硝子の褥で見る夢   『EVE burst error』


 人間が生きることは、虚しいとは思わないか。
 キリスト教でも仏教でも、実存でもいいが、人間を救ってくれるのか。
 釈迦は、この世は苦だと言った。考えれば凄まじい言い方である。この世にいるかぎり、救いなどないのだ。
 インド神話では、この世とは、最高神ヴィシュヌの見ている夢であるとされる。これを知ったとき考え込んだのを憶えている。「夢の住人」である我々が、これは夢ではないと論理的に反駁できるのか? できない。真偽などはともかく、反論できないことに唖然とするところがある。
 我々は、我々をとりまく恐怖と、精神に根づく不安から逃れることはできない。最も「正しい」選択は、考えるのをやめてしまうことかもしれなかった。
 柴田茜は、いつでもデカいカメラを首からぶら下げている。いつでも特ダネを狙っている。動きやすいズボン姿で、髪をしばっている。彼女はなるほどしたたかさも備えている。だが、彼女はきっと一流のマスコミ人にはなれない。彼女には、下品さがない。彼女はその眼鏡をかけた顔立ちのように、うぶなのだ。
 桂木弥生は煙草をふかしていることが多い。彼女は、桂木探偵事務所を立て直さなければならない。くわえて小次郎とのこともある。彼女は常に煙を肺に入れておかねばいられないのだ。
 法条まりなと天城小次郎は、自分の拳銃に愛着をもっているようだ。じゃあと言って彼らはガンマニアか? 部屋にモデルガンでもいいから並べているのか? そんなことはない。彼らの拳銃は、自分の仕事への愛着と自信を表している。
 カメラも同じではないか。煙草も、少し意味は違うとはいえそうだろう。これらのアイテム類は、彼らを象徴するものとして効果的に使われていると同時に、彼らが仕事に対して愛着があるし、けして妥協しないことを表している。
 信念のある人間は強い。アイテムで強調されなくても、本作品の登場人物達にはみな信念があるのがわかる。立派であれマニアックであれ即物的であれ異常であれうぶであれ、それぞれに信念があるのだ。ここには、「信じるもの? ……なにかなあ」とのんびり構え、現実では日々のノルマに追われたりダラリと過ごしているいかにも今風な人間はいない。ここには、どこか「濃い」人々が集まっている。続編などが別の作者・スタッフらによって全く別物になってしまったのは、そのへんの認識の低さもあったのではないか。「普通」の人を登場させ、「信じるものなんてないぜ」というような人間まで登場する。人間のキャラクターが、顔などの外見と、優しい・ぶっきらぼうなどの人当たりで成り立つとでも思っているような薄さがある。ストーリーテリングの未熟さ云々もあるのだが、それ以前に、キャラ造形の仕方じたいがすでに続編とは呼べないものだった。
 本作品は、一部に人を選ぶという評もあるようだ。それはその「濃さ」と、そういう「濃い」人間達が発するクセのあるセリフのためでもあるようだ。特に小次郎なんかはそうとうクセがある。真面目な批評で、初対面の人間に「デブ」なんていう人間がいるか? というのがあって、ごもっともだと思った。その人はそのへんが未熟なテキスト作りだと言いたいようだったが、それはちょっと違う、というかもったいない。そういう真面目な人ほど、ひとくせもふたくせもあるこのキャラ達を楽しめるかもしれないところ、「普通」でない連中の登場に面食らって引いてしまうのが先だったという例だろう。
 本作品は、1995年にパソコン用のソフトとして発売された。のちに作者のペンネーム剣乃ゆきひろの名を不動のものとした作品である。無論それは狭いパソコンホビーソフトの世界での話だが。のちの97年、コンシューマ世界ではプレイステーションに覇権が移り、『ファイナルファンタジー7』発売というビッグイベントをむかえるなか、本作品はセガサターンに移植され発売される。そして本作品は、セガサターン専門誌において、読者ランキング長期連続一位を獲得することになる。
 本作品は「ギャルゲー」と呼ばれるかもしれない。「ギャルゲー」とは、特に定義もなく、雰囲気と、女性キャラが多数でてくることをもってそうよばれる。本作品はもともと、性描写を含む18禁ソフトとして発売されたわけで、家庭用に移植されてギャルゲーと呼ばれるのは当然かもしれない。ただ、18禁ソフトプレイヤーの一部には、このソフトは認められないようだ。本作品には「萌え」が足りない。「萌え」によるキャラ造形などとは無縁なのだ。つまり、表面だけでなく、芯の部分からキャラが立っている。それはゲーマーの妄想の介入を低下させてしまう場合もある。一般には女の子が割合多くでてくるだけでギャルゲーと呼ばれるが、コアな人々にはそうはいかないのだ。本作品のオリジナルは、性描写はあるとはいえ過激ではない。「萌え」なかったりHな描写が少なかったりすると、「金返せ!」になってしまう人もいるらしく、そういう人にはこのソフトは鬼門なのだ。一般にはギャルゲーと言われ、コアな人には敬遠される。なかなか不憫な星のもとに本作品は生まれたようだ。そういった間隙のなかで、サターンのはたした役割は大きい。
 最後までプレイした人の多くに、傑作とまで言わせる本作品だが、旧コンテンツでは微妙な言いまわしにさせてもらっていた。
 本作品は、マルチサイトというシステムを確立した。そのことはあとでとりあげるとして、基本的には、すでに95年の時点で相当に古臭い、コマンド総当り式アドベンチャーゲームなのだ。推理ものとしてのコマンド選択式アドベンチャーは、頭で推理しながらコマンドを選んでゆくことを趣旨としている。しかし頭で考えなくても、とりあえずコマンドを総当りすれば解けてしまう。「コマンド総当り」というのはシステムの欠陥をついた言い方なのだ。本作品も推理ものという体をとっているのだが、ではコマンド総当りという形式は本作品においても欠陥かというと、少し違う。そもそも、このゲームは、80年代の「いわゆる推理もの」とは全く違う。プレイヤーはプレイ中、このゲームから「推理してくれ」というメッセージを受け取ることはない。推理などしなくていいのだ。これも後述するが、だから最後になって、犯人当ての画面が出てきたとき、「え、やっぱり推理ものだったんだ」という妙な驚きを感じることになる。小次郎とまりなははっきりと捜査の仕方が違う。まりなは次はこうこうこういうことをしようと決めて行動している。プレイヤーもそれにあわせて行動すればよいので、比較的捜査しやすい。しかし小次郎は行き当たりばったりだ。本当に捜査しているのかというくらい、ひたすらぶらぶらとあちこちを歩き回る。コマンド総当りを、どうぞしてくださいというつくりになっているのだ。数々のしょうもないギャグや行動(笑)を楽しみながらでないとやってられない。逐一推理もさせないし、ゲームじたいはコマンド総当りすることを推奨したつくりをしているのだ。そうしたゲーム性のうえに、本作品独自の、マルチサイトというシステムがある。
 パソコン用のオリジナルでは、本作品の前に『DESIRE』という作品がマルチサイトというシステムをとっているが、これは本作品のものとは全く違う。『DESIRE』はかなり実験的作品で、作者自身も「若気の至り」なんて言っているのだが、この作品のマルチサイトとは、本編(アルバート編)と、その裏編(マコト編)という言い方が正しいだろう。あくまで本筋はアルのほう。マコト編は、「裏ではどうなっていたのか知りたい? じゃあ、みせてあげましょう。じゃぁーん! こうなっていたのでした!」というのがやりたかったにすぎない。ただもちろん、この作品があったからこそ、次に『EVE』が生まれることになる。『EVE』では、二つのシナリオを完全に並列して同時進行させた。そして、一方のシナリオで立てたフラグが他方のシナリオに影響するという作りにしたのだった。二つのシナリオの微妙な接点を知っているのはプレイヤーだけだ。最初はそれを単純に楽しむうち、二つのシナリオが「本当に」接点をもっていることにプレイヤーは気づいてゆく。それどころか、最終的には、この二つは、一連の事件の表と裏であったことに気づいてゆく。キャラの配置も面白い。まりなの友人で小次郎の元恋人である弥生は両シナリオに登場する。弥生は、小次郎には意地を張ったり甘えたりという男性への顔を見せてくれるが、まりなのシナリオではちょっとほっとして、普通の姿(酒飲んで乱れるのも含めて(笑))を見せてくれる。氷室恭子のように、最初はまりなシナリオでちょろちょろし、後半では小次郎編で登場するキャラもいる。一方のシナリオにしか登場しないキャラもいる。例えばまりなにとっては「?」な人物がなにかやっているという状況でも、プレイヤーはその人物を小次郎シナリオで知っていて、小次郎側の情報とまりな側の状況を考え合わせることもできる。一方だけでは知り得ないことを、プレイヤーは概観し、楽しむことができるのだ。
 さてそういった「有利」な立場にプレイヤーはいるわけだが、しかし、本作品の全体像を推理するのは困難を極める。論理的に考えるほど複雑になる。思いつきであれこれ言うのは誰でもできるのだが、ちゃんと考えようとするといろいろと困難があるのだ。ただ、勘違いしてもらいたくないのは、そういった作りであるのは、構成が未熟であったり筋が破綻しているためではないということだ。
 頭だけで考えるのが苦手な人は、紙に書き出してみるとよい。まずこの作品の基幹は何か。そう、再三言っているように、二つのシナリオだ。この作品は、システムとストーリーが高度に融合している。紙の真中に線を引き、「A」「B」としよう。(「P」「M」でもよい(笑))。そしてそれぞれのシナリオに象徴的な人物の名前を書こう。小次郎とまりな? 確かにそうなんだが、彼らは劇中キャラであると同時にプレイヤーキャラクターだ。ここでは書かなくてもいいかもしれない。さて、ちゃんと見えているだろうか。ではA側・B側に、それぞれのサイドの人物を書いていってみよう。この作業をしたからといって、最後の犯人当てを完全に推理しきれるわけでは、はっきり言ってない。だが、ちゃんと整理されていないのに、推理できなーいと言うのは礼儀知らずだろう。ちゃんと推理しようとすれば、人物がどっちの側に属していたのかを認識しておかなくては話にならない。五つの死体のうち、一つを除いた四つの死体となった人物は、それぞれの側に二人ずつ書かれたはずだ。大丈夫だろうか。A側はB側を、B側はA側を殺すかもしれない。ここで殺されたすべての人物がどちらかの側に偏っていれば、もう明々白々、もう一方のグループに犯人はいる。だがこうやって二・二になってしまうので、一つ一つの事件を個別に見てゆく必要がある。
 この大局的見方に物証が加わると、ますます混乱するに違いない。物証は、ある人物の関与の可能性を示唆している。本作品の推理の肝は、この人物の関与の否定にかかっている。ポイントは、シリアの役割と、犯人当て直前のあのシーンである。
 さて、おぼろげに事件の全体像が見えてきた。知性にできるのはここまでである。小次郎は、己の推理を勘だと言っている。そして勘のなんたるかについてこう言っている。
「勘というのはな、演繹と経験と理屈に裏付けされたものなんだ。思いつきや何となくとは、わけが違う」
 本作品の推理には、小次郎的「勘」を要する。
 一発で犯人当てに正解した人は凄い。最後の一歩を勘で乗り越えることができたのはなかなか小次郎的じゃないか(最初からただの勘なのは多分だめ(笑))。
 あの犯人当ての画面までで、まだ大事なことは伏せられている。一部には、それは評価を下げることになってしまった。推理してくれと言っておいて、まともに推理できない印象を与えてしまったのだ。推理は、できないことはない。落ち着いて考えれば。真犯人までたどり着けないことはない。だが、これまで体験してきた物語とどう絡んでくるのかが見えない。
 最後の犯人当てをどう評価すべきかは難しい。推理ものという体にこだわりすぎたのではとも考えられる。前述しているように、本作品はもともと、推理しながらコマンドを選択してゆくゲームではない。ならばもう最後も推理などさせずそのまま真実をあかしてもよかったようにも思う。しかし、犯人当てがなければ、なにかそっけない印象になっていたのではとも考える。あの犯人当ては、意外性をもたせるための演出であると考えることもできるのだ。また、あそこで一呼吸おき、物語全体を振り返らせる効果もある。この複雑な物語で、あの状態のままラストに突入していたら未消化のままになっていたこともあるかもしれない。
 犯人当てを間違えたら、次には進めないというのがゲーム的であるはずだ。しかし間違えても、真実は語られる。ただスタッフロールと一部のシーンが見られないだけだ。これはもう、間違うことを想定していたのではないかとも思われる。とはいえ、五回も六回も犯人当てを間違えた人は、それを作品のせいだけにもできないと思うのだが(笑)。
 数々の謎もちゃんと合理的な思考をすれば解ける。ここではバレの問題もあって披露しないが。プレイ後も謎として自分のなかに残ったものを、深くは考えずに、あの犯人当てにおいてまともに推理できなかったことを思い出して(それもどこまで考えたかは人それぞれなんだが)、答えなんてないんだ、いーかげんなんだと思い込んでいないか? このゲームはそんなに浅くない。
 本作品は、サスペンスとしては成功したと言える。しかし「推理ゲーム」としては評価の分かれる作品となったのは確かだろう。ただ、このゲームを評価するにあたっては、従来の推理アドベンチャーとしての評価にとどまるのはもったいない。前述しているように、そもそも本作品は従来的な推理ものとしての顔をあまり見せない。本作品のマルチサイトは、ゲームが進むにつれて、二つの視点にとどまらなくなってくる。ゲームはあくまで小次郎とまりなという視点で進むのだが、その二つにも見えない部分があまりに多い。また同じ事柄が見るキャラによってまるで別の事のようにも見える。プレイヤーは二つのシナリオでの情報や経験の断片を組み合わせて、知ることのできる範囲をなんとか拡大させようとする。それは「ゲーム的」じゃないか。そしてその見えない部分を、推理ものとしての謎として活用している。二つの目によって立体視が可能なように、二つの視点が物語をより立体的に浮かび上がらせる。そして同時に、それ以上の、二つにとどまらない多様な視点をプレイヤーに予感させることにも成功したのだった。
 天城小次郎は、表面的には(いや、かなり本質的にも)、軽薄でお調子者である。自分の興味のあることにしか関心を示さない。興味のあることはとことんくわしいし、首をつっこんでくる。それ以外のことには、では無視だけすればいいのだが、それだけではない。事のついでに茶化し、馬鹿にする。あなたのまわりにもそういう人物が一人くらいいるかもしれない。いや、もしかしたらあなた自身がそうかもしれない。もっと言おう。小次郎が馬鹿にするのはしかし、なるほどそうされてもよさそうなものたちではある。小次郎はその外面的キャラクターからニヒルなタイプかといえば実際は違う。本当はまわりが恥ずかしくなるくらいのヒューマニストだ。ハードボイルドを自称しているが、本人にはそのことは三の次くらいに思える。小次郎はそういう「自分」を選択しているのだ。型になどはまらず、そして他人がどう思おうとお構い無しだろう。
 本作品のキャラクターの濃さはそこなのだ。信念もあり、自らのあり方を選択し、仕事が好きで、自分を嫌いにならず、強くあり、そして優しい。
 それでも人は不幸だ。
 「自分」がちゃんとここに実現しているのに虚しい。
 小次郎が、真弥子の結婚の申し出をうける場面は、とても不思議なシーンだ。夜空と、船と、真弥子の綺麗な顔が映って、そのなかで小次郎は「なぜか」真弥子の申し出を受けてしまう。あの合理的な小次郎がだ。あとになって、何か考えがあってのことだろうと小次郎らしく整理しているが、その場ではそれができなかった。
 まりなも、弥生も、真弥子も、とても強いし、そしてとても弱い。
 「愛」が支えてくれることもあるかもしれない。でも「愛」さえ知らない人間は?
 それよりももっと原初的なもの、それが「微笑み」だったんじゃないか。
 それは、「自分」を探していたりすでに「自分」を見つけている人にさえ、いやむしろそういう人こそ、「なぜか」埋められないものだったとやっと発見して、はっとしてしまうんじゃないかと思ってしまう。自分を失って初めてそれが分かる。
 このどぎついくらいの輝きをはっしている人間達のなかにあって、輝きなどとは無縁な、ささやかな願いにはっとしてしまう。それはこの虚しいキャンバスに、最初の色がつけられたような鮮烈さがあった。
 それが、『EVE burst error』が残してくれたものだった。
 今、硝子の褥で夢を見ているのは、あるいは我々なのかもしれない。


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