始まり…地域コミュニティーへの模索

<1995年7月>
 “Feel-Do”のスタッフのひとりである 古長谷 聡。彼は、「この地域に根ざして、若い人を巻き込んで何かをしていきたい。」という強い思いを以前から抱いていた。
 そんな思いから彼は、富士山の麓、静岡県は清水町を中心に様々な活動を行っている“ウォータービジョン21”という勉強会(現在はNPO法人)に参加していた。
 この会を主催していたのは、当時清水町長沢郵便局長だった松浦正美さん。この会では、その研究課題のひとつに、当時郵政省ですすめられていた“コミュニティーFM”を「清水町の『街づくり』のひとつに生かせないか」ということだった。 この年の1月の“阪神淡路大震災”で、地域に根付いた情報インフラの整備が見なおされる中で、“コミュニティーFM”が全国各地で開局が検討されるのと同様、清水町でもこの会を中心に開局の方向性を探っていた。

<1995年8月>
 古長谷の中学時代からの友人、松富 毅。同じような思いを持っている彼と“コムニス企画室”というサークルをつくる。
 このサークルの活動の目標の1つとに「地元・静岡県東部在住の若者向けに情報発信する核を創っていく」というものがあった。

<1995年9月>
 “コムニス企画室”では、主宰の古長谷・松富、彼らの旧来からの友人達、当時立ち上げていた“コムニス企画室”のホームページを見て興味を持ち参加してくれた方々、などと当時大仁町にあった企画室の事務所で勉強会をすすめていた。そのうちに、“ウォータービジョン21”でも取り上げていた「“コミュニティーFM”が持つ可能性」というのも議題にあがった。
 その可能性が本物であるか、会ではすでに先行して開設していたコミュニティーFM局について調査をすすめた。すると、その初期設備投資金額が数千万円と大きく、また運営ランニングコストも膨大になることが予想され、「自己資本で放送設備を持ち、放送を送信するにはかなり無理があるのではないか」という結論になった。1サークルのレベルで放送設備を持つことが彼らの目的ではないことを確認した為、「(いずれ開設されるであろう)コミュニティー放送にいかなる内容(コンテンツ)を盛り込ませるか」ということにその議論を移していった。

<1995年11月5日>
 函南町の出身で現在は川崎市在住の古長谷・松富両氏の友人、佐藤 建一が会話に加わる。その中で「日本大学国際関係学部をあたり、“情報発信”の担い手を探せないか?」という発言に3人とも合意し、「早速足を運んでみよう」ということになった。
 日本大学(国際関係学部)は、静岡県東部地区にある大学のひとつであり、以前から「大学と地域との交流活動が比較的盛んだ」と言われていた。また古長谷が当時勤めていた会社の取引先のひとつでもあり、キャンパス内には足を踏み入れやすい、ということで古長谷が足を運ぶことになった。時期はちょうど大学の学園祭"富桜祭"を開催日に近く、古長谷はそのときを狙った。
 学園祭開催中のキャンパスに入った古長谷。彼の目に真っ先に飛びこんできたのは、その正門付近で放送していた大学の放送部のミニFM局“N-WAVE”だった。“N-WAVE”とは1993年、当時の放送部員が「“富桜祭”の1イベントとして定着させよう」と始めた部の出展企画の3年目で、市中で手に入るトランスミッター(FM電波発信機)をその出力レベルを改造し(当時の電波法の制限範囲を大いに超えてたと思われる)、キャンパス内半径200mの可聴範囲で、FM放送を行なっているものだった。
 初年は2日間、計10時間の放送、しかも録音放送が多かったところから、3年目のその年は11月3日〜5日の3日間、計21時間の生放送を行っていた。そのときの周波数は、奇しくも現在ボイス・キューでのそれである“77.7MHz”であった。“77.7MHz”という周波数は、その後開局のボイス・キューに譲る(奪われる?)ことになるが、これは“N-WAVE”開局の1993年から使用しており、たとえミニFMであっても、その周波数はゴロがよいし、混線の可能性が低い周波数のひとつであったようだ。
 古長谷はあたかも放送部の先輩のように中に入り、手作りながら生放送を進行させる彼らの動きを放送スタジオであるテントの後ろからじっと見ていた。コミュニィティーFMでの"情報発信"というのを考えていた時でもあり、手探りながらも楽しく番組を進めていた彼らを見て、古長谷は「こいつらなら行けるかもしれない」と直感した。
 そんな彼は、最終日の全放送終了後、番組プロデューサーとして動いていた当時国際関係学部2年であった 中島 丈晴に声を掛ける。
 「実は今、この地域にコミュニティーFM局を開設しようという動きがある。是非、その動きに乗る為の協力して欲しい。」
 古長谷からの説明に中島はすぐさま興味を持ち、当時の放送部部長とともに清水町での“ウォータービジョン21”の勉強会に合流する。