会社員の夫とともにさいたま市浦和区の在住・電車で国会に通勤中!
1965年9月8日、岩手県遠野市に生まれる | |
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母の実家のある遠野で産声をあげました。父も母も休みなく働いていましたので、子供のころは毎年、夏休みになると岩手県の母の実家に預けられました。岩手の叔父は鉄の原料を採掘する会社で働きながら果物を栽培する兼業農家でした。働く現場の大変さ、仕事の辛さについて毎夜、叔父が語ってくれたことを今でも忘れられません。 |
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東京下町の小さな工務店んで、住込みの職人さんたちに囲まれて育つ | |
町工場がひしめく東京都大田区本羽田という町で、出稼ぎの職人さんや中学校を卒業して上京してきた職人さんたちとひとつ屋根の下で暮らし、私の母は職人さんや家族の食事・洗濯の面倒をみながら工務店の経理を担当していました。しわの中に土やほこりがめり込んでしまっている私の父の大きな手、今日は故郷に帰れるという日の出稼ぎの職人さんの何とも言いようのない笑顔、首にまいたオレンジのタオルで額の汗をぬぐう 職人さんの姿。これが、私が育った環境であり、私の原点です。参院選ではオレンジ色をイメージカラーに戦いましたが、私にとってオレンジ色は、子供の頃の 原風景の中で「働く人」の象徴の色なのです。 |
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ICU国際基督教大学卒業(写真部部長、ロックバンドのドラム担当) | |
高校時代は正直あまり勉強が得意ではなかったため、詰め込み式の受験勉強が功を奏さない変わった試験を行うという話を聞き、ICU(国際基督教大学)を受験しました。他の大学は全滅でしたが、相性が良かったのかICUだけは合格。ICUは帰国生や留学生が多 く、私が専攻した社会科学系の一部の授業は英語で行われ、論文や試験も英語となります。日本にいながら異文化と遭遇し、カルチャーショックの連続でした。大学時代は、ロックバンドのドラムを担当し、文化祭などでは自慢の腕を披露したり、写真部の部長を務め60人ほどの所帯を切り盛りしたりと、どちらかというと勉学よりも部活に忙しい日々を過ごしておりました。 |
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電通など民間企業に18年間勤務(2度の転職や契約社員を経験) | |
政治の世界に関心を抱きながらも、親族に政治家がいるわけでもなく、普通の一会社員がどのようなアクションを起こしたらよいのか、また、政治が国民の生活を守るためには政権交代が必要なことはわかるのですが民主党で本当に大丈夫なのだろうか、といった思いが逡巡するまま月日が過ぎていきました。そんな中、2003年9月に民主党と自由党の合併という事件が起き、 生意気なようですが、これでようやく政権担当能力のある野党が誕生したことを確信しました。そして翌2004年3月には、政治を目指す第一歩として、民主党の国会議員 候補者公募に応募するにいたったのです。 |
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2007年7月、参議院選挙(埼玉県選挙区)で初当選 | |
06年暮れも差し迫った日に、「07年参院選埼玉選挙区の2人目の候補者」というお話を民主党から頂きました。「3人区で2議席取れるようでなければ政権交代はできない。何としても埼玉で2議席取らなければいけない。」政権交代に対する情熱と執念に共感し、埼玉選挙区2人目の候補者として出馬する決意をしました。 07年2月、電通を退社した3日後に出馬表明、後はひたすら走り続ける日々。2007年7月の参院選では大変多く の皆様のご支持・ご支援を頂き、745,517票で初当選をさせて頂きました。 |
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