ユダヤ教ならびにその影響を受けた宗教(キリスト教、イスラム教)を啓典宗教と言います。啓典宗教の特徴は、神が唯一絶対のものであると規定しているところにあります。
唯一というのは他には神はいない、ということですから、分かりやすいのですが、絶対である、ということはどういうことなのか、日本人は理解していませんね。
絶対と言うのはまず第一に宇宙論的存在証明における価値や原因の起点と言う意味を持ちます。
政府に様々な命令権限があるのは、国民の支持があるからですね。現代では国民に価値の起点があるわけです。
これが例えば徳川幕府では、将軍に権威があるのは天皇によって任命されているからであり、天皇に権威があるのは神によって国主たることを命じられているから、という理屈になります。
つまりある権力組織や権力者は、自分自身では自分の権威を正当化できないのです。権威を正当化できる権威者は必ず外部にいます。そしてその外部の権威者が行きつく先が、神、ということになります。
つまりこの世界が実際に存在する以上、存在する根拠が外部的に必要なんだということになり、それが神、であり、それが神の絶対性ということです。
この、外部によって権威や価値を担保される構造は、すべての政治制度に見られるものです。従ってどのようなコミュニティであれ、それが歴史的に存続するためには神を持たないコミュニティは存在しません。
ただし民主主義は、国民を統治する政府が国民自身に権威を求めているという点で双方向的であり、循環的です。民主主義は数多くの政治制度のひとつであるというだけではなく、他の政治制度とは根本的に原理が異なる制度です。しかしこれもまた、一見して明らかに矛盾する一神教的な神の絶対性の中から近代民主主義も生じています。
後醍醐天皇は南朝の、花園天皇は北朝の天皇ですが、同時代人である両者はまったく異なる、根本的に原理が異なる天皇観をほぼ同時期に提出しています。
後醍醐天皇は、天皇が価値判断の起点なのだから、天皇が過ちを犯すとか、間違える、非道をなすと言うことはあり得ないと述べます。
仮にそれが一見非道であっても、それを非道だと見る価値判断はさかのぼっていけば天皇に行きつくのだから、天皇が非道をなすことは原理的にあり得ないわけです。これは一神教において神が無謬だということと同じことです。
対して、花園天皇は中国の易姓革命の例を引いて、天命に背けば君主もまた地位を追われる、だから天皇は民衆のために祈り、善政をなさなければならない、と主張します。つまり後醍醐天皇は天皇自身が絶対の神であると言うのに対して、花園天皇は天皇は天命の下僕に過ぎないとしているわけです。花園天皇の天皇観は、人類史の標準的なもので、ごく常識的なものなのですが、あの時代、後醍醐天皇がイデオローグとしてどうしてあれほどの影響力を誇ったのかと言うと、神の絶対性という一神教的な世界観を提示したからです。つまり南朝にイデオロギー的に傾倒した人々は、安土桃山時代に切支丹になったような人たちとほぼ同種の人たちです。一見理不尽だからこそ絶対なのです。
神の絶対性というドグマを抱える啓典宗教では、この神の理不尽性という問題が生じます。
理不尽と言うことは理が通らないということです。理が通ると言うことは理が権威を帯びる、強制力を持つということです。もし神が道理をわきまえていればそこで最終的な権威になるのは神ではなくて道理です。
仏教では法前仏後と言います。法に正しいからこそ仏は仏である、つまり仏よりも法が優先されるという考えです。仏教では仏は絶対ではなく、法が絶対なのです。
しかしいいことをするかどうかは人間の意思ですから、いいことをすれば天国に行かせるということに縛られるなら、神は人間の意思の奴隷であるに過ぎません。そうではなくて、神が絶対なのですから、天国に行かせるかどうかは人間が善人か悪人かにまったく関係なく神の意思による、とするのが啓典宗教なのです。
カルヴァンの予定説はこの考えを発展させたものですが、この考え自体は原始キリスト教時代、もっといえば古代のユダヤ教においても見られる思想、根本原理であって、原始キリスト教においてその最大のイデオローグとなった聖パウロは繰り返しこのことに言及しています。
この考えは、いいことをする人は善人、悪いことをする人は悪人、悪人にはいずれ報いが来る、といういずれの国家組織も持つはずの根本倫理に抵触しますから、この考えを特に取出し、強調し、磨き上げた聖パウロという人は大変な人です。原始キリスト教徒においてさえ「信じれば救われる」というある種の功利主義的な勧誘が出来ないということですから、そうとうアクロバティックなことを組織のリーダーとしてはやっていることになります。この矛盾と言うか、理不尽こそがキリスト教が凡百の新興宗教とは異なる点で、この矛盾をあらかじめはらんでいたからこそ、キリスト教は信仰の力を強めていくことが出来ました。
実際には信仰することさえ、神は救いの条件とはしていないわけです。信仰しようがしまいが、救う人は救う、救わない人は救わない、それが神の絶対性であるからです。人にできるのは神の慈悲にすがることだけであり、ならば神がああしなさい、こうしなさいと命じていることについては、それぐらいのことはクリアしておかないと慈悲もお願いできないわけです。
信仰はキリスト教信者にとっては救いの条件ではなく、神の慈悲にすがりますという誠意を示すことでしかなく、だからこそ、働いたから給料をもらう権利がある、というような権利の話にはならず、信仰したからと言って、善人であったからと言ってそこには何の権利も発生しないのです。
この、予定説の意味における神の絶対性を原始キリスト教が特に強調した、強調することが可能だったのは、彼らがいかなる意味においても社会的に主流ではなかったからです。ローマ帝国の辺境の異民族、ユダヤ人の、そのまた異端から発生したキリスト教は、例えばローマ貴族のような当時の主流支配者から見れば、蛮族のまじないしみたいなものだったわけで、キリスト教は社会を担う責任が当時はありませんでした。
一方、同じ啓典宗教であるイスラム教は、教祖が存命である時に既に大帝国を築いてしまったわけです。イスラム教は支配者の宗教と言う性格を強めています。
イスラム教も啓典宗教ですから、予定説における神の絶対性というドグマは持っています。アッラーもまた、善人を救うとは限らないし、悪人を救わないとも限りません。しかしそれでは実際の統治においては非常に差し支えるわけです。法律を守ろうが守るまいが魂の救済には何ら関係がないというのでは、国家組織が維持できません。
そこでイスラム教は神の慈悲を強調しています。原理的には善人を神が救うとは限らないけれど、神は慈悲深いので、善人を地獄に落とすはずがないという言い方で、実際には神を法の下において法の奴隷化しているわけです。これが近世以後のイスラム社会の停滞をもたらすことになります。
人の作った法が預言者を通して神の法として扱われるわけですから、最初は合理的であっても時代の変化で非合理になっても神の言葉ですから変更できないわけです。例えば豚を食べないとか、金融業を制約するなどは、福祉的な視線を持つ支配者の合理から始まったことなのですが、それが神の言葉として規定されているために変更は出来ないのです。
神の絶対性のドグマは、スフィズム(神秘主義)と言う形でイスラムでは驚くべき変遷を遂げました。
神が唯一にして絶対であるならば、他者を持たないはずとスフィズムは言います。神と人に分かれた時点で、それぞれが存在するために、人から見て神は、神から見て人は相対化された他者であると。従って神が絶対ならば他者がいてはならない、相対はあってはならない、ということになります。
つまりどういうことか。神は他者として存在するのではなく、私たち自身の中に自己として存在する。すべてのありとあらゆる存在がそのままですでに神であるのであり、その統合された人格が絶対神なのであるという見方をします。これは現在のイスラムでは異端ですが、理屈としては通っています。
つまり一神教的な絶対の神の世界観はつきつめれば汎神論的な世界観に通じるんだということです。
民主主義は、支配される人々自体が価値の源泉になったということは、神を殺したとも言えますし、それ自身が神になったと捉えれば、まさしくスフィズム的な汎神論の世界観の上に構築されていることになります。