ふるさと:原発事故20カ月 「危険」に慣れたくない 「放射能と人権」教育呼びかけ
毎日新聞 2012年11月26日 東京朝刊
東日本大震災が発生した昨年3月11日は、福島市の組合事務所にいた。その日は同県郡山市の自宅には戻れず、帰宅は翌日。原発爆発の報を聞いた時は「死を覚悟した」。
翌朝から異変が表れた。朝、安達太良山などいつもと変わらぬ景色を眺めていると、涙が止まらなくなった。通勤途中に川や山を見ても涙した。
特に阿武隈川は幼い頃はカニとりに夢中になり、教員になっても趣味の自転車で堤防道路を疾駆した川。妻と出会ったのも上流の白河市だった。その川沿いに放射性物質は拡散した。「放射能の運河になってしまった」と悲しげに語る。
爆発を受け、大学1年の息子と中3の娘を熊本の妹宅に逃がした。事故収束が見通せず、一家の沖縄移住も検討した。だが、教員仲間の妻と出した結論は「残る」だった。
5月の連休明け、友人と会いたいという子供らが福島に戻ってくると、悲しみはさらに強くなった。吐き出せば改善するかと出勤前に大声で泣いた。だが、よくならない。6月に医師の診察を受け、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と言われた。通院は今も続く。
1年を過ぎたこの夏、「子どもたちのいのちと未来のために学ぼう 放射能の危険と人権」(明石書店)という本を市民団体と出し、被ばく量低減化、人権の回復、差別をしない許さない−−そうした教育に取り組もうと呼びかけた。