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50-浅草から映画館がなくなる日

.26 2012 MOVIE comment(0) trackback(0)
 かつて浅草はわが国のキネマ、オペラの発祥の地であった。全盛期には六区の映画街に大小30館近い映画館や劇場、演芸場が軒を連ねていた。私が子供の頃、昭和30年代でも大勝館、松竹座、常磐座、ロキシー、東京クラブ、電気館、千代田館、日本館などの映画館に、フランス座、カジノ座、東洋劇場、松竹演芸場、花月劇場などストリップや軽演劇の実演館も併せれば、まだ17、8館はあった。
 それが、2012年10月21日を最後に、現在浅草には映画館が一館もなくなってしまったのである。聞くところによると、大勝館のあった場所は中映ボウルが廃業してから長いこと鉄の塀に囲まれた廃墟だったが、今度はドンキホーテに成るんだとさ。

 私の実家は六区映画街と連なる寿司屋通りにあり、私はそこで約37年間暮らしていた。その間、毎日のように映画館の連なるこの通りを歩いていたし、向島に住む今も、週に一度は歩いている。
 台東区立上野中学校(台東区桜木)に通っていた3年間は寿司屋通りの自宅から、六区の映画街を通り、ひさご通りを抜け、言問通りを右に折れた千束2丁目のバス停(トロリーバス:路線51番/上野公園〜今井間)まで、毎日歩いていた。映画街が通学路なのだから、今どこの映画館で、何の映画をやっているのかは、いやでもわかることになる。
 人通りの少ない夏の朝などは気持ちが良いが、冬はだだっ広い通りを北に向かって歩いて行くので、北風をまともに受けてかなり寒かった。
 ひさご通りという名も、当時はどういう意味かわからなかった。「ひさご」が瓢箪のことで、以前あったひょうたん池に因んだ名前だったことを知ったのは、ずっと後になってからである。
 その後は、ちょうど二十歳頃から競馬をやるようになり、土日は浅草の場外まで同じコースを歩くようになった。昭和40年代の半ば頃までは、まだ浅草場外馬券売場は今の場所にはなく、花屋敷の裏手辺りにあった。今の場外(WINS浅草っていうんだったな)のところは、かつてひょうたん池があった場所である。
 記憶にはないが、生まれたばかりの私を乳母車に乗せ、池を一回りして帰って来るのが祖父の日課だったと、母から聞いたことがある。祖父忠蔵が亡くなったのは昭和25年(1950)4月11日だから、その頃までひょうたん池はあったことになる。
 その後、周辺の土地も含めて池を売却した地主浅草寺は、それを戦災で焼けた本堂再建の費用に充てた。やがて、ひょうたん池は埋め立てられ、新たな持ち主である「楽天地」は、南半分を「楽天地遊園地」に、北半分には「新世界」という商業雑居ビルを建てた。いわば、ひょうたん池は観音様という「お家」のために、身売りされた娘のようなものであった。
「新世界」の完成は昭和34年(1959)のことで、三島由紀夫の短編小説「百万円煎餅」(昭和36年新潮社刊 小説集『スタア』に初収)はこの「新世界」が舞台になっている。

新世界1
夜の浅草「新世界」。手前は隣接していた「楽天地遊園地」。1960年頃の撮影か

 こうして若い夫婦は、裏手からぶらぶらと新世界のビルに近づき、屋上の五重塔のネオンを見上げた。
 梅雨どきの曇ったむし暑い晩だった。雲が低く閉ざしているので、ネオンの照りがあたりの空に濃密ににじんでいた。
 その明滅している彩光の、淡い色ばかりで組み立てられた繊細な五重塔は、実に美しかった。ときどき部分部分の明滅が全体に及んで、一瞬そこが闇になると、その闇に残る彩光の残像が消えるか消えないかに、またパッとあらわれ出るときの美しさは格別である。浅草六区一帯のどこからも眺められるこれが、埋め立てられた瓢箪池のかわりに、夜は六区の目じるしになった。
 誰の手も届かない飛切りの生活の夢が、そこに純潔に蔵われているような感じがして、二人は駐車場の柵によりかかって、しばらくぼんやりと空を仰いでいた。
 (「百万円煎餅」三島由紀夫著『花ざかりの森・憂国』新潮文庫)

新世界2
当時の「新世界」館内案内図。「百万円煎餅」に登場する「海底20,000マイル」は4階ではなく5階にある

 若い夫婦は待ち合わせ場所の「新世界」に入り、1階の土産物・玩具売場をひやかし、3枚50円の「百万円煎餅」を買う。それは「長方形の瓦煎餅は、思い切り大きな紙幣の形をしていて、本物の紙幣を模した焼判に、百万円の表記がしてあった。そして紙幣に似せた印刷の紙に、聖徳太子の代わりに禿頭の店主の顔を入れたのが、セロファンで包まれた三枚の瓦煎餅の表を覆うていた。」という代物である。
 その後、二人は4階の室内遊園地(実際は5階)もひやかす。
「そこはたまたま「海底二万哩」という見世物の入口で、おどろな岩組が天井にまで及び、海底の岩盤にとまった潜水艦の丸窓が、切符売場になっていた。大人四十円、小人二十円と書いてある。」
 それから、二人は館内案内図のマジックランドとプレイランドの右に描かれたテラス(ここには10円を入れて眺める望遠鏡と小さな雷魚釣りの水槽があった)で夕涼みをしてから、午後9時に3階(実際は2階)の音楽喫茶で、待ち合わせていた「おばさん」と落ち合う。この若い夫婦は「おばさん」の手引きで「中野の方で開かれる、山の手の奥様たちのクラス会」のための「余興」に呼ばれているのである。
 物語の最後の方で、彼らの生業がようやくわかる。彼らはお座敷や旅館、あるいは今回のようなお屋敷などに秘密裏に呼ばれて、当時でいう「白黒ショー」、すなわち「本番」を見せて、金を稼いでいるのである。「おばさん」とは親戚でもなんでもなく、その方でいうところの「やり手婆」なのである。
 ひと仕事終えて、二人は山の手からまた浅草に帰って来る。

 深夜に健造と清子は、おばさんと別れて浅草にかえってきた。六区を抜けてゆくと、絵看板が曇った夜空の下に毒々しい色を黒く沈めていた。常になくひどく疲れていたので、健造の下駄の音は舗道を引きずるようにきこえた。
 二人はふと同時に新世界ビルの頂上を仰いだ。五重塔のネオンはすでに消えていた。
「ちぇっ、いやなお客だ。あんな気障なお客ってはじめてだ」
 清子はうつむいて歩いたまま答えなかった。
「え? おい。気取ったいやな婆アばっかりだったな」
「うん。でも仕方がないわ。……お祝儀うんと貰ったもの」
「奴ら、亭主からくすねた金で遊び放題やってるんだ。金が出来ても、あんな女になるなよ」
「ばかね」
 清子は闇のなかにひどく白い笑顔を見せた。


 この後、二人は今夜の稼ぎ高を確認する。健造がその札束を「ビリビリ破いてやったら、胸がスッとするんだが」と言うと、清子がハンドバッグから残っていた最後の「百万円煎餅」を取り出し、「代わりにこれでも破きなさいよ」と言って差し出す。しかし、大きな札型の煎餅は梅雨時のため、すっかり湿気てしまっていて、健造が引きちぎろうとしても、柔らかくくねるだけで全然破れない、というところで物語は終わっている。
 王朝や貴族の社会を舞台にした小説を多く描いた三島由紀夫にしては、この「百万円煎餅」は下町浅草を舞台に、社会の底辺でひっそりと暮らす若い夫婦を主人公にしている点で、異色と言ってもいい作品である。三島は文庫版巻末の自作解説で、次のように述べている。

 私には全く知的操作のみにたよるコント形式への嗜好もあった。そこでは作品自体に主題らしい主題さえなく、一定の効果へ向かって引きしぼられた弓のような、すみずみまで緊張が保たれて、それが読者の脳裏に射放たれたて、的中すれば「おなぐさみ」というようなものである。それは又、チェスの選手が味わうような知的緊張の一局を構成すれば足りるのだ。

 そして、この「百万円煎餅」は、「そういう意図を以て書かれたコントの中から、比較的出来のよいものを選んだ」うちの一作であるとしている。
 川本三郎の『銀幕の東京』にも、「浅草」の章で「新世界」のことが書かれていて、やはり「百万円煎餅」が紹介されている。

 この六区には昭和三十四年に、瓢箪池を埋め立てたあとに新世界が出来た。八階建ての〝大衆娯楽のデパート〟で、名店街、食堂、大温泉浴場、劇場などが入っていた。屋上には浅草寺の五重塔を模した塔があり、夜になるとネオンで浮き上がり、浅草名物となった。ライトアップのはしりである。昭和三十六年の石井輝男監督の「セクシー地帯」では、吉田輝男がコールガールの池内淳子と夜の浅草を歩くときに、夜空に浮き上がる新世界の五重塔が見えている。浅草っ子に親しまれていたが、東京オリンピックのころに姿を消し、中央競馬会の馬券売り場に変わった。三島由紀夫の短編「百万円煎餅」(昭和三十五年)は、この新世界が舞台になっている。(川本三郎著『銀幕の東京』中公新書)

『セクシー地帯』は観たことがないが、先日、日本映画専門チャンネルでやっていた『ひとりぼっちの二人だが』(昭和37年日活作品 監督:舛田利雄 出演:高橋英樹、吉永小百合、浜田光夫、坂本九、渡辺トモコ他 主題歌:「ひとりぼっちの二人だが」by 坂本九)も、当時の浅草が舞台となっており、やはり「新世界」が頻繁に登場する。
 九ちゃんが六区のストリップ劇場(この10月に廃業したピンク映画専門館浅草シネマのところにあった浅草劇場か?)の下働き、「新世界」裏に組事務所があるチンピラやくざに浜田光夫、水上バスで働きながら新人王を目指すボクサーが高橋英樹、その妹役の吉永小百合は九ちゃんと浜田光夫の小学校の同級生、兄妹の従姉妹である渡辺トモコの実家は柳橋の置屋という設定で、ロケは全て浅草。六区の映画街、観音様、伝法院通り、隅田公園、水上バスなどなど、どこもかしこも私には懐かしい風景ばかりで、特に閉園した夜の「花屋敷」でのラストシーンは泣かせる。 
 ところで、この川本三郎の文には一箇所だけ間違いがあって、以前から気になっていた。
 それは「新世界」が「東京オリンピックのころに姿を消し」という箇所だ。東京オリンピックの開催は昭和39年(1964)だから、そうなると「新世界」は開業からわずか5年ほどで姿を消したことになってしまうが、そんなはずはない。
 私が寿司屋通りで玩具店を開業したのが昭和47年(1972)だが、その頃、店に来ていた近所の子供たち、ショージ、ヤスシ、マッコ、ユージ、ターボーらを連れて、「新世界」5階のプレイランドへよく遊びに行っていたからだ。
 昭和48年(1973)暮れにストロングエイト=ニットウチドリ 枠連2-8で決まった有馬記念の万馬券を当て、喜び勇んで換金しに行った時には、浅草場外はまだ花屋敷の裏辺りにあったから、少なくともその頃まで「新世界」は存続していたはずである。
 それより前、私が高校1年か2年の頃だから、昭和40~41年(1965~6)だったろうか、「新世界」の地下に「中川三郎ディスコテック」が出来た。中川三郎はその頃有名なダンサー・振り付け師だったが、実業家としてもなかなかのやり手だったようで、当時、新宿、渋谷、池袋、恵比寿、横浜馬車道、伊勢佐木町、熱海など、各地で「ディスコテック」をチェーン展開しており、それがついに浅草にも進出してきたのであった。
 ある日、そこにフィリピン・バンドの「デ・スーナーズ」が出るという貼紙を見つけた。デ・スーナーズは当時、本格的なサイケデリック・サウンドを奏でるロックバンドとして、一部グループサウンズなどのプロからも注目を集めていた通なバンドだった。しかし、そこは浅草の不良の溜まり場で、ちょいと洒落た格好をして行こうものなら、たちどころに「カツアゲ」されてしまうという噂だった。しかし、どうしてもスーナーズが演奏する『紫の煙』が生で聴きたい! 私は友人と二人で、浅草の家で地味な格好に着替え、財布から必要な分だけのお金をポケットに入れ、腕時計を外して、「新世界」の正面左側にあった地下への階段に突入したのだった。しかし、恐れていたようなことは何もなく、われわれはコーラを飲みながらスーナーズを聴いて、無事家に帰る着くことができたのであった。
 川本三郎は「新世界」が「浅草っ子に親しまれていた」と書いているが、正直なところ、出来た時から地元のわれわれは子供心に田舎臭くて、垢抜けしない、お上りさんの観光コースだと思っていた。「中川三郎ディスコテック」体験は別として、少年時代にそんなに行った記憶はない。「新世界」の「キッチュな面白さ」に気づいたのは、もっと大人に成ってからである。しかし、その頃にはもうなくなっていたからこそ、今頃になって懐かしく感じるのかもしれない。

ひとりぼっち2
映画『ひとりぼっちの二人だが』浅草「花屋敷」ロケでの吉永小百合と坂本九。ジェットコースターの高架線をバックに二人が見上げているのは、映画『夢見るように眠りたい』や『異人たちとの夏』にも登場し、今も健在な花屋敷名物「人工衛星」。

ひとりぼっち1
映画『ひとりぼっちの二人だが』DVDジャケット

 なくなってしまった浅草の映画館についての想い出を書こうと思っていたが、「新世界」で大分道草を食ってしまった。まあ、「新世界」も同じ映画街にあって、今はなくなってしまったものということで、お許し願うとして、それでは、一館ずつ思い出していくとしようか。

 「ロキシー」「常磐座」「東京クラブ」の三館は、昔は共通の「テケツ」を買うと、時間をずらしてどの館の映画も観ることが出来るようにと、三つの建物が繋がっていた。もっとも、それは戦前の話のようで、私は連絡通路を渡り歩いた記憶はない。調べてみると、三館が繋がった建物になったのは、関東大震災後の昭和6年(1931)とのこと。外から見ると通路は残っていたが、閉鎖されていて、使われてはいなかった。
 この三館は家から近かったこともあって、よく入っていたので私には特に懐かしい。

 ロキシーは母の娘時代には「金龍館」と言っていたらしく、母は亡くなるまでその名で呼んでいた。戦後、ロキシーと名を改めてからは主に洋画を上映していたが、昭和58年(1983)に向かい側にあった「浅草松竹」と「松竹演芸場」が取り壊され、ROXビルが建ってからは、二代目浅草松竹と名を改め松竹系の浅草における封切館になった。
 上の写真はその浅草松竹時代のもので、下がそれ以前のロキシー時代のものである。
 大きな看板が見える『キネマの天地』は、昭和61年(1986)に松竹大船撮影所50周年記念作品として製作された。監督:山田洋次 脚本:山田洋次、井上ひさし、山田太一、朝間義隆、製作:野村芳太郎、製作総指揮:奥山融、出演:渥美清、中井貴一、有森也実、倍賞千恵子、松坂慶子、笠智衆 他 特別出演:九代目松本幸四郎、藤山寛美、山本晋也、ハナ肇、桃井かおり 他という、松竹が社運をかけた超豪華なスタッフであったが、興行的にはあまりパッとしなかった。したがって、この年に限って毎夏に公開されていた「男はつらいよ」シリーズは製作されていない。
 ロキシー時代に『ビートルズがやって来る!ヤア!ヤア!ヤア!』“A Hard Day's Night” がかかったのは、1964年の暮れだったと思う。その年の夏、銀座みゆき座のロードショーで観てはいたが、地元で観られるとなれば、当然また行くことになる。ましてや、今回は入れ替え無しである。冬休みだったから、朝一番で弁当を持って入って、最終まで観ていられた。確か、3回目には親父のカメラ(コンタックス)を持って行って、スクリーンを撮影した記憶がある。
 翌1965年の暮れに、デイヴ・クラーク・ファイヴ主演の『五人の週末』“Wild Weekend” と、イギリス・バンド大集合のオムニバス映画『ポップ・ギア』“Pop Gear” の二本立てを観たのもロキシーだった。
 ロキシーは音楽映画を上映することが多かったのだろうか。レイ・チャールズがレイレッツを従え、 盲目の少年のために “What'd I Say ” や “ Unchain My Heart” などのヒット曲を歌いまくる『星空のバラード』“Ballad in Blue”(1964年)もここで観た。私が初めて黒人音楽の素晴らしさに目覚めたのは、この作品がきっかけだった。

日本館1
寿司屋通り側から見た六区映画街。パトカーの右が新仲見世入口、その先が浅草松竹。左手前は日本館。(1986年夏撮影)

ROXY
ROXYのネオンサインが建物とマッチしていてカッコいい。上映中の『クラッシャージョウ』は日本のSFアニメ(1983年3月撮影)

 真ん中の常磐座では、閉館になってから1年後の1985年秋、一時的に開館して劇団「第七病棟」が行なった『ビニールの城』(作:唐十郎、演出:石橋蓮司、主演:緑魔子)の公演をお手伝いしたことが思い出される。
 閉館して間もなく、「第七病棟」の制作の方から、常磐座が使えないだろうかという相談を受けた。「第七病棟」といえば、廃墟になった建物などを利用して公演を行なうことで知られている。廃校になった浅草橋駅裏の「福井中学校」校舎や、今はギャラリーとなっている廃業した谷中の銭湯「柏湯」で行った公演など、どれも素晴らしいものだった。
 当時、私は浅草で芝居をやりたいという劇団のために、その場所を探したり、近所の商店からチラシの広告を集めたりといった、制作のお手伝いをしていた。稲村劇場での劇団「はみだし劇場」(座長:外波山文明)の公演を皮切りに、キャバレー・モアナ跡を「電飾劇場」と銘打って行なった劇団「碧亭」(座長:田中正志)の公演、さらに菩提寺である墨田区多聞寺の住職のご好意で、境内にテントを張って行なった劇団「黄金劇場」(座長:島龍弘)公演などだが、そんな噂を聞きつけた「第七病棟」の制作の方が私に連絡して来たのであった。
 彼らの依頼を受けた私は、早速、向かいの蕎麦屋「十和田」の女将で「浅草おかみさん会」会長の富永照子さんを拝み倒して、松竹のお偉いさんと掛け合ってもらい、ようやく閉館中の常磐座を借りることが出来た。
 後は、近所の若い衆を総動員して廃墟となった館内を大掃除し、電力会社に頼んで仮設の動力電源を引いてもらったりした。確か「防火管理者」の免許を持っていた私が臨時の防火責任者となって、消防への届けも出したのではなかったか。
 唐十郎作『ビニールの城』の脚本では、舞台の設定が「浅草カミヤバー」という酒場となっていた。そこで今度は制作の方から電気ブランを酒場のカウンターやテーブルにたくさん並べたいのだが、どうにかならないでしょうか、という相談を受けた。当時、私は寿司屋通りでバーをやっていたから、電気ブランの空瓶の二、三本ならどうにかなったが、彼らの要求はそんなもんではなかった。そこで私は本当の「神谷バー」の神谷信弥社長に電話して訳を話し、電気ブランの空瓶を大量にお借りしたい旨を伝えた。「うちの宣伝にもなるから」と言って神谷さんは快諾してくれ、翌朝、電気ブランの空瓶をたくさん積んだ合同酒精のトラックが常磐座前に横づけされたのであった。
 そんなご近所の皆さんの手助けもあって、『ビニールの城』の公演は大好評を博し、その年行われた演劇の中でも最高の評価を受けたのであった。

第七病棟
劇団「第七病棟」第5回公演『ビニールの城』の紹介記事(シティロード1985年10月号)

 三館のうち、一番最後まで営業していた東京クラブは、裏側から見ると芋虫のような格好をした建物の外観が面白かった。上映していた作品はアクション物、戦争物、西部劇といった洋画の3本立てだった。そんな男性路線一本やりだったせいか、1階は問題なかったが、2階、3階はホモの人たちが集う「発展場」と化していた。
 ドン・シーゲル監督の『マンハッタン無宿』『ラスト・シューティスト』、サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』『ガルシアの首』『ビリー・ザ・キッド』、ウォルター・ヒル監督の『ザ・ドライバー』『ロング・ライダース』『48時間』などは、みんなこの東京クラブの1階で観た。
 平成3年(1991)に閉館する間際、マーチン・スコセッシ監督とロバート・デニーロが初コンビを組んだ『ミーン・ストリート』(1972年作品)がかかり、大好きなその作品を1階で観たのが東京クラブに入った最後だった。その年11月に78年間の歴史に幕を下ろした東京クラブは、閉鎖・解体され、現在はROX3となっている。

東京クラブ1
東京クラブ外観正面側。これを見ると4階建てだったことがわかる

東京クラブ2
東京クラブ外観裏側。モスラの幼虫みたい!

 寿司屋通りを出てすぐの左側にあった「日本館」は、かつては浅草初のオペラの常設館だったというが、私が幼い頃には松竹映画の二番館(前回の封切作品を廉価で上映する館)だった。1970年以降は松竹系のピンク映画を製作していた東活の作品や、日活ロマンポルノを専門に上映する「成人映画専門館」になってしまった。
 家から20mくらいしか離れていない一番近い映画館ではあったが、色気づいてくる齢になっても、さすがにご近所の眼もあって入ることはなかった。
 ただ、なんというタイトルだったか忘れてしまったが、確か1975年頃、関西のフォークシンガー「ダッチャ」が俳優として出演し、主題歌も彼の名曲『26号線』が使われているロマンポルノ作品が日本館で上映されていて、意を決して土曜日のオールナイト興行を友人の玄内裕通君と二人で観に行ったことがあった。日本館に入ったのは後にも先にもその時一回きりである。

日本館2
日本館脇の看板前にて(1980年夏撮影)

日本館3
日本館正月興行の看板。(1981年1月撮影)

 六区映画街のちょうど真ん中辺り、交番の真向かいにあった「大勝館」は大きな立派な建物だった。今、取り壊されようとしている「中身」は多分その建物で、外側をスチールの外装材で覆い「中映ボウル」として営業していたのではなかろうか。もしそうだとしたら、外壁を取り外した状態を是非撮影しておきたいものだ。
 今回調べてみて、その館名がオーナー大瀧勝三郎氏に因んだものであることを知った。私はてっきり当時の軍国主義を反映した館名だと思っていた。
 私には大勝館は洋画の封切館としてのイメージが強い。後は地下にストリップ劇場の「カジノ座」があったことをかすかに記憶している。
『史上最大の作戦』とか『サウンド・オブ・ミュージック』などは多分ここで観たのだと思う。
 一番はっきりと記憶しているのは、イブ・シャンピ監督(フランスの映画監督。監督作品『忘れ得ぬ慕情』で主演した日本人女優岸恵子と結婚)のフランス映画『頭上の脅威』(1964年公開)というSF映画を父と観に行ったことだ。フランス海軍の航空母艦が謎の飛行物体と遭遇するといった内容ではなかったかと思う。今観ればどうかわからないが、中学生にはあまり面白いとは思えなかった。
 昭和46年(1976)に閉館され、浅草中映ボウルになってからは、月に1回浅草の仲間とボーリン大会をここでやっていたが、それも昭和56年(1986)に廃業してからは、ずいぶん長い間鉄の塀に覆われた廃墟であった。
 平成13〜19年(2001〜7)の6年間は浅草「ロック座」の斎藤智恵子オーナーが借り受けて、大衆演劇の興行を打っていたし、中で食堂も営業していた。
 そして、ついにこのほど取り壊しが決まり、商業ビルが建ち、中に「ドンキホーテ」が入ると聞いている。

大勝館
六区映画街の総天然色絵はがき。正面が大勝館、左側手前が富士館。おそらく電気館の軒下から撮影したものだろう。年代不詳

中映ボウル
大衆演劇の興行を行なっていた2001〜7年頃の大勝館

大勝館3
すでに解体工事が終わり、基礎工事が始まった大勝館跡地(2012年12月1日撮影)

大勝館4
工事現場に貼られた「建設計画のお知らせ」完成は来年11月の予定(2012年12月1日撮影)

 上の絵はがきにある「富士館」は、後に「浅草日活」になってから何度か行ったことがある。
 私が小学生の頃、家に千代ちゃんと俊ちゃんという二人のお手伝いさんがいた。彼女たちは石原裕次郎と小林旭の大ファンで、私は二人に連れられて「タフガイ」と「マイトガイ」のアクション映画を何本か観ている。
 中でも一番記憶にあるのは、小林旭が福島県会津磐梯山の牧場を舞台に大活躍する『赤い夕日の渡り鳥』(1960年7月公開)である。映画を観る前年の夏休みに、父の故郷である福島県相馬から父の運転する車で、映画の舞台となっている磐梯吾妻スカイラインを走り、猪苗代湖で泳いだばかりだったからだろう。小林旭が温泉町のキャバレー(例によってダンサーの白木マリが踊っている)で、マンボのリズムに乗って歌う『アキラの会津磐梯山』は強烈な印象であった。
 浅草日活が昭和48年(1973)に閉館してからは「キャバレー新世界」となった。多分、前後して閉館となった「新世界」にあったキャバレーがここに移って来たのではないかと思うが、それも10年くらいで廃業し、しばらくは廃墟になっていた。
 もう時効だろうから白状するが、その頃、浅草の友人たちと何度か忍び込んだりした。場所が六区交番の斜め前なのだから、良い度胸していたとしか思えない。
 その時の写真が下の2枚である。上はカメラをどこかに置いてセルフタイマーで撮影したため、フレームが斜めになっている。「S」の字が書いてあるのは「ハコバン」の譜面台。ステージが高いのは、映画館時代の名残だろうか。埃の溜まった床の足跡が廃墟となってからの長い時間を物語っている。

キャバレー新世界1

キャバレー新世界2
廃墟となったキャバレー新世界店内。(1985年頃撮影)

パンドラ
パチンコ・スロット「パンドラ」(2012年12月1日撮影)

 浅草日活(富士館)のあったところは現在、パチンコ・スロットの「パンドラ」という遊技場になっているが、その真向かい、つまり東京クラブの隣には「電気館」と「千代田館」が並んでいた。
 電気館は明治36年(1903)にわが国で初めての映画の常設館となった劇場で、大正12年(1923)には新宿武蔵野館と共に、日本で初の「トーキー映画」の興行も行なわれたという歴史ある映画館であった。
 私の子供の頃は、電気館は大映の封切館だった。
 市川雷蔵がご贔屓だった祖母に連れられて、「眠り狂四郎」「中野学校」「忍びの者」シリーズなどを何本か観ているが、雷蔵の作品は妙に色っぽいシーンがあって、お互いにばつの悪い思いをした覚えがある。
 映画を見終わると、祖母はいつも伝法院通りの「ジロー」のハンバーガー、あるいは区役所通り(現・オレンジ通り)の「ミカワヤ」でカツサンドをごちそうしてくれた。どちらの店にもホワイトシチューがあって、これも美味しかった。いずれも捨てがたく、いつも「どっちにする」と言われて、さんざん迷ったものだった。残念ながら両店とも今はもうない。

 千代田館についてはあまり記憶がはっきりしないのだが、やはり祖母と一緒に嵐寛寿郎が明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』(1957年公開)をここで観たはずだから、新東宝の専属館だったのではなかろうか。子供だったので日本海海戦のシーンしか憶えていないが、この作品は日本初のシネマスコープ大画面の映画で、昭和32年(1957)の昭和天皇の誕生日4月29日に封切られ、観客動員数2000万人を超える空前の大ヒットを記録した。当時の「日本人の五人に一人は観た」というこの記録は、2001年公開の『千と千尋の神隠し』に破られるまで、44年間一位の座を守り続けた。
 私が中学校の頃は大蔵映画のピンク映画を専門にやっていて、ガラスに覆われたショーウィンドウのスチール写真を横目に見ながら通学していた。今にして思えば、館自体も小さく、何となく影が薄い感じの映画館だった。
 後に二館一緒に取り壊されて更地になり、1970年代にはそこに「蚤の市」が常設されていた。現在、その跡地には「電気館ビル」が建ち、1階は商業施設「電気館フードコート」、上階は有料老人養護施設となっている。「電気館」の名はビル名として残ったが、やはり影が薄いのか、「千代田館」の名はどこにもない。

電気館
在りし日の電気館。上映中の『座頭市果し状』(監督:安田公義、出演:勝新太郎、野川由美子、待田京介、志村喬)と『闇を裂く一発』(監督:村野鐵太郎、脚本:菊島隆三、出演:峰岸隆之介(徹)、露口茂、佐藤允)から1968年8月頃の撮影と思われる。「完全冷房」の看板を見たら、暑い夏の夜は入っちゃうよ!

電気館
DENKIKANのプレート(2012年12月1日撮影)

世界館
鋼鉄製の外壁で覆われる前の浅草世界館・浅草新劇場・浅草シネマの3館が入った旧・浅草劇場ビル(1970年代の撮影か?)

 今年の10月まで六区映画街に残っていた映画館は「浅草中映劇場」「浅草名画座」「浅草新劇場」「浅草世界館」「浅草シネマ」の5館だった。
 このうち、浅草中映劇場と浅草名画座の2館のところは昭和20〜30年代には「大都劇場」と言って、映画の幕間にストリップが観られることで知られていたという話だが、その頃入った記憶はない。
 上の写真にある浅草世界館・浅草新劇場・浅草シネマの3館は、元々は「江川劇場」と言って、コメディアンの「シミキン」こと清水金一の軽演劇がおこなわれていた劇場であった。戦時中は「松竹新劇場」と改称され、戦後に「浅草劇場」となり、さらに上記の3館に分割されたようだ。
 この5館のうち、私が最近まで行っていたのは洋画3本立ての浅草中映劇場である。
 ちょうど1年前くらいにここで観たジョニー・トー監督の『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(原題:『復仇』 英題:“Vengeance” 2009年度作品)は最高だった。香港・フランス共同製作のこの作品、主演は懐かしや、かのジョニー・アリディ。1960〜70年代にフランスではスーパースターだった彼も、日本での知名度は極めて低く、シルビー・バルタンの夫としてかろうじて知られている程度だった。
 以前、私がやっていた浅草のバーにフランス人の若い男たちが三人来店し、彼らにジョニー・アリディのレコードをリクエストされたことがあった。私がないと言うと、信じられないという顔をされた。じゃあ、フランスの歌手では誰のレコードがあるのかと聞くから、アダモならあると言ったら、あいつはベルギー人だと言われ、シャルル・アズナブールをかけたら、今度は奴はアルメニア人だと言って怒られた。それで、ピエール・バルーをかけたんだったかな。まあ、それほどフランスではジョニー・アリディの人気は高かったのだ。
 数十年ぶりのご無沙汰だったジョニー・アリディだが、さすがに年は食っていたが実に渋く、「香港版フィルムノワール」といった雰囲気がたまらなく良かった。確か、一昨年自殺した映画評論家の今野雄二も、亡くなる寸前に『ミュージック・マガジン』の映画評でこの作品を絶賛していたっけ。
 そういえば、ブルース・オズボーンの写真展のオープニングパーティーで、久しぶりにあった恒松正敏君(グラフィックデザイナー、元フリクションのギタリスト)が、「浅草には中映劇場がB級のアクション映画の渋いのをやるから、よく観に行くよ」と言っていたのを思い出した。閉館になって、恒松君もさぞかしがっかりしていることだろう。
 
浅草東宝跡
取り壊された「浅草東宝」・「楽天地ボウル」跡地(2012年12月1日撮影)

 大勝館の跡はドンキホーテになるとして、その向かい側の交番の後ろ、かつて「浅草東宝」と「楽天地ボウル」のあったところ、こちらも今、取り壊しの真っ最中だが、いったい何が出来るのだろうか。
 ここはまだ楽天地が持っているのだろうから、錦糸町みたいにビルの中に小さな映画館がいくつか入ったシネマコンプレックスにでもなってくれないものだろうか。
 浅草に生まれ育った者としては、六区に映画館が一館もないのは、どうにも寂しくて仕方がないのだが……。

*以下の写真は5館が閉館する前日、2012年10月20日の撮影である。

世界館2

浅草新劇場

中映劇場

新劇場ポスター

名画座ポスター

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