筋肉少女帯
(きんにくしょうじょたい)

『UFOと恋人』曲評

1.「おサル音頭」

前作の「じーさんはいい塩梅」に続く、大ケンの「のほほん」ソング最高峰。
これを1曲目に持ってきたところで、このアルバムは成功している。
佐久間正英、いい音を作っている。

2.「暴いておやりよドルバッキー」

この世のきれいごとを暴き、人生の美化を戒める歌。
人生は、真実の愛などないし、
どうにもならないことも多いやるせないものだ、ということ。

そんな人生をどう生きるか、という後の曲たちへのイントロである。

3.「くるくる少女」

佐久間正英のプロデュースと出会うことで、
筋少史上最高の美しさを獲得した橘高文彦メタル。

客観的には誰にも認められない、妄想のような恋愛の歌。
「写真も 撮ったのに ママが捨てた」
「貰った プレゼント ママが捨てた」
「証拠は ないわね 信じちゃもらえない」
「夢でも ウソでも 恋してた」

辛い人生を生きていくめに、
はたから見ればおかしなことを心の支えにするというのが
前作以来のテーマである。

外界の誰にも認知など受けなくてもいいじゃないか、
自分の中にきらめきが生じたことが大事なんだ、という
大ケンの主観主義。
だからワンフレーズごとにメンバーが叫ぶ・・・
内面!

6.「きらめき」

いつか死ぬのになぜ生きるのか、に対するたった4文字の美しい解答。
それが「きらめき」である。

僕も思春期ごろに、ずいぶんくよくよ苦しんだことがあった。
生きてるうちに何をやったところで、
その全てを、自分を含む誰の記憶からも消し、
無価値にしてしまう壮大な「時」がやがて流れるのだ。
有限の中でどんなにがんばっても、無限にはかなわないのだ。
何も残りはしない。
じゃあ、俺の一生は何なんだ、とか・・・
いやだ、死にたくない、とか・・・。

個人的にこの曲が、そんなボクを慰め、
とりあえず納得して生きていけるだけの解答に、
今に至るまで、なっている。

  小さい頃だな じーさんに聞いたよ
  年老いてゆくね 辛くはないのか?と

  「何を言うちょるか 腰は痛いがな
  長生きしたら お前に会えていい塩梅」

  今 君見つけて じーさんが解かった(ママ)
  この世は苦しみと きらめきのひまわり

苦しい人生を生きながらえる価値は何なのか。
それは、愛する者に出会えたときの、一瞬の心のきらめきだ。
人はこの世に何も残すことができない虚しい存在だが、
自分の中にきらめきを生じさせることができる。
それはいかようにも、無限にでかくすることができる。
それはじーさんでも若者でも同じである。

  夕暮れに出会って 川沿いに歩こう
  君の髪 香りステキでいい塩梅

  愛など存在はしない この恋もどうせ終わるさ
  けれど君を見つけたきらめき

これが人生に対する大ケンの結論である。
人生は美化を許さない虚しいものだ。
じゃあなぜ生きるか、きらめきを得るためだ。

これをニヒリズムと呼ぶのは簡単だ。
でもともかく、僕はかつてこの曲に救われて成長することができた。
本城恭章作曲の地味な名曲。

8.「俺の罪」

題名もツェッペリンやなんかのパクリだし、
のほほん「おサル音頭」をも超える(?)最高にやる気のない曲。

  彼女を捨てたオレの罪
  おサルになるから許してチョー(モキー)

  哀しみを忘れようぜ おサルになるのさ
  おりゃ知らねぇ 解からねーぜ サルだからな

ここまでくると、ニヒリズムとかなんとか言うのもあほらしい。
あまりのやる気のなさに橘高文彦が参加しなかったとかいう、
絶妙のエピソードが笑える。

10.「パレードの日、影男を秘かに消せ!」

内田雄一郎によるドラマチックな曲だが、
楽曲だけでなく内容も非常に衝撃的である。
曲の中盤、間奏の中、読み上げられる江戸川乱歩への決別の手紙。
それは同時に、「前期」筋肉少女帯への決別宣言になっている。

  拝啓 親愛なる江戸川乱歩様
  あなたの物語の中で、退屈なパレードを憎みながらも
  実は憧れた影男達は
  犯罪という猟奇の果てに死んでいきました
  彼らほどに勇気のない僕は、
  退屈なパレードの一員になろうと思っています
  あなたはボクを軽蔑しますか?
  それでも、
  パレードの日、影男を秘かに消せ!

「退屈なパレードを憎みながらも
実は憧れた影男達」というフレーズには、
「前期」筋肉少女帯が代表してきたものが凝縮されている。

弱い者達、さえない、マイナーな者達。
社会の中、集団の中で、多数派になじめない者達。
彼らは群れを憎み、
それを、にこにこと同じ顔で笑う奴らの退屈なパレード、というように

とらえて軽蔑する。

だがその憎悪の裏には、社会への憧れがある。
自分も入れてもらいたいという思いが前提としてあるから、
そこに加わっていないことに不安を覚え、怒りを感じるのだ。
群れから仲間はずれになっている者は、
群れが団結を確認するお祭り的なイベントを恐れ、憎む。

そして冷たい親を渇望する幼な子の奇行のように、「猟奇」に走る。

「前期」の筋肉少女帯は、そんな「猟奇」の世界、衝動を表現していた。

ところが大槻ケンヂは、いつまでもそこにとどまることはできなかった。
猟奇、狂気をどこまでも突き詰めていけば、行き着くところは結局、
冷静な言葉で言えば「犯罪」なのだ。
大ケンは前作の2曲目、「世界の果て〜江戸川乱歩に〜」で
それを確認する。
そして、狂気(猟奇)=犯罪の世界へ行こうか、人間の世界へ戻ろうか、
「アウト」か「セーフ」か、というあの曲の問いに対する大ケンの答えが、
「彼らほどに勇気のない僕は 
退屈なパレードの一員になろうと思っています」だったのだ。

大ケンは猟奇、狂気を捨てた。
世界への違和感、憎悪を抱えたまま、
社会からドロップ「アウト」して「アウト」サイダーになって、
狂ったり犯罪に走ったりするのは敗北だととらえた。

そうではなく、つらい人生をいったん受け入れて、
何でもいいからよりどころにして、
一瞬のきらめきを大事にして、
辛いときにはお茶を飲んでのほほんとして、
そして負けでもいいから武闘家や軍人になったつもりで華々しく戦って、
ともかく生きていこう、
それが『エリーゼのために』と『UFOと恋人』で宣言されている
大ケンの答えなのではないだろうか。

その決意がものすごい激しさで述べられているのがこの曲だ。

  オノを取れ! オノを取れ!
  彼を消せ! 彼を消せ!
  影男 振り向くぞ
  打ち降ろせ! 決別だ!

  パレードに 潜り込め!
  砂になれ! 石になれ!

最後の一行が痛々しい。

11.「タイアップ」

大槻ケンヂの良心を示す曲。

実は大ケンが猟奇に対し「決別」を宣言している背景には、
筋肉少女帯、というより大槻ケンヂ(大槻ケンジ)が売れ始め、
世間に受け入れられてきたことがある。
幸か不幸か、大ケンが世界と向き合ったとき、
世界も大ケンを受け入れてしまったのである。 

この曲は、露骨な開き直りという形で、
急に世界に受け入れられてしまった現在と、
「コアなファン」を集めてきた過去との摩擦、葛藤の大きさを示している。

変なポリシーなんてない。
だって何が正しいなんて分からないじゃないか。
オレはただ気合い、衝動、きらめきだけを大事にして、
ひたすら戦うのみだ。
だから例えば、売れるもんなら売れてやる!
いいじゃねーか。

そういうことではないか。

12.「バトル野郎〜100万人の兄貴〜」

ストリートファイターのタイアップを取った曲。

前作の「戦え!何を!?人生を!」の延長上にある、
「戦え!」路線の曲。
人生とはつらくて当たり前のものだから、
「なんで」なんて考えずに気合い入れようぜ、ということ。

13.「バラード禅問答」

趣旨は前作の「スラッシュ禅問答」と同じだと思う。
非常に悲しい運命に打ちのめされた者が何とか生きていくためには、
客観的には妄想と言われてしまうような虚構を、
自分でも妄想だと分かりながらも、
信じていかなくてはいけない、ということと、
そこから拡げて、
みんなつらく不条理な人生を生きていくために、
何かはかないものをよりどころにしているのだ、ということ。

「のほほん」しかり、「戦え」しかり、「きらめき」しかり。
「ワラをもつか」んでいるのだ。

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