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■人殺しとホストとヤクザ以外は全てやったね
上京した彼は早速、以前から行ってみたかったディスコに向かう。
「クラブには入れてもらえなかった。まだ15だったし、そんな金も無かったし。芝浦インスティクの川っぷちの倉庫の壁に耳はりつけて聴いてたんだよ、入れないから。それでスケボーで芝浦から恵比寿まで帰るとか。満足にライブを見たことなんか、一度もないよ。でもヒップホップは、常に頭の中で鳴っていたよ」
ヒップホップへの純粋な愛とハングリーさが伝わるエピソードである。
それにしても家出した15歳の少年は一体どうやって東京で生活していたのだろうか?
プロフィールでは上京後、タイニーパンクスに弟子入り、となっているが詳細は不明。
だが、いくら弟子入りしても金は自分で稼がなくてはならない。
「人殺しとホストとヤクザ以外は全てやったね」。
彼はその間の生活をこう語っている。もう少し具体的にいうと、クラブの店員からポーカー屋、平和島の埋め立て、歌舞伎町ビジネス全般。そしてホモビデオの面接に行ったり、2丁目で働いたこともあるという。「でも俺、カマほられてないよ」という一言にちょっと一安心だが、それにしても壮絶である。
彼のバイト時代の話はまだまだ続く。
薬の販売前に安全性をテストする、いわゆる「人間モルモット」の臨床実験も彼は経験している。しかも1週間で30万円。私の知っているのは1週間で12万だから、相当にリスクが高い実験を受けていたことになる。
そして、19歳でDJバーに入社。そこで最初にコンビを組むことになるDJBEN THE ACEと出会う。
当時の彼の住居は恵比寿だった。でも金がないから当然、風呂無し。仕方なく彼はDJバーの洗い場のシンクで体を洗っていた。その頃は、「いつになったら足を伸ばせるんだろうってずっと思い描いてた」という。
当時は5つの仕事を掛け持ちしていた。昼間は下北沢の中古レコード屋で働き、夜はDJバーで朝まで。そのまま寝てウエンディーズへ。夕方から東京中央郵便局で仕分け作業。そんな生活を続けた。そして入った金はレコードにつぎ込み続けた。
さらに「喉から血が出るくらい練習して、ラップコンテストにもでまくっていた」時期でもあった。
■CDデビュー
そうした努力の結果、次第にコンピレーション盤や外タレの前座などもこなし、いよいよ盟友・DJBEN THE ACEと共に92年に『ネバァー・ダイ』、そして93年にコロンビアより『THGHT BUT FAT』でメジャーデビューを果たす。
しかし、同時期に著作権法が変わり、なぜかこのアルバムがやり玉にあがった。結局、半年で回収となり、会社との契約も解除される。
それでもヒップホップを続けたかった彼は、この時にニューヨークに行っている。
そこでユウザロックは生のヒップホップを体験した。彼が行った時代というのは、アメリカで生まれたヒップホップがどんどんメジャーになり、人々の生活に浸透し始めた、最も熱気に溢れていた時期だった。ラジオからは常にヒップホップが流れ、人々の日常にはヒップホップが溢れていた。
そこで再び熱いエネルギーもらったユウは、日本語ラップ冬の時代と言われる中で活発に動き始める。
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