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読売新聞の「誤報」

岸田 徹 【岸コラ】
2012年10月16日(火)

森口氏のiPS細胞移植を報じる読売新聞新聞各紙が山中教授のノーベル賞受賞を一面トップで報道したのは10月9日。その翌々日の11日、読売新聞は朝刊一面トップで「iPS心筋を移植 初の臨床応用 心不全患者に」とスクープ報道した。山中教授のノーベル賞報道では、iPS細胞研究がいつ実用化されるのか、待ち望む患者が多くいることを報じた後だけに、すでにアメリカでは実用段階に入っていることを示す報道は世紀のスクープになるはずだった。

読売新聞が報じたアメリカでの移植手術は、ハーバード大学の森口尚史客員講師らによって行われ、すでに6人の患者に実施し、最初の患者は退院し約8ヶ月たった現在も元気だということだった。さらに、この画期的な治療法を学会で発表するためにニューヨークを訪れている森口氏に記者がインタビューし、細胞移植を決断した心境などを夕刊に報じた。

ところが、ニューヨークの学会に出席するはずの森口氏が学会に現れないばかりか、ハーバード大学はその日の深夜に大学の倫理委員会が森口氏の研究に関連するものを承認したことは一切ないとの声明を発表した。この時読売新聞は騙されたと気付き始めた。

読売新聞の報道に影響され、共同通信がほぼ読売新聞と同様の記事を配信したため、東京新聞や中日新聞、京都新聞、神戸新聞、西日本新聞など地方の有力各紙が森口氏の業績を報道したが、その時には、読売新聞が森口氏の説明は虚偽で、読売新聞の報道は誤報だったと「おわび」を掲載した。

一連の報道の流れをみれば、山中教授がノーベル賞を受け、その研究の成果が今後人類にとって大きく貢献するとの期待が国民的に広がっていることから、読売新聞は取材班を投入して実用化段階を取材したところ、実はすでにアメリカで実用段階に入っていると報道したように見える。

しかし、事実は違っている。読売新聞が誤報に至る経緯を述べた記事によれば、森口氏がiPS研究の話を読売新聞記者に持ちかけてきたのは9月19日で、山中教授のノーベル賞受賞のニュースが流れるずっと以前のことだった。10月1日には論文の草稿と細胞移植手術の短い動画が電子メールで送られてきたという。これを受けて読売新聞の記者は10月4日午後に東大医学部の付属病院会議室で約6時間にわたってiPS細胞から作った細胞を移植した様子と研究概要を森口氏から聞き取った。記者は医学担当次長に取材の経過を報告し、次長からは専門家の評価を仰ぐように指示をもらった。専門家の大学教授からは、本当ならば驚きだとのコメントを記者はもらい、次長は部長に9日の昼に概要を説明したところ、部長が物証を直接記者に確認し、できるだけ早く掲載するよう記者に指示を出した。

運命は、次長が部長に説明したのが9日だったことだろう。この日に山中教授のノーベル賞が報道されているので、次に実用化の記事が出れば、世紀の大スクープは間違いなかった。

ところが、この話は、読売新聞ばかりではなく、朝日新聞にも来ていた。朝日新聞の記者にも森口氏から世界初の成果を売り込む同様のメールが9月30日に来ていて、朝日の記者は、読売の記者の1日前にはやり東大病院の会議室で、細胞移植の様子を身振り手振りを交えながら熱弁する森口氏の話を聞いていた。

ほぼ同様のメール受け、ほぼ同様の取材を行った読売新聞と朝日新聞が明暗を分けた理由は、森口氏が研究成果をニューヨークの学会で発表すると言ったことを朝日の記者が学会のWebサイトで確認したところ、発表の予定が掲載されていなかった点と森口氏が自分は「東大の特任教授だ」と言ったのを東大や東大病院に確認したところ「東大病院特任研究員」だということが分かったので、信憑性が薄いと朝日は記事にしなかった。

読売新聞は、誤報の理由の中で、これらの基本的なことを確認しなかった点が誤報につながったと反省の言葉を繰り返している。恐らく、直接の原因はそういう事なのだろう。読売新聞に落ち度があったことは否めないが、問題は、記事を書く上で基本中の基本であるこれらの確認をどうして読売新聞はやらなかったのかの理由だ。

これは想像だが、森口氏の存在が読売新聞は朝日新聞より身内に近かった点にあったためではないかと思う。そう思う理由がふたつある。

ひとつは、2009年の読売新聞の連載記事にある。世界に先駆けて山中教授がiPS細胞を作製した後、記事はその研究費が日米で大きく異なり、このままではせっかくの日本人研究家の成果がいずれアメリカに取られてしまうと実情を披露したのだが、その記事のコメントに“ハーバード大研究員で東大特任教授”の森口氏が日本での山中教授への一極集中投資を疑問視するコメントを出した。それは、「iPS研究には、化学や数学など幅広い分野の研究者の参画が欠かせない。限られた研究者に資金が集中すれば、研究の遅れを招く」とうもので、明らかに山中一極集中に批判的なものだった。

科学の分野に限らず、専門分野とされる記事には、記者が必ず専門家の意見を聞き、自分の記事が業界の常識から外れていないかどうかを確かめるのが常だ。それを誰に確かめるかは、記者や報道機関の財産となっている。その財産とは、あの人がそう言うのなら間違いないだろうという身内の意見ということになる。読売新聞が山中教授への一極集中投資が業界では問題ないのかを森口氏に聞いている訳で、森口氏は読売新聞にとっては業界の常識を尋ねるいわば「身内」だったと解釈できる。

では、なぜ森口氏は朝日新聞では身内にならなかったのに読売新聞では身内になったのか。それが第二の理由につながる。

読売新聞の記事をたどっていくと、森口氏は東京医科歯科大学の二年生の時に、読売新聞社が法務省の天下り先ともみれる日本刑事政策研究会と共催で刑事政策について懸賞論文を募集しているのに応募し、見事優秀賞に輝き賞金十万円を手にした。この次の年にも同じ懸賞論文に応募し優秀賞該当なしの佳作に選ばれ賞金五万円をもらっている。この縁が読売新聞とずっと続いたとは思えないが、森口氏にしてみれば、この懸賞論文を通じ、読売新聞社がどのような論文を書けば応じるのかを探れたのではないかと想像できる。森口氏にとって読売新聞は早くから読めている先だったのではないだろうか。

これに、補助金行政で生計を立てている森口氏にとって、自分の研究成果をどこかで認めてもらわないと生活ができなくなるという不安が重なったのだろう。マスコミに自分の研究成果が報道されることは自分の研究をアピールするもっとも手っ取り早い材料だ。山中教授がノーベル賞の最有力候補だと「業界」で認められたのはだいたい2010年ごろのことだった。ところが、一般紙がベタ記事で取り上げたのは受賞報道の数日前のこと。森口氏が読売、朝日にアプローチした9月の時点では、山中教授がノーベル賞を受賞する確信は森口氏にはなかったはずだ。

森口氏が両紙に望んだのは、ほんの一言、iPS細胞研究で実用化段階に入っていると言ってもらうだけのことだったに違いない。そうすれば、来年度も研究補助金が出るはずだった。ところが、それが山中教授のノーベル賞受賞と重なってしまい、読売新聞はスクープを狙い、森口氏の科学面のひと言記事で終わらせるつもりが、急に世界的な関心事の一面トップ記事になってしまったということではないか。もし、山中教授がノーベル賞から今年も外れてしまったら、森口氏のiPS細胞移植手術は、これまで森口氏が言ってきたiPS細胞研究の延長線上のウソとも本当とも取れる記事で見過ごされて終わったはずだ。これまでも、卵巣の一部凍結保存やiPSを活用した初のC型肝炎創薬など森口氏の研究成果が読売新聞などでは掲載され、今回の件でそれも疑わしいと見直しが各紙で行われている。

今回の事件で、医学の分野ではこんなにでたらめなことも行われているのかとずいぶん驚いたが、一番驚いたのは、自分のウソでまさかこんなに世界的に注目されるとは思わなかった森口氏自身だったのだろう。それはともかく、社会の指導的な立場であるべき年代の人が、自分の都合が悪くなると平気で嘘をつく子どものような大人が増えてきた。どうしてこんなことになってしまったのか。

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参考資料:

森口氏への助成、人件費で967万円 内閣府調査 2012/10/16 13:26 日経新聞

森口氏、東大の聴取にも主張変えず 「iPS臨床応用」朝日新聞デジタル記事2012年10月16日03時00分

「研究成果」朝日新聞にも売り込み 記事化を何度も督促 朝日新聞デジタル記事2012年10月14日03時00分

本社、iPS心筋移植は記事にせず 専門家に異論多く 2012/10/14 1:01 日経新聞

森口氏の肝炎研究、実験場所など疑問 本社10年報道 2012/10/14 0:58 日経新聞

肩書、大学に確認せず iPS誤報で読売新聞 朝日新聞デジタル記事2012年10月13日12時30分

iPS臨床「誤報と判断」 読売新聞がおわび掲載 朝日新聞デジタル記事2012年10月13日04時00分

森口氏、iPS研究の詳細説明あいまい 朝日新聞も取材 朝日新聞デジタル記事2012年10月13日00時40分

「初のiPS臨床応用」 読売新聞報道、大学は関与否定 朝日新聞デジタル記事2012年10月12日13時40分

本社も2年前に森口氏の記事掲載 事実関係調査 2012/10/12 22:47 日経新聞

「iPS山中教授、ノーベル賞最有力」 地元紙報道 朝日新聞デジタル記事2012年10月8日07時31分

iPS細胞、化学物質だけで作製 米大、発がんリスク減も 2010/2/24 0:41 日経新聞

2012.10.15 内閣府、森口氏の研究調査 読売新聞 東京夕刊 夕一面

2012.10.15 東大病院が検証開始 東京医科歯科大、杏林大も 森口氏論文など 読売新聞 東京夕刊 夕2社

2012.10.14 森口氏「研究者やめる」 読売新聞 東京朝刊 2社

2012.10.14 森口氏の記事 本紙6本掲載 過去分 5本で詐称の肩書 読売新聞 東京朝刊 社会

2012.10.13 森口氏の手法「不可思議」 ネイチャー誌 iPS作製を検証 読売新聞 東京夕刊 夕一面

2012.10.13 iPS移植は虚偽 森口氏の説明、関係者が否定 誤報と本社判断 読売新聞 東京朝刊 一面

2012.10.13 検証「iPS心筋移植」報道 森口氏、治療の事実なし 読売新聞 東京朝刊 B経

2012.10.12 ハーバード大 「iPS移植例ない」 森口氏の全論文調査へ 読売新聞 東京夕刊 夕一面

2012.10.12 「iPS心筋移植」報道 事実関係を調査します 読売新聞 東京夕刊 夕一面

2012.10.12 iPS移植 発表中止 ハーバード大「森口氏と協力関係ない」 読売新聞 東京朝刊 一面

2012.10.11 死の間際 iPSしかなかった 心筋移植 森口講師=訂正あり、続報注意 読売新聞 東京夕刊 夕一面

2012.10.11 iPS心筋移植 森口講師の一問一答=訂正あり、続報注意 読売新聞 東京夕刊 夕二面

2012.10.11 iPS心筋を移植 初の臨床応用 心不全患者に=訂正あり、続報注意 読売新聞 東京朝刊 一面

2012.10.11 [スキャナー]iPS実用化へ加速 国内 来年にも臨床=訂正あり、続報注意 読売新聞 東京朝刊 三面

2012.10.09 山中教授 ノーベル賞 iPS細胞作製、再生医療へ道開く=号外も発行 読売新聞 東京朝刊 一面

2012.07.28 卵巣の一部 凍結保存→4年後妊娠 米大学など成功 読売新聞 東京朝刊 3社

2012.04.12 [探究]「iPS」で患者助ける 安全な万能細胞 再生医療に 山中伸弥氏49 読売新聞 東京夕刊 テクA

2010.05.01 iPS活用 初の創薬 C型肝炎 副作用少なく 東京医科歯科大など成功 読売新聞 大阪朝刊 二面

2010.05.01 iPS細胞を使って C型肝炎治療法発見 読売新聞 東京朝刊 二面

2010.02.24 肝臓がん細胞からiPS作製 米大の日本人研究員ら  読売新聞 東京朝刊 二面

2009.11.29 米の手法より「がん化」少なく 山中iPS「安全」で軍配 ハーバード大研究 読売新聞 大阪朝刊 二面

2009.11.08 [iPSどこへ行く](下)研究体制の差 戦略無く周回遅れに(連載) 読売新聞 東京朝刊 教育セ

1990.10.19 「刑事政策に関する懸賞論文」の表彰式 読売新聞 東京朝刊 二面

1991.10.18 平成3年度の読売新聞共催・刑事政策懸賞論文の表彰式/東京・法曹会館 読売新聞 東京朝刊 二面

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