2.中断――次第にコアユーザーへの目配せを織りまぜつつ
『雫』に続けて発売された所謂「リーフビジュアルノベル三部作」――とりわけ、終わりなき「日常の楽園」を描いた三作目の『To Heart』(97年)は大成功をおさめ、リーフは瞬く間に業界を席捲した。
リーフビジュアルノベル三部作の達成について端的に述べるとすれば、それは業界のパラダイムを変えたことだと言ってよい。『雫』以降、パソコン系のギャルゲーにおいてはノベルゲーム、もしくはノベル系ゲーム(全画面文章表示形式を採用していないタイプはとりあえずこう呼んでおこう)が熱烈なユーザー人気を獲得し、同系作品の発売本数、売り上げを順調に伸ばしてきた。しかし、これは変化した業界で起きている現象面を語っているにすぎない。いったいリーフビジュアルノベル三部作は、業界のパラダイムをいかに変えたのか。この問いに対して、さしあたり私は二つのことを指摘できる。
- キャラクター重視路線
- 『同級生』的な限界の克服
Aについては、今号掲載のリーフインタビュー内で高橋龍也氏が自ら言及している。引用しよう。
高橋:やはりキャラクターでしょうか。あとは空間。キャラクターと同時に作品の空間自体が魅力的だと感じるものが意外に少なくて。漫画やアニメにはあったんですよ。『天地無用』とか、古いものだと『うる星やつら』や『めぞん一刻』もそうでしょうか。世界とか空間自体がおもしろい。そこでストーリーが展開する。そういうものが他のゲームでは見られなかったので『痕』『To Heart』でその辺をポイントにして。
この提示自体は一部で、業界をキャラ萌え全盛へと追いやった最大の要因だと否定的にみなされている。しかし私は、あまりそうは考えない。『雫』のハッピーエンドが物語レベルで示したテーマは、狂気から脱却する契機がキャラクター(≠他者)とのコミュニケーションにあること、ラカン派精神分析の用語を使って言えば「想像界的な人間関係を通じて狂気を治癒する」だった。これは同じくギャルゲーから例をあげると、『ONE』(98年タクティクス)において「家族愛(=想像界的な人間関係)の再生」というテーマに変奏されている。これら想像界的な空間の「崩壊/再生」というテーマは、良かれ悪しかれ社会批評的な問題提起でもあるだろう。それゆえ、たとえキャラクターとの戯れに落ちこもうとも、彼女らと主人公=プレイヤーを繋ぎとめるコミュニケーション・ツールとしてのゲーム(及びそのメディアミックス的作品)は作られ続ける。無論、いささか退屈なことではあるが。
Bについて。これは、なぜリーフビジュアルノベル三部作はノベルゲームでなければならなかったのか(なぜ私はノベルゲームにしか言及しないのか)と密接に関わる。以下項目を変え、その理由を長く述べよう。論旨は、そもそも『同級生』とは何か、そして『同級生3』はなぜつくられないのか――リーフビジュアルノベル三部作は、『同級生』的なパラダイムの転換をもたらしたというのが私の考えだからだ。
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狂気 『雫』に描かれた狂気の分類を試みるなら、離人症的感覚を伴いながらも同一表象の反復強迫というパラノイア症候も持つところから、いわゆる境界例ということになるかもしれない。だが、描かれたキャラクターの症候という曖昧さにむしろ正確に対応するために、あえて本文では「狂気」というにとどめておく。
『ONE〜輝く季節へ〜』 「心に届くアドベンチャーゲーム」と銘打たれた作品。基本的には六人の少女との邂逅を描いた恋愛アドベンチャーゲームだが、幼なじみの長森瑞佳、転校生の七瀬留美、寡黙な同級生の里村茜までは良いとして、残りの三人の少女はどこかしら障害を抱えており、このキャラ設定の段階で既に普通のゲームではない。詳しい解説は最後のページで扱っている。
社会批評的な問題提起 例えば精神病理学の斎藤環は、近著『戦闘美少女の精神分析』において、従来は単純に否定的に言及されがちだったこうしたアニメやゲームのキャラを通じたオタク的な世界との折り合い方に、むしろ積極的な評価を与えようと挑戦している。
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