名古屋高裁で行われた再審請求裁判が認められなかった。この裁判の判決が正しいかどうかは別にして、現代の日本では当然の結果でもある。残念ながら日本の刑事裁判は結果的に「茶番劇」だからだ。
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その国に「裁判所」があるかどうかは、「野蛮と文明」を分ける一つの尺度になるだろう・・・多くの人が同意する考え方。
日本の刑事裁判(一審の地方裁判所)は1年に62000件の判決を行い、無罪は80件。99.9%が有罪・・・実質的に刑事裁判無し。
三段論法では、「日本は野蛮国家」であると結論される。
人間の心はダマされやすいし、「今の状態は良いのだ」と思いたいので、99.9%という数字を聞くと、「0.1%は無罪になる可能性がある」と思うけれど、これは「裁判が無いと同じ」という結論が正しい。裁判には民事裁判と刑事裁判があるけれど、「民事」は「お金」が主だから、どうでも良いというわけでは無いが、刑事裁判と比較すると「裁判所があるかどうかは野蛮かどうか」という点では圧倒的に刑事裁判が大切だ。
「裁判を受けられない国に住んでいる」と思うと、改めてぞっとする。急に警察署が恐ろしく見え、誤解でも何でも捕まったら、自分の人生は終わりと感じる。
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私は多くの裁判鑑定を行ってきた。交通事故はもとより遺産相続や殺人事件なども経験してきた。世の中の多くの刑事事件は、何らかの物理鑑定が必要となる。殺人事件でも「ある方向から凶器を突き刺すと、体のどの程度まで打撃を与えるか」というのは、医師の解剖と物理学者の力学計算が必要だ。
遺体の解剖によって「事実はどうか」はわかるが、「想定している行動で事実を説明できるか」というのは物理解析によらないとわからない。
でも、物理学者で「弁護側鑑定」をする人は少ない。検察側なら国家権力で大勢の学者や研究所、そして鑑定に掛ける費用はふんだんにあるが、被告側はお金がない。だから、そんなことに時間をとる人はほとんどいない。
それに鑑定人陳述で裁判所に出頭すると、まるで被告のように「尋問」される。お茶の一杯も出さないし、被告席に座らされて、上から裁判官が傲慢な顔で見る。「客だぞ!」と心の中で叫んでも、司法は傲慢だから被告と客分も区別ができない貧弱な心の持ち主ばかりだ。
だから、裁判所にしょっ引かれたら無罪になるのは至難の業だ。昨日のニュースで「最高裁が違憲状態としても平気でそのまま選挙を行う国会」という非民主主義の国に住んで、「検察が起訴したらかならず有罪になるという裁判所の無い国」に生活している。
(平成25年3月7日)
武田邦彦
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