vol.1 楽しかったムーミンの制作現場
‐‐‐‐まず、大塚さんはどういういきさつでムーミンに出会いましたか?
大塚 僕は東京ムービーで『ルパン三世』をやるということで、説得されて東京ムービーに移って来たんです。そしたら、先に『ムーミン』って企画あるんだけどって、ルパンの準備で一緒だったおおすみさんを紹介されて。
いまムーミンブームが再燃で、原作者のトーべ・ヤンソンが一番はじめの私たちがつくったアニメのムーミンは認めないって言ってると噂されていますが、僕自身は原作のキャラクターを変えたっていうつもりはなかったんですが・・・。
今、インターネット見ると、原作と似てるか似てないかが基準になる。昔はおおらかな時代だったから今とは違うんですね。
‐‐‐‐おおすみさんは?
おおすみ 当時、僕は人形劇をやっていたので、ムーミンの原作は知っていました。山室静さんの翻訳が良くてね、特に「ロンリーマウンテン」を「おさびし山」と訳すセンスは大好きでした。でも、内容は静的すぎて劇化にはとても無理と思っていました。
それが、アニメ化の話があり、代理店に呼ばれて出席した企画会議は、おどろくべきものでした。『ムーミンにいつも空気入れを背負わせて、何かあるとムーミンはぺったんこになる。ペラペラの紙になって、空気を入れると元に戻る。いいアイディアでしょ?』とか、当時、子供たちには新幹線ブームだったんですけど『新幹線をムーミン谷に通したらどうでしょう?』とかね。もうムチャクチャ(笑)。おそらく原作も読まず、キャラクタービジネスだけが念頭にある人たちだったのでしょう。ただでさえアニメ化しにくい原作なのに。
すっかり意気消沈して、もう辞めよう決意し、会社に戻ったら大塚さんが作画監督に決まっていた。
‐‐‐‐そこで大塚さんと組むことに?
おおすみ 「いえ、劇団もルパンの準備でしばらく留守にしていたし、ルパン三世が再開するまで、しばらく休ませて欲しいと、藤岡プロデューサ(注:1)を説得し、僕が席を立って帰りかけたら、大塚さんが『おおすみさんちょっと待って、これを見て』って。紙をちぎりはじめて、何枚かに続けてさらさらと絵を描きはじめた。すると、ムーミンがぐにゃぐにゃと動いたんです。
それまで、絵を描いて説明する人はいたけど、その場で、「動き」を描いてみせるアニメーターは初めてでした。大塚さんの似顔絵がぐにゃぐにゃっとムーミンに変形いくという、ただそれだけの動きですが、それが良くてね、この人とならムーミンをやれるかも、という気になったんです。
僅か数枚の紙切れの絵が、私の人生を大きく変えてしまった(笑)大塚マジックにかかってしまったんです。
大塚 一寸誇張が入っていますが(笑)現場も楽しかったですよね。
おおすみ 楽しかったなぁ。ムーミンはアニメとして前例の無いジャンルを作る作業だったんだけど、現場にはそういった緊張感を忘れさせてくれる開放感と楽しさがあった。コンセプトと同時平行でビジュアルを作っていったというのは、あの現場だけですよ。大塚さんとの共同作業で、ムーミンのビジュアルイメージは、どんどん広がった。たとえば、『このやり方は舞台では成功したが、アニメでは無理かな?』と迷ったものも、大塚さんの手でさらさらーっと描かれると、『出来る!』と確信する。そんなキャッチボールができたんです」
大塚さんや 芝山努さん、小林治さん、そういった作画の人と非常に近い距離で一緒に仕事をしたという実感が、濃厚に残っていますね。ムーミンには。
‐‐‐‐コンテンツに関しても順調でしたか?
おおすみ 『空気入れ』や『新幹線』は、さすがに影を潜めましたが(笑)、話がストイックすぎるという代理店のクレームはありましたね。でも公開されると、予想以上に好評な反響があって、特にスポンサーのカルピスが大変気に入ってくれて、それに押されたように、強いクレームは引いていきました。
大塚 ほんと、好評だったですね。
注:1 藤岡プロデューサ・・・故藤岡豊さん。東京ムービーの創設者。日本のアニメ界への功労は高く評価されている (wikipedia)
大塚康生さん 略歴
1931年島根県生まれ
東映動画アニメーター第一期生。日本におけるアニメの創生期から第一線で活躍。
宮崎駿さん、高畑勲さんの先生であり、まさに日本の近代アニメーションにおける礎。アニメーターの父と云うべき人物。
元麻薬Gメンという異色の経歴を持ち、軍用車両に造詣が深く、ジープマニアとしても有名。
現在は一線を離れ、スタジオジブリや東映アニメーション研究所などで後進の指導にあたっている。
日本アニメーター・演出協会 (JAniCA) 会員。
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