昨日は、「解決し、恨み晴らしたい」=83歳元慰安婦が出馬表明−韓国総選挙 の記事でした。
本日も、
私、政治家など公人でない人を個人攻撃するのは嫌いですが、こいつを含め自称「従軍慰安婦」の嘘つきのために、わが愛する日本がこれ以上貶められるのは我慢できないので、書きますね。
その嘘つきとは、
12月17日のブログに登場していた宋 神道。
この自称「元慰安婦」宋神道(89)は、
「一日も早く解決してくれないと死んでも死に切れない」などと訴えてましたね。
宋 神道(ソン・シンド、1922年11月24日 - )は宮城県に在住していた在日韓国人女性。1992年1月に開設された慰安婦110番ホットラインに連絡を取り、自分が慰安婦であると名乗りでた。翌年「在日の慰安婦裁判を支える会」を発足させ、日本政府に謝罪と損害賠償767億5893万7500円の支払いを求めて訴訟したが2008年に全面敗訴した。この活動が認められて1997年12月に第9回多田謡子反権力人権賞を受賞した。
概要
本人の証言によれば、1922年、朝鮮の忠清南道で生まれるが、12歳の時に父親と死別。1938年、16歳の時に母親の決めた男性と婚礼をあげるも、結婚が嫌で嫁ぎ先を逃げ出し友人宅などを転々とする。
(既婚者で、儒教の影響厳しい朝鮮で。当時の16歳といえば、現在の22,3歳ぐらいかな?)
大田で知人の朝鮮人女性に「嫁になど行かなくても、戦地に行って働けば金になり、一人で生きて行ける。戦地へ行って御国のために働かないか」と騙され、戦地の意味も仕事の内容も分からないまま平壌に連れて行かれ(騙したのは朝鮮人です)、新義州の紹介所と言われる場所で高(コウ)という朝鮮人男性に売られる。(ここでも騙したのは朝鮮人です)この際の代金が宋の借金とされた。(日本政府が騙して無理やり慰安婦にさせたわけではないです。借金ということは、すなわち、無理やりではなくビジネスであったということです。)
さらに、本人は中国中部の武昌につれていかれ慰安婦を強いられたと主張し、以降、戦地を転々としたと主張する。(朝鮮人に借金があったのですよね?今までの経緯からして、それを返すためのお仕事だったのではないでしょうか?)
また、戦後、元軍曹の日本人に「結婚しよう」と誘われ日本に向かうも博多にて離別。その後、宮城県に移住、1982年まで在日朝鮮人の男性と同居していた。
2011年に東日本大震災で被災したため、現在は韓国挺身隊問題対策協議会の保護を受け東京で生活している。
慰安婦としての活動
16歳のとき、中国中部の武昌の「世界館」という慰安所で慰安婦を強制され、以後は「部隊付き」として歩哨も務めながら応山・長安などを巡り、咸寧で日本の敗戦を知る。(なぜ日本の敗戦を知った時点で、朝鮮へ戻らなかったのでしょう? 敗戦時の日本人は軍人を含めて自分の命を守るだけで精一杯の状況だったはずです) たびたび妊娠をし、漢口で出産した子供を近所の人に預けた後に岳州に移動している。また、体に彫られている入れ墨(源氏名の”金子”と彫られているそうです)は日本兵に強制されたものだと主張している。(当時の日本軍の軍規から考えれば、日本軍が雇い上げている相手に勝手に刺青などできるはずがありません)
抗議活動
1993年4月5日、日本に対し、「国会における公式謝罪」と「謝罪文の交付」「損害賠償金767億5893万7500円(ただし、金額が多すぎるため一部請求として1億2千万円に変更した)」を求めて東京地裁に提訴。2003年3月28日最高裁第二小法廷が上告棄却・上告受理棄却の決定を出し敗訴が確定した。
2002年7月23日、参院内閣委員会で行われた「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」の質疑を傍聴。宮城県選出の岡崎トミ子参議院議員は、宋の主張をそのまま読み上げて、日本政府を糾弾した。その後の集会で「(法案反対の)政治家は慰安婦がくたばって1人もいなくなるのを待っているのか。1日も早く謝罪を」と訴えた。
2008年11月23日、第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議に「被害者」として参加。「16歳で連れていかれ、殴られて両方の耳が聞こえず、言葉も通じない。妊娠、出産、死産を繰り返し、解放後も軍人にだまされ、夫婦に成りすまして日本についたとたん置き去りにされた。絶望して自殺を図ろうとしたところ助けてくれた在日朝鮮人の男性と暮らすようになった。」と話した。
2010年11月25日に衆院議員会館で開催された日本軍「慰安婦」問題の立法解決を求める国際署名提出行動に、梁澄子、尹美香、吉元玉らと一緒に参加し、「武器持って戦争したらダメだ。けんかは好きだけど慰安婦はいや。馬鹿は死ななきゃ治らない。政治家の口車には乗らないこと。戦争はだーめなの。 戦争を起こさないこと!」などと発言し、日本政府を糾弾した。
2011年8月、第10回日本軍「慰安婦」問題解決のためのアジア連帯会議に参加するため訪韓。
2011年、韓国の歴史社会学者李修京は、自身が刊行した日本の植民地支配で行われた蛮行を告発する寄稿集「海を越える100年の記憶」は、宋の心情が強く影響していることを明かしている[9]。
2011年11月26日、東日本大震災に被災していたため中断していた講演活動を大阪で再開。「日本の政治家が慰安婦に対する賠償に関心を持たない」と非難した。(同国人にニ度も騙された結果に、なぜ日本の政治家が賠償を考えねばならぬのでしょう?)
宋 神道(ソン・シンド、1922年11月24日 - )は宮城県に在住していた在日韓国人女性。
1992年1月に開設された慰安婦110番ホットラインに連絡を取り、自分が慰安婦であると名乗りでた。
翌年「在日の慰安婦裁判を支える会」を発足させ、日本政府に謝罪と損害賠償767億5893万7500円の支払いを求めて訴訟したが2008年に全面敗訴した。この活動が認められて1997年12月に第9回多田謡子反権力人権賞を受賞した。
同国人である朝鮮人に次々に騙されて慰安婦という職についた人になぜ日本政府に謝罪と賠償が必要なのか根拠を教えて下さい。
韓国へ帰国できるのに、なぜ韓国政府に保護を願い出ないのでしょう?
死ぬほどつらいといいながら、日本に60年以上も住み続ける理由は何でしょう?
『ウィキペディア(Wikipedia)』は、嘘も多いので、ここで裁判における宋神道の本人尋問(1996-1997)も載せておきます。
自称強制慰安婦・宗神道との一問一答
Q 結婚の話が決まったのはあなたが幾つの時ですか。
ちょうど16歳のとき。
(中略)
Q 普段もまだお手玉して遊ぶような年頃だったんですか。
そうなんです。うちにいてもそうなんです。ママゴトしたり喧嘩したりさ。
(中略)
Q 逃げ出したのはどうしてですか。
やっぱり何だか知らないから。男知らないから。
(中略)
Q それで逃げて実家に戻ったんですか。
はい戻ったの。
Q 実家に戻ると実家にそのままいさせてもらうことは出来たの。
いや、朝鮮ではいったん嫁にくれたら3年の間は自分のうちに帰れないような規則なんですよ。それでとにかく実家に行ったらお母さんが怒って棒を持って、何だか嫁御に行った者が逃げてきたとか何だか言って殴りかかって足で蹴ったりするから、どうしようもないから、そこにいられなくて出たの。
(中略)
Q そういうふうにしているときに戦地に行かないかというふうに誘われたんですか。
戦地に行かないかと言われたんだけれども、その戦地というのが分からないから。
Q 戦地へ行かないかと誘った人はどんな人だったんですか。
やっぱり朝鮮人で歳は42,3歳ぐらいのばあさんで、それでああいうところさ行けば国のために働くにもいいし。何だかんだとかうまいこと言ったためにその口車に乗ってそのババとくっついて行ったわけですよ。
Q そのおばさんに宋さんが子守をしているときに会って誘われたわけですね。
はい。
(中略)
Q 戦地へ行けば結婚なんかしなくても食べていけるからと。
はい、はい。
Q それでそういう話を聞いて宋さんはどういうふうな気持ちから戦地に行って働こうと思うようになったんですか。
それは行ってみないことには分からなかったし、まだ子供だし、どういうふうにするんだか分からないので、手任せ足任せ。そのおばあさんを信用して北朝鮮の平壌だか何だか連れていかれたの。
Q その女の人は宋さんの例えばお母さんとかと知り合いだとか、そんな話はしなかったですか。
それは言いましたけれども、それはお母さんとそのおなごが友達か何だか分からないけれども、私には全然見たことがないおなごだから心配はしました。
Q ・・・そのおばさんは宋さんのお母さんを知っていると言ったんですか。
おばちゃんがかあちゃんのことを知っていると言いました。(中略)出身が同じ北朝鮮だからとか、なんだとかかんだとか。
結局、北朝鮮の平壌というところがあるのよ。そこに人間ブローカーみたいな看板かけてやっているところがあったのよ。
Q その場所なんだけれども平壌というのと陳述書録取書では。
新義州。
Q 新義州でいいのかな。
いいよ。
Q 看板の話を聞きますが、看板には何と書いてあったんですか。
ブローカーって朝鮮語でソーゲンソー(紹介所)って書いてある。日本語だと何だか分からないけれども。
Q ソーゲンソーって日本語で言うと紹介所という意味。
うん、紹介所。
(宋は新義州にあった紹介所から、業者に連れられて天津、漢口、武昌と移動する)
Q ・・・それは誰と一緒に行ったんですか。
とにかく武昌とか漢口というところはコウさんという朝鮮人の男に連れていかれたの。
だから、家を追い出したのは自分の母親、騙した二人は朝鮮人です。それが、どうしてそれが日本軍のせいになって日本政府が謝罪して賠償しなければならないのでしょうか?
やっぱり行ったとき、まだ許可しない(ママ)
Q ・・・許可というのは何の許可なんですか。
分からないよ、その許可は。
Q 分からないけれども、許可の前だという話だけは聞いていたわけですか。
はい、聞いています。
Q それは誰に聞いたんですか。
帳場だのコウさんだのが言ってるから。
Q コウさんという宋さんを連れて来た人だとか、それから慰安所の帳場の役の人がいるわけですね。
はい。
Q その帳場の人の名前は何という名前か覚えていますか。
サイさんといってたな。
このあと、ソンは軍医による性病検査を受けて合格する。その軍医がその晩、客としてソンの元を訪れる。
Q 橋本軍医は何をしようとしたんですか。
ただ突っ立ってるからさ、今ならば座れと言えば座るもんだけど、ただ立っているもんだから、軍医もこっち、と引っ張ったんじゃないかなと思うんだよね。で、オレ、ダメだって、言うことをきかなかった。
(中略)
Q それで、その橋本軍医という人は宋さんが泣いているのを見てどうしたんですか。
そして、これじゃうるさくてたまんないって、そのまま帰っちゃったの。そうやって騒がれるより帰った方がいいんじゃないかなと思って帰ったんじゃないかなと思うの、私はね。
Q ・・・そういうことで慰安所の人に怒られるということがありましたか。
言うこときかないとか、そんなことするから朝鮮に帰れないとか、いろんなことを言われました。
Q それは誰に言われたんですか。
そこのやっぱり帳場なり、使ってるコウさん(ソンを新義州にあった「紹介所」から連れて来た朝鮮人)なりが言ったの。
Q ・・・あなたが橋本軍医の相手をしなかったということで怒ったわけですね。
うん。
Q どんなことをされたんですか。
髪を引っ張って殴ったり、蹴飛ばしたり、鼻血が出るくらい殴ったりしたの。
(中略)
Q 暴力だけじゃなくて、口で何か責めるようなことを言われましたか。
やっぱり、お前は借金背負って来たんだから、借金払っていけだとかさ。借金背負ってもいないもの借金背負ったと言って。
Q ただ宋さんは、コウさんからも、もちろん帳場のサイさんからも、それから朝鮮まで(ママ)連れてきたお婆さんからもお金をもらってませんよね。
はい。
Q それなのに借金というのはどういう意味なんですか。
分からないね。そいつ、ほら、自分たちが引っ張ってきた経費とかね、汽車賃だとか、何だかひっくるめて借金を背負わされて、それで、まぁ、悪いことするつもりでしたんだか分からないけれども、ただ、借金背負った、借金背負った、と。私ばかりじゃなくて、他の人間たちも責められて、いじめられて働いている人間もいたわけだから。
(中略)
・・・言うこときかないと借金払っていけ、と。その借金というのは何やらと言うと、着物買ったとか、お前引っ張ってくるとき、こういうふうにして、まま(食事?)だの汽車だの船だの乗って来ただとか、そういうようなことを喋りまくって。