私は、「原発は推進すべきである」という考えから、「原発は即刻、中断すべきである」という意見に変わりました。世間の人はこれを「転向」として批判しています。
自由な批判、自由な意見こそ社会を明るくするものですから、批判は正面から受け止めていますが、私には少し言い分があります。
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【第一期】
日本はエネルギー資源がないので、原子力を活用するのは日本のためになると考えていた時期。
【第二期】
原子力安全委員会基準部会で新耐震指針を審議したとき、「原子力発電所に想定外のことが起こったら、住民が大量に被曝することを理解しておかなければならない」という趣旨が明記されたものが出たとき。
私は何のために原子力を研究してきたのかという深い疑念をもち、「日本の原発は地震で倒壊する」という内容の本を2冊出版して「できれば運転しない方が良い」という考えに変わった。
【第三期】
福島原発が破壊しても、これまで原子力を推進していた科学者の「反省」が聞こえず、専門家の虚偽のコメントが続いたこと、北は青森から南は石川県に至るすべての原発が震度6の地震で破壊したこと、の2つから科学者として、原発を中断する必要を感じた。
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批判を受けたことは気になりません。確かに「原発を推進するか」という点では転向したのでしょうが、「科学者としての態度」としては一貫していると自分では思っています。
科学者、特に私のような工学の分野では、その活動は「社会に貢献する」というのが前提です。「エネルギーを安定させるために原子力を進める」という信念は、「原発が事故を起こすようなら推進できない」というのと同じです。
だから、原発が安全に運転できると思っていた頃は、原発を推進すべきと言う考えだったのですが、原発が震度6でことごとく破壊されることを目の前で見て、それでも原発を推進するという方が私には「科学者の転向」のように感じられます。
私が今、疑問に感じていること、それはこれまで一緒に原子力をやってきた科学者が、なぜ福島原発(おなじような破壊を受けた東海第二、東通)の事故を見ても、そのまま原発を進めようとしているのかということです。
科学的に見て原発を中断するべき時でも、政府がそれを推進することはあります。でも、私たち科学者は政治家ではなく、「原発が必要かどうか?」より「原発は安全かどうか?」の方に判断の基準があるはずだからです。
人間の考えは未熟で、間違いだらけですから、意見を変えることはやむを得ないと思っていますが、今回の私の「転向」はターゲットの変化であり、科学者の信念や心としての「転向」をしなかったという点で自分でも満足できるものでもあります。
(平成23年8月4日 午後1時 執筆)
武田邦彦
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