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NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長が、『アンチエイジングな日々』を
軽快な筆致でつづります。 どうぞお気軽にコメントをお寄せください。 |
やはりあの「スイス」だった。
名誉院長をしているAACクリニック銀座の2,3軒先で、「煉瓦亭」の手前に「スイス」という楽しげなレストランがあり、もしやといつも気になっていた。 昔、大学の頃というのはまた半世紀以上も前だが、銀座の並木通りの路地をちょっと入ったあたりに、「スイス」というレストランがあり、よくデートに利用したものである。 スープ付きの料理が100円。貧乏学生には天国だった。 カツカレー発祥の店とも言われていた。 だが、こののスイスとは場所も離れているし、佇まいも違う。 “なかなか美味しいですよ”、と美女軍団の一人に誘われて先日入ってみた。 運ばれてきたスープを一匙口にして思い出した、ああ、ヤッパリあの味だった。 薄めのポタージュが砕いたベーコンで味付けされている。 料理を運ん「できた年配の女性に、もしやと思って聞くとやはりそうだという。 “昔ながらのスープの味を守っているので、皆様スープを飲むと思い出してくださいます。 そういえばお客様、どっかお見かけしたような・・“、と彼女は嬉しいことを言ってくれる。 30年前にこちらに引っ越してきたのだそうだ。 並木通りの路地を入った昔の店は、一階が調理場で木造の階段をがたぴし登ったところが食堂だった。 昭和一桁の東京の相当数の学生は、あの「スイス」のお世話になったはずだ。 戦後の復興前の日本は貧しく、車はおろか食べるものさえ録に無かった。 ただ在るのは憧れだけだった。 “パリの屋根の下”、“舞踏会の手帳”など戦前のフランス映画が文化の象徴であり、口ずさむ歌は“パリ祭”、“暗い日曜日”、クラシック音楽への憧憬は名曲喫茶で満たす、懐かしい“失われた青春”の日々だった。 料理を口にしながらなんともいえぬ懐旧の念が込み上げ、この60年はいったいなんだったとろうと、コーヒーを飲み終えて不思議な気分に満たされながら、孫ほども若い美女を伴って店をあとにした。
マスコミとは恐ろしい種族である。
こちらが隙を見せると、ハイエナのように襲い掛かって食い散らされてしまう。 しかも現代で唯一チェック機関のない、暴力団的存在である。 というのが一般的なマスコミ観ではなかろうか。 幸い僕が普段お付き合いしているのは、科学部や家庭欄の担当者で、非常に紳士的であり、お互いに情報交換が楽しみなくらいである。 これが社会部となると、正反対の対応を迫られるのはご承知の通り。 こちらの書いて欲しいことは無視し、書かれては困ることを暴こうとする。 だが、それがいけないと言ってるのではない。 権力側は不都合な真実を必死に秘匿しようとする。そこにメスを入れるのがジャーナリストの務めだ。 問題は今のマスコミはそれを怠り、弱いものいじめだけをして「正義の味方ヅラ」をしていることだ。 「弱きを挫き強きを助ける」のが日本のマスコミだ。 日本には真のジャーナリズムは存在しないとさえ言える。 その元凶は記者クラブ制度にあると言うのが僕の主張だ。 霞ヶ関に囲い込まれ,官製報道を、昔は大本営発表といったが、嬉々として報道する。 気骨ある記者は排除され,其の親元の報道機関も連帯責任を負わされる。 原発事故のときは東電の鼻息をうかがい黙して語らず,安倍首相の暴走には口をつぐみ,首相のパーフォーマンスの一役を買って国民栄誉賞に国民の目を逸らす。 ジャーナリストよ,ハイエナの本性を取り戻せ!
エリカ・アンギャルさんはご存知でしょう?
ミスユニバースのダイエット顧問で、以前から「レインボーダイエット」なるものを推奨されている。 野菜に含まれる栄養素を「フィトケミカル」と総称するが、其の効能は主として抗酸化と抗炎症とされている。 カロテン、アントシアニン、クルクミン、リコペンなど色々な名まえはよく耳にされるだろう。 それぞれが働き方というか、「作用機序」が微妙に違うので、なるべく沢山の種類をバランス良くとるのが好いとされている。 といって素人が一々栄養分析表を意識していては、おちおち食事も楽しめないが、幸いそれぞれが特徴的な色をしているので、“虹のように色とりどりの野菜サラダをたっぷり食べれば好いのよ。”とおっしゃる。 そう説明した上で、エリカさんは“虹には白い色がないでしょう”と皆に問いかける。 “当たり前じゃない、白色が分解されて七色になるのだから。”と言わせておいて、 “だから、白米と白パンは避けましょう”と言うのが彼女の「落ち」である。 白米も白パンも栄養学では、血糖値を急激に上げるので好くないとされている。 なるほど理にかなっているし、イメージもし易く「レインボーダイエット」とはうまいネーミングをしたものだと感心させられる。
安倍首相の恥知らずな「原発売り込み」に憤りを感じているのは僕だけでしょうか。
福島原発事故の後始末が何もされていないと言うのに。 ①先ずは「安全性」の無視。 未だ原因究明もされていない。 国会の事故調は「人災」と断罪しているが、肝心の国会は無視している。 しかも、東電、経産省などの「責任の追求」と「責任者の処罰」は全くなおざりになっている。 又、「廃棄物処理」も行き詰まったままだ。 ②それだけでなく、「被害者の救済」もいっこうに進んでいない。 それなのに、あの事故で得た貴重な経験を生かして、などよくぬけぬけと言えるものだ。 我が国が持つノウハウとは、所詮「完璧な隠蔽」と「被害者を政治的に利用する」ノウハウだけではないか。 安倍首相よ、貴方は何時から「死の商人」になったのですか? そしてこれは、自国民を原発の危険にさらす布石でもあるのでしょうか。
沢木耕太郎はデビュー当時から気になる存在だった。
「深夜特急」が評判になった頃、マスコミ関係のT孃からこう言われた。 “沢木さんてとっても素敵。言うこともやる事もかっこ良くて。ぜひ一度ご紹介したいわ。” そのT孃が間もなく外交官と結婚しイタリアに移ってしまい、沢木氏と知り合うチャンスは逸してしまった。 それが去年、ホテルオークラの講演会でお話を伺い、其の「自由人」振りにすっかり惚れこんでしまった。 もっと厳つい男をイメージしていたが、一見物静かな、ごく当たり前のサラリーマン風の出で立ちである。 これが真性のバガボンドかあなと感心した。 テーマは勿論、氏が永年追いかけている“キャパの「崩れ落ちる兵士」の真偽”である。 其の執拗な追跡にはほとほと感心させられるが、あの「決定的瞬間」は、やらせでもないが真実でもないという彼の結論はほぼ納得出来る。 今回彼の小編集「旅の窓」が出版された。 其の序文から、 “旅を続けていると、ぼんやり眼をやった風景のさらに向こうに、不意に私たちの内部の風景が見えてくることがある。 そのとき、私たちは「旅の窓」に出会うことになるのだ。其の風景の向こうに自分の心の奥をのぞかせてくれる「旅の窓」に。”
“麗しの五月に・・・”
ハイネは「詩人の恋」を春に託し,シューマンはそれをメロディーに乗せた. 雪解けを待ちかねて花は咲き乱れ,あたりは緑でむせかえる.北国の春は爆発的だ. その五月,可愛いスチューデント・ナースたちが黒いケープをサッと脱ぎ捨てれば,もうすっかり初夏の装いだ.揃いのショーツからスラリと伸びた足は,明るい日射しをもろに受けて,生毛がキラキラとまぶしい. アパートの窓から僕が手を振ると,彼女等も笑顔で手を振り返す. ここはニューヨークの真北のオルバニー.空気はあくまで澄みきっている. ロイスもその一人だった. 父親はカナダの牧師さん.母親はやはり看護婦さんだった.故郷のモントリオールはオルバニーから更に北3,4時間の所にある. 小柄だけど鼻筋がスッととおり,目がキラッと輝いていた. 彼女には好きなインターンがいた.ポールという日系の二世だった.キビキビとして優しい.しかしロイスの気持ちはちっとも通じなかった. やっと彼が誘いをかけてきた時,もうロイスはおかんむり.その日一日彼女は公園のブランコで,一人で砂を蹴っていた. “お馬鹿なロイス,家においで”. 彼女はやってきた,ルーム・メートのロキシーを連れて. ロキシーはスラッとした色白で,お茶目で,西洋人形のように可愛い子だった.その夜は皆でスキヤキをつっついた. 彼女達にはよくベビー・シッターを頼んだものだ.一時間で50セントも払ったかな.気のいい子達だった.僕が子守をして欲しかったくらい. 手術場にはペギーという気風のいいナースがいた.イタリヤ系の移民で陽気で,体重を半分にしたらかなりの美人の筈だった.でも彼女はこだわらない.スパゲッティのソースの腕前は誰にも負けないんだもの. 彼女はまたベテランの器械出しだった.ピシッ,ピシッと望みの器械が手のヒラに渡される.そのリズムの小気味よさ.僕でも手術の名手になったような気がしてくる. アメリカ人は概して,公私の使い分けがピシッとしているが,ナースたちもそうだった. 徹夜のパーティの翌朝でも,早朝の回診時はさっと立ち上がって,グッドモーニング.サーと迎えてくれる.そのキリッとした顔には夕べのお楽しみの片鱗さえ留めていない.椅子をさっと引いてくれ,頼む前に見たいカルテを抜き出してくれる.ああ,これこそプロというものか だが反面,プロは掟に忠実である.看護業務にはずれる事は絶対に融通を利かしてくれない. 例えば包交.これは医師がやることとマニュアルに書かれている.勿論包帯は手術と同じに大事だし,又医師は自分で傷の状態を見とどける必要がある. だがしかし,夜中の二時に,絆創膏が一寸ずれてますが・・・と叩き起こされても,誰が素直にハイと言えるだろうか?たとえ電話の向こうに可愛い笑顔がまっていても. それでもやはり着替えて出ていく.断れば鬼の夜勤婦長のお出ましだ. そして部屋に戻ってからカッカとベッドの上で明け方まで転々反側する. だがそれもこれもすべて半世紀たった今は,あのオルバニーの“麗しの五月”とともに懐かしい想い出である.
井上ひさしさんが亡くなって丁度3年になる。
それでか、わが家の近くの神奈川文学館で井上ひさし展を開催している。 昔、僕の次女が出版者勤めをしてた頃彼の担当となり、悪名高き「遅筆堂」の主人から原稿をせしめるのには音を上げていた。 高校から大学をアメリカで過ごした次女は、日本のしきたりとは無縁で、型破りの編集者だったようである。 ある時、後援会やら付き合いやらで、余り原稿が遅れるので “講演の方が金になるのは解るけど、貴方の本業は作家でしょ。さっさと原稿を書きなさい”とドヤしたという。 どういう訳かそんな娘を井上さんは目をかけてくれ、娘が結婚する事になった時、多忙にも関わらず駆けつけてくださり、型通りの祝辞を述べた後、 “ただ一つ心配なのは、◯◯さんのお家はは家族仲が大変良いそうで。兎角そういう方の結婚はうまく行かない事が多いものですから。” と結んで、披露宴の席を湧かせてくれた。 やはり彼は、当代随一の戯作家と言えるだろう。
“マスクをすると女は皆美人になる。”とは,昔,よく他の病院で手術を頼まれた頃に気がついた
美の法則である。 初めての病院の手術室に入り、待ち受けている看護婦さんがキャップを冠り、マスクで口と鼻が隠れ、目だけパッチリ輝いていると、おっ、なかなか美人じゃない、と嬉しくなってメスさばきも一段と弾む。 が、手術も無事終了し、マスクを外すと、アレッこんな筈じゃ…いや其の先は言わぬが花。 でも、女性の魅力は先ず目元にあるのでは? だが、これほど口元が大事だったとは? 目元にふさわしい口元を勝手に頭の中で描いていたのかな。 あるいは眼自体はそれほどインパクトがないと言う事なのか??? 又はバランスの問題というべきか。つまり口が目を裏切ってしまった・・・ 逆の場合はどうだろう。つまり、目隠しをして口だけ眺め、それを外したときの印象と比べると? 試してみたいが、「被験者」をお願いするのがためらわれる。 では、サングラスなら? やはり、誰でもカッコ良く見えるようだ。口元の出来不出来に関わらず。 ただ此の場合は、黒めがねで隠された目を理想の型の目で置き換えていると言うよりは、あのサングラス自身が、顔に魅力的を与えているようだ。 マスクにはない此のサングラスの”ファッション効果”については、もっと考察が必要なようだ。 そういえばマッカーサーは自己演出が巧みだった、サングラスだけでなくコーンパイプも含め。
この30年、ゴールデン・ウィークを山で過ごさないことは無かったのに、未だ長時間の運転は、やっとコルセットから解放はされたばかりの腰にきついので、「山の休日」は諦めることにした。
だが、いったん諦めるとなぜかホットしたのも癪の種である。 年をとると思い通り行かぬことが増えていく。 八ヶ岳の山麓に西武が開発した土地を求めたのはもう40年も前になる。 海抜1600メートルの山の中腹は蓮華つつじの群生で有名だった。 夏初めて訪れたときは一面のお花畑を淡い霧のベールがサーッとかすめていき、まさに天上の花園に迷い込んだ感じだった。 ここがあれば日本も我慢できる、僕は不遜にもそう思った。 アメリカから帰国してもう3,4年たつのに僕はまだ、ビザが取れ次第アメリカに戻ることか考えに無かった。 日本が性に合わなくて飛び出し、8年間アメリカでミスフィットに磨きのかかった男が、旧態然たる日本の医学界に馴染めるわけは無かった。 だが当時日本では形成外科医の数はまだ数えるほどで、患者のニーヅは痛いほど肌で感じていた。 また両親も帰国をことのほか喜んでいた。 だが、どうしても僕には日本に適応できる自信が無かった。 一つは帰国前の数ヶ月のキャンプ生活にあったとおもう。 荒削りのアメリカの大自然で蘇った「野生の呼び声」が、日本の都会では静かにしてくれなかった。 それが八ヶ岳の冷気に触れてスッと穏やかになった感じがした。 まずは土地を取得しても将来小屋を建てられるようになるとは思わなかった。 水場と便所だけ建てれば,後はテント生活をしてというつもりだったのが、幸い10年後に山小屋を建てるまでになった。 本当は毎週末通って自分で丸太小屋を立てるのが夢だったが。 山小屋はフルに活用した。 子供達も皆、いまでも八ヶ岳のない子供時代は考えられないといってくれる。 定年になったら居を山に移し、年間を通して山で暮らすつもりだったが、零下20〜30度という雪と寒さでは、高齢者の越冬は無理なことは分かった、例えいくら抗加齢に励んでも。 それでも正月だけは山で過ごすようにしてきたが、それも最近では億劫になったのも致し方ない。 と言う訳で、このGWを八ヶ岳で過ごすのは、入院中そして退院してからの夢だったのだが・・・ いっそ予報通り、これから天気が崩れてくれれば諦めがつくのだがなど、皆様には申し訳ない事を考えている。
スペインの夜は遅い。
ディナーになる頃は9時をまわっている。 パルマ・ド・マヨルカの海に面したレストランのテラスに腰をすえると、潮風が頬に気持ちよい。 マヨルカは地中海に浮かぶバレアレス諸島の最大の島である。 “一日では短すぎますな、せめて一週間は必要ですな、パルマをご案内するなら。” と案内役のQ氏心底残念そうである。 グループツアーから一人だけ別行動を取り、今朝マドリッドから空港について、明日はリスボンに飛び仲間と合流しなければならぬ。 まずご自慢の大伽藍、鍾乳洞、焼き物工場などを駆け足で案内していて頂き、“じつはジョルジュサンドの家も見たいが、”と申し出た、一泊ではとても無理、それよりゆっくりスペイン料理を楽しみましょう、ということになった 何を飲み何を食べたか定かでないが、最後に大きな平たい鉄なべに魚介類が山盛りのパエリアが出てきた。 イヤー美味しかった、海老も、ムール貝も、貝柱も、その他モロモロも、勿論真っ黄色にサフランに染まったライスも。 こんな40年前のことを思い出したのは、数日前、近くのスペイン料理屋で皆で夕食を楽しんでいたからである。 ここは日本なのでスタートは7時と早い。 サングリアで乾杯して、次々に運ばれる各種前菜、ガスパチョ、魚料理、肉料理どれもなかなかだったが、最後にやはり、具が山盛りになったパエリアが大きな平たい鉄なべで出てきて、皆歓声を上げた。 味も本格的である。 混み合ったビル街の二階の狭いレストランなのに、僕はバレアレス諸島を吹抜ける潮風を頬に感じることが出来た。
去年の10月18日。乗っていたタクシーが高速で4台の事故に巻き込まれ、腰椎圧迫骨折、腓骨骨折そして左足の裂傷で、救急病院に担ぎ込まれてからほぼ半年たった。
あの時、骨折とともに何か僕の中で、そう「卵の殻」のようなものが弾けたのではと不思議な感じがしている。 ふだんから割合に自然体のつもりではいたが、何も「鎧兜」に身を固めていなくても、社会に適応する為にやはり多少の「防御服」は着込んでいたようである。 一つはこれまでのすべて事にあたって、「処理する習性」とでも言おうか。理解し、味会う前にともかくデッドラインに間に合わせようとする悲しい性。 今は毎日が日曜日で、後は死ぬだけで何も焦る事はないのに。 そう、「知る」と言う事もくせ者だ。知っただけで分かった気になる。まして「感じる」ところまでは行きたがらなかった。 つまり左脳の圧政から右脳が解放されたと言う事。 今ひとつ、これまで挫折を味わった事のなかった男にとって、(配偶者に言わせれば、挫折も解らぬ程鈍い男なだけだそうだが)腰椎の圧迫骨折は文字通りの挫折だった。 何か、人に起こることは何でも自分にも起こるのだと言う悟り、というか人との連帯感。更にはすべての「人の営み」に対するいとおしさ。 ま、平たく言えばちょっぴり人間として幅が広がった、と言ったら不遜でしょうか。
先日3日ほど箱根に滞在し、半年ぶりにポーラ美術館を訪ねた。
仙石原近くの小塚山に建てられた此の美術館は、優れたアートコレクターであった故鈴木常司社長の見識を示し、印象派やエコールドパリの名作が多い。中でも藤田嗣治の作品群は日本有数と言える。 よく“数奇な運命”というが、フジタほど20世紀を通して世界情勢に翻弄された日本人画家はいないだろう。 半世紀近くのずれはあるが同じ動乱の時代を生き延びてきた僕にとって、彼の画業をたどることは己の葛藤の歴史をたどることにもなり、複雑な思いを伴う。 エコールドパリの一員としての華やかな活動、南米滞在を経て日本回帰。 そして太平洋戦争中の戦争画の数々。 決して戦意高揚というよりはむしろジェリコやドラクロアのようなドラマティックな構図が狙いだと思うが、その故に招く戦後日本での村八分。 ついに仏蘭西に帰国し、帰化。そしてカトリック入信。 そして最後の作品とも言えるランスの礼拝堂。 どのような思いがフジタの胸を去来したことだろう。 ところで君代夫人をモデルにしたこの「カフェ」はもっともフジタらしい魅力的な作品の一つだが、実はロイヤル・コペンハーゲンの陶板の複製が我が家のリビングを飾っている。 複製とは言え、白磁の陶板に焼き付けられた肌の色は、原画以上にフジタの乳白色の輝きがあるのでは、と満足している。
迷ったらランチはカレーに限る。
今日は昭和通りにあるインド料理の「ナイル」にでかけた。 まだ二度目というのに、“毎度ありい!”とインド人のオヤジは愛想がいい。 ここではメニューは頼む必要がないし、頼まぬほうがよい。 オヤジが“ムルギ?”といったら、“勿論!”といえば、さっと骨付きのチキンカレーが運ばれてきて、親父が器用に骨から皮と身をはずしてくれる。 それをライスと付け合せとぐちゃぐちゃにかき混ぜて食べると、昔訪れたオールド・デリーの喧騒と雑多な匂いが蘇ってくる。 “うまい!”と叫ぶと、“いい辛さでしょう”とオヤジが破顔する。 ちなみに別のものを注文すると、オヤジの顔が厳しくなるそうだ。 この毎日でも飽きないカレーの素晴らしさは、健康に良い事にある。 スパイスとして使われる黄色い「うこん」に、抗酸化作用に優れたクルクミンがたっぷり含まれているからだ。 「酸化」とは平たく言えば「錆び」の事で、老化の最大原因の一つが、活性酸素による身体の錆びとされている。其の錆びを押さえてくれるのが抗酸化物質だ。 こうして僕はせっせとカレーを食べる事で錆び抜きに励んでいる。
僕のような凡才でも、これまでに天才的な?閃きが二度、三度は無かったわけではない。
ただ、途中で邪魔が入ったり、わき道にそれたりして実を結ばなかっただけである。 発明王エジソンがこういっていたような気がする。 “天才とは1%のインスピレーションと99%のパースピレーション(汗を流すこと)である。”と。 つまりどんないいアイデアが浮かんでも、それをコケの一念で何年でも追い続ける執念と努力が必要だということだ。 そういわれれば誰でも、ああ、あの時あれを追っかけていればなあ、と悔やむ閃きの一つや二つは思い当たるだろう。 例えば僕の場合。 アメリカ留学中、インターンを終えて希望して一年間実験室に配属してもらった。 教授からは二つのテーマを与えられた。 一つは胃切除後の鉄吸収の問題で、今一つはクラッシュシンドロームといって、外傷で四肢が挫滅したときに発生する腎不全の治療法の研究である。 両者とも犬を使った実験だが、後者では麻酔をかけた犬の下腿を、ハンマーで100回ほどたたいて挫滅させるというまことに残酷な実験で、今なら動物愛護協会が黙っていないだろう。 毎日、一回、二回と数えながら犬の足を叩き潰しながら、ふと思った。 もし、挫滅でなく、外傷で足がちぎれてしまったとき、また、繋げばくっつくのではないかということである。 それまでにそういう手術報告は無かったし、実験も見当たらなかった。 だが、冷静に考えると、血管でも神経でも、骨や腱は勿論だが、それぞれは手術で繋ぐことは出来る。ならば全部切れても、一度に全部繋ぎなおすだけの話じゃないか。 僕は興奮してその晩留学生仲間に話したが、皆一笑に付して相手にしてくれない。 そんなのは着くはずが無い、無駄だよと。 翌日教授にこのアイデアを持ち込んだ。 彼曰く、“お前はまじめに「糞」を掻き混ぜていればよい”と。 胃切除の実験では、正常犬と胃切除後の犬の二群にアイソトープの鉄を飲ませたあと、排泄物をすべて集めてガイガーカウンターで吸収されなかった鉄分をカウントして両群の鉄吸収を比較する。 真夏の毎日、クーラーの無い実験室で、僕は犬の糞をミキサーで均一に攪拌しては、そのサンプルを計測していたのである。臭いなんて生易しいものでない。 次の年からまた僕は病棟にレジデントとして戻り、世紀の大実験のチャンスは失われた。 それから十数年後、アメリカのどこかで鉄道事故で切断された下肢を繋ぐことに成功し、その後は顕微鏡を使って細い血管や神経も繋げるようになり、指を含め「切断肢の再接着」の黄金時代が到来し、日本の研究者たちもパイオニア的な役割を果たすことになる。 今でも思い出すたびに、ああ、あの時糞(シット)と縁を切っておけばなあ、と無念の思いが込み上げ、僕の閃きを無視した教授に向かって英語で罵声を浴びせたくなる、シット!(糞ったれ!)と。
一体此の男は何者だろう?
福原義春の「本よむ幸せ」をよみながら考え込んでいる。 資生堂の元会長であることは言うまでもない。 読書家であるとは聞いていた。 又「蘭の栽培」なども趣味の範囲を超えているということも。 だが、ここで彼が回想する本の数々は半端でない。しかも古今東西、絵本からビジネス書そして哲学書まで幅広い。 なによりも其の読み方。 “眼光紙背に徹す”、など生易しいものではない。全て彼の血となり肉となり、更には現代に生きる我々のメッセージとなって、訴えかける。 こんな読書三昧の社長でよく資生堂は潰れなかった、いやだからこそここまで栄えてきたのだと納得し、“「本よむ幸せ」をよむ幸せ”を今僕は噛みしめている。
“私は犬よ。”
“いえ私は絶対ネコ。” 美女軍団が喧々諤々の議論をしている。 僕は朝の散歩道を思い出した。 必ずすれ違がう犬派の幾組かがある。 赤いチャンチャンコを着せられたダックスや、図体は大きいが気のよさそうなアフガンや。 猫はというと、何十匹ともなく野良ちゃん達が公園を徘徊している。 隣に大仏次郎館があるが、死せる「大仏」が野良猫を呼び寄せているのかもしれない。 それとも毎朝大きな袋に食料を抱えて、餌付けする不心得者のせいか? “先生はどちら?” 美女軍団の矛先がこっちに向かった。 “勿論猫さ。” 僕は子供の頃「たま」という黒白の猫と添い寝していた。 “何故猫ですか?” ふむ、犬が嫌いなわけではない。だが改めて考えると、“犬と違ってネコには媚がない。 気が向かねばそっぽを向かれるが、それだけに擦り寄ってくるときは本心だと嬉しくなる。 だから僕が好きなのはネコと女の子と、そして勿論チョコレート。” と答えたら、一瞬皆複雑な顔になり、それでも納得してくれたようである。
昨日の「近江谷みどり」の書き込みを見て、矢も楯もたまらず小田原の「うなぎ友栄」に駆けつけた。
彼女が教えてくれた通り、小田原厚木道路を箱根口で降り、国道を左折したところの左側に、其の店はあった。 こじんまり落ち着いた造りの座敷に席を取ると、メニューを見る前に店のものが“うな重ですね。”という。定番らしい。 やがて出てきたうな重の中身は、熱々のジューシーなのが立派に二枚乗っている。横浜の某老舗のうな重は、もっとお値段も張ってただの一枚だけである。 配偶者共々十二分に満足して店を後にした。 「みどり」は名優「近江谷太郎」の令夫人で、形成外科の名医である。彼女が副院長を務める神保町のM&Mクリニックには、年中知り合いの患者さんをお願いして、何時も満足してもらえている。 「みどり」が形成外科の腕が優れているだけでなく、「舌の肥え方」も確かなのを知り嬉しくなった。
今日はこれで又、全快に一歩近づいた。
事故以来中断した学習院の生涯学習センターのセミナー「身近なアンチエイジング」(春の部)第一回を無事終えたのである。 受講者は定員一杯の20名。福島、大阪から駆けつけてくださった方も居られた。感謝。 始めは皆さんおとなしく聞いていたが、 「イギリスの哲学者ベーコンがエッセイの中で、若返りの秘訣として「食事、運動、衛生」などを挙げ、最後に「処女の息を吸う」という、大変良いことをいってくれてます。そのまま実行すれば今はセクハラで吊るし上げられるでしょうが、その精神は、社会良識に反しない程度で生かされてもと考えていますが・・・」と僕の持論を展開すると、会場はにわかに活気づき、 「処女でなくて熟女では?」 「先生はどう実践されていらっしゃる?」 など、鋭い質問を浴びせかけられ、気の弱い講師はタジタジとなった。 次回はこちらも理論武装して、熟女軍と相見える事とする。 僕は今二つの医療サイトでカウンセリングを設けている。 ひとつはアンチエイジング・ネットワークで今ひとつは創傷治癒センターだ。 両方で日に5件から多いときは10件ほどの質問が来るが、なるべくその日のうちにと思うがチョッと油断すると、20件ぐらいすぐ溜まってしまう。 前者では肌のアンチエイジングに関する問い合わせ、後者では傷跡に関する相談が多いが、匿名の気安さか、いろいろなタイプの質問が舞い込むので、面食らうことも多い。 中にはケータイ感覚で、“チョッと怪我しちゃったんだけどさあ、どうしたらいいの。すぐおしえて。”などと、作法を知らないというよりどこのどんな怪我だかもわからないので、答えよう無いものもしばしばある。 だが大方は結構真剣な問い合わせで、何とか満足のいくお答えをと努力するが、すぐメールでの回答の限界にぶち当たってしまう。 まず、肌の悩みにせよ傷跡にせよ、拝見しないでものを言えばどうしても一般論になってしまう。 たいていの質問者は、一般論はとうに承知で、その上で自分の場合はどうかと知りたいわけである。 そのためよく聞かれる質問をFAQとして載せているが、やはりもっと具体的なことが知りたいようである。 また、多くの場合は既に主治医が存在する。 そちらのほうが実際に診察しているのだから、こちらより有利な立場にあり、その意見を尊重すべきである。 もし、いわゆるセコンドオピニオンということなら、通常主治医の了解の下、主治医からの資料も拝見しないと、お役に立つ答えは難しい。 そこで結局は質問者の住まいになるべく近い適当な専門医をご紹介するか、東京近辺の方なら当方のクリニックにおいでいただくことになる。 だが、あまり特定の医師やクリニックに偏ると物議をかもすので、今試みているのは安心して紹介できるクリニックを網羅した全国マップ作りである。 質問者がこれを見て、地域別にまた専門別にご自分で複数の候補から選べるようにしたいと思うが、これまたなかなかの難事業である。 医者と患者の相性もあるし、また腕のほどは評判だけではわかるものでなく、かといって診療なり、手術をいちいちこちらが検分させていただくわけにも行かない。 また、レストランやエステと違って、チョッと覆面で試してというわけに行かないのが、ミシュランとは違う医療機関の評価の難しさである。 学会参加の魅力のひとつは、特別講演として医学とは直接関係の無い分野の方のお話が聞けることである。 講演者の選択には会長の好みや人柄が反映されるが、数年前の金沢の学会では、作家の五木寛之さんだった。 彼の作品は僕の好みでもあり昔はよく読んだが、最近は「百寺巡礼」などとどうもチョッと抹香臭くなり、しばらく遠ざかっていた。 今回の講演も「こころ・と・からだ」という題で、さして期待もせずどんなことを言うかチョッと聞いて見ようぐらいの軽い気持ちだった。 だが、素晴らしいお話だった。 キーワードは「愁」の一文字である。 “物事にはすべて相反する二面がある。喜びには悲しみ、笑いには涙、楽しみには憂い。 そのどちらも人間には必要であり、たとえばどれほど美しく楽しいものでも、その裏にかすかな愁いを感じさせなければ、完璧とはいえない・・・・” など、僕が下手に文字にするとただ理に落ちてしまうが、彼の巧みな話術は聴衆の琴線に触れるものがあり、話し終えたときには拍手が鳴り止まなかった。 “生きるためには自分の弱さを認め、自分を許し、雪に覆われた竹のようにしなやかに耐え、やがて時期を得たら、またしなやかにスプリング・バックすればよい。 それに反し堅い松の枝は、雪の重みでかえって折れやすい。金沢の兼六園の名物の雪吊りが必要なのはそのためである。” とも言われた。 これはいわば流行りの「ポジティブ思考」のアンチテーゼである。 話を聞きながら僕は早死にした弟のことを終始想って、涙が止まらなかった。 弟は、父親の強引な「ポジティブ・シンキング」のために追い詰められて死にいたった、と姉は信じそれを小説にまでしている。 その姉は物書きだが、五木さんの後押しもあって、そのむかし直木賞を受賞している、別の作品でだが。 もっと具体的に講演の内容をお知りになりたい方は、五木さんの書かれた同名の著書があるのでそちらをお薦めします。
野菜ソンムリエ協会のレッスンがあった。場所は銀座のレストラン「GINZA Kansei」
岸村講師から、食材選びと調理法を教わり、坂田シェフの造られた特別ランチを賞味した。 昨今、一日一食だの、3割減らせだの、エクセントリックなダイエット法が横行しているが、今日のお話を聞く限り、身体に良い食生活とは至極常識的で、しかも楽しいものだと言う事がよくわかった。 つまり ①新鮮な色とりどりの野菜を十分摂る事 ②炭水化物は控えめに ③脂肪は肉類の飽和脂肪酸を避けて、植物、魚の不飽和脂肪酸を ④タンパク源は植物性だけでなく、魚や赤見の肉で ⑤腹八分目 そう、すべて皆さんがすでにご承知の常識的な事ばかりです。 安心して、食事を楽しみましょう。 僕の信念は、”美味しく頂けば全て栄養になる”ですから。
事故で腰椎骨折をしてから今日で丁度半年。
経過は順調で、コルセットも外して動き回っている。 だが、やはり未だ腰痛には悩まされている。何時も痛い訳ではないが、腰の辺りが重苦しく、何か嫌な感じで動作も緩慢である。 何時までこれが続くのか、ほんとうに全快するのか、いささか不安を覚えているところに、岐阜の市田先生の励ましの手紙が届いた。 市田先生は岐阜で市田クリニックを開業されているが、美容形成外科の分野では、日本で五本の指に入る名手である。 出身が整形外科であるので、まるでこちらの心の内を見抜いたような、嬉しい手紙だったのでここに一部をご紹介する。 「前略 大変なお怪我からの回復ひとまずお目出度うございます。脊椎の圧迫骨折は他の長幹骨折と異なり、仮骨形成はX線撮影で見ましてもなかなか分かるものではありません。痛みの症状が軽くなった事で治癒に近づいたと考えるべきでしょう。しかし骨折の震源地点の圧痛は長く残るものです。其のレベルでの末梢神経症状がなければそれでよしとするしかありません。 後は骨粗鬆症にならないように、カルシュウム分の摂取を心がけてください。やはり一年がかりでしょうね。・・・」 其の通りです。市田先生、ほんとうに有り難う。又、元気が出てきました。
入院生活中お世話になったボーズを眺めながら、僕はオーディオについて思いをめぐらしている。
CDの前には50年ほど、LPの時代があった。 が、我々昭和一桁は、いわゆる78回転のSP版で西洋音楽の洗礼を受けた。 針音がガーガーと邪魔するだけでなく、一面せいぜい4,5分。 絶えず裏返したり、次のと入れかえたり、交響曲など10枚近く、黒くて重い、しかも割れやすいシェラック板と格闘しなければならなかった。 だが、その頃の方がかえって「理想の音楽」を楽しめたのではないかと思う。 ちょうど、腕が欠けたビーナス像に、実現できない「理想の腕」を与えて満足感を得ていたように。 録音がデジタル化され、目隠しされれば生の音か、再生音か区別付かないところまでテクノロジーが発達したいま(実際にスクリンーの裏側に生のオケとステレオ装置を隠し、どこで切り替わったか当てさせる試みもあった)、どうオーディオと付き合うか、三つのタイプに分類できるだろう。 まずははじめから生の音ではないと割り切り、そこそこのセットで満足するタイプ。 「音楽が楽しめればよい」ということで、大方はこのタイプで、僕の配偶者などもそうだ。 次は忠実な再生を追い求め、ついにはスピーカーに合わせて家を建てなおした「五味康祐タイプ」。 だが誰もがそれだけの印税が入るわけでもないし、いつも理想は手の届かぬところに逃げていく。 五味康祐にしても、あれだけ金をつぎ込み努力を重ねても、死ぬまで心の安住は得られなかったと思う。 第三のタイプは忠実な再生は不可能と悟り、むしろ自分で「好みの音作り」を心がける。 音楽の好きな技術屋さんに多いようだ。 彼等は工学の素養や技術力もあって、アンプなどは自分で工作し、裸のスピーカーを買って、ボックスなども自分で作ってしまう。 こうしてあまり器械には金をつぎ込まず、「自分の音の世界」を楽しんでいる幸せな人種である。 ただ、スピーカーの位置とか、配線とか、そう、それから座る場所にはうるさい。最適な場所は一箇所しかないようである。 何人かそういう人種も知っているが、確かにその指定席に座り、しかるべきディスクに耳を傾ければ、陶酔するような音色が響いてくることもある。 そう、そのほかに、なんでも中途半端でロクに音楽も器械もわからぬくせに、ブログの上で「ハッタリをかます」、僕のような人種も居ることも付け加えておこう。
このたび横浜市大に形成外科の「正講座」が誕生し、前川君がその主任教授に就任した。
先だっての土曜日その祝賀会が開催され、僕も横浜のベイシェラトンに馳せ参じた。 思えば“長い道のり”だった。 僕が横浜市大に形成外科診療班を開設したのは1968年。もう半世紀前の事である。 市の財政事情もあり、開設当時は医師は僕一人。診察机一つの狭い外来で看護婦一人と二人体制で診療を始めた。ベッドはゼロ。他科の空きベッドを拝んで使わせてもらった。 其の時の市当局との約束は、“可及的早く”講座にするので、それまで我慢して頂きたい、と言う事だった。 “可及的早く”と言うのは、役人用語では“半世紀”を意味するとは思い至らなかった。 そして今、教授以下スタッフ全員が揃った正規の講座が誕生した。感無量である。 だが、あの頃は僕も若かった。ハンディキャップを物ともせず、少数精鋭で健闘した。学生にも厳しかった。学生の下宿の電話番号を控え、朝の講義に顔を見せないと、下宿のオバさんに電話をかけ、叩き起こしてもらった。 “塩谷の講義に遅れるな。下宿に電話がくるぞ。”と黒板に書かれたのも其の頃だった。 “・・・・・ま、昔の事はともかく、未来に目を向けよう。 此の半世紀に形成外科は素晴らしい進歩を遂げた。其の為、もう俺たちにはやる事が無くなったなど悲観的な言を弄する輩もいるが、とんでもない。形成外科は今行き詰まっている臓器別の外科と違い、「創傷治癒」と「皮膚移植」を武器に、頭のてっぺんからつま先まで、全て守備範囲だ。 患者の悩みのあるところは何処でも出向いて、我々の技術を提供すればよい。世界初の腎移植でノーベル賞を受賞したマレーは、ハーバードの形成外科教授だった。今流行の再生医療にしても、「培養皮膚」と言う形で我々が先鞭をつけたではないか。” と前川新教授を激励し、乾杯の音頭とした。 (フォトに写っているのは元関東労災形成外科部長の伊藤先生です。)
丸ビルの最上階の皇居側に面するレストランモナリザは、僕がいう「決して裏切られる事の無いフレンチ」の御三家の筆頭である。
其のモナリザで金曜の夜、NPOを支える美女軍団とディナーを楽しんだ。 遅れたホワイトデーのつもりだったが、図らずも僕の事故後半年の快気祝いともなり、シェフの河野さんがシャンペンをプレゼントしてくださった。 これで僕も「美女と美味と美景」の揃い踏みで、完全復帰を成し遂げた事となる。 ところで僕は今、二つのNPOに関わっている。 ひとつは「アンチエイジングネットワーク」。今更アンチエイジングが何か説明の必要はないでしょう。 だが今ひとつの「創傷治癒センター」となると如何かな。 一言で言えば、キズのケアの啓蒙である。 具体的には ①火傷や怪我のキズの正しい手当法。 ②“床ずれ”など所謂治りの悪い潰瘍の処置の普及。 ③培養皮膚を中心にした再生医療の推進。 を目的にしている。 今日も此の二つのNPO法人の会合があり、四月からの活動方針を賛助会員の方々と協議した。 事務局の皆さん、本当にご苦労様でした。これからも宜しくお願いします。
庭の「木香薔薇」が咲き始めた。
薔薇の原種だけあって、ほっておいてもどんどん育ち、毎年我が家の玄関口を飾ってくれる。 上手に草花を咲かせる人を、「グリーン・サム」、緑の親指を持っているというが、配偶者は親指だけでなく、両手すべてが緑色に違いない。 朝起きるとまず、庭の水遣りである。 まだ子供たち5人とも家に居て、犬も2,3匹うろついていた頃は、花の次は犬、そのあとが子供たち、こちらにグリーン・サムが届くのは、いつもどん尻だった。 “もっと貴方が庭仕事を手伝ってくれればねえ、”と配偶者はこぼすが、こちらの親指は「生活費」をひねり出すのに忙しい、「ゴールドフィンガー」と言いたいところだったが。 これでも子供のころは「園芸オタク」だったといっても信用してくれない。 其の頃は戦時中で肥料や種も余り手に入らなかった。 しかも我が家は、日当たり、風通しという花つくりの必須条件にかけていた。土壌も赤土である。 種をまいても芽すら出てこないことが多かった。 幸い、バラだけは赤土でよく育つことが分かり,深紅の「ノクターン」や、その頃はやり始めた新種の黄色の「ピース」など、見事に咲かしたものである。 ただバラはアブラムシが付きやすい。 それやこれやで横浜に居を構えてからは、チューリップや水仙、ヒヤシンスなど、ほっといても育つ球根物や、花の咲き始めた鉢物を地植するようになり、それも専業主婦に任せっきりになった。 だが園芸は“バラに始まってバラに終わる。”ともいう。 やはり僕もデッキチェアで惰眠をむさぼるだけでなく、重い腰を上げて配偶者に手を貸し、昔取った杵柄ではないが、また、薔薇に回帰することとしよう、それこそアンチエイジングの為にも。
最近日本では、ホテルでもウォッシュレットを入れているところが増えてきたようである。
またデザインもスマートになり、操作も便座を含めリモコンのものまで現れた。 それを使うたびに僕は軽井沢の夏を思い出す。 八ヶ岳に山小屋を建てる前は、夏はいつも家族で軽井沢の友達のところにお世話になっていた。 こちらは子供5人、友人は子供3人。それぞれがまた友達を連れてくるので、閑静な落葉松林の別荘地で、友人宅だけは餓鬼どもがわいわいがやがや、リンドグレーンのヤカマシ村さながらの喧騒が夏中続いたものである。 あるときそんな賑やかな朝食の席で、僕は友人にかねて温めていたアイデアを話した。 トイレの中からお湯が吹き出るようにすれば、紙で拭かなくても済むじゃないか、と。 そりゃいい、そのあと温風で乾かせば、と彼もすっかり乗り気である。 二人でカフェ・オレをすすり、トーストをかじりながら新式のトイレのデザインに夢中になった。 “ おい、○○ちゃん、”と何を思ったか、彼は娘の友達の一人に声をかけた。 “ 君たちはおしっこのあとも紙を使うんだろ。その時は前から拭くの、それとも後ろから?” “いやらしいお父さん!”と叫んで、女の子たちは逃げていった。 “あなた方、食事の席でそんな話はやめて、”と配偶者達にたしなめられて、我々二人はシュンとなり、大発明はここで立ち消えになってしまった。 これは40年も前の話である。 ウォッシュレットが市場に現れたたのは、それから少なくも20年は経ってからのような気がする。 それが今はもうどこの家庭にも、そしてホテルにまでゆき渡っている。 その開発の歴史は知らないが、夏の軽井沢で僕に閃いた頃は、まだ誰も思いつきもしていなかったのではなかろうか。 ああ、あの時ひるまずに試作品を作り、せめてパテントを取っていれば、今頃はトートーやイナックスが頭を下げてきて、ガッポガッポとパテント料が入っていたのになあ、と、ウォッシュレットを使うたびに、無念さがこみ上げてくる。 あの時あいつが、あのいやらしい一言さえ言わないでくれたらなあ!
このところ「アンチエイジング」に関する取材や問い合わせが急増している。
今日も三つほどこなした。 嬉しいことであるが、こちらのしゃべる事は毎回同じことの繰り返しである。同じ人間が同じテーマについてしゃべるのだからやむをえないが。 まず、「アンチエイジング」といっても人によってさまざまであること。 一言で言えば、「健康長寿」であって、「不老不死」を目指すわけではないこと。 アンチエイジング、抗加齢というのはネガティブな表現なので、本当はもっとポジティブな、例えばサクセスフル・エイジングといった言葉にしたいが、日本語でぴったりのがないのと、すでにアンチエイジングと言う言葉が行き渡ってきているので、あえて別の言い方にはする必要がないかもしれないということ。 日本語だと抗加齢であり、その中で医学的な部分を抗加齢医学とよんでるが、これは抗加齢の重要な柱ではあるが、あくまで手段であり、目的はアンチエイジング・ライフにあること、ETC、ETC・・・・ いつも事務局のどなたが同席してくださるが、もういい加減聞き飽きたのでは、とお気の毒になり、昔聞いたクリスチャン・バーナードの話を思い出した。 もう今の人はその名すら知らないかもしれないが、クリスチャン・バーバードは世界で最初に心臓移植を成功させた、南アの外科医である。 彼が来日したとき、一般向けの講演を聴いたが、難しい移植の理論だの技術だの話は抜きで、いろいろなエピソードをジョーク混じりで語り、聴衆を魅了した。 その一つ。 手術成功直後から、当然ながら年中講演に引っ張り出され、彼の運転手もいつも後ろで聞いて話をそらんじるほどになったという。 そこであるとき、運転手を「影武者」に仕立て本人はそっと後ろで聞いてみたという。 幸い運転手はいつもの師匠の通りに無事話し終えた。 さて、そのあとの質疑で、かなり難しい質問が出て、どう答えるかと流石のバーナードもヒャッとしたそうだが、運転手はいささかも動ぜず、 “そんな簡単な問題は、私の運転手でも答えられます、彼は何回も私の話を聞いていますので。おい君”、 とバーバードを指差して、答えさせたという。 だからといって、僕は事務局の方を運転手になぞらえているわけではない。 だが影武者はいいアイデアかもしれない。事務局にはもう充分候補者は何人も居られるからだ。 でも影武者の方が、僕より人気が出てしまったら・・・・ これではもう僕は形無しである。しかもその可能性は大である。これはよく考えたほうがよいかも知れぬ。 高速湾岸線は今日も料金所からビッチリ渋滞だ。 FMをオンにする。 チャッ、チャッ、チャッ、チャー・・・軽快なタンゴのリズムが流れ出した。 「ただいまのはラ・クンパルシータでした。次はカミニート・・・」とDJの喋りが続く。 最近またダンスがはやっているようだ。映画,「シャル ウィ ダンス?」が火付け役だったようだ。 “でも塩谷さん、アルゼンチン・タンゴはいけません。お品が悪い。タンゴはやはりコンチネンタル・タンゴですわ。どう、このジェラシー。素晴らしいとお思いになりません? 優雅にステップを踏みながらK夫人は言われた。 半世紀前の軽井沢の話である。 その昔、軽井沢が六本木と化するはるか以前。 車はまだ珍しく、自転車がファッションではなく、必需品だった頃。 夏ともなれば霧と落葉松を舞台に若者達の「真夏の夜の夢」が繰り広げられていた。 K夫人はいつも着ている服の色から、一部の人達からは「紫婦人」と呼ばれていた。 そのK夫人には高校に行く一人娘が居た。 明るい朗らかなお嬢さんでスタイルも抜群。膝が曲がらないように子供のときから正座させたことがないというのが母親のご自慢だった。 そして彼女を取り巻く華やかなクラスメートの美女集団があった。 当然のことながら、その周りには野獣が群がった。 昼はテニス、夜はダンス。そこで流れる曲はワルツであり、ブルースであり、コンチネンタル・タンゴであり、当時ジルバなどはご法度だった。 S嬢もその中の一人で、聡明でやさしいが芯はしっかりしていると、野獣どもの評価は高かった。 ある晩、彼女は純白のドレスで現れた。なんと言う生地だったか、当時流行の上等な服地で仕立ててあった。 その日の彼女のとりわけ優雅だったこと。 一緒に何を踊ったかもう覚えていないが、あのちょっとごわごわした生地の手触りは今でもしっかと覚えている。 “塩谷さん、どうお思いになって?” その晩k夫人は僕に尋ねた。 “Sさんですか。いや、素晴らしい。ステキなお嬢さんですね”。 K夫人の眉がキリット吊り上がったのに気づかず僕は続けた。 “結婚するなら彼女だって、皆の評判ですよ。” その宵限り、彼女の姿をK夫人の夜会で見ることはなかった。 その後縁あって、彼女は東宮御所の住人となり、愛称のミッチーは全国民の口に上ることになる。 やがて三児の母親として、義父の没後、夫と共に一段と厳しさを増す公務に耐えながら、けなげに立派な家庭を築いてきた。 幸いご主人も理解のある方のようだ。 だが何かの折にふと思う。 あの厚い菊のカーテンの向こうで、今でも夫と手を組んでダンスを踊ることがあるだろうか、アルゼンチンは無理にしても、せめてコンチネンタル・タンゴぐらいは?
旅の楽しさの半分はプラニングにある。
僕の場合は先ずミシュランの「グリーンのガイド」で当たりをつけるところから始まる。 次に、赤いミシュランの「レストラン・ホテル」ガイドを手にしてホテルの選択で思い悩み、更に同じミシュランの黄か赤の「マップ」を広げ、ドライブコースをあれこれ思い巡らすのが旅行前の通過儀礼である。 ホテルについては“手ごろな値段で、ある程度は快適で、しかもキャラクターがあって”と、僕の注文は虫がいい。 だいぶ前にニューヨークのアルゴンキンの話をしたが、それ以外アメリカにはなかなか今の条件にかなうものが見つからない。 一つにはアメリカでは、大手のホテルチェーンによるM&Aで、すでに中小の個性的なホテルがほとんど買収されてしまったからだ。 このあたりの事情は、もう数十年前に書かれたアーサーへイリーの小説、“ホテル”にリアルに描かれている。 ところがヨーロッパにはまだ、魅力的なホテルがウジャマンとあり、目移りがして、一つに絞りこむのが不可能なほどである。 まず、その都市を代表する格式高いデラックスホテルが必ず一つはある。 ロンドン、パリ、ローマなどはこのクラスのホテルがまた四つ五つはあるので困ってしまう。 ただ、これは僕が今取り上げようとしている中小の個性的な、という定義からはチョット外れる。 又、お城や館をホテルにした、いわゆるシャトーホテルも魅力的であり、フランスを中心にヨーロッパ全域に「ルレ・エ・シャトー」としてグループを作っているが、料金は決してお安くはない。 ドイツ語圏を中心には、似たような系列として「シュロス・ホテル」というグループがある。 イギリスだといわゆる「マナーホテル」がそれに当たるが、特にグループはなく、主要なものはルレ・エ・シャトーに属するものが多いようだ。 スペインの「パラドール」も似てはいるが、これは民宿的なものも含まれているようだ。 イタリヤの場合は、「アグリツーリスモ」といって、民宿と農家を兼業したようなものもある。 だが僕がここで取り上げたいのは、こういった特殊なホテルでなくとも、手ごろで魅力的な中小ホテルホテルが、ヨーロッパにはいくらもあり、それを見つけ出すのがまた楽しみの一つだということだ。 ではどうやってそれを探し出すのか? やはり普段からの心がけである。 まず、いろいろなガイドブック、特に最近はこういったプチ・ホテル、カントリー・インといったのに焦点を絞ったものもあるし、ムックや雑誌の特集記事にも注意することである。 また現地の人、そしてホテルを経験した人からも常日頃、情報を収集しておくことである。 しかし、実際に行ってみると、意外に期待と違うこともある。このギャップもまた勉強になる。 つまりこれを繰り返していると、“旅行案内の紙背に見え隠れする実態”、また人の話のニュアンスなどから、自分の好みに合うか少しずつ洞察できるようになり、次回の参考になるからだ。 こうして僕は幸いにいくつもの、お気に入りのホテルがヨーロッパにはあるが、いずれまたの機会に。 一つだけ付け加えると、僕がこれだけホテルにこだわるのは、やはり外国に出た場合、ホテルによってその場所の印象も大きく変わりうるからだ。 そして往復に何十万も使うなら、あまりホテルでケチって不満足な思いをすることもないだろうということ。 そして場合によっては、そこに滞在すること自体が一つの体験になるような宿なら、多少は無理しても泊まりたいと思うからだ。
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塩谷信幸
1931年生まれ
東京大学医学部卒業 北里大学名誉教授 北里研究所病院形成外科・美容外科客員部長 AACクリニック銀座 名誉院長 NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長 見た目のアンチエイジング研究会代表世話人 東京米軍病院でのインターン修了後、1956年フルブライト留学生としてアメリカに渡り、オルバニー大学で外科を学ぶうちに形成外科に魅了される。数年の修業の後、外科および形成外科の専門医の資格を取得。 1964年に帰国後、東京大学形成外科勤務を経て、1968年より横浜市立大学形成外科講師。1973年より北里大学形成外科教授。 1996年に定年退職後も、国際形成外科学会副理事長、日本美容外科学会理事として、形成外科、美容外科の発展に尽力している。 現在は、北里研究所病院美容医学センター、AACクリニック銀座において診療・研究に従事している。 >>アンチエイジングネットワーク >>NPO法人創傷治癒センター >>医療崩壊 >> 過去のブログはこちら(2005年5月26日~2006年5月26日) by n_shioya 以前の記事
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