YOU THE ROCK★を知れ〜機は熟した〜


■さんピンCAMP

 そしていよいよ96年の7月7日、伝説のイベント「さんピンCAMP」が日比谷野外音楽堂で行われる。主催はヒップホップ界の長老・ECDだった。

 果たしてこんな大きな会場で人は集まるのか?

 そんな不安を吹き飛ばすように続々とBボウイが集まってきた。

 「Jラップは死んだ。俺が殺した」。ECDのそんな叫びから始まったこのイベントには、当時の日本でラップをしていた主要なメンバーが集まっていた。当然、ユウザロックもいた。観客はそのライブに熱狂し、そして酔いしれた。

 彼はステージで一曲目を終えると大声で叫んだ。

 「みんなよく来たな」。

 この一言には色々な意味が含まれていたと思う。

 今となっては伝説のイベントと言われる「さんピンCAMP」だが、当時は出演者もそして観客もみなマイノリティーだった。ダボダボの服を着たBボウイたちを親や友人は理解せず、冷たい目で見ただろう。ただヒップホップが好きなのに「不良」の一言で片づけられ、理解してもらえない苛立ちを抱えた人も大勢いた。

 大げさだが彼らはある種「差別」されていた。そんな人たちが、このイベントのために地方から電車を乗り継いでやってきたのである。

 「みんなよく来たな」。この一言には、そうした冷たい視線を乗り越えてきた観客への愛情とマイノリティー同士の友情が溢れていた。

 この場面に象徴されるように、このイベントの観客と出演者の一体感は異常と呼べるものだった。その理由は先述の仲間意識と「時代はヒップホップを中心に動き出す」という共同幻想にあった。

■さんピン以後

 同年の1月に行われた「チェックユアマイク」というイベントでは、販売枚数が48枚。その半年後のさんぴんでは、3、200人が集まった。やってることは同じでも、環境がガラッと変わった。その変化について彼はこう語っている。

 「どこに行っても握手を求められたり、留守電も毎日「ヨンジュウハッケンデス」とかそういう…いや、もう笑えないんだよ。(中略)昨日はどこどこでライブやって、今日はどこどこで…って、もう一ヶ月酔いぐらいの勢いで酔っぱらってて、それで人気だけが独り歩きして、「ユウ・ザ・ロックみたいになりてえ」とか言われても、俺はそんなに金持ってないし、自分の彼女食べさせるのも犬かわいがるのも大変だよっていう状況で。

 いや、やっとレコード会社と今年から2年契約したから、金の心配はいらなくなったんだけど、そういうことじゃなくて、自分が自分でなかったというか。

 ステージで「自分を持て。自分を信じろ」って言ってる俺に自信がなくて、ユウ・ザ・ロックを演じてしまったというか…そんなこと言ったら、カッコ悪いと思うけど、そうしないと俺が前に進めなかった」。

 と当時の混乱ぶりを語っている。

 また同年には、インタビュー中にもあったレコード会社・カッティングエッジと契約し、「サウンドトラック96」をリリースしている。

■まとめ

 ・・・ここまで読んでくれた人は、これからの彼には明るい未来が待っていると思うだろう。

 筆者もそう思った。そして彼のメジャーへの出現を心から待った。

 だが、いつまで経っても彼の曲は売れなかった。

 98年には原点回帰とも言える、親父の前で泣きながらやったラップ近田春男の「HOO! Ei! HO!」をカバーするなど、様々な活動をした。

 その後も4枚のアルバムをリリースした。名曲もたくさん生み出した。それでもやはりCDはヒットしなかった。

 日本語ラップを聴いて欲しくて、声の限りに叫ぶ。それでも聞いてもらえない。「なんでだよ!!聴け!」。それが彼のモチベーションだった。しかし、ヒットはしなくても作品はリリースできたし、それなりに聴いてくれる人も増えた。

 もはや彼の原動力だった、「理解してもらえないことへの苛立ち」は失われてしまった。

 それはその時期に行われた「正直今ヒップホップ聞けないんだよね。ループが入ったやつとか」「ラップが好きだったにも関わらず、もう大嫌いですね」という発言からもよく分かると思う。

 そして、気が付くと、さんピンCAMPから7年の月日が経過した。

 いつしか彼は「昔は格好良かった人」という括りで語られる過去の存在となってしまった。さらにそれはテレビでゴキゲンなキャラを演じることで拍車がかかった。

 しかし、昨年(03年)の11月に芝浦工大の文化祭で見たユウはヒップホップの楽しさを学生に説き、そしてステージを降りて一緒にダンスを踊っていた。かつての「ヒップホップの伝道者」としての姿がそこにはあった。

 そして今年、ずっと日本語ラップの中心的な存在であり続けながら、アルバムのなかった「雷」がアルバム「330」をリリース。彼も一員として、久々にハードコアな一面を披露。その存在を知らしめた。

 ただ気になるのは、相変わらず知名度のわりに作品が売れないことである。「俺はサクセスした」と発言する彼だが、彼にとっての成功とはこの程度なのだろうか。

 確かに長野から15歳で上京し、CDも出し、人気者になった。しかし、肝心のラッパーとしての揺るがない地位。日本中をヒップホップで満たすほどの活躍はできてない。

 「俺を信じている人が何人もいるんだ 前向きなポジティブを応援してくれる それを受け止めて 俺が熱く返す」(バックシティブルースより)

 かつてそんなラップしていたユウザロック。彼はもう返し終えたのだろうか。

 私はまだ彼を信じ、応援している。いつの日か、それを熱く返してくれる日を信じながら。
 

(了)

参考資料『ミュージックマガジン』98年3月号、『switch』97年3月号、『別冊週間実話』01年7月2日、『音楽と人』02年7月号、『Quick Japan』97年8月号


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