「近代日中関係史と新潟人脈」の第6回目を始めます。
大倉組と三井物産の創業された明治初期のことを書きます。
両社とも創業期から中国を市場としてスタートしています。
その契機も大久保利通や大隈重信、伊藤博文など当時の明治政府首脳らとの密接な連携の中でつくられていったのでした。 

 武器商の傍ら、大倉喜八郎は横浜から入ってくる欧米の最新技術を必死に吸収しながら新しい商売(例えば、洋服店など)を起業していたのですが、そんな折に、接近を策していた参議・大久保利通が岩倉具視らとともに欧米巡視の旅行に出ることを聞きつけて、明治5年春、さっそく自前の通訳を伴って遣欧派遣団の後を追ったのです。


 ロンドンで一行に追いつき、ロンドンの金融街、商業地を直に見学して目を見張る思いだったのでしょう。「これからの商売はここに基地がなくては情報も商機も手にできない」と思い至って、ロンドン支店を開設します。


 これが大倉にとって最初の海外支店というだけでなく、日本企業が最初に設置した海外支店がこの大倉組ロンドン支店なのです。大倉は帰国すると直ちにそれまでの武器店、海外貿易店、洋服裁縫店という3つの事業会社を統合管理する、現代風にいえば「持ち株会社」としての大倉組を開業したのでした。


 一方、明治新政府の方は、大蔵卿となった大隈重信の陣頭指揮で、貨幣、租税や金融、郵便通信など経済的な制度整備を進めていました。貨幣、金融は伊藤博文や渋沢栄一、租税は陸奥宗光、郵便通信は前島密などといった人々が中心になって仕事を進めていたのです。

 

この中で、益田孝は大蔵省・大坂造幣寮で金貨、銀貨鋳造の工程管理の仕事をしていました。そのうち岩倉具視、大久保利通ら首脳陣が洋行し留守の間に、政府内でごたごた騒動が広がったのです。

 

山県有朋が陸軍での贈収賄事件を、井上馨も鉱山払い下げに絡んでの収賄疑惑が持ち上がり、事件を摘発する司法卿・江藤新平との対立がのっぴきならない抗争にまで高まってゆきます。加えて西郷隆盛や板垣退助、副島種臣らが主張する征韓論を巡る論争にまで火が付いていました。


 そのため、井上馨が明治6年に大蔵省を辞職し、渋沢も益田も一緒に大蔵省から去ってしまいます。渋沢は自分が作った銀行条例を具体化しようと、それまで停滞していた第一国立銀行の設立事業に身を投じたのですが、益田は井上が自己資金を投じて設立した貿易会社「先収社」に副社長で誘われて、また貿易の仕事に戻ったのです。


 先収社の主な事業は外国商館を介して、英国から軍艦や銃器類の輸入とタイやベトナムからの米穀類の輸入をやっています。ほかにはお茶、生糸や反物なども商っており、東北の米を東京に輸送して利ザヤを稼ぐことなどもやっていました。


  ところが、欧州から岩倉や大久保が帰国して政権中枢が征韓論を巡って分裂し、征韓論派の西郷や江藤、副島、板垣らが野に下るという政変事件に発展したことで、明治8年、社長だった井上馨が再び政府に戻り、先収社も解散となってしまったのです。

 

しかし、大蔵卿の大隈重信と三井組の大番頭、三野村利左衛門が井上馨と相談して、先収社の仕事を引き継いだ新会社をつくる計画を立てました。とりわけ、三井組の大番頭、三野村にとって先収社の仕事は三井組が江戸期以来行ってきた国産方の仕事(米穀や茶、生糸などの販売)を近代的な企業組織で継承したという気持ちが強くあったのでしょう。

 そうした話し合いの末に、設立されることになった会社が「三井物産」でした。そして、その雇われ社長に益田孝を起用しようという事で話がまとまったのでした。明治9年春のことです。


 三野村から話があって、社長を引き受けるについて益田は条件をだしたのです。タウンゼント・ハリスの下で働いた経験から、当時の日本人には珍しいほど合理的な考え方をしたのが益田孝です。三野村と相談のうえで、以下の誓約を交わしているのです。

 ①会社設立に対して三井組の資金出資はしないが、代わりに、三井銀行の口座に5万円を限度とする融資枠を設ける②会社運営の一切を益田に任せ、業績不振なしは倒産の場合、その責任は益田ひとりで負うものとする②会社の本業は手数料収入を基本にした商社ビジネスとして、為替相場や生糸相場など投機は行わない③益田の報酬は月給与のほか利益金の10%のボーナスを受けることができるー。というわけで、29歳の益田孝は三井物産の社長として再出発をしたのです。

 

 大倉組が手掛けた初期の仕事には内務卿となった大久保利通から発したものがたくさんあります。宮城や北海道での刑務所建設がそれです。また、征韓論で西郷が政権から去った後、大久保が政府の実権を握り、明治7年に台湾へ琉球民救済の名目で出兵を行いますが、その後方支援の食糧や建設資材の物資輸送が大倉組にふられます。大倉は自ら輸送船団に乗り込んで大嵐の中を命がけで任務遂行しています。


 そして明治10年、朝鮮半島が大飢饉のために李氏朝鮮政府から明治政府に対して食糧支援の要請があったのですが、ちょうど西南戦争の真っ最中で九州から大量の米穀を積んで船出するのは命がけという状況でした。


 困った大久保が思いついた人物がやはり大倉喜八郎でした。大倉を前にして「戦争中ではあるが、これは内輪の事だ。国と国との交際上、飢饉で困るから米を回してくれというのに、これに応じないといのは義を知る国ではない。船は政府で責任をもって手当てするので、どうだやってくれるか」と大久保が要請したというのです。

 

 一方、三井物産の設立計画が進行している頃、工務卿の伊藤博文から益田孝に九州の三池炭鉱(当時は国営)の石炭を中国・上海に輸出する計画が打診されたのです。伊藤工務卿はその石炭輸出を三井物産の最初の仕事にしてみないかと持ち掛けたというのです。


 益田は炭鉱に詳しい部下を伴って三池炭鉱に出向いて、産炭状況や産出石炭の品質などを調べ上げたうえで、伊藤工務卿と条件交渉に入るのでした。益田は幕府騎兵隊を辞した後に横浜でアメリカ商館員として働いたことがあるのですが、そのときに一緒に机を並べて親しくしていた同僚の米人が上海に事務所を構えて商売をしていたので、彼を代理店にして三池炭鉱の石炭を上海で売り捌く手だてを付けていた。すべてに念入りに準備して用心の効いた会社スタートで、いかにも益田孝らしいと思います。

 

 大倉喜八郎と益田孝がこの明治10年初め、西南戦争の最中に、ごった返す長崎港で偶然に出くわしています。大倉は大久保から頼まれた朝鮮・釜山港むけの米穀輸送の準備で奔走していたときです。  益田は渋沢栄一と一緒に上海への視察を終えて長崎に戻ってきたばかりのときでした。


 実はこの時、益田は大蔵卿の大隈重信に頼まれて英国やオランダに米穀を輸出する方策を練っていて、筑前や筑後、肥後から買い入れるための米穀事情も調査していたという。その過程で大倉が朝鮮向けの大量の米穀を集荷している情報も当然に耳に入っていたらしく、「大倉さん、ご活躍で」と声をかけていたのです。大倉の方でもなぜ戦争の大混乱の最中、東京にいるはずの益田と渋沢が長崎で時間を潰しているのだろうかと、いぶかしく思ったことでしょう。

 

 これで、大倉組も三井物産も創業時から、中国との関係は深かったことがお分かりいただけたかと思いますが…。

 

 大倉喜八郎と益田孝はほぼ同じ時期に会社を創業し、中国市場に向けた活動を開始したのですが、その契機はいずれも大久保利通、伊藤博文や大隈重信といった政府要人からの依頼という形でした。それは旧土佐藩御用達の土佐商会を起点にして、九十九商会から三菱商会へと明治6年に創業した岩崎弥太郎も同様です。

 

 この三者による3大商社の中で、大倉喜八郎の出自が独特と思います。益田と岩崎が士族出身なのですが、大倉は根っからの商人です。そして、岩崎は坂本龍馬の海援隊や土佐藩商船隊の資産を後ろ盾にして発展させましたし、益田は三野村利左衛門や井上馨を後ろ盾に三井組の信用と力をテコに事業を広げてゆきました。


 ところが、大倉喜八郎には後ろ盾といえるものがないのです。大倉も最初は大久保利通を後ろ盾にと思ったのでしょうが、大久保は明治11年、早々と旧金沢藩士らに暗殺されてしまっています。これが大倉の行動を自由闊達にさせたと思います。大倉組の企業内にあって、すべての物事は大倉自身が決定権を持ったでしょうし、決定過程で誰はばかる者はいないのですから。

 

なによりも、大倉組を創業する資金は、幕末からの鰹節や武器などですべて自力蓄積したものです。そこが大きく違うと思います。しかも、その差異が、大倉と益田の人間としての個性の違いと相まって、企業組織の在り方にまで陰を落としているように思います。

 

 益田孝は終生、幕臣であったという気分を持ち続け、薩長藩閥の明治政府高官たちと表面上を親しく交際しながらも、決して油断を忘れずに身を処していた人です。また、財閥企業内にあっても三井宗家(当時の主人は三井八郎衛門)が絶対権をもっていたわけで、益田の手で欧州の財閥の組織形態をモデルに三井合名会社に改組してからも基本はかわらなかったと思います。これを称して、大倉は益田のことを「その本性、怜悧なり」と語っています。それゆえにこそ晩年の益田は実弟の益田克徳から教えられた茶道の道に、「鈍翁」として心のはばたく自由を求めたのだと思います。