安楽死について

価値論、義務論、正義論に関する話題

安楽死について

投稿記事by 秋刀魚刺身 » 2013年5月17日(金) 22:04

永井さんは人類の究極目的は生きることだと、なにかの記事で読んだので、気になったので聞いて見ますが、安楽死について永井さんはどう考えているのでしょうか?

私は容認派です。というのも、確か永井さんは価値とは低エントロピーのことだとまた何かの記事で見ましたが、私自身は価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかという考えだからです。永井さんはシステムの存続に価値を見出しているようですが、私は単に幸福に価値を見出しています。最もこれは永井さんの説を否定させるものではありません。幸福であるためにはまず生きていることが必要条件だからです。死んだら幸福も不幸も価値も何もありません。

というわけで、私はそういう価値観を持っていますので、不幸であり続けるシステムが存続することを善いことだと思いません。ですので、他に解決策が何もない場合、安楽死は認められるべきものです。

あと、これも聞きたいのですが、意識を持ち、不幸な感情を強く持ち、だがシステムを存続させる意味においては達成している、そんなようなものがいたとしたら、永井さんはそれに対してどういう評価を下しますか?

例えば人類を未曾有の危機が襲って、生きることに対して極めて貪欲な人意外は全員自殺してしまったとか、生きていくだけでも辛い環境とか、そういうような状況などです。人類には多様性がありますし、割に合わない行為をする人は見渡せば大勢います。だから私はどんなに不幸な状況が続こうと、そういった割に合わない行為をする人がかならず、例え生きること自体が苦痛であるような世界になったとしても生きようとする人がいて、生き延び、文明は続いていく、つまりシステムは存続し続けるのではないかと前から思っているのですが。

あくまで理論上のものですが、そういうシステムがあった場合、永井さんはそんなにも頑張ってシステムを存続させて素晴らしいと思うのかそれとも不幸なのに生き続けるなんて馬鹿みたいだと思うのか聞いてみたいです。それとも特になんの感想もありませんか。
秋刀魚刺身
 
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登録日時: 2013年3月13日(水) 20:20

個体単位のアポトーシス

投稿記事by 永井俊哉 » 2013年5月18日(土) 13:15

生命は、その誕生以来、自己保存が自己目的的にプログラムされていますが、重点は全体の保存に向けられており、部分の保存は、その手段として位置付けられています。例えば、多細胞生物では、癌化した細胞を取り除くなど、個体の自己保存のためにアポトーシス(apoptosis)と呼ばれる細胞の死が実行されます。全体の存続のために部分を犠牲にするという現象は、個体よりも上位の集団でも見られることがあります。戦時中の日本が特攻隊を奨励したのはその例の一つです。もちろん、現在の日本は、このような個体単位のアポトーシスを認めませんが、矯正不可能な殺人鬼を死刑にするといったことなら今でもやっていますし、これは癌化した細胞の除去に喩えることができます。

安楽死も、もしもそれを資源の浪費を防ぐという目的で行うなら、個体単位のアポトーシスと呼ぶことができるでしょう。その極端な例は、ナチス・ドイツが治癒不能な病人や身体障害者に対して組織的に行った「安楽死」です。現在安楽死を認めている国は、それとは別の理由で、すなわち自己決定権の尊重という観点から安楽死を容認しています。但し、大義名分と主観的な理由が何であれ、安楽死の容認は、結果的にはアポトーシスと同じような効果をもたらします。

日本は、安楽死を原則として認めていませんが、以下の判決に見られるように、厳しい条件付きで、安楽死の違法性を棄却しています。

名古屋高等裁判所 昭和37年12月22日判決 (media) 名古屋高等裁判所 が書きました:ところで所論のように行為の違法性を阻却すべき場合の一として、いわゆる安楽死を認めるべきか否かについては、論議の存するところであるが、それはなんといつても、人為的に至尊なるべき人命を絶つのであるから、つぎのような厳しい要件のもとにのみ、これを是認しうるにとどまるであろう。

  1. 病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫つていること、
  2. 病者の苦痛が甚しく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること、
  3. もつぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと、
  4. 病者の意識がなお明瞭であつて意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること、
  5. 医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師によりえない首肯するに足る特別な事情があること、
  6. その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。

これらの要件がすべて充されるのでなければ、安楽死としてその行為の違法性までも否定しうるものではないと解すべきであろう。


秋刀魚刺身さんは、私の意見を聞いているので、それに対しても答えなければいけませんね。現在の日本のような豊かな社会では、少数の生命を犠牲にしなければ、全体の生命が維持できないという極限状況はめったにないと想定することができます。そのような社会では、安楽死を安易に認めることによる生命資源の浪費の方をむしろ懸念するべきです。私は自由主義者として、個人の自由意思は最大限に尊重されるべきであるという考えを持っていますが、人は不完全な判断能力しか持たず、間違った判断で後悔することが多いということ、一度死んでしまえば元に戻すことが不可能であることを考えるならば、安楽死を含めた自殺行為に関する自由意思の尊重に対しては慎重にならざるをえません。安楽死を全面否定するつもりはありませんが、名古屋高等裁判所が提示したような厳格な条件を課すことが必要と考えます。
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登録日時: 2010年12月23日(木) 13:28
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Re: 個体単位のアポトーシス

投稿記事by 秋刀魚刺身 » 2013年5月19日(日) 00:06

永井俊哉 が書きました:生命は、その誕生以来、自己保存が自己目的的にプログラムされていますが、重点は全体の保存に向けられており、部分の保存は、その手段として位置付けられています。例えば、多細胞生物では、癌化した細胞を取り除くなど、個体の自己保存のためにアポトーシス(apoptosis)と呼ばれる細胞の死が実行されます。全体の存続のために部分を犠牲にするという現象は、個体よりも上位の集団でも見られることがあります。戦時中の日本が特攻隊を奨励したのはその例の一つです。もちろん、現在の日本は、このような個体単位のアポトーシスを認めませんが、矯正不可能な殺人鬼を死刑にするといったことなら今でもやっていますし、これは癌化した細胞の除去に喩えることができます。

これはつまり永井さんとしての意見では無く、生命システムにそれがプログラムとして自然淘汰によって組み込まれている以上、生命システムの存続が目的だと言っているわけで、つまり永井さんではなく生物として、そのような意見になる、及びならざるを得ないということでしょうか?永井さん特有の意見というより、極めて現象的な人という生命システムとしてかくあるべきだという理論に聞こえるのですが。つまり極限的には単なる自然現象である生命に自己保存が自己目的的にプログラムされているのだから人もそれに従うべきだと、率直にいえば自然淘汰によって獲得した生きたいという本能や感情(それが無い人は死ぬので遺伝子を残せない)に従えと、つまり生きたいというのは本能だから従えという感情論とたいして変らない主張に思えるのですが。
永井俊哉 が書きました:安楽死も、もしもそれを資源の浪費を防ぐという目的で行うなら、個体単位のアポトーシスと呼ぶことができるでしょう。その極端な例は、ナチス・ドイツが治癒不能な病人や身体障害者に対して組織的に行った「安楽死」です。現在安楽死を認めている国は、それとは別の理由で、すなわち自己決定権の尊重という観点から安楽死を容認しています。但し、大義名分と主観的な理由が何であれ、安楽死の容認は、結果的にはアポトーシスと同じような効果をもたらします。

結果的にはアポトーシスと同じような効果をもたらす・・・ということであれば、永井さんは安楽死を否定はしないと捉えていいのですか?アポトーシスは生命システムの存続に貢献する行動ですから。
永井俊哉 が書きました:秋刀魚刺身さんは、私の意見を聞いているので、それに対しても答えなければいけませんね。現在の日本のような豊かな社会では、少数の生命を犠牲にしなければ、全体の生命が維持できないという極限状況はめったにないと想定することができます。そのような社会では、安楽死を安易に認めることによる生命資源の浪費の方をむしろ懸念するべきです。私は自由主義者として、個人の自由意思は最大限に尊重されるべきであるという考えを持っていますが、人は不完全な判断能力しか持たず、間違った判断で後悔することが多いということ、一度死んでしまえば元に戻すことが不可能であることを考えるならば、安楽死を含めた自殺行為に関する自由意思の尊重に対しては慎重にならざるをえません。安楽死を全面否定するつもりはありませんが、名古屋高等裁判所が提示したような厳格な条件を課すことが必要と考えます。

と思ったら、今現在の日本としては厳格な判断が必要という意見なんですね。理由は生命資源の浪費ですか。生命資源の定義はどういったものですか?定義によってはそれによって安楽死していい人としてはいけない人に分かれてしまうように思えるのですが、例えば大学教授と一般人では大学教授のほうが社会に対する貢献率が高いので(あくまで傾向としてです)教授は死んじゃだめだけど一般人はひとりやふたり死んでもいくらでも替えが効くので安楽死してもいいですよとか。そういった世界を肯定できてしまうと思うのですが。
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登録日時: 2013年3月13日(水) 20:20

なぜ生命は形式的に平等に扱われなければならないのか

投稿記事by 永井俊哉 » 2013年5月19日(日) 15:58

秋刀魚刺身 が書きました:これはつまり永井さんとしての意見では無く、生命システムにそれがプログラムとして自然淘汰によって組み込まれている以上、生命システムの存続が目的だと言っているわけで、つまり永井さんではなく生物として、そのような意見になる、及びならざるを得ないということでしょうか?


ここは倫理学フォーラムだから、倫理学の基本的な話、所謂メタ倫理学的議論から始めましょう。存在と当為、事実と価値は区別されるべきであり、前者から後者を無批判に導出することはできません。私の投稿の前半(最後のパラグラフを除く部分)はたんに事実を記述しただけで、どうするべきかに関する私の意見ではありません。一番目と二番目のパラグラフの文章は、生命が自己保存するようにプログラムされているという事実と安楽死を選ぶ個体が存在するという事実は矛盾するものではないということ示すために書いただけで、それが望ましいことだとは書いていません。

秋刀魚刺身 が書きました:例えば大学教授と一般人では大学教授のほうが社会に対する貢献率が高いので(あくまで傾向としてです)教授は死んじゃだめだけど一般人はひとりやふたり死んでもいくらでも替えが効くので安楽死してもいいですよとか。そういった世界を肯定できてしまうと思うのですが。


ナチス・ドイツの安楽死はそうした優生学的な思想に基づいて行われました。優生学的思想の根本的な問題は、「優れている」とか「劣っている」といった私たちの価値判断は必ずしも正しくないというところにあります。私たちの社会システムが、すべての生命を形式的には平等に扱い、多様性を肯定するのは、人間の認識能力が有限であるがゆえに理にかなったことなのです。今日の世界において、ナチス・ドイツを典型とする全体主義の多くは淘汰され、人権と多様性を尊重する国が繁栄していることからも、生命を形式的に平等に扱う戦略が生存戦略としても正しいと判断できます。

なお、私たちの社会システムは、生命を形式的に平等に扱っても、実質的な平等までは保証していません。車を運転中に不注意から人をはねて殺した場合、被害者が金持ちでもホームレスでも、刑事裁判では同じ自動車運転過失致死傷罪が適用されますが、民事裁判では、被害者の年収によって損害賠償の額は大幅に異なってきます。生命の価値が形式的には平等に扱われても、実質的には平等に扱われないのは、変化適応と環境適応という二つの生存戦略の結果だと解釈することができます。
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Re: なぜ生命は形式的に平等に扱われなければならないのか

投稿記事by 秋刀魚刺身 » 2013年5月19日(日) 20:54

永井俊哉 が書きました:ここは倫理学フォーラムだから、倫理学の基本的な話、所謂メタ倫理学的議論から始めましょう。

面白そうだからトピックを立ててみたのですが、私にはすこしレベルが高かったようです。所謂メタ倫理学的議論とはなんですか?
永井俊哉 が書きました:ナチス・ドイツの安楽死はそうした優生学的な思想に基づいて行われました。優生学的思想の根本的な問題は、「優れている」とか「劣っている」といった私たちの価値判断は必ずしも正しくないというところにあります。私たちの社会システムが、すべての生命を形式的には平等に扱い、多様性を肯定するのは、人間の認識能力が有限であるがゆえに理にかなったことなのです。今日の世界において、ナチス・ドイツを典型とする全体主義の多くは淘汰され、人権と多様性を尊重する国が繁栄していることからも、生命を形式的に平等に扱う戦略が生存戦略としても正しいと判断できます。

なお、私たちの社会システムは、生命を形式的に平等に扱っても、実質的な平等までは保証していません。車を運転中に不注意から人をはねて殺した場合、被害者が金持ちでもホームレスでも、刑事裁判では同じ自動車運転過失致死傷罪が適用されますが、民事裁判では、被害者の年収によって損害賠償の額は大幅に異なってきます。生命の価値が形式的には平等に扱われても、実質的には平等に扱われないのは、変化適応と環境適応という二つの生存戦略の結果だと解釈することができます。

この主張の要旨は多様性を肯定することが人類にとって重要なことであり、多様性を肯定することはすべての個を平等に扱うことであるからして、形式的には平等であるとすべき、ということでいいのでしょうか?

となると、この問題は多様性をどこまで尊重するかという線引きの話に帰着することになります。例えば癌細胞はDNAの変異などを理由として本来の細胞に求められる役割(多細胞生物の生存)を無視して無制限に増殖、結果その生物を死滅させることもありますが、無制限に多様性を尊重するとこういった癌細胞まで生存させるべきだという話になってしまいます。まあ、これは極論ですが。

人類は明らかに貢献している固体と明らかに貢献していない固体だけに分かれているのではなく、多様性を持ち、その度合いはグラデーション的に分かれています。その線引きを永井さんは、名古屋高等裁判所が提示したような厳格な条件であるべきだと思っている、ということでよろしいのでしょうか?ちょっと厳しすぎやしませんかね、あまり根拠になるとも思えませんが、毎年3万人が自殺する国(年間死亡者数は毎年120万人程度ですから、40人にひとりは自殺することになります。)で、最後くらい楽に死なせてやりたいと思うのですが。
秋刀魚刺身
 
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登録日時: 2013年3月13日(水) 20:20


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