新寺建立の趣旨について

講頭 尾林弘三

 

@寺院の意義

寺院とは、御本尊を安置し、僧侶が止住し、信徒が外護することによって、仏法を興行する道場です。

この道場において正法の令法久住・広宣流布を願い、朝夕の勤行をはじめ各種の法会が営まれ、法門が講鑽されます。寺院の住僧は、御本尊へのお給仕・自身の行学増進とともに、檀信徒の懺悔滅罪と一生成仏・現当二世のご祈念を行い、さらには各位の過去の父母祖先精霊の追善供養を行ない、信徒の信仰指導等にあたります。

それゆえに、寺院は、信心の上からいえば、下種三宝尊(御本尊・大聖人・日興上人)の常住まします帰命依止の道場として、もっとも清浄かつ重要な意義を有するのであります。

いま源立寺は本門の本尊を安置し、本門の戒壇の意義を備えた道場であり、ここに清らかな信心をもって参詣し、本門の題目を唱える人は、僧俗ともに皆、久遠元初の御本仏の大慈大悲に浴して、無始以来の誘法罪障を消滅し、一生成仏の果報を得ることがかなうのであります。

また在家信徒の立場は三宝を崇敬し、寺院や・僧侶を外護することにあります。各家庭におけるお仏壇は、お内仏といって、毎日朝夕にこの道場に詣でることができないために、寺院・師僧より御本尊のご下附を頂き、我が家においても日々報恩行をつとめるためであり、そのもととなる寺院への当諸道場の心を失い、三宝外護の精神を忘れては、その功徳も失われるのであります。なぜなら仏法僧の三宝とその道場がなければ令法久住が叶わないからであります。

それゆえに、古来から寺院のない地域の人々は、在家の有志が土地や伽藍を仏法僧の三宝のために寄進して一宇を建立し、御本尊・経典等を安置し、帰依の師僧に止住を願って、寺院を建立し、これを外護し尊崇してきたのであります。

 

A源立寺のおかれた状況

源立寺は、草創以来三百年、日蓮大聖人・日興上人の正法正義を正しく仏伝するための道場として受け継がれてきました。創価学会の逸脱ぶりが顕著となった昭和52年当初から、先代住職・講中ともに正信覚醒運動を率先して、正法正義を守ってきました。このことによって、多くの人が学会を脱会し、従来からの法華講の人々とともに正信の道を歩んできました。

ところが残念なことに、日達上人が遷化されるや、阿部師と池田氏が保身・利権のために野合し、強権と策略をもって正信覚醒運動を切り崩し、宗門でも次第に多数派となっていきました。もちろん、この間阿部師と学会首脳は、緊密な連係のもとに運動を抑圧し、ひそかに宗会対策や擯斥追放のための法律的な検討を行っておりまた。正信覚醒運動を抑えるために阿部師と池田氏は本山と法主の権威・権力を最大限に利用したのです。かくして宗内の約1/3の少数勢力となった正信会僧侶に対し、宗務院の命令に逆らったものとして全員擯斥・信徒は資格停止という一方的な処分を行い、正信会寺院には近隣寺院の住職を兼任の新住職として任命して代表役員の登記変更を行い、寺院の明け渡しの裁判を起こしました。

これに対して正信会は、普通の末寺住職の集まりですから、学会や阿部宗門のように強大な権限や圧倒的な組織力・経済力をもつわけではありません。ただ彼らの仏法違背や非道を訴え、正信への回帰を説くしか外に方法はありません。

また宗教上の論争はともかくとして、正信会僧俗としては、一方的な処分で宗門から追放されですべての寺院を奪われるのを座視するわけにはいきません。阿部師の地位詐称・処分無効や末寺の代表役員地位確認の訴えを提訴して、一致協力して裁判所でその法的効力を争うことになりました。

教団や寺院の財産の管理運営が、宗教法人法という世俗の法律によって支配されている以上、阿部師に処分権限があるのか否かを争点とし、防衛的措置として裁判所で争ったわけです。この間、講中も署名や上申書なども提出しております。

阿部師らは創価学会の弁護団を代理人としてこれにあたりましたが、彼等は法主・管長の詐称問題が争点になることを避けるため、処分権限の有無の判断を回避したため、結局裁判所も、この事件は宗教上の争いであって法律上の争訟にはあたらないとして、すべての訴えを却下(門前払い)してしまったのです。

この裁判とその結果については、法律的には全くの素人だった正信会の住職方が、阿部宗門と創価学会が周到に準備してきた斥処分に対し、不利な立場にあったにもかかわらず、よく結束して法律的に対処し、敗訴・即時明け渡しという事態を避けられたことは、信仰的には大聖人のご加護があったものであり、運動継続の上からも大きな意義があったものと思います。もし、その時点で正信会住職が順次追放されて寺院を失っていれば、はたして正信会として存続できたかどうかはわかりません。また、当時状況として、阿部師の支配する日蓮正宗から離脱することも困難な事でした。ですから、双方却下=現状維持という判決は、実質的には正信会勝訴に等しいものと考えております。(なお、いまでは当時の事情を知らない人が、この一連の裁判に対し批判的な人もおりますが、多忙な中で煩雑かつ困難な裁判対策にあたった僧俗の努力によって、正信会寺院が維持されてきたことを知らないからで、まったく無責任な立場からの放

言であります。) かくして判決の結果、正信会系寺院は法人登記の代表役員名義を阿部宗門側に書き換えられたまま、そのままの状態で現状維持という状態となりました。すなわち、寺院の住職も規則も財産も現状のまま続くという事になり、一往混乱は避けられたのでした。

分かりやすくいえば、我々も講中も菅野ご住職生存中は、このまま源立寺を平穏に占有し宗教活動を行っていき、今後明け渡しを求められることはありません。しかしご住職の死亡後は数週間内に宗門側から明け渡しを求められ、宗門側の住職と信徒によって占有され、われわれ講中は依止の道場を失うことになるのであります。なお、これは正信会側が勝訴した場合でも、ご住職死亡の場合は明け渡しになりますから、同じ事です。

 

B宗教法人とは

現在の日本では、憲法の政教分離の規定によって、政治が宗教に介入することはありませんけれども宗教団体として、財産を所有したり、各種の売買・貸借など・経済上の行為が発生すれば、それは世俗の行為と同じように、一定の法律によって規制されます。

したがって、源立寺という宗教団体が現実の社会に存在することは、ただ信仰的、宗教的に存在するのみならず、経済的、世俗的な存在でもありますから、宗教団体もまた一個の法人格を有することによって、世法上の活動が保証されます。

したがって宗教団体である源立寺の住職(宗教上の地位)は「宗教法人源立寺」の代表役員(法律上の地位)を兼ねるという源立寺規則によって、菅野ご住職が寺院財産の管理運営にも務めているのです。(登記簿上の代表役員は宗門側によって別名義に変えられているが、現実には菅野師が住職・代表役員の地位にあって、職務を果たしているという変則的な状態)

つぎに日蓮正宗と源立寺の関係をいえば、各寺院はそれぞれ一個の宗教法人で、それを束ねる組織として包括法人の「日蓮正宗」が存します。すなわち、各寺院の集合体が宗教法人日蓮

正宗ということになります。その日蓮正宗の人事・財産・運営権を独裁的に掌握している

のが阿部日顕師であり、ここ数十年の間に創価学会の後押しをうけて急激に集権化したものです。

もちろん本来ならば、末寺がこの包括法人から離脱して単立法人となることは、寺院規則を変更することによって可能です。ただし、これもすでに双方とも裁判所が取り上げないという判決がでているので、今となっては現状変更できないのが実状です。つまり、宗教法人源立寺は宗教法人日蓮正宗から離脱する手続きもとれない状態となっているわけです。

そこで、もし、新たな寺院を建立した場合、従来の経緯から、我々が日蓮正宗を称するのは自由ですが、法律的に宗教法人日蓮正宗と包括・被包括の関係を結ぶことはありません。新寺院は単立の宗教法人となり、その寺院の規則において、目的や代表役員(住職)・責任役員(総代)・法人運営などを定めて施行するのであります。

また、宗教法人の認可によって、その公益性を鑑みて境内建物および寺院へのご供養・寄進などに非課税措置がとられることになります。余談ですが、一般論として、仮りにこれらが課税の対象になるとすれば、多くの寺社はたちまち立ちゆかなくなるでしょう。逆にいえば古来から非課税だからこそ、寺社とその境内地が存続でき、政教分離も守られているのです。

すでに正信会の布教所としてスタートした寺院・講中においては、宗教法人の取得を完了しているところも多く、何れも経済的には単立の宗教法人として活動しております。土地・建物などをいつまでも個人名義のままにおくわけにはいきませんから、新寺院や布教所は将来的にはすべてその方向になるのでしょう。

また、現在正信会は法人格を有しない任意の集団ですが、財産の問題や単立の寺院が連帯して存続をはかり、相互の便宜をはかり宗教活動をサポートしていくために、包括法人の取得が検討されている状況と聞きます。(なお、これについて宗門から独立を企てているなどと一部邪推するむきがありますが、法律や宗教法人法の意味を理解できない人の見方です。正信会寺院は擯斥された時点から阿部宗門や創価学会と袂を分かち、すでに20数年にわたって独自に宗教活動をやってきたのです。宗教団体として阿部宗門と正信会に分裂してしまったという現実がさっぱり理解できていないのです。正本山に帰る事が目的ではなく、どこまでも正信を貫くことが目的で、謗法化している本山を諌め、浄化を願っていくことが目標なのです。)

 

C新寺建立の必要性と講中の立場

源立寺講中は、何より正法を護持することを最重要視し、その時々に宗開両祖の御精神にかなうことを第一義としてきました。

もちろん本山や末寺を外護することは大切なことです。しかし、それは、そこに宗開両祖の正法正義が行われていることが大前提であり、もし、本山・末寺が正法正義から逸脱して謗法化し、これ諫めても聞き入れなければ、そこを離れてでも心ある僧俗だけでも正法を守っていかなければなりません。これが日興上人の身延離山の原点であり、日蓮正宗の根本精神であります。

それゆえに、もし万一ご住職が逝去されて、依然として反省懺悔のない宗門側に寺院が渡れば、当然赴任してきた新住職は我われ講中を信徒と認めず、謗法ときめつけ、改心を強要し、法主(阿部師)を本師と仰いで信伏随従する旨の誓約書を書かせようとします。詐称問題や、不当処分・学会の問題はじめ、阿部師らの誤りは一切認めません。

実際、甲子園の正蓮寺などでは、ご住職死亡後、七日目ぐらいに宗門側住職と学会弁護士達がやってきて、執行官による本堂御本尊や仏具の占有管理というひどいことも行っております。

したがって講中としては、依法不依人の精神や、「法を持つものは仏身を持つ」という教えにしたがって、ここで正信を貫くことができないのであればやむなくこの寺を離山し、新たな道場を拠点とせざるを得ません。新しい道場で信心を相続し、法燈を継承し、講中の再出発を期する以外に道はありません。

いままでは、宗門が創価学会を破門した時点で、正信会が正しかったことを認め、処分を撤回し、話しあいに応じる姿勢も出てくるのではと、その可能性を捨ててはおりませんでしたが、結局いまにいたるまで、何の反省の色も見えませんでした。

自己の非を認めるどころか、ますます学会と低次元の紛争にもつれ込み、宗内においては阿部色を定着させようとしてか、六壼・総坊・客殿・正本堂等と次々無用の破壊と再建を繰り返し、独裁体制を強化しております。ますます阿部師を大聖人のように言い募り、信伏随従を強要する姿は、創価学会の体質と何らかわるところがありません。

これでは今後とも、冷静な話し合いは臨むべくもなく、寺院明け渡しの見通しはほぼ変わることはないものと思われます。

いつまでも宗門状況の変化をあてにして、新寺建立の問題を放置しておいては、いざその目を迎えたときに、大変な憂き目をみることにもなりかねません。自らの力で、予想される将来の憂いに備えて、できるかぎりの準備をととのえておく必要があります。立宗750年の佳節を契機に、源立寺講中として、この問題の解決に一歩ずつ踏み出して行こうということを申し上げた通りであります。

新寺建立は容易でないことはいうまでもありません。しかし、かって無住で廃絶しかかっていた長柄の源立寺を、弱冠20歳の青年僧と、わずかに2,30所帯の講中が結束し、池田の禅寺跡を買い取って移転再興した歴史を考えれば、いまその道場で信心修行させて頂いている我われにできないはずがありません。

日蓮大聖人が

「人々少なく候へども異体同心なれば万事を成す」

と申されておりますように、要は講中の団結であります。一人一人の理解と志しであります。よくよく信心の筋目を違えず、一致協力して、新寺の建設建設準備に着実に精進してまいりましょう。

 

D将来計画とその準備

さて、新寺建立計画といっても、すぐに計画を立てて実行できるものではありません。実現までには資金の調達・用地の買収・法人の取得などに膨大かつ慎重な作業が必要です。もちろんこれは各寺院各講中の実状によってさまざまです。

源立寺の場合を考えると、

A、ご住職や講中の皆さんの状況を考えるなら、ここ十年ぐらいの間には資金的な裏付けをもって具体化しなければなりません。

B、これを早期におこなうことは、資金的にも実現は不可能ですが、かりにできたとしても両方の土地建物の公租や維持・管理を負担しなければならないという難問が生じます。したがって、ご住職健在の間はこの寺院において信心修行することを基本にして、講中として実現可能な範囲を見極めながら最大の努力をする。

C、まず、今から新寺院建設資金の特志を募り、その積立額の推移を見た上で、できれば6〜10年後をめどには用地取得にむけて行動開始する。

D、用地を確保することができれば、ひとまず安心ですが、引き続き仮建物に御本尊をご安、

置申し上げ、活動を行い、数年をかけて宗教法人取得にむけての用件を整えます。もし法人取得までいけば一往後顧の憂いはありません。

E、ついで、ご住職の逝去までに本堂までできれば満点ですが、そこまでは全く不透明です。

要は信心第一ですから、この事業において信心が疎外されるような状況が出てくれば、その都度軌道修正しなければなりません。ましてこの事業に際して、多くの障魔が出来した場合のことを考えれば、最悪の場合、借家の布教所からでも再出発する覚悟はしておりますが、できるだけの準備はして、我われの責任を果たし、後代に伝えていきたいものであります。

F、以上のことにつきましては、講中としての基本的な方針でありますが、このことはご住職の指導によって申し上げていることでもあり、もちろんご住職よりも物心両面に渡って僧俗一体となって取り組んで頂けるのでありますから、講中一致してこの大事業に確実に取り組んでいきたいきたいものです。

G、したがって、当面する問題としては、新の寺建設資金の受け入れ態勢の段取りと、建設

資金の特別御供養の時期の設定であります。これにつきましても、もし、本件が講中の皆さんの大方のご賛同とご理解をえられますれば、近い将来に募財の趣意書も作成し、そこで募財の年月目を決定してお知らせしたいと思います。いまからでも心づもりして、ご支援ご協力をよろしくお願いします。

H、その他の問題につきましても、事業の推移を見つめながら、一つ一つ解決していかなければならない問題は沢山ございますが、何よりもまず当面する問題を一つ一つクリアーしていくよ

うに講中役員も結束して頑張っていきたいと思います。

以上

(平成14年11月24日 一日講習会の砌)

 

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