、安楽死を実行した場合と、安楽死を実行せず、ほかの要因(例えば老衰など)で死亡したときに、どちがらより総合的に+であったかです。つまり、安楽死が認められるか認められないかは、単に未来が明るいか暗いかという問題に帰着します。
・・・書いてある間に意見が変わってきました。私は収穫加速の法則により未来は明るいと考えているので、安楽死は現時点ではやはり厳正な審査のもと行われるべきだと思われます。