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2013年5月12日(日) 東奥日報 ニュース



■ 高見盛関「青森が自分を強く」

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現役時代の思い出を振り返る高見盛関(現・振分親方)=7日午後、東京都墨田区の東関部屋
 
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稽古を見つめる高見盛関(現・振分親方)=7日午前、東京都墨田区の東関部屋
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 「体が限界で、引くべき時が来た」。1月の大相撲初場所をもって引退した人気力士、元小結高見盛関の振分(ふりわけ)親方(37)=本名・加藤精彦(せいけん)、板柳町出身、東関部屋=が本紙インタビューに応じ、現役時代を振り返った。けがに苦しみながら、土俵に1100番以上立てたのが一番の喜びだったと強調。引退から3カ月余りたち、「青森の環境が自分の体を強くした。青森に生まれて本当によかった」と、古里への感謝の思いがあふれた。

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 ◇

 1月27日。千秋楽を迎えた東京・両国国技館。高見盛関は相撲人生最後となるかもしれない一番に臨もうとしていた。東十両12枚目で既に4勝10敗。どうあがいても、十両残留は困難だった。

 それでも8歳下の若荒雄関相手に意地を見せた。激しい相撲の末に肩透かし。軍配が返った時に、余力はもうなかった。「力士としての、すべての力を使い果たした」一番だった。

 直後、近くのホテルで、本人と東関親方、先代師匠の元関脇高見山さんとの間で進退をめぐる話し合いがもたれた。

 沈黙した高見盛関。重苦しい空気が部屋に漂った。東関親方が口を開く。「周りを気にせず、自分の心の中にあるものをすべて出せ」

 体がついてこないのが現実。限界だった。

 「やめさせてください」

 うまく言えないと思った言葉が、なぜかすっきり言えた。胸のつかえが取れた気がした。午後6時前、同じホテルに準備された引退会見場には、100人以上の報道陣が既に集まっていた。

 ◇

 相撲との出合いは、板柳北小学校4年のとき。「給食のおかわりを腹いっぱいしていいから」という先生の言葉に乗せられ、相撲部に入った。

 真面目な少年は稽古に打ち込み、やがて頭角を現す。全国中学大会で優勝すると、「加藤」の名は全国に一気に知れ渡った。県外強豪校からの誘いを蹴って弘前実業高校に進み、3年で国体優勝。アマチュア名門の日本大学へと進んだ。

 待っていたのは、慣れない東京での合宿所生活。空気や水が合わず、厳しい稽古などから、一時体重は30キロ近く減った。公衆電話に駆け込み、両親に涙ながらに相談したこともあった。

 励まされ、耐え、踏ん張った。4年のとき、全日本選手権でアマ横綱に輝く。努力が花開いた。

 「神様が大相撲の世界で戦え、生きろと言っていた。運命だった」。数々のタイトルを引っさげ、青年は東関部屋の門をたたく。

 5年やれたら御の字と思っていた世界。積み重ねた白星の数は「563」に上る。「ほとんどが数年で去る厳しい世界。14年も取り続けられたのは、何よりうれしい」と、誇らしげな笑みが浮かんだ。

 ◇

 けがが多く、「いばらの道」だった14年間の大相撲生活。一度、廃業して実家のリンゴ農家を継ごう―と覚悟したときがある。

 2000年秋場所、若の里関(弘前市出身)戦。踏ん張ったとき、右膝がブチブチと鳴るのが聞こえた。「人生の中で一番痛かった」という、前十字靱帯(じんたい)断裂の大けが。力士生命の危機だった。

 壮絶なリハビリに何度もくじけそうになった。でも根っからの負けず嫌い。施設の中でふつふつと闘争心が湧いた。「どうせならぼろぼろになって、完全にぶっ壊れてからでも遅くない。とことんまでやってやる」と開き直った。

 2場所の全休を経て復帰。それから自らを奮い立たせる気合のポーズは生まれた。決して見せ物ではなかった。「土俵は怖い。だからこそ自分を鼓舞する必要があった」。相撲を神事と位置づける親方たちから非難の声が上がっても、耳を貸さず我を貫いた。

 ◇

 思い出の一番は、03年名古屋場所の元横綱朝青龍関戦。年もほぼ同じ。入門から胸を合わせ、激しい稽古をしてきた相手だった。

 技なんて関係ない。ただがむしゃらに前に出ようと決めていた。立ち合いで張り手を食らい、意識が飛んだが、体が勝手に動いた。得意の右を差し、かいなを返し、前へ前へ。理想とする形で寄り切った。

 土俵上で独り言を言うシーンが映し出されたが、何と言っていたのか。「『勝ったのか、勝ったのか』と自問自答していた。周りの歓声なんて耳に入らない。興奮状態だった」。無の境地でつかんだ金星だった。

 日ごろから意識していた力士もいた。元大関琴光喜関。中高と幼いころから全国大会で顔を合わせ、しのぎを削ってきた。同じ日本大学の選手として、部を引っ張ってきた間柄だった。それだけに、賭博問題で角界を去ったことが無念でならない。「途中でやめて、非常に残念」と唇をかんだ。

 ◇

 がくぜんとした。

 テレビ番組やCM、イベント出演の合間を縫って、板柳町に戻ってきた4月のある日。母校の板柳中学校を車で横切ると、思い出の土俵がなくなっていたのが分かった。

 少子化の中、野球やサッカー人気に押され、相撲人口の減少に歯止めがかからない。「王国」と呼ばれた本県でも、相撲離れが顕著であることを、肌で感じた。

 「自分は天才でも、特別な存在でもなかった。でもまわし一つ、裸一貫からのし上がり、夢をつかんだ。土俵にチャンスがいっぱい埋まっている。だからこそ、一人でも多くの子どもたちに相撲をやってほしい」

 東京に移り住み18年。出世しても、古里のことを片時も忘れたことがない。感謝の念でいっぱいだ。「幼いころから畑仕事を手伝い、足腰が強くなった。おいしいリンゴや米をいっぱい食べて体が大きくなった。今の自分は、青森があってこそ。青森に生まれて本当によかった」。本県出身力士としての、喜びと誇りがにじんだ。

 さて、37歳の現在も独身。気になる結婚について、どう考えているのだろう。先代師匠の元関脇高見山さんは引退会見で、「青森の女の子と結婚してほしい」などとエールを送っていたが、本人にはこだわりがあるようだ。

 「こういうことは変にくっつけられるより、自分で探さないと意味がない。大相撲に入ったのも、大けがしても現役続行を決めたのも、最後は自分の決断。妥協したくない。自分でけじめをつけてみせる」

 第二の人生。土俵を離れても、「真っ向勝負」は変わらない。

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