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Re: 対論の条件

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2013年 5月 9日(木)16時50分2秒 125-15-220-229.rev.home.ne.jp
返信・引用
  > No.44743[元記事へ]

名無しさんへのお返事です。

> もう少し、インターネットの常識を身につけた方がよろしいかと。

投稿が途中になってしまいましたスミマセン。

具体的に言えばIE9では、AU携帯の七誌・・じゃなかった名無しさんが
提示して下さったリンクを踏んでも全記事表示がされません。

IE10やGCを使えば見ることができます。
 

Re: 対論の条件

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2013年 5月 9日(木)16時34分43秒 125-15-220-229.rev.home.ne.jp
返信・引用
  > No.44743[元記事へ]

名無しさんへのお返事です。

> 阿部日ケ~ン(院政)さんへのお返事です。

かれこれ12年ほどやっていますがなにか?
 

Re: 対論の条件

 投稿者:名無し  投稿日:2013年 5月 9日(木)16時29分39秒 KD182249106136.au-net.ne.jp
返信・引用
  阿部日ケ~ン(院政)さんへのお返事です。

> ご丁寧かつ丁寧に教えていだだきにありがとうございます。
> 「記事一覧表示」ができないように仕掛けがされているという事です。

いやだから出来ますってば。
念のため、トップページ(記事一覧表示)のアドレスを貼ります。

ttp://6238.teacup.com/tsurutaro33/bbs/?

もしかして、RSSリーダーの記事から飛んで来てませんか?
それだと単独記事表示にしかなりません。

もう少し、インターネットの常識を身につけた方がよろしいかと。
 

Re: 対論の条件

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2013年 5月 9日(木)16時19分42秒 125-15-220-229.rev.home.ne.jp
返信・引用
  名無しさんへのお返事です。

> 阿部日ケ~ン(院政)さんへのお返事です。
> 記事一覧表示、という文字があるのがわかりませんか?

ご丁寧かつ丁寧に教えていだだきにありがとうございます。
「記事一覧表示」ができないように仕掛けがされているという事です。

ご不審でしたら画像もアップしたいのですが、画像専用のアップローダーも
消されています。

そういう姑息なことをやりながらも大上段に構えて対論者に牽制をかけるのが
この掲示板のやり方なのです。

ネトウヨのブログや掲示板も似たような対応をとるところがありますよ。
 

Re: 対論の条件

 投稿者:名無し  投稿日:2013年 5月 9日(木)15時49分5秒 KD182249106136.au-net.ne.jp
返信・引用
  阿部日ケ~ン(院政)さんへのお返事です。

> 今現在でも大月天管理人が任されている「破邪の蘭室」は掲示板の記事全体を
> 閲覧することが出来ません。

出来ますよ。
記事一覧表示、という文字があるのがわかりませんか?
そこをクリックすればトップページになるので、
そのページをブックマークすることをオススメします。
 

Re: 対論の条件

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2013年 5月 9日(木)15時05分58秒 125-15-220-229.rev.home.ne.jp
返信・引用
  > No.44737[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

テスト代わりに久々に書き込ませていただきます。

今現在でも大月天管理人が任されている「破邪の蘭室」は掲示板の記事全体を
閲覧することが出来ません。
今回のように法華講員側の1つの記事に対して返信ができるのみで
新しい投稿ができないように「仕掛け」が施されています。

そうでなくても、新規投稿を怖れるあまり検閲モードにしている
「破邪の蘭室」は日顕宗タカ派の巣窟なので、話が通じるはずもありません。

もみ消されたり都合良く利用されるぐらいなら、今まで通り、こちら側の掲示板や
拙ブログで取り上げて日蓮正宗に落ちた「元学会員」の正体を浮き彫りにする
までのことです。

ご容赦ください。


阿部日ケ~ン(院政) より   大月天管理人さまへ
 

管理人さん

 投稿者:七誌  投稿日:2013年 5月 9日(木)14時38分22秒 FL1-60-238-126-42.chb.mesh.ad.jp
返信・引用
  こんにちは。

良い陽気で何よりです。

対論など創価学会にはもはや不要でありましょう

私は残念ながら現在においては日蓮正宗および創価学会の動向を観察

している段階です

管理人さんにおかれましては益々のご発展と、日々の生活

においても健康に留意され、楽しい毎日を過ごしてほしいと望むものです

 

松岡某の遁舌を嗤う

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 9日(木)14時36分10秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  さて、ここで、面従腹背の創価学会員に人気のある、僧侶から学者に転落した還俗者、松岡某の事に
ついて、少し述べておこう。

此の者、正統・富士門流から退転するも、後に東大で博士号を取得して、何やら悦に入っている様で
あるが、先ずは仏法義に於いて、それら学術の資格などは、単なる苔の一端である、という事をお主
には言っておこう。又、その様な事は、日蓮大聖人の学者に対する手厳しい記述からして裏付けられ
るものである。

して、此の退転学者の物言いであるが、観れば、ベラベラと恣意的な妄想を書き並べておるが、応に
此れこそは、文献莫迦と同じ思考性(連想遊戯)であり、其の本性こそは、己(おのれ)の懐疑によって、
整然と組み立てられた(相手教学の)積み木が破壊されるを愉快とするものであり、又、其の快楽を満た
さんとするが故に、繰り出す妄想の全てが恣意的となるのである。

して、此の学者殿。

先般の物言いに於いて『日蓮一期弘法付嘱書と身延相承書はその根本であり、これより血脈相承の
すべてが伝承されている』などと惚けをかまして恥を掻いたのであるが、此れこそは、図に乗って
滑った「ドジ」の典型である。哀笑。

して、小生が一番目を引いた珍舌は、

『阿部(日顕上人)は、しばしば創価学会に於ける過去の発言を取り上げ、それと私の発言との相違を
非難する。私の論の矛盾を指摘したいのならば、私の発言内容を根拠にすべきである。そうではなく、
私という「人」を根拠とし、〝松岡は創価学会側の人間だから、過去の学会指導と違うことを述べる
のは自家撞着である〟などと言うのは論理的におかしい』

と云うものである。哀笑。

いやいや、小生から言わせれば、此れほどの『遁舌』はないであろう。小笑。

先ずは第一、正統・富士門流の法義と対するに、己(おのれ)の私義私感で対するとは何事か。

果たして此の学者。一体、何処の宗教の者であるのか。一体、何を信仰しておるのか。

先ずは、そういう事を明らかにすべきである。

加えて『私という「人」を根拠とし、「私」の発言内容を根拠とすべき』などと云うは、抑も仏法義
からして邪論であり、少しの智慧が有るならば、正義は法に依って人に依らざるものである、という
事を先ずは理解すべきである。

はて、そう云えば、同じ様な事を言っていた御仁が居(お)ったような。

『組織は組織、私は私。しかし不利益はありません』
『私に対立する勢力、アレら、日蓮正宗教学です』

おお! 此れはまさしく彼の雪中老人の弁であった。哀笑。

今では『会長は会長、私は私』と言いながら、信州の山奥に於いて、磨き粉を商っているそうな。

何だ。東大博士の松岡某と、雪中老人との言い分が全く同じではないか。哀笑。

つまり此の両者をして『此の俺たちが、創価学会側の人間であるのに、学会教学と其の指導に対して
違う事を述べるのは自家撞着である、と言う日蓮正宗側の言い分はおかしい』と言っているのである。

哀笑。小生から言わせれば、もはや、そういう遁舌を吐いた時点で論敗であるぞ。

松岡某よ。お主は仏法を論ずる者として、少しは恥というものを知りなさい。哀。

一体、彼の雪中老人や蝗蟲と同じレベルで、何を論じようと云うのだ。哀笑。

日蓮大聖人曰く『自義に違ふ文有れば理を曲げて会通を構(かま)へ、以て自身の義に叶はしむ』と。

さてや、お主なども、此の御訓戒に触れる「自義優先」の不信心者なのであろう。

よいか。だから日蓮大聖人は『学者』を嫌うのである。

果たして、此のような者が、もし日蓮大聖人の御在世に居(お)って、ベラベラと屁理屈を書き並べて
いようものなら、いの一番、大聖人から言われるであろう。

『何、宗義は宗義、私は私とな。つまり、お主自体が法であり教義という事であるか。何だ。お主は
附仏法外道の主(ぬし)であるのか』と。

して、此の退転学者。

先の文句に於いて『日寛上人の六巻抄は、長らく貫主直伝の秘書とされた』と云いながら、其の舌も
乾かぬうちから『六巻抄は外部向けの言説である』などと、其の言説を翻(ひるがえ)しておる。
ったく、六巻抄をして『その内容が特に他門の目に触れぬよう、厳重に秘匿されるべきは当然である』
と断言していた御仁がである。

さても、此れこそは似非学者の醜態であるのか。其れとも、小生が過日に対した蝙蝠信者の一類である
のか。兎も角、その都度の論状に於いて、都合よく主張を変えるは、此れまさに虚偽に塗れた自義優先
の業(わざ)であり、本より論ずるに足らない我義我執の輩(ともがら)なのである。

日蓮大聖人が曰く『私説を以て公事に混ずること勿(なか)れ』と。

富士門の僧をやめ、東大の博士に成っても此の体たらく。

松岡某よ。赤面して然るべきではないのか。哀。
 

対論の条件

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 9日(木)14時22分20秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  見るに一部の者が、当室をして『仕掛け付きの掲示板なので、堂々と話が出来ない』などと愚痴をこぼ
している様だか、お主らが意図的にアドレスを隠し、所属する宗派教団と、信奉する本尊と教義を隠匿
しようとするから『しっかりと自身の立ち位置を表明してから、相手の信条に対して批判しなさい』と
言っているのである。果たして一体、これの何処(どこ)が『仕掛け』であるのか。お主らが堂々と名乗
れば其れで済む事なのである。

其れにしても、末法の御本仏は釈尊だ、などと言う黒カラスや、大聖人出世の御本懐とは本尊流布では
なく教義の定着だ、などと言う蝗蟲や、戸田先生は無知であったが故に、日蓮正宗の教義教学に騙され
て指導していた、などと嘯(うそぶ)くキツネが徘徊しておる様だが、これらの者は皆、面従腹背の痴れ
者であり、恩師の大信心に唾する、逆賊の徒輩である。

兎も角、当室に論を寄せる者は、己(おの)が所属する宗派教団と、信奉する教義と本尊を明らかにし、
コソコソと木蔭(串)から投稿するのではなく、正々堂々、自身のアドレスを用いて臨んで貰いたい。

此の様な事は、教の正邪を論ずる以前の、対論者としての常識であり、又、相手に対する礼儀でもある。
何度も言うが、其の様な事も判らない連中は、抑も、相手の信条に対して文句する資格はないのである。

兎も角、創価学会員として「自分は池田先生の弟子である」と自負するならば、正々堂々と論じなさい。

唯、それだけの事である。
 

「フェイク」の読み方

 投稿者:名も無い法華講員  投稿日:2013年 5月 7日(火)23時09分54秒 pw126210003170.5.kyb.panda-world.ne.jp
返信・引用
  永らくしつこく、次から次へとよくまあフェイクネタが尽きないものだと感心させられる創価学会職員の執念の結実である怪文書ですが、愛読者の私が、その読み方を皆様に伝授致しましょう。
リテラシーなんて、難しく考える必要はございません。

【秘伝】
全ての文章の末尾に、
「、らしい。」
「~と思う。」
「~と、思われる。」
「~と、思いたい。」
「~と、誰かから聞いた事がある。」
「、に違いない。」
等々、推定の語尾をつけると、とても分かりやすくなります。

お試しあれ。
 

Re: おはようございます

 投稿者:カトリスタント  投稿日:2013年 5月 7日(火)13時56分36秒 s859209.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
返信・引用
  法華講のおばちゃんさんへのお返事です。

> まずキリスト教から、、、
> 明治以降、有名な横浜法論がありました。
> 二千数百名の観衆と、その整理に、警察までが出て行われた、日蓮正宗とキリスト教の大法論でありました。
> もちろんキリスト教は、徹底的に破れました。

日蓮正宗vsキリスト教の横浜法論、初耳です。
詳細を教えて下さい。
 

Re: おはようございます

 投稿者:七誌  投稿日:2013年 5月 7日(火)06時28分58秒 FL1-221-170-163-244.chb.mesh.ad.jp
返信・引用
  > No.44724[元記事へ]

法華講のおばちゃんさんへのお返事です。

> 七誌さんへのお返事です。
>
> 横から失礼いたします
>
> > キリストであれ、日蓮正宗の御本尊に祈念することや創価学会の
> > 御本尊に祈念することは私の自由です。
>
> まずキリスト教から、、、
> 明治以降、有名な横浜法論がありました。
> 二千数百名の観衆と、その整理に、警察までが出て行われた、日蓮正宗とキリスト教の大法論でありました。
> もちろんキリスト教は、徹底的に破れました。
※ほぉ、素晴らしいじゃないですか。
勝ったことに御満足されましたか。
しかしそれは歴史上にあった記録でしかありません


>
> また創価学会は日蓮正宗から破門された団体です。一般法の上では言論行動の自由でしょうが、法の上では、日蓮正宗では、日蓮正宗の教義逸脱の流布は認めません。
そんなことは、貴方がいうことじゃないんですよ。
国や法律があるのですからそちらに委ねればいいのです
>
> 教義逸脱されては迷惑なのです。
>
> 日蓮正宗に入るときは、一切の邪宗邪義を捨てることを、ご本尊様に誓いの儀式をして、入信できるのです。
> 誰でも彼でもたやすく拝める、安っぽいご本尊様また宗教ではありません。

授戒ですね、それは存じております。
>
> 真面目に他宗を捨てて拝みたいと願うのならば、申し出てください。

まぁ、機会があれば。
 

法華講のおばちゃん殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 6日(月)19時54分2秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  当室への御投稿、有難うございます。

今後とも、創価学会破折の御寄稿を、宜しくお願い申し上げます。
 

名も無い法華講員殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 6日(月)19時49分59秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >私は名も無い法華「講」員です。先日は打ち間違えました。
>管理人様、宜しければ今後も書き込みをお許しいただきたく存じます。

やはり、法華「講」員でありましたか。

其れでは改めて言い直しましょう。

信仰歴23年の法華講員殿。

今後とも、当室に於いて、大いに論じて下さい。

当方は明日よりは又、多忙となり、其の都度のコメントは出来ませんが、其れとは構わずに、どんどん
御投稿下さい。

宜しくお願い致します。
 

己心本尊論の偏重を破す   

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 6日(月)19時36分23秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  本より創価学会は、其の以前に於いて、我が富士大石寺の信徒団体の其れであったが、平成2年の
池田太作による意図的な暴言によって、其の信徒団体としての資格が崩壊し、予(か)ねてからの念願
であった「宗門からの独立」を、翌平成3年に於いて勝ち取ったのである。まさに其の悦び様は
『天の時 ついに来たれり 創価王』との池田太作の狂句によって推し量れるものであるが、今にし
て無知の小会員、とくに平成2年以降に入会した小会員などは、実に一方的に破門せしは宗門の方で
あって、その強権の乱用は信徒会員の信条を無視した全くの暴挙である、などと被害者ぶるのである。

はてさて、破門を喜んでおるのか、怒っておるのか、今にして其の様相などは、応に蝙蝠(こうもり)
の其れであるが、いずれにしても日蓮正宗の信徒団体という資格を喪失し、その最たる信仰の依拠を
信徒団体として失った以上、其の組織に残留せし小会員たちへの新たな信仰の依拠を、創価首脳部は
模索しなければならなかったのである。

まぁ、其れら模索の成れの果てが、所謂、成田允可による偽本尊の委託製造ではあったが、今にして
本門戒壇の大御本尊を根本尊崇として会員に教示出来ない上に、会員が所持する何れの本尊に於いて
も『一方的に破門した日蓮正宗』の御歴代上人の判形が記されているであるから、其れこそ独立教団
としての体裁の悪さは、我らの想像を超えているものではあろう。しかし、そこは強(したた)かな
毛坊主教団ではある。

つまりは、本門戒壇だ、常住御本尊だ、御形木だ、などと言っても、結局御本尊というものは、
己(おのれ)自身の心に在るのであって、だから、己の信心が正しければ、それら本尊の類なるものは、
すべて会員一人一人の信心によって、その力用が発揮されるのである。だから、どの御本尊がどうで
あろうとも、結局は己自身の信心こそが第一なのである。と。だから、日蓮正宗御歴代の判形云々な
どは二の次なのである。と。

鼻笑。

さても、こういう小理屈を以って、本門戒壇の大御本尊から乖離させる現創価学会の魂胆と、其の
小理屈に乗せられて、己(おのれ)の心こそが本尊、などと胸を張る阿呆な小会員こそが真(まこと)に
哀れでならないが、ただ其れを傍観していては、富士門信徒として余りに無責任であろうから、
ここで、それら己心本尊の偏重たるを、文証の正しき判釈をもって破折して参ろうと思う。

先ず第一に考えるべきは、能所という立て分けを以って、其れを信仰の基軸、つまりは御本尊に
対する姿勢としなければならない、という事である。

日蓮大聖人に曰く『能とは如来なり所とは衆生なり』と。

勿論、ここで示される如来とは仏の御事である。

而して『日蓮が魂を墨にそめながしてかきて候』の御本尊こそが、応に衆生の心に働きかける能成の
御本体であり、其の力用を受ける我ら衆生こそが、応に能からして所となるのである。
仍って日蓮大聖人は総勘文教相廃立の御文に於いて『能とは如来なり所とは衆生なり』と立て分けら
れたのである。

しかし、抑も仏教の真髄は、無分別知、つまりは自己と環境、主観と客観とを分別せず、森羅万象の
全体そのものを一つとして認識するものであるから、御本尊に相対する自己の存在が、その相関関係
に於いて分離されてはならない事も事実である。

仍って日蓮大聖人は、日女御前御返事の文中に於いて『此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。
只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり』と仰せになられ
たのである。

さて、そうとなれば、総勘文抄での『能とは如来なり所とは衆生なり』との立て分け、つまり、
御本仏の魂そのものである人法一箇の御本尊と、其の仏の魂に南無せし我等衆生との関係、つまりは
其の御本尊こそは全く我等衆生の胸中に在る、という日女御前御返事での仰せからして、実に其の立
て分けに於いては相反すると思いがちではあるが、能く能く拝読せば『全く余所に求める事なかれ』
とされる御本尊は、実に法華経を持った上で題目を唱えなければ、己の胸中に於いて(其の御本尊は)
不在となる、という意が解かるのである。つまりは『法華経を持つ』とは御本尊の受持を意味するの
であるから、其の南無すべき御本尊がもし無いとなれば、否、其の正統たる御本尊が無いとなれば、
実に我等衆生をして其の胸中に御本尊を涌現させる事は到底出来ない、という事になるのである。

応に此の事からすれば、我等衆生に於ける宝塔の涌現こそは、実に御本尊の仏力・法力によって成さ
れるという事が此(ここ)に於いて領解できるのである。而して其れを『受持即観心』と云う。

日蓮大聖人、妙楽の釈をして曰く『若し正境に非ずんば縦(たと)い妄偽無けれども亦種と成らず』と。
                                    (新編 114)

仍って日寛上人曰く『夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く、故に境若し正し
からざる則んば智行も亦随って正しからず』と。(文底秘沈抄)

さても日蓮大聖人の御教示、そして、創価学会にして『大聖人直結の正師』と謳う日寛上人の御教示
からして、先に小生が文頭で示した小会員の文句、則ち、

『己(おのれ)の信心が正しければ、それら本尊の類なるものは、全て会員一人一人の信心によって、
その(御本尊の)力用が発揮されるのであるから、どの御本尊がどうであろうとも、結局は己(おのれ)
自身の信心こそが第一なのである』

などという文句が、実にいい加減なものであるか、という事がここで判るのである。

さても、創価教に毒された新会員などは、それらデタラメな捏造教学をご尤(もっと)もとして受取
っている様ではあるが、お前らが『大聖人直結の正師』と仰ぎ奉る日寛上人が抑も文段に於いて、
次のように述べられているのである。

曰く『花は信力の如し。蓮は行力の如し。水は法力の如し。日は仏力の如し。当に知るべし蓮華は
水に依って生じ、我等が信力・行力は必ず法力に依って生ずるなり。若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、
若し法力なくんば何ぞ信行を生ぜん。この故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし』と。

応にこの御教示は『当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方(まさ)に本尊の徳用に由って即ち観心の
義を成ず』(同文段)とのお示しに連結するものであり、いかにお前ら創価の俄教学が、いい加減な
ものであるかが、この日寛上人の御教示によって炙(あぶ)り出されるのである。

小会員、日寛上人を呼び捨てにして云く『日寛は戒壇板本尊・相承書を体系化し、位置付けましたが、
現在ではそれが私達(学会員)の「考察の対象」となっているのですよ。日寛の体系化した「大石寺
教学」は今の私達には信仰の対象ではありません。ですから「観心本尊抄文段」「当体義抄文段」
「文底秘沈抄」などをいくら引用した所で「途中の人師がどうしたの?」で終りです。(笑)』と。

小笑。

ここまで来ると、最早、開き直りとしか思えんが、其れにしても、一方で『大聖人直結の御正師』と
謳って創価本尊の大義としながら、その一方で『途中の人師がどうしたの?』と日寛上人を呼び捨て
ついでに揶揄するその狂乱教学の有り様は、応に小生からして蝙蝠(こうもり)教学の其れであると、
此(ここ)に確信を持って断言出来るのである。

言うまでもなく、本尊義に於いては、仏力、法力が在って、そこに信力が有るのである。

其の様な事も解からんから、身延安置の本尊であろうとも、清水寺の貫首が書いた本尊であろうとも、
お前ら現創価の者共は、それらを平気で拝まんとするのである。

『如何に信心しても、例え何々上人の御本尊であると言って拝んでみても、大聖人の血脈は通じて来
ない。戒壇の根本の御本尊を離れた時には、すでにその御本尊は生命もなく、人を救うところの力も
ないのであります』とは、御先師・日達上人の御教示ではあるが、応に此の御教示こそも、日寛上人
の御指南に沿うものである。

曰く『本門戒壇の本尊は応にこれ総体(総与)の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊
なるが故なり』(同文段)と。

つまり我らの存在が、其の一切衆生であるかぎり、一閻浮提総与、つまりは其の総体たる本門戒壇の
大御本尊からして、一切逃れなれない、という事になるのである。

御義口伝に曰く『今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那な
り』と。

実に此の事からすれば、信徒として破門されたから、今となっては戒壇の大御本尊とは何の関係も無
い、という物言いが、そして又、一閻浮提総与の御本尊とは、自分のアパートにある御本尊の事だ、
などという言い分が、実に莫迦でいい加減で、単なる組織の体裁を保つ為の恥言であるかという事が
判るのである。

平成入会の小会員たちよ。

今一度、創価学会設立の原点を学びなさい。

そして『日蓮大聖人直結の御正師』と仰ぐ、日蓮正宗第廿六世嗣法・日寛上人の本尊義を、今こそ
心肝に染めて、我が富士大石寺に御格護さる一閻浮提総与の大御本尊を心より渇仰恋慕しなさい。

日寛上人曰く『就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり。既にこれ
三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり』と。

仍って恩師に云く『弘安2年10月12日に大聖人が、一切衆生を救う本尊として一閻浮提総与の
本尊をくだされたのである。この本尊を拝し、受持し、題目を唱うるならば、必ず幸福の道へと突進
するのである。この大御本尊こそ大聖人一大事の秘法、すなわち民衆の不幸を救う最大根幹である』

又云く『御本尊様は一つしかありません。無量義経に分身散体の法というものがあります。(中略)
分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提の御本尊に帰一するのです』と。

よろしいか。

己心本尊論なるものも、本尊皆同論なるものも、みな、現池田創価教が都合よく考案した単なる俄
(にわか)教学であるという事を、特に君たち平成会員の諸君に於ては、看破しなければならない
誑義なのである。

創価教の蝙蝠教学。愈々もって、疑念を呈すべし
 

マゴマゴ君

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 6日(月)19時32分7秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  どうしたのだぁ。

梨の礫(つぶて)ではないか。

当方が、再度に亘って催促しておるに、何も返答も寄こさぬとは、どういう事であるか。

ったく、相手からの詰問を、都合よく変釈し、剰(あまつさ)え、問うていない事までも手前味噌に変釈
して【十問十答】などと体裁を繕(つくろ)うから、小生から『やり直しなさい!』と叱られるのである。

ったく、其の意も判らずに『もう充分だ』と、又しても手前味噌に決め込んでおるのか。哀。

…哀々。もう、よいわ。

本日をもって連休も終わり、明日からは又、多忙な日々となる。

気が付けば、当方がお主の【変釈・十問十答】に対して叱責し、其の訂正を求めたのは先週の2日の事で
あった。時間が経つのはまことに早い。

其れにしても残念よのう。お主が自発的に宣言した『本尊義に於ける待絶の二妙が論証されれば、
ここでの(創価学会での)信心をきっぱり辞めて、身延か北山あたりに鞍替えする』という大決心の実現が
お預けになるとはのぉ。

まぁ、いずれにしても、其の実現に向けて取り計らう作業を、お主は自らの手で放棄したのであるから、
今に於いて催促などはしない。もはや、推して知るべし、である。

よろしいか。今後は「駄文だ」「ア法華」などと悪口し「読者諸賢は振り返って頂きたい」などと恰好
を付ける前に、先ずは己(おのれ)の我見我釈を反省し、其れこそ自分自身の浅識を振り返って見つめ直し、
松岡の屁理屈に惑わされる事なく、恩師戸田先生の本尊義と、日寛上人の御教示を改めて心読し、以て
お主が云う処の『学会が御本尊についてウソをついている』という事が、まこと現実であるという事を、
其の眼でしっかりと見抜く事である!

言っておくが、後付けのコメントはもう要らんぞ。其れこそは言い訳である。

お主が今迄して来たとおり、無返答でよい。

小生も、もはや相手にはせん。

さすれば、お主の体面も保たれよう。

以上である。
 

Re: おはようございます

 投稿者:法華講のおばちゃん  投稿日:2013年 5月 6日(月)18時21分44秒 7c6dadb8.tcat.ne.jp
返信・引用
  > No.44721[元記事へ]

七誌さんへのお返事です。

横から失礼いたします

> キリストであれ、日蓮正宗の御本尊に祈念することや創価学会の
> 御本尊に祈念することは私の自由です。

まずキリスト教から、、、
明治以降、有名な横浜法論がありました。
二千数百名の観衆と、その整理に、警察までが出て行われた、日蓮正宗とキリスト教の大法論でありました。
もちろんキリスト教は、徹底的に破れました。

また創価学会は日蓮正宗から破門された団体です。一般法の上では言論行動の自由でしょうが、法の上では、日蓮正宗では、日蓮正宗の教義逸脱の流布は認めません。

教義逸脱されては迷惑なのです。

日蓮正宗に入るときは、一切の邪宗邪義を捨てることを、ご本尊様に誓いの儀式をして、入信できるのです。
誰でも彼でもたやすく拝める、安っぽいご本尊様また宗教ではありません。

真面目に他宗を捨てて拝みたいと願うのならば、申し出てください。

 

先日の書き込みへの反応らしき書き込み発見

 投稿者:名も無い法華講員  投稿日:2013年 5月 6日(月)17時50分46秒 pw126210003170.5.kyb.panda-world.ne.jp
返信・引用
  標記、

>坊主を批判した!という理由で心理的圧力をかけて登山停止にすることはあっても
破門にはしなかったのが昭和の大石寺だからね。


法義上の立て分け、ご教導の上から然るべき措置をお執りになられ、最終的に戸田会長以下創価学会がお詫び申し上げたから、お許しくださったのです。

つまり不良グループがボスを筆頭に謝ったから先生方(校長先生)が許してくださったのです。
そんな道理も分からないのですね。


私は名も無い法華「講」員です。先日は打ち間違えました。管理人様、宜しければ今後も書き込みをお許しいただきたく存じます。
 

七誌殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 4日(土)18時46分59秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  御納得頂ければ、其れで結構です。

誤解を解くには、最初が肝心であります。

時間が経てば、言い訳に捉えられてしまうものです。

だから、其れを狙って、言い出しっぺの中傷者、つまり「ウソも百回繰り返せば真実になる」という
連中が後を絶たないのであります。そして、その代表が、創価学会名誉会長・池田太作という事なの
であります。

>キリストであれ、日蓮正宗の御本尊に祈念することや創価学会の
>御本尊に祈念することは私の自由です。

勿論、世法からすれば御貴殿の自由でありますが、仏法からすれば、お持ちの「日蓮正宗の御本尊」
に於いては、其の御力は発揮されません。電燈が本物であっても、そこに電流が流れて来なければ
光が出ない、という事であります。其の理は、京都あたりの邪宗日蓮宗が保持する日蓮大聖人御真筆
の御本尊に於いても同じ事であります。まして「創価学会の御本尊」つまり、秋谷城永創価学会会長
(当時)の権限に於いて大量に印刷された、所謂(いわゆる)「秋谷允可本尊」などは、其れこそ大強信
の八百屋の親父が、寺から借りた大聖人御真筆の本尊を、知り合いの印刷工場の社長に依頼して、
20幅ほど印刷して、親類縁者に配布する事と同じであり、そのようなモノは、本尊でも何でもない、
単なる紙切れなのであります。いや、魔紙とも云えましょう。もしかすれば「日顕宗打倒!」という
怨念が込められた魔札かも知れません。「我々の御本尊は我々が造る」=「創価学会の御本尊」。
本来からして有り得ない話であります。呆。

>創価学会対日蓮正宗の闘いと申しましょうか、いつまで続くのやら静かになることを祈って
>いきたいと思います

闘い、と言いますか、これこそは、富士大石寺から破門された信者たちが、その破門された理由など
お構いなしに、心の中では破門された事を喜んでいるのに、それでは塩梅(あんばい)が悪いので、
表向き「信者をバッサリ切った!」「非情な行為だ!」「それでも僧侶か! このクソ坊主!」と
大騒ぎしているので、興門正統の我々が、それらの事を看破して『下手な芝居はやめなさい!』と
叱っているのであります。そこで彼らは「下手な芝居」と言われぬよう「上手い本尊」を作成して
自慢しているのであります。我らは其れをきつく叱っているのであります。

兎も角、七誌殿に於かれては、一日も早く、日蓮正宗信徒に復帰されますよう、心から願うもので
あります。
 

おはようございます

 投稿者:七誌  投稿日:2013年 5月 4日(土)06時14分39秒 FL1-60-237-40-171.chb.mesh.ad.jp
返信・引用
  左様でありましたか。
そのような理由であれば、私も納得できます。
キリストであれ、日蓮正宗の御本尊に祈念することや創価学会の
御本尊に祈念することは私の自由です。
私は黒川さんの今後残された人生においてご本人が満足のいく人生
を歩んでほしいと願っております。
余談ではありますが、表面上精神障害が見えない方が大変多いようですが
発達障害が今般注目されるようになっております。
心理テストを行ってもアスペルガー症候群と勘違いされるほど医師も難しい
との見解もあるようです。
創価学会対日蓮正宗の闘いと申しましょうか、いつまで続くのやら静かになる
ことを祈っていきたいと思います
 

七誌殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 4日(土)05時52分12秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >私の宗派はキリスト教であります。
>元は日蓮正宗の信仰をしていた者です。

左様でありますか。しかし、他板に於いて御貴殿は『私もご本尊に祈っていきたいと思います』と、
ある法華講員に対する批判とともに、述べていたのではありませんか。先月の末ごろに。

……まぁ、いいでしょう。

当室に於いては「キリスト教の信者」という事で、ご質問を受け付けましょう。


※『お主から言わせれば、これも精神的機能障害の一文となるのか。何とか申せ!』

>この発言は、阿部日ケ~ン(陰性)氏または精神疾患をもたれている方に指しての
>ご発言なのでしょうか。お聞きしたいので返答をお願いします

いいえ、上記の発言は、阿部日ケ~ン(陰性)が、御隠尊日顕上人が御講義された処(ところ)の、所謂
(いわゆる)冥界に於ける十界の存在(別在の十界)について、

【ないものを「ある」と定義するのは大ウソつきか、見当識障害といったような精神的機能障害が
疑われます】

と中傷した事に対して、当方が、

『無いものを有る、と定義するのは大ウソつきで、精神的機能障害が疑われる、とな。
ならば、有るものを無い、とする定義はどうであるか。これも精神病も一種であるのか』

と問い質し、無量義経の一文、

『其身非有亦非無(其の身は有に非ず亦(また)無に非ず』を引いて、

『お主から言わせれば、これも精神的機能障害の一文となるのか。何とか申せ!』と詰問したもので
あります。したがって、御貴殿が質問された「阿部日ケ~ン(陰性)氏または精神疾患をもたれている
方に指してのご発言なのでしょうか」などは、まったく的の外れた質問、という事になります。

>私の質問は阿部日ケ~ン(陰性)氏への擁護ではなく阿部日ケ~ン(陰性)氏の文々が精神機能障害に
>該当しているのかということです。

果たして『阿部日ケ~ン(陰性)への擁護』とは、当方が此の者を指して『精神的機能障害』と述べた
事を前提に記(しる)したものでありましょう。しかし、其の前提が間違っておりますから、上記の
質問自体が抑も成り立ちません。したがって、返答のしようがありません。

まぁ、当方から言わせれば、彼は「精神的機能障害」ではないでしょう。どちらかと言えば、
「邪宗害毒症候群」ではないでしょうか。つまりは謗法者という事であります。

>当然ながら精神機能障害と主張する以上、医師免許所持の方とお見受けしたのですが如何なので
>しょうか? 私も精神障害を持つ一人として見捨てることが出来ない文でありましたので書き込み
>をさせて戴いた次第です

? 当方が医者という事ですか?

重ねて申しますが、質問の前提が間違っておりますので、答えようがありません。

但、御貴殿が親告された御病気については、お見舞い申し上げます。
 

はい、わかりました

 投稿者:七誌  投稿日:2013年 5月 4日(土)03時16分3秒 FL1-60-237-40-171.chb.mesh.ad.jp
返信・引用
  私の宗派はキリスト教であります。
元は日蓮正宗の信仰をしていた者です。
私の質問は阿部日ケ~ン(陰性)氏への擁護ではなく
阿部日ケ~ン(陰性)氏の文々が精神機能障害に該当
しているのかということです。
当然ながら精神機能障害と主張する以上、医師免許所持
の方とお見受けしたのですが如何なのでしょうか?
私も精神障害を持つ一人として見捨てることが出来ない文
でありましたので書き込みをさせて戴いた次第です
 

七誌殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 4日(土)00時55分19秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  申し訳ありませんが、当室に御投稿される場合は、法華講員か、創価学会員か、それとも其れ以外の
宗派の方か、御親告して戴かなければなりません。又、無宗教の方からの御投稿は御遠慮頂いており
ます。当室を開けば、先ず最初に「赤文字」で記された注意事項が目に入ったと思いますが…。

今一度、お読みになって、改めて御投稿下さい。

其の時に御返答致します。
 

はじめまして。管理人様

 投稿者:七誌  投稿日:2013年 5月 3日(金)23時43分4秒 FL1-119-243-235-136.chb.mesh.ad.jp
返信・引用
  >お主から言わせれば、これも精神的機能障害の一文となるのか。何とか申せ!

この発言は、阿部日ケ~ン(陰性)氏または精神疾患をもたれている方に指しての
ご発言なのでしょうか。

お聞きしたいので返答をお願いします
 

マゴマゴ君

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 3日(金)22時20分30秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  どうしたのだ? 小生が求めた【訂正版】はまだであるか。

其れとも、お主が変釈した以外の項目について、当方からのコメントを待っておるのか。

其れら順序の事は、前述の内容を見れば判る事ではないか。何をしておるのだ。

此の儘では、『本尊義に於ける待絶の二妙が論証されれば、ここでの(創価学会での)信心をきっぱり
辞めて、身延か北山あたりに鞍替えする』とした、お主の決意発表が実現しないではないか。
よろしいか。早く『本尊義に於ける待絶の二妙』の対論に進めるよう、取り計らいなさい。

其れには先ず【変釈・十問十答】の【訂正版】を掲示して貰わねばならん。

さすれば小生は、其れら訂正を含めた各十項についてコメントし、其の後に『本尊義に於ける待絶の
二妙』について論ずるものである。尚、お主は、恩師の御本尊に於ける電燈と電流の比喩について、
それはあくまで生活実感上の例え話、などと軽論したが、もうこの時点で一大秘法の根本を見誤って
おる。本より要点を突けば、本尊義に於て待絶の二妙論は有り得ない、とする小義などは木っ端微塵
に吹っ飛ぶが、其れを認めようとしないのも又、邪宗信徒の性ではある。しかしお主は、其の二妙論
が論証されれば、創価学会を辞めると予(あらかじ)め申した。殊勝である。よろしいか。論証される、
という事は、お主からして論破出来なかった、という事によっても成り立つのである。

尚、言っておくが、今に成って「やっぱ一人じゃ怖いから、お月さんも脱講をかけてよ」などと弱腰
になるでないぞ。お主が一方的に「論証されれば学会を辞める」と自発的に曰(のたま)ったのである
から、当方は其れを受けて「本尊義に於ける待絶の二妙論」を論証するものである。

兎も角も【訂正版】を先ずは掲示して戴こう。
 

阿部日ケ~ン(陰性)へ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 3日(金)21時19分40秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  帰ってみれば何だ。哀。

**********************************************************************
文底下種三段に於ける正宗分も、三重秘伝に於ける第三法門も、お主ら創価学会の教学ではない。
一体、どこから其の教学を学んだのか。
**********************************************************************

>明確に不快感を表しています。
>ようするに俺たち日蓮正宗から学んだことだろう?と言いたいだけ。

おいおい。其の事実こそが非常に大事なことであって、つまり、創価学会には元々、日蓮大聖人の
仏法は存在していなかった、という証拠にもなるのである。『言いたいだけ』などと、軽く解釈する
ものではない。よいか、当方は、学会員の一人一人に「お前は其の教学をどこから学んだのか」と
訊いているのではない。『お前らが所属する創価学会は其の教学をどの門流から学んだのか』と訊いて
いるのである。ったく、お主も相変わらず、文面の上っ面(うわっつら)しか読めない男であるよな。
それから小生は、不快感などという感情で論じているのではない。すべてが正義の上から説教している
のである。果たして『正義』の意味、お主には理解出来ぬであろう。

>(管理人の大月天は)おそらく神天上の法門の「ニュアンス」は知っているけれど中身を知らない人
>のようです。
>つまり善神の守護力とは一定の決まった結果を約束しているものではありません。
>強まったり弱まったり、そして弱くなるのに比例して悪鬼が入る。

悪鬼が入る? はて…何処(どこ)から入るのだ。哀笑

加えて「強まったり、弱まったり」と何故、悪鬼は感じる事が出来るのか。

オカルト嫌いの陰性よ。まさか、其の悪鬼とは、神主の事を指しておるのか。哀笑。

ところで陰性よ。いつまですっ呆けているのだ!? ったく、お主に対しての詰問には答えず、
人様への詰問に対してベラベラと横槍を入れおって! 一体何なのだ、お前は。哀。

よいか。これで三度目であるぞ! 迅(はや)く返答を寄こしなさい!

>ないものを「ある」と定義するのは大ウソつきか、見当識障害といったような精神的機能障害が
>疑われます。

無いものを有る、と定義するのは大ウソつきで、精神的機能障害が疑われる、とな。
ならば、有るものを無い、とする定義はどうであるか。これも精神病も一種であるのか。

無量義経徳行品第一に曰く

『其身非有亦非無(其の身は有に非ず亦(また)無に非ず』と。(開結 72)

お主から言わせれば、これも精神的機能障害の一文となるのか。何とか申せ!
 

名も無い法華行員殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 3日(金)21時15分38秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >日顕が創価学会を破門したので、それ以後は戸田先生の指導が反故になってしまっています。
>フラれ男がかつて彼女からもらったラヴレターを出して、復縁を迫っているようなものです。

小笑。

組織の破門と、恩師が示された本尊義とを、ごちゃ混ぜにして、その場から遁走を図らんとする痴弁
であります。

抑も、本尊義というものは、曾(かつ)て、とか今とか、其の様な時間的な経過で論じられるものでは
なく、其れこそは時間的次元を超えて、日蓮正宗、創価学会ともに終始一貫厳守すべき、まさに我々
にとって背骨ともいうべき大義なのであります。したがって此の大義は、組織破門などという体制の
変更によって、変節されるものではない、という事を識るべきでありましょう。したがって、恩師が
示された本尊指導というものは、今もって猶(なお)、我ら富士門信徒に於て生きているのであります。

哀笑。其れを『日顕が創価学会を破門にしたという事は、戸田先生の本尊指導も否定したという事だ』
などと、みじめな言い訳をしておりますが、本より本尊義は、今以って同じなのであります。

其れにしても、学会を破門したのは日蓮正宗であるのに『フラれた男』とは、どういう事でしょう。

つまり『バッサリ』と縁を切りたかったのは、創価学会の方なのでありましょう。しかし其れでは
塩梅(あんばい)が悪いから、宗門から切らせたのであります。実に『破門を勝ち取った』とは、そう
いう意味であり、池田太作の『おめでとう!』もそういう意味なのであります。当に『狡猾』とは、
此の事を指して云うものであります。

ところで【信仰歴23年の法華行員】とありますが、これは敢えて【行員】とされているのでしょうか。

『講員』の当方としては、何とも困惑する次第です。【信仰歴23年の法華講員】…この方がよい、と
当方は思いますが……。もちろん、敢えてそうしているのであれば、其れこそは自由であります。

今後とも宜しくお願いします。
 

お邪魔致します。

 投稿者:名も無い法華行員  投稿日:2013年 5月 2日(木)16時19分9秒 pw126246142138.6.tik.panda-world.ne.jp
返信・引用
  信仰歴23年の法華行員です。

学会員さんの掲示板で気になる書き込みを見たのですが、コメント出来ませんでしたので、ここちらに失礼致します。

>かつて戸田先生がそのように主張されたからといって、現在の創価学会もそうであるべきだ!
というのなら
学会員側はかつて阿部日顕が創価学会や池田先生を賛嘆されたのだから、現在の日蓮正宗もそうあるべきだ!と主張することができますよ。

これは詭弁:(参照略)l なので学会員は使わないですね。

日顕が創価学会を破門したので、それ以後は戸田先生の指導が反故になってしまっています。

フラれ男がかつて彼女からもらったラヴレターを出して、復縁を迫っているようなものです。

以上、
例えとして、おかしいと思うのです。
戸田会長は、凡夫ならではの一分の過ちはあったにせよ、亡くなるまで日蓮正宗の信徒で在り続けた方です。
いわば数々の業績を残して名門校を立派に卒業なされた方です。
今在校生が、悪行が過ぎて退学処分になった旧創価クラスの後輩達に戸田先輩の振る舞いを伝えて復学を促すことは、詭弁とは言いません。

私はずっと法華講クラスではありますが、戸田先輩の卒論である戸田城聖全集を愛読し、同校の後輩として、先輩を尊敬する者です。
戸田先輩の指導を全て反故にすることが池田グループの公式見解であるならば、戸田先輩は何についての永遠の「指導」者なのでしょうか。
旧創価クラスを興した功績だけなのでしょうが、クラス編成を認めたのは学校(宗門)です。


管理人様、失礼致しました。
 

マゴマゴ君へ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 2日(木)15時28分58秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  先ずは、小生が詰問した内容について、貴殿が『簡易版』と称して、変釈した部分の訂正を求め、
其の上で再びの回答を求める。何事も、正しい解釈があって、はじめて真っ当な反論が出来る、と
いうものである。

①お前の主張ならば、安倍総理は「殺人神社」へ参拝していることになるが、自民党と組んで政権
与党になっている公明党が許すとはけしからぬこと。きちんと釈明せよ。

小生は、安倍総裁が、総理大臣として靖国に参拝した、などとは一言も云ってはいない。
『(安倍総理が)靖国参拝に意欲を示している』と述べたのである。したがって、安倍総理が貴殿の
云う処の「殺人神社」に参拝している、という前提で、其れを公明党が許しているのはけしからん、
という質問に変釈されては困る。早速訂正して戴こう。

③ヤスクニはれっきとした神社で、英霊たちが人物神として祀られている。
そこへ御本尊を安置し唱題することで、法味を捧げられるのが正しい祀り方。
それこそが神天上法門を体現したヤスクニのあり方だ。

小生は、この内容について詰問などはしていない。文面を見れば一目瞭然であろう。
小生がこの部分について詰問しているのは、

※【明治神宮は、言うまでもなく明治天皇を人物神として祭祀しておるが、お前の言い分からすると、
これも「神が元々不在の、神社でもなんでもない」という事になる。其れで間違いないか】

との詰問である。【十問十答】と題しているならば、問うている部分について答えるべきであろう。
これも早速に訂正し、③の文面を※印の詰問内容に置き換え、改めて、其の回答を願おう。

⑥(前項で)百六箇抄、寛師の依文があるが、それらは待絶二妙の御本尊についての重要な御指南だ。
また「五重三段」「三重秘伝」などの法義は日蓮正宗のもの、学会員が使うのはまかりならぬ。

小生は「五重三段」「三重秘伝」をして、学会員が使うのはまかりならん、とは言っていない。

小生は『文底下種三段に於ける正宗分も、三重秘伝に於ける第三法門も、お主ら創価学会の教学では
ない。一体、どこから其の教学を学んだのか』と言ったのである。『まかりならぬ』などとは言って
いない。第一、「まかりならぬ!」では問いにならんであろう。問いにならないものを問いにして、
【十問十答】はなかろうて。よろしいか。小生は『どこから其の教学を学んだのか?』と訊いている
のである。これについても、⑥の内容を訂正した上で、改めて回答を願おう。重複しても構わんぞ。

⑨察するに、お前は学会から法華講、次に再び学会へ宗旨替えしたのだろう。変節者が言うことなど
何も信じられない。

小生は『変節者が言うことなど何も信じられない』などとは言っていない。

【創価学会を脱会し、法華講に入講し、そして再び学会に移ったのであろう。して、その変節の原因
は須らく人間に在ったのであろう。人を見て法を見ず。よいか、そういう人間に限って恨みつらみが
増すのである】

と言ったのである。『そういう経緯があったのではないか。そして其れは、人間関係に原因があった
のではないか。人をみて法を見ず。そういう人間に限って、恨みつらみが増すのである』と言ったの
である。

果たして『変節者の言うことなど何も信じられない』なとど。一体、何処(どこ)から、そういう変釈
が生まれるのか。しかも、これとて詰問ではない。それを貴殿は【十問十答】の中に組み入れている。
問うていないものを問いの形にして、しかも、その内容を変えて反論するなどは、其れこそ擬装に比
するものである。この部分についても訂正を願おう。尚、この⑨の内容については、小生の記憶する
所から述べたものであるから、十問十答の枠から外した時点で、改めて論じるものとする。

して貴殿は、

>ともかくも、日顕が主張する「待絶二妙の御本尊」なる邪義は、

>①待絶の基本理解が狂っている、
>②それを御本尊にあてはめて考えるのは、本仏の大慈大悲を軽んじる愚劣な行為、
>③また御本尊を戒壇大本尊、他の御真筆及び歴代書写と並列した上で待絶二妙で分類するのは、
 日顕が大聖人を超えて僭聖増上慢であると自ら白状したことと同じだと、私は考えます(完)。

と締めくくり、我らが云う処の『待絶二妙に於ける本尊義』に関して、

>もしも「待絶二妙の御本尊」が本当に論証されるならば、別の考えがあります。
>学会が御本尊についてウソをついている、重要なことを会員に隠していると考えて、
>ここでの信心をきっぱりと辞める。勿論、だからと言って現日顕宗に戻ることなど
>死んでも思わず、どちらも金輪際信用せずに、さっさと身延か池上あたりに行くことにします。

と、貴殿は別項に於いて断言したのである。

よろしい。この件については、【変釈・十問十答】の問題を片づけてから、対論するとしよう。

尚、貴殿が希望する処(ところ)の、

>勝手な造語をせず、今我々が使っている単語を使ってお話し下さい。
>またまた余談ながら、時代劇がかった台詞づかいは相も変わらずで結構ですが、
>古典的言葉づかいにもちゃんと文法はあります

については、別段、こだわる事もなかろうて。小生は元からこのスタンスであるし、今さら、貴殿ら
の様に『そうでごさいますね』『違いますか』『では反論をお願いします』などと、身体がよじれる
言い回しなど出来よう筈もない。よいではないか。これで。加えて文法とか何とか、そんな事はどう
でもよいだろう。相手に伝われば其れでよい。『言葉おじさん』はNHKに任そうではないか。

尚、当方は、今夜七時より留守となり、帰宅は又しても午前様となる。想像は付くとは思うが、
これも生活の内なので御容赦願おう。

見れば貴殿も、時間が無い様であるが、まぁ、残りの連休のみでは、到底、問答の完結には至らない
であろう。阿部日ケ~ン(陰性)と違って、我々は忙しいのである。

兎も角、【簡易版】を速やかに【訂正版】にして戴こう。先ずは其れからである。
 

マゴマゴ君

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 1日(水)20時48分33秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  外出先より今戻り、お主の【簡易版】ならぬ【変釈版の十答】をざっと読んだ。
何故に『ざっと』か。其れは今から又、外出せねばならんからである。

して見れば、相当に変梃(へんてこ)りんな解釈で、小生からの問いとしている様であるが、
いやはや、お主の読解力は、その程度であるのか。

マゴマゴ君、小生の文言が文法上、どーとか、こーとか、そんな事を言っている場合ではないぞ。

まぁ、兎も角、小生は今から出かけなくてはならない。帰宅は夜中の3時ごろか。
言っておくが、小生は「勝ちたい」とか「負けたくない」とか、池田太作ではあるまいし、そんな
野卑な根性で、富士門の教学を顕示しているのではない。あくまでも破邪顕正の為である。

貴殿には誤解の無きよう。

尚、今回の事は、お主ら、富士ぼーコンビが、小生の記述に対して文句したのが発端であり、
其れに対して小生が、「何か用か!」と、聞き質したものである。

其れを「要旨をもっと簡潔にまとめてご質問下さい」などと。哀。言っておくが、批判している者に
「質問」などする訳がなかろう。其れこそは「詰問」か「説教」のみである。

兎も角、当方からの詰問が変釈されている様であるから、其れらの訂正を求めた上で、改めて回答を
求め、其れ以降の問答に繋げていきたいと思っておる。
 

阿部日ケ~ン(陰性)よ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 1日(水)18時09分32秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  お主、薄ら惚(とぼ)けて、何をブツブツ言っておるのか。

>ところでプチ右翼の大月天管理人が

******************************************************************
小生が云う処の『靖国神社の意義を、神天上の法門から理解し、靖国の靖国たる
 真の姿を、 大聖人の仏法から見定めて行くべき』とは、それら英霊を祀る
 社(やしろ)に於いて、御本尊を安置し、 応に八幡大菩薩に法味を捧げ、以って
 諸精霊の忠魂に対して御供養申し上げる意を述べたものである。
其れこそが、本来あるべき靖国の靖国たる、真の姿なのである。

******************************************************************

>と予想していた通りの靖国戒壇論を述べ始めました(笑)
>あまり言葉を荒げたくはありませんが、かなり「アホ」っぽいです。

哀笑。おいおい、何処の誰が「靖国戒壇」を述べたのであるか。果たして『アホっぽい』、いや、
真正の『阿呆』であるのは、お主の方ではないのか。「靖国戒壇」などと…。哀。大丈夫か? 頭。

>この依文にしているのは戸田先生の指導だとおもいますが、仮に靖国神社が日蓮正宗に
>改宗したとして、御本尊様を社殿に安置した場合「英霊を祀る社」ではなくなり
>「靖国」の名前すら残さないでしょう。日蓮正宗靖国寺とでもするのでしょうか?
>しかも明治期~大東亜戦争の英霊専用の慰霊施設限定だそうです。

小笑。本より、恩師の指導から述べたものである。何だ。間違いなのか。
言うまでもなく、広布の暁に於いては、御本尊安置の上、英霊を追善する「社(やしろ)」として存続
させるも良し、又は、お主が言うように『靖国寺』にするのも良し、又は『神宮寺』の形態にするも
良い。つまりは、本来あるべき靖国の意義というものを、大聖人の仏法から見定めていく事が重要で
ある、という事である。一体、この何処(どこ)がおかしいのか。

阿呆な頭で考えるから、何でもアホに見えてくるのである。哀。

其れよりもお主、当方からの詰問に対して、何も答えておらんではないか!
ったく、又しても、言いっ放しか! 言っておくが、お主の場合は「無視」ではないぞ。
「遁走」である。哀笑。恥ずかしく思わんのか。

>ないものを「ある」と定義するのは大ウソつきか、見当識障害といったような精神的機能障害が
>疑われます。

何、無いものを在る、と定義するのは大ウソつきで、精神的機能障害が疑われる、とな。
ならば、在るものを無い、とする定義はどうであるか。これも精神病も一種であるのか。

無量義経徳行品第一に曰く

『其身非有亦非無(其の身は有に非ず亦(また)無に非ず』と。(開結 72)

お主から言わせれば、これも精神的機能障害の一文となるのか。何とか申せ!
 

通りすがり@法華講殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 1日(水)18時07分28秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >こんにちは。
>再びお邪魔します。

どうぞ、いつでも御投稿下さい。

>法論と言うよりも、歴史観・国家観の論争になっているようですが(でも相手が見えないんですが)、

相手ですか。

相手は『富士宮ボーイ』という、創価学会員が運営する掲示板の、「阿部日ケ~ン(陰性)」という
パソコンへばり付きの末端会員と、「マゴマゴ」とかいう、支那(シナ)かぶれの出戻り会員の両名で
であります。先ずは此の両名、戦争当時に生きていたならば「戦争はイヤだぁ~。死ぬのはイヤだぁ!」
と半べそをかき、手元に届いた赤紙(召集令状)を振り捨てて、オロオロと逃げ惑う人種であります。
今こそ好きな事を言っておりますが、此の様な連中こそ、当時の陸軍の最前線に連れて行って、
『突っ込めぇぇ!!』と号令されるべきであります。はてさて、その場で号泣し『今の命令、取り消
してくれませんかぁぁ! 泣泣~』と上官の足元にすがり付くか、それとも『国や天皇の為なんかに
死ねるかい』と、鼻で笑って遁走するか。まぁ、その二つでありましょう。もっとも、これら二人が
戦死したところで、此の二人の言い分からして『そんな戦死者などを、英霊とか、哀悼とか、そんな
事を日本政府がやったら、親愛なる中国や韓国に対して申し訳ないじゃないですか。だから祀って貰
っては困りますぅ』となるであろうから、この二人については『英霊失格』という事になるのであり
ます。つまりは「犬死」という事であります。哀。

>ならばまずはかの大東亜戦争をどのように捉えるかを日本人としてもう一度考え直す必要があると
>小生は思っております。村山談話は即刻廃止すべきです。

応に同感です。

>宗門が戦勝祈願を行っていたのは当時の日本を考えれば当たり前のことです。
>創価学会が当時の宗門に対して「戦争責任がどうのこうの」と曰うのは噴飯物です。
>その前に己の団体が当時どのような活動を展開していたのかを正しく知るべきです。
>反戦平和の活動をしていたと本気で信じているのは、まさに歴史を知らない無学・浅識の輩でしょう。

応に其のとおりであります。

『大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き
余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります』 (S17.5.17 創価教育学会第4回総会)

尚、お示し戴いた、各国要人による大東亜戦争に関する見解については、とても参考になりました。

有難うございます。

>それと靖国の話に若干戻りますが、英霊(戦没者)を「戦争『犠牲者』」と位置づけるのは彼らに
>対する冒涜です。戦没者に対し、祖国のために尊い命を捧げたことに名誉と栄光を与え顕彰し、
>尊崇の念を抱くのは万国共通の通念です。例えば日本国総理が訪米した際、アーリントン墓地を
>訪れるのはその通念を根拠とした外交儀礼です。どの国の誰であっても同じ事です。その場所が
>日本では靖国だと思うのです。であるからして、太平洋戦争は侵略戦争だったと決めつけ、英霊は
>その「犠牲者」と断じてしまうのは、世法上(仏法上では無く)「罰当たり」と言っても良いで
>しょう。

全くその通りであります。

尚、売国奴はすべて『罰当たり』であります。

>現在の日本は、特に教育面に於いて、歴史教科書の左傾化が著しくなっており(左翼学者・日教組の
>なせる技でありましょう)、義務教育時代は反戦平和をとにかく叩き込まれます。
>それはそれで大事な面もあるでしょうが、それが勢い余って過去の戦争の全否定に陥っているのは
>羮に懲りて膾を吹くの類であり(今では日清・日露戦争ですら侵略戦争と位置づけられようとして
>います)先人達への尊敬の思いを打ち消す愚かな思想であると言えましょう。

全くの同感であります。支那(シナ)と朝鮮に対する『御遠慮教育』が『売国精神』を助長させている
のであります。

>なお、管理人さんも述べられていますが、このような国家観・歴史観を持っている日蓮正宗僧俗は
>極めて稀な存在だと思います。前にも述べましたが、国家観・歴史観が異なると靖国の話をしても
>まったく話がかみ合わないので、この掲示板で質問するまで避けてきた自分がいます。
>でもまあそれはそれでいいんじゃないかと思います。政治に於いても創価学会党や、唯物論の共産党
>さえ除けば、どの政党を支持しようとその人の勝手だろうと。もっとも、売国的政党を支持する人の
>気が知れないのも事実ではありますが。

仰せの通り、当方の国家観・歴史観、特に大東亜戦争(「太平洋戦争」はアメリカ側の呼称)に対する
認識に関しては、日蓮正宗法華講の中に於いては極めて稀であると思います。どちらかと言えば、
旧妙信講(現・顕正会)の連中に多いのではないでしょうか。小笑。

兎も角、通りすがり殿には、今後とも御投稿の程、よろしくお願い致します。
 

大東亜戦争の大義

 投稿者:通りすがり@法華講  投稿日:2013年 5月 1日(水)11時49分28秒 p37095-ipngn101funabasi.chiba.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  こんにちは。
再びお邪魔します。

法論と言うよりも、歴史観・国家観の論争になっているようですが(でも相手が見えないんですが)、
ならばまずはかの大東亜戦争をどのように捉えるかを日本人としてもう一度考え直す必要があると
小生は思っております。村山談話は即刻廃止すべきです。

大東亜戦争は、まさしく「日本の自存自衛」「東亜の解放」を大義とした聖戦でありました。
当時の世相は欧米列強の帝国主義によりアジア諸国は日本とシャムを除いてことごとく
欧米列強の植民地と化しており、その矛先が日本に向けられるのはもはや時間の問題でした。
特に日本に野心を持っていたのは米国、というより米国大統領F・ルーズベルトの成すところで、
ABCD包囲陣による日本への圧力、援蒋ルートによる支那事変での支那国民党軍への支援など、
開戦以前から既に日米は事実上戦争状態にあったことは言うまでもありません。
実際に開戦のきっかけとなったのは米国の提示したかの悪名高いハル・ノートであり、
支那における日本権益の全面撤収など到底日本の受け入れられない要求であり、
開戦の事実上の原因はまさに日本と戦争したかったF・ルーズベルトの側にあるのが事実です。

だからこそ、当時の日本人は挙って戦争を支持し、大東亜戦争を聖戦と位置付け、戦意を発揚し、
国を挙げて米英打倒に燃えていたのであり、これは当時の日蓮正宗宗門も、創価教育学会も
例外ではありませんでした。
宗門が戦勝祈願を行っていたのは当時の日本を考えれば当たり前のことです。
創価学会が当時の宗門に対して「戦争責任がどうのこうの」と曰うのは噴飯物です。
その前に己の団体が当時どのような活動を展開していたのかを正しく知るべきです。
反戦平和の活動をしていたと本気で信じているのは、まさに歴史を知らない無学・浅識の輩でしょう。

さて、大東亜戦争の目的である「自存自衛」は結局の所果たせなかったのではありますが、
もう一つの目的である「東亜の解放」については、その後の東亜の歴史を見れば明らかなとおり、
目的を完遂しています。その意味に於いて、日本は大東亜戦争に半分勝ったと言うことも出来ましょう。

日本人がどうこう言っても説得力が乏しいかとも思われますので、諸外国要人の発言を並べてみます。


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イギリス・アーノルド・J・トインビー 歴史学者
 「第2次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の為に偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は西洋人以外の人類の面前においてアジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」(1956年10月28日/英紙「オブザーバー」)

アメリカ・ジョイス・C・レブラ コロラド大学歴史学部教授
 「日本の敗戦 それは勿論、東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。今や真の独立が確固とした可能性となると同時に西洋の植民地支配の復活も許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力総動員して西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。」(「東南アジアの解放と日本の遺産」)

アメリカ・ジョージ・S・カナへレ 政治学博士
 「日本占領軍がインドネシア民族主義の為に行った種々の仕事の中で最も重要なものの一つは正規軍及び準軍事組織を創設して、それに訓練を与えたことである。このような機会がなかったならば戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。」(「日本軍政とインドネシア独立」)

オランダ・サンティン・アムステルダム市長 現内務大臣
 「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、その誇りを取り戻すべきであります。」(1985年日本側傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時、行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶)

タイ・ククリット・プラモード 元首相
 「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々この2つの日を忘れてはならない。」

マレーシア・ャー・ダト・ノンチック 元上院議員
 「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の国語を普及させ青少年の教育をおこなってくれたのです。」

マレーシア・ガザリー・シャフィー 元外務大臣
 「日本はどんな悪いこ事をしたと言うのか。大東亜戦争でマレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが英軍は再び取り返すことができずマレーシアは独立したのだ。」

マレーシア・ザイナル・アビディーン 歴史学者
 「日本軍政は東南アジアの中で最も政治的意識が遅れていたマレー人に、その種を播き、成長を促進させ、マラヤにおける民族主義の台頭と発展に大きな“触媒”の役割を果たした。」

インドネシア・モハメッド・ナチール 元首相
 「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」

インドネシア・アラムシャ 元第3副首相
 「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。」

インドネシア・サンパス 元復員軍人省長官
 「特にインドネシアが感謝することは戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」

インドネスア・ブン・トモ 元情報相
 「日本軍が米・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった。」(昭和32年の来日の際の発言)

インド・ラダ・クリシュナン 大統領
 「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像も出来なかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。」(昭和44年日本経済新聞)

インド・ハビブル ・ラーマン 元インド国民軍大佐
 「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは日本が育んだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。」

インド・グラバイ・デサイ インド弁護士会会長
 「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべ共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。」(1946年の軍事裁判に出廷した藤原岩市氏らに)

スリランカ・J・R・ジャヤワルダナ 大統領
 「往時、アジア諸民族の中で日本のみが強力且つ自由であってアジア諸民族は日本を守護者且つ友邦として仰ぎ見た。当時、アジア共栄のスローガンは従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には最愛の祖国が解放されることを希望して日本に協力した者がいたのである。」(1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)

ビルマ・バー・モウ 元首相
 「歴史的に見るならば日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたの解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない。もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北もアジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本の為に惜しむのである。」

シンガポール・ゴー・チョクトン 首相
 「日本軍の占領は残酷なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内にアジアの植民地は全て解放された。」(「諸君!」平成5年7月号)
------------------------------------------------------

この発言集でも明らかなとおり、アジアは支那朝鮮を除いては親日国ばかりで、大東亜戦争にも
極めて好意的です。
冒頭に歴史学者のトインビー博士の発言を挙げたのは、創価学会がト博士を散々利用している事への
意趣返し…ではありません(笑)。
支那が反日である理由は華夷思想が根本にあり、東夷日本何するものぞ、という悲しい性(さが)の現れでしょう。
朝鮮については、彼らが常に事大主義に拠っており、強者に擦り寄る歴史のなせる技に過ぎません。

それと靖国の話に若干戻りますが、英霊(戦没者)を「戦争『犠牲者』」と位置づけるのは彼らに対する冒涜です。
戦没者に対し、祖国のために尊い命を捧げたことに名誉と栄光を与え顕彰し、尊崇の念を抱くのは
万国共通の通念です。例えば日本国総理が訪米した際、アーリントン墓地を訪れるのはその通念を
根拠とした外交儀礼です。どの国の誰であっても同じ事です。その場所が日本では靖国だと思うのです。
であるからして、太平洋戦争は侵略戦争だったと決めつけ、英霊はその「犠牲者」と断じてしまうのは、
世法上(仏法上では無く)「罰当たり」と言っても良いでしょう。

現在の日本は、特に教育面に於いて、歴史教科書の左傾化が著しくなっており(左翼学者・日教組の
なせる技でありましょう)、義務教育時代は反戦平和をとにかく叩き込まれます。それはそれで大事な面も
あるでしょうが、それが勢い余って過去の戦争の全否定に陥っているのは羮に懲りて膾を吹くの類であり
(今では日清・日露戦争ですら侵略戦争と位置づけられようとしています)
先人達への尊敬の思いを打ち消す愚かな思想であると言えましょう。


以上、あまりまとまりの無い展開になってしまいましたが、なんだか黙って見ていられなくなったので(笑)。

なお、管理人さんも述べられていますが、このような国家観・歴史観を持っている日蓮正宗僧俗は
極めて稀な存在だと思います。前にも述べましたが、国家観・歴史観が異なると靖国の話をしても
まったく話がかみ合わないので、この掲示板で質問するまで避けてきた自分がいます。
でもまあそれはそれでいいんじゃないかと思います。政治に於いても創価学会党や、唯物論の共産党さえ除けば、
どの政党を支持しようとその人の勝手だろうと。もっとも、売国的政党を支持する人の気が知れないのも
事実ではありますが。
 

小生に何か用か?

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月30日(火)23時46分21秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用 編集済
  >ヤスクニ最大の罪が、無辜の大衆をファシズムの道具として死地に追いやったことと、私は考える。
>国は、壮、青年男子の戦死、銃後の非戦闘員には抗戦を徹底し、これらによって敗戦間近の時期や
>直後でも、集団自決の大悲劇を生み出すこととなった。天皇のためにハイと言って死ぬのを国民に
>強要した大罪が、国が経営したヤスクニにはあるのだ。

小笑。つまり、靖国の存在が日本国民を大量に殺した、という事か。死地に追いやる、とはそういう
事であろう。つまり、そういう大罪を犯した靖国に、政府の閣僚が参拝し、安倍総理も参拝に意欲を
示し、先の衆議院予算委員会に於いては『先の大戦では「靖国で会おう」との合言葉で多くの兵士が
散っていった。遺族は(戦死した)父や主人に会えるかもしれない、との思いであの場に行く」と述
べたのである。そして「(それら英霊に対して)私が指導者として尊崇の念を表することは国際的にも
当たり前のことだ」とも述べている。

果たして、お主の言い分からすれば、安倍総理は殺人神社への参拝に意欲を示している、という事に
なる。さても、お主からすればヒドイ総理であるよな。して、お前らが支持する公明党は、そういう
政府に協力して、腰巾着になっているのである。だから小生は前々から言っているだろう!

『相手のケツの臭いを嗅ぐ前に、先ずは己(おのれ)のケツの臭いを嗅ぎなさい!』と。

其れにしても『天皇のためにハイと言って死ぬのを国民に強要した大罪が、国が経営したヤスクニ
にはあるのだ』などと。哀。よいか! 其の当時に於いて、皇国の為に死するは、これ当然の義で
あり、其れは天皇陛下への忠誠を意味するものである。強要? 何の強要か! それら皇国に対する
赤誠を強要と思ふは、これ日共か社民か、それとも極左か、いや、其れこそは「売国奴」の考えであ
ろう! 日本人として恥を知りなさい!

見れば、お主は事あるごとに「中国、中国」とほざいておるが、支那かぶれもいい加減に致せよ。

>ここでお月さんの駄文だが、曰く「靖国神社の意義を、神天上の法門から理解し、靖国の靖国たる
>真の姿を、大聖人の仏法から見定めて行くべき」(前掲取意)と。
>再度言う、バカも休み休み言えと。

>神が元々不在の、神社でもないものを大聖人の神天上法門からどう理解せよと言うのか。
>教学的無知も甚だしいし、国家神道迎合の戦前の観念文をいまだに念じているところに、
>この人の愚かしさが見て取られる。

おいおい、神が元々が不在で、神社でもない、と云うならば、靖国への参拝は謗法とは成らない、
という事か。「神社」であるから謗法となるのであろう。爾して、靖国に祀らる英霊は、つまりは
「人物神」という事であり、同じく人物神である「応神天皇」を祀る八幡宮に比するものである。
つまり、歴(れっき)とした「神社」なのである。

仍って、小生が云う処の『靖国神社の意義を、神天上の法門から理解し、靖国の靖国たる真の姿を、
大聖人の仏法から見定めて行くべき』とは、それら英霊を祀る社(やしろ)に於いて、御本尊を安置し、
応に八幡大菩薩に法味を捧げ、以って諸精霊の忠魂に対して御供養申し上げる意を述べたものである。
其れこそが、本来あるべき靖国の靖国たる、真の姿なのである。

日蓮大聖人曰く『神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを、生身のごとくあがめ給う』と。

尚、明治神宮は、言うまでもなく明治天皇を人物神として祭祀しておるが、お前の言い分からすると、
これも「神が元々不在の、神社でもなんでもない」という事になる。其れで間違いないか。申せ。

加えて、天上の諸天善神が、南無妙法蓮華経の法味を受けるに、英霊(諸精霊)に対しては下りない、
という法理を示しなさい。

其れにしても小生をして『お月さん』とな。ならばお主は「マゴマゴ君」である。「お月さん」より
愛嬌のある呼び名であろう。本当は支那かぶれのお主をして「パンダ君」とでも呼びたいが、それで
は当たり前すぎて詰まらん。哀笑。だからお主は今日から『マゴマゴ君』である。そして、いずれは
小生から「このマゴマゴめ!」と呼び捨てられて叱られる運命なのである。

して、早速だがマゴマゴ君。お主は少し増長しておらんか。調子に乗るのもいい加減に致せよ。

>(お月さんは)教学的無知も甚だしいし、国家神道迎合の戦前の観念文をいまだに念じているところに、
>この人の愚かしさが見て取られる。

哀笑。

言っておくが、小生が用いている勤行要典は、昭和38年から昭和40年ごろに、創価学会員として
使用していたものである。本より、改訂された要典も其の後に普及されたが、して、お主は此の勤行
要典を用いる小生をして『国家神道迎合の戦前の観念文をいまだに念じているところに、この人の愚
かしさが見て取られる』と侮蔑しておるが、ならば、其の当時の学会員、つまり戦後20年を経た、
当時の学会組織に於いて、此の御観念文を用いた学会員は、みな愚かな人間であった、という事か。
果たして、違うと云うならば、戦後20年を経た昭和40年に於いては此の御観念文でも良く、戦後
70年近い現在では、此の御観念文ではダメだ、という事か。ならば其の正拠を述べなさい。尚、
此の小生であるからダメだ、というならば、其れはお主の決めつけであるから、そういう狂言はやめ
た方がよろしい。よいか。創価学会は戦後に於いても、当該の御観念文を用いていたのである。
マゴマゴ君は、心して答えなさい。よろしいか。

加えてお主は、相絶の二妙について、

>日顕は大御本尊根本(絶待)、他の蓮祖真筆、歴代法主書写は枝葉(相待)と区分し、根本と枝葉
>の接点(言わば絶待開会)に法主(=自分)がいるとするもの。前後二者はあたかも主要・絶対的、
>副次・相対的の関係に類し、法主と言う介在者がいないと成立しない仕組みに作り上げられている。
>そんなこと、御書のどこにあるのか。

などと意気軒昂に騒いでおるが、ならば、此の恩師による御本尊指導はどうであるのか。

恩師が云く『大聖人は在世中、弟子信者に御本尊をお授け下さったのであるが、これは一機一縁の
御本尊と申し上げるのである。弘安二年十月十二日、一閻浮提総与の御本尊御出現の後は、各弟子
信者の手にある一機一縁の御本尊は、二祖日興上人の御手許にとりまとめられた。それにもれた
ものが、勝手な人々へ移り伝わって今日御真筆として信仰の対象になっているのである。ただし、
これはちょうど電燈にたとえて考えると(御本尊を電球にたとえて申すことはもったいないことで
あるが)ヒューズが飛んで電流が流れてきていない電燈は、電球が切れていないからといって、
いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても電流が流れてこなければ
光が出ないのである。御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければ何の功徳も
ないのである。(中略) そこでもし、このようにたしかな御真筆の御本尊を拝した場合は、大石寺の
御法主上人の御手許に移して改めて感得願いを申し上げて、大御本尊に直結した御本尊として御さげ
願えばよいのである』と。

果たして文中『電流が流れてこない御本尊』とは、一体どういう御本尊であるのか。しかも、大聖人の
御真筆御本尊についても、恩師はそう述べられている。よいか、お主は其れを説明しなさい。

言っておくが、此の恩師の御本尊指導は、組織の破門によって変節されるものではない。あくまでも
本尊義について述べられたものである。尚、此の時の御法主上人猊下は、第64世日昇上人である。
マゴマゴ君もたまには拝見するであろう、学会本部に安置されている御本尊を。

百六箇抄に曰く『日蓮は脱の二妙を迹とし、種の二妙を本と定む。然(しか)して相待は迹、絶待は本
なり云々』と。加えて同抄に申さく『本より迹を垂れ迹は本に依る。迹は究竟に非ず』と。

仍って日寛上人に曰く『就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の大御本尊は、究竟中の究竟、本懐中
の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり』と。

尚、日寛上人は、第五重、文底下種三段の正宗分。つまり、本門寿量文底の大法とは、本門戒壇の
大御本尊の御事である、と明言されている。

言っておくがマゴマゴ君。

文底下種三段に於ける正宗分も、三重秘伝に於ける第三法門も、お主ら創価学会の教学ではない。
一体、どこから其の教学を学んだのか。此の小生が『生き証人』である! 謹んで答えなさい。

何?

>学会でどう教えるか。先生は、御本尊は御本仏日蓮大聖人の大慈大悲そのものとよく指導される。
>戸田先生は「幸福製造機」とおっしゃった。御本仏の絶対的な幸福の境涯であるから、人々に
>御本仏と同じ幸福境涯をひき出させるの謂いだ。余分な日顕宗の坊主どもが介在せずともかなう
>成仏の直道がこれで、自分対御本尊の健全な関係にある。

…哀。何の答えにも成っておらんぞ。はて、『坊主の介在抜きで自分対御本尊の健全な関係』とは、
一体、富士門流の、どの教義であるのか。其れも併せて答えよ。

>しかも、大体において一閻浮提総与と高唱しながら800万信徒をいきなり切り捨てて拝ませず、
>自分の占有物とし、自分で自分を巫女(みこ)やダライ・ラマのような存在にまで祀り上げるとは
>言語道断。魔僧の魔僧たるゆえんがここにあり、彼らが日顕宗と蔑称される原因がここにある。
>自業自得だが、邪宗門が逼塞する最大の原因もここにある。

おいおい、其れこそは、お主が云う処の『戦中の国民は天皇崇拝を強要された』という類(たぐい)で
はないのか。何? 自分に於いては強要ではない。洗脳でもないとな。ならば、戦中の国民も、
お主と同じ思考であったのであろう。『鬼畜米英を打倒せよ!』『日顕宗を打倒せよ!』と。

何でお前だけが自由意思で、戦中の国民の意思が「強要」となるのか! ロボットではあるまいし!
よいか、都合の良い事をいうものではない! 前方に何千という米兵が機関銃を構えるて居る所に、
小隊長がお主に対して「突撃しろ!」と言う。してお主はマゴマゴして『恐いよ~』と逃げるのか!
よいか、其れでも皆、銃剣を振り上げて突撃したのである。其の時の一人一人の感情をお前はどう
思っておるのか! 『強要だ! 洗脳だ!』などと無機質に言いよって!

思うにお主、本当は慇懃にして口の汚い御仁なのではないか。小生が洞察するに、お主は創価学会を
脱会し、法華講に入講し、そして再び学会に移ったのであろう。して、その変節の原因は須らく人間
に在ったのであろう。人を見て法を見ず。よいか、そういう人間に限って恨みつらみが増すのである。

>御本仏の大慈大悲の結晶、御本尊に(相絶の二妙を)あてはめることはナンセンスの極み
>普通の学会員が奇々怪々な違和感を覚え、教学的にも邪義と判じるのは当然至極のこと。
>素晴らしいと絶賛して喜んでいるのは、法主信仰の泥沼におぼれたア法華の面々以外にないだろう。
>マグマグo(*^▽^*)o~♪

小笑。『御本仏の大慈大悲の結晶、御本尊』って、おい! お主ら学会に御本仏日蓮大聖人御直筆の
御本尊が在るとでも言うのか。何処(どこ)にも無いであろう。

何? 御真筆でなくても、其れを写した曼荼羅であれば、御本仏の大慈大悲の結晶だ! とな。

何だ。つまりは大強信の八百屋の親父が書いた曼荼羅も、御本仏の大慈大悲の結晶を写したもので
あれば、其れも御本尊である、という事か。何? 八百屋の親父はダメだと? なぜだ!?
なぜダメなのだ!?

哀。ったく『駄文だ』『ア法華だ』などと。
そういう悪口は、小生の詰問に答えてからにしなさい。

よろしいか。
 

黒川殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月30日(火)23時38分6秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >御観念文のことを書いておられましたが、随分と昔の経本をお持ちなんですね。

もう、ボロボロなので、自宅で勤行する場合のみ用いております。

>私の入信は昭和31年ですが、それから2回ほど御観念文が変わっていると思います。
>時代時代に沿って御観念文は変わるのですね。

もちろん、その時代に於いて、御観念文の内容が変わる事もありましょう。
しかし、変わる以前の御観念文を用いたとしても、其れは謗法とはなりません。

尚、諸天の寿命からすれば、我ら人間の五十年などは、たった一日でありますから、
日蓮大聖人の御入滅から現在までは、わすが二週間ちょっとしか経っていない、という事になります。
其の事からして当方は、今以って初座の諸天供養に於いて、天照大神と八幡大菩薩に法味を捧げるの
であります。
 

大月天殿

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2013年 4月30日(火)00時25分34秒 p7114-ipbfp01osakachuo.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  御観念文のことを書いておられましたが、随分と昔の経本をお持ちなんですね。私の入信は昭和31年ですが、それから2回ほど御観念文が変わっていると思います。時代時代に沿って御観念文は変わるのですね。

懐かしい御観念文を読ませて頂きました。

 

村山談話は破棄した方がよい

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月29日(月)22時31分48秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  『侵略の定義は、学会的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいと思う。国と国との関係に
於いて、どちらから見るかで違う。そういう観点からも(村山談話に関して)問題が指摘されているのは
事実ではないか』(4月23日/参議院予算委員会)

うむ。安倍総理もなかなか佳い事を言う。応に其のとおりである。

さても、大東亜戦争当時、イギリス・フランスなどの列強国に、其れこそ侵略され植民地とされていた、
ベトナム・ビルマ・インドネシア・マレーシアなどの国民が義勇軍などを結成し、我が帝国の進攻に
協力し、タイ国や中華民国南京政府なども、我が帝国と組んで、侵略者である英仏に対して反抗した
のである。

尚、現在に於ても、インドシナに於いては、占領者(イギリス・フランス)による愚民化(いわゆる奴隷)
政策を解放したとして、大日本帝国による統治について、その成果を述べる政府要人も居るのである。
つまり、安倍総理が言うように『侵略の定義というものは、どちらから見るかで違う』と云う事なの
である。まして、明治38年の帝国と大韓民国(当時は大韓帝国)との日韓交渉条約を経て、5年後に
双方が調印した、いわゆる『日韓併合』については、まったく創価学会員が云う様な、帝国の軍隊が
韓国に乱入し、民衆を虐殺し、財産を略奪し、其れこそイギリスやフランスの様に、捕縛した民衆を
奴隷化する様な事はしていないのである。ったく『調印』をして『侵略』などと、売国奴の言い分は
いつもそうなのである。哀。

尚、靖国神社に於けるA級戦犯などは、其れこそ関ヶ原の合戦に於いて、石田三成が第一の首謀者と
なっている様に、そんなものは勝者の結論であって、事実、彼の関ヶ原の合戦などは、徳川家康が
仕掛けたものなのである。つまり、相手から先に手を出させる仕掛けをしておいて、手を出してきた
ならば早速に『侵略者・悪者』のレッテルを貼り、其れに対する戦いを正当化するというものである。
…はて、この戦術、どこぞの新興宗教が得意とするものではなかったか。哀笑。

兎も角、大日本帝国が勝っておれば、マッカーサーがA級戦犯となり、毛沢東なども死刑となっていた
のである。つまりは、そういう論理なのである。

『勝てば官軍。負ければ賊軍』

日本人ならもう少し、日本人としての気概を持ちなさい。誇りを持ちなさい。頭脳を持ちなさい。

畏れ多くも日蓮大聖人は、此の日本国こそが世界一の国であると申されている。何と云う大眼力で
あろうか。本より、世界一の妙国に御誕生遊ばされた御本仏としての大確信でもあろう。

尚、恩師は、我が日本の誇りについて『日本のごとく、偉い者がそろっている所はない。日本の水は
きれいな水であり、きれいな水は民族を優秀にし、水の速さの激しい気性を持っている。日本人くらい
立派な素質の民族はいない』と断言されている。

兎も角、勝者の理論によって烙印された『A級戦犯』なる区別は即刻に見直し、皆々が戦争の犠牲者
であり、祖国の為に散った英霊であるとする事こそが、応に日本人として真っ当なる精神であると此
に思うものである。

果たして、戦闘力を殆ど失った国家に対して、其れこそ広島・長崎に原子爆弾(核兵器)を投下し、
諸説はあるが、両市に於いて20数万人が死んだともいう。いや、死んだのではなく、殺されたので
あるが。はて、この殺戮行為は、支那(シナ)・朝鮮からして『A級の戦犯』の類(たぐい)にはならんのか。

哀。

思えば何ともいい加減な基準ではあるが、兎も角、村山談話も河野談話も早急に破棄して『安倍談話』
を発表し、煩(うるさ)い隣国を黙らせる事である。

尚、言っておくが、法華講員でこういう事を言っているのは、まったくの少数であり、下手をすれば、
極少かも知れん。しかし、其れは其れでよい、と思っている。本より、民主党を支持する法華講員も
いれば、共産党や社民党を支持する法華講員もいるであろう。其れは其れでよいのである。

何? 公明党? …いや、居るかも知れんぞ。

しかし、其れはやめた方がよいのではないか。何と言っても『創価学会党』であるし、その事実は、
当方がこの身で体験したものであるから、間違いないものである。しかし、公明党には早く政権から
離脱してもらいたい。腰巾着はもういいだろう。 
 

お前ら現創価の逆賊は能く能く心読しなさい

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月29日(月)02時26分39秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  僧侶の大功績

日本中にいる一般の坊主は、全然不要なものである。非生産的階級であって、社会に何の寄与する
ところもない。寄生虫的存在である。外面は文化面に属し、宗教の衣を着ているが、宗教の使命を
自覚もないし、なんら宗教行為を実践していないのである。

釈迦の出世の目的も知らなければ、釈迦の仏教が、どうなっているのかも知らない。
生命の実相観もないし、人と仏との真実の関係においても、思索が徹底していない。
知っているのは、意味を知らないお経文を読むことと、「檀家」の数と、金の勘定と、
社会的名誉のことである。

寺に住み、葬式および法要のときに、ケサをつけるがゆえに、日本語において僧侶と名ずけるので
ある。「二十の扉」の語をかりれば、「動物」と言う題で、陰の声が「寺に住む動物の親分」という
ことになる。すなわち高級乞食である。

かかる何十万の動物のなかで、同じ姿こそしておれ、厳然として人であり、人の中でも、りっぱな
僧侶と名づくべき百数十人の小さな教団がある。この教団こそ日本の宝であり、仏のおおせの僧宝で
あると、万人の尊敬すべきとことで、まことにめずらしい教団である。日蓮正宗の僧侶の教団こそ、
これである。

かかるりっぱな教団でも、身近に住む信者は、ありがたいとも思わず、ふつうだと考える。これは、
この教団の偉大な功績を見ないものであって、この教団の一部分観をなしたり、または、この教団
存立の目的たる広宣流布において、なまけておるものが、おったりするものだけを見るから、宗祖
大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっぱい食うことを、唯一の願いであるとしている猫坊主が
多いと攻撃して、功績の方を見ない。

この教団の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く、ありがたく、かつ一面には猫もねずみも
出るであろう。かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない。

かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人ご出世のご本懐より、または仏法の大局
視よりなすなら、口にも筆にも表せぬ一大功績が、この教団にはあるのである。

わずか小勢百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧充満の悪世に、よくたえるもので、大聖人の
「ご出世のご本壊」たる弘安二年十月十二日ご出現の一閻浮提総与の大御本尊様を守護したて奉って、
七百年間、チリもつけず、敵にもわたさず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心
に心身一つに、御本尊を離れずに、今日にいたったのである。

朝夕の給仕、大聖人ご在世と一分も変わりなく、時勢の隆替(りゅうたい)にも、法主上人の代々にも、
なんら変わりがないことは、大聖人ご在世を拝すると同様である。

天台大師いわく、「霊山一会の大衆、厳然としていまだ散らず」と。
私のいわく、「大聖人ご在世の一会大衆厳然として石山にあり」と。

もったいなくも、代々の法主上人の丑寅の勤行は、御開山より、ただの一日も休んだことがない。
丑寅の勤行とは、夜の2時からのご勤行で、暑くとも、寒くとも、大衆救護の御法主上人はじめ
石山僧侶一同のお勤めである。

もったいないではないか。神々しいではないか。
ありがたいではないか。

他山に、かかる勤行があるであろうか。かくも、法体を守護し、かつ他儀連綿(たぎれんめん)たる
功績こそ称えねばならぬことである。この上に、大聖人のご教義は、深淵にして、厳博(げんぱく)
であって、愚侶の伝えうべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損すること
なく、なんら加えることなく、今日まで清純に、そのままに伝えられたということは、仏法一真実の
仏法哲学を滅しないことであり、実に偉大なる功績ではないか。

以上、この二つのご功績は、これ日蓮正宗僧侶の大功績と称えなくてはならない。
この大功績によって、真に大衆の苦を救う広宣流布するの日には、東洋の民衆は、大聖人の仏慧を
こうむり、世界平和の礎(いしずえ)が、きずかれるのである。


                                 昭和26年6月10日
                                  大白蓮華  巻頭言
 

阿部日ケ~ン(陰性)へ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月28日(日)18時33分1秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  >日蓮大聖人は諌暁八幡抄で
>「八幡大菩薩は応神天皇小国の王なり 阿闍世王は摩竭大国の大王なり天と人と王と民との勝劣
>なり」と八幡神を表現されていますね。尊皇主義者なら激怒するかもしれません。

哀笑。

お主は、上記御文中に於ける『小国』『大国』の意を説明しなさい。

同抄に曰く『我が前にして国主等の怨(あだ)する事、犬の猿をかみ、蛇の蝦(かわず)をのみ、鷹の雉を、
師子王の兎(うさぎ)を殺すが如くするを一度も誡しめず』(新編 1535)

果たして上記御文中の『猿』『蝦』『雉』『兎』とは、一体誰の事を指して述べられておるのか。

哀笑。ったく、お主の様な文上読みの浅識者に、諌暁八幡抄の御真意などが理解出来るのか。哀。

言いっ放しは許さんぞ。よいな。

>大月天管理人は姑息にも、尊皇主義者をたばかるために日蓮大聖人を悪用し
>牧口先生を悪用しているのです。

謀(たばか)るだと? 果たして小生のどこが謀りであるのか。
言っておくが、日本人にして尊皇の志が無いものは日本人ではない。さてや、お主もそういう人種で
あるのか。つまりは『売国奴』という事である。少しは恥を知りなさい。

>また大月天管理人は
>「其は天照大神も八幡大菩薩も須らく、久遠の本仏たる日蓮大聖人の力用に依って発揮される国神
>である、という事を改めて確認すべきでありましょう」

>とゴマカシていますが末法において「法華経の行者を守護する」からこその諸天善神の意義
>(威光倍増)があるという事を御書では説かれています。
>簡単に言えば、法華経の行者を護らない国主国人等を「八幡」が罰そうとせず護ろうとするのなら
>梵天に罰せられちゃうぞ! と喝破されています(笑)

笑。おいおい、諸天善神が法華経の行者(日蓮大聖人)を守護するとは、一体何の力用が在って守護
されるのか。お前は其れに答えなさい。

尚、お主の共連れなどが『偽法主やそれに同調する烏合の衆の救済法も同じ。彼らに奇形化した救済
観や選民意識を打破させ、自らの手で正常な精神、信心の自律をもたらせるには、我々自身が正しく
基本に戻り、折伏、救済の手を差しのべるしかない。折伏されるようになった日蓮正宗――失った
最大のものが、この宗名でもある』

などと増長しておるが、果たして『我々自身が正しく基本に戻り』とは、一体何の基本であるか。
眼の前で日蓮大聖人は末法の御本仏ではない、などと、其れこそ奇形化した創価大のMや、宿坊なる
黒カラスを黙認して、一体何の基本であるのか。其の事を能く能く考えた方がよろしい。

尚、以下の詰問に対しては、しっかりと答えて貰おう。何時ものように薄ら惚けるでないぞ。よいな。

>ないものを「ある」と定義するのは大ウソつきか、見当識障害といったような精神的機能障害が
>疑われます。

無いものを在る、と定義するのは大ウソつきで、精神的機能障害が疑われる、とな。
ならば、在るものを無い、とする定義はどうであるか。これも精神病も一種であるのか。

無量義経徳行品第一に曰く

『其身非有亦非無(其の身は有に非ず亦(また)無に非ず』と。(開結 72)

哀。お主から言わせれば、これも精神的機能障害の一文となるのか。何とか申せ!
 

別在の十界

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月28日(日)14時30分51秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  御隠尊猊下に曰く『「悪鬼」というのは幽界の命とも言えます。目に見えるものしか信じない人も
多いけれども、世の中の存在には、目に見えない種々の界があるのです。すなわち別在の十界を信ず
べきであり、そこには地獄界も餓鬼界もあり、悪霊も存するのです。例えば、通力のある人は、山の
中の稲荷の後などを歩くと、そこに長い間住んでいた狐の魂などを感ずることがあるのです』

                         (平成15年度 第1回法華講夏期講習会)

先ずは『別在の十界』との表現は、宇宙法界に冥伏せし十界の生命をして、まことに要を得た表現で
あると思うものである。抑も、それら別在する生命、つまり「空」の状態で冥伏している十界の生命
については、恩師戸田先生も述べられている所であり、小生も男子部時代、何度も読み返したもので
ある。長文ではあるが此に明示しよう。

恩師に云く『【死んだ人が迎えに来た】そういう事はありうるのです。なぜこういう事がいえるかと
言いますと、この大宇宙というものは、十界の生命なのです。地獄もあり、畜生もあり、仏界もあり
ます。ところが、この大宇宙に、その十界がありながら、何も邪魔にならない。たとえて言えば、
いつも言うことですが、ここにドイツの言葉もあるのです。また、アメリカの言葉もあります。
ラジオ東京もあります。NHKもあります。だが決して邪魔になってはいません。
(今しゃべっている)私の語の邪魔になっていません。ところが、ここに機械をすえつけたら、
邪魔どころか、うるさくて話などしていられません。同じように、大宇宙の中へ、我々の生命は
溶け込むのです。そして、おのおのは地獄なり、餓鬼なり、あるいは畜生なり、それぞれの生命の
性格の中へ溶け込む「我」というものが存在します。それは、霊魂ではないのです。また、死霊
などというものでもない。「我」なのです。この苦しみが持つ生命の波長というものが、
(今の世に)生きているものも、十界の生命を持っていますから同じその波長を受ける時に、そういう
言葉で聞こえたように思え、もしこれを精神学者に言わせれば「幻覚」というのです。
また、本人にはそういうふうに見えたり、感じたりする夢のようなものなのです。それは死後の生命
の波長の影響なのです。これを生きているものが強くて、こちらから題目を送れば向こうが浮かぶの
です。そうでしょう。同じ波長は通ずるのですから、こちらの生命力で仏界の生命力の題目を波長を
向こうへ送ってやれば勝てるのです。逆にこちらが弱いから、向こうの生命の波長を受けて、
ちょうどラジオの機械みたいになってしまいます。そして、その音を自分だけが聞くのです。
自分だけは見えるのです。そういう事は、仏法上、説明はできます。だが、こちらの生命力が本当に
強ければ、そんな事はありません。絶対に受けません。逆に向こうを救ってやれます。それが仏法の
哲理です』と。 【戸田城聖先生 質問会集 P143  昭和38年初版発行】

応に文中の『向こう』とは、宇宙法界に冥伏した死後の生命を指すものであり、其の『向こう』をして
『別在』と表現するに、何の誤りも無いのである。つまり、恩師が云われているとおり、此の宇宙法界
には、生きている者の十界と、死せる者の十界があり、又、其々の十界の波長は、相互に於いて感応し
得るという事である。つまり、我らからして其は『別在の十界』という事である。

つまり『別在の十界』とは、冥界に於ける十界の存在を言われたものであり、つまり、死後の生命に
於いても十界が存在し、其れは空(有ると云へば有り、無いと言えば無い、而して在るにして無く、
無きにして在る)という状態で存在するという事である。而して、諸天や悪鬼や魔なども、其の状態に
於いて感応する、という事である。

見れば、現創価の小会員などが、此の御隠尊猊下の『別在』という表現を以って、御書にはそういう
語句は無い、そんな表現は初めて聞いた、などとギャーギャー騒いでおる様だが、其の示される語句
に於いて内容が同義であるならば、その時々の表現が初出であっても、別段、その説く所の意に於て
問題はないのである。ったく『御書にそのものズバリの語句などは無い! 聞いたことのない表現だ!』
とは、いつもながらの創価莫迦の文句ではあるが、お前ら新興宗教の存在意義などが、抑も、どこの
御書にも示されていないのである。ったく、そんな連中が『別在とはなんだぁ~!』と騒いでおる。呆笑。
まことに、『どーしようもない連中』である。哀。

>今や日蓮正宗門徒内では、真顔で「別在の十界」などという目に見えない存在を信じろと強弁して
>いるのです。

果たして此の文句は、彼の阿部日ケ~ン(陰性)のものであるが、此の文句こそは『目に見えない存在を
信じろと言われても其れは無理だ』という事であり、其れこそは恩師の指導に違背するものである。

何? 恩師の指導は、宗門との和合時代の指導であって、今の我々には通用しない、だと? 呆笑。

ならば、上記の恩師の指導が、組織の破門によって、邪説となる、という根拠を示しなさい。
つまり、日亨上人、日淳上人、日達上人、そして日顕上人の途中までは、恩師の指導は正論であるが、
破門以降は、御世辞の指導であり、無知の指導であり、誤謬の指導であり、邪説である、という事を
証明しなさい。ったく、ある蝗蟲などは、平成十七年、つまり破門されて十四年後の会長指導でさえ、
邪説であるなどと言っておる。お前ら本当に大丈夫か。哀笑。

ブレてブレてブレまくり、其れこそ、民主党よりも百倍のブレ様である。ったく、政治ならまだしも
宗教団体として情けないとは思わんのか。哀。

>ないものを「ある」と定義するのは大ウソつきか、見当識障害といったような精神的機能障害が
>疑われます。

哀笑…はて。無いものを在る、と定義するのは大ウソつきで、精神的機能障害が疑われる、とな。
ならば、在るものを無い、とする定義はどうであるか。これも精神病も一種であるのか。哀。

無量義経徳行品第一に曰く

『其身非有亦非無(其の身は有に非ず亦(また)無に非ず』と。(開結 72)

哀。お主から言わせれば、これも精神的機能障害の一文となるのか。何とか申せ!

ここで一言、付け加えよう。

小生の祖母は、恩師が出席された一般講義に於いて折伏されて入信したのであるが、其れまでは
色々な邪神を祀って拝み、一番怖かったのは、白蛇の神を拝んでいた時で、夜中になると布団から
這い出て、部屋の隅に膝をかかえて座り、舌をペロペロと出しながら、寝ている子供たちをギョロ
ギョロと見ていた、と小生の母からいつも聞かされた。勿論、祖母は創価学会に入り、日蓮正宗の
信心をして、見事、謗法から解放されて完治したのである。又、祖父や母からは、当時住んでいた
山口県の屋代島(大島)に、稲荷山という小高い山が海沿いあって、その山を夜な夜な通ると、キツネ
に化かされる、という話があって、いつもの一本道を歩いていると、何やら身体が冷たく感じ、ふと
気が付いたら、そこは海の中だった、というものである。

つまり、感応は道交し、其れら十界の生命は、其の有無に於いて此の法界に遍満しているのである。
今世であれ、冥界(幽界)であれ、十界は存在し、其れは断常の二見を超越するものであり、其の空に
して我なるを『別在の十界』と表現するは、此れまったく要を得たものであると、小生は改めて思う
ものである。

ったく、小生から言わせれば、お前ら創価学会の存在自体が、日興門流からして別在の宗教であり、
そんな新興宗教に現(うつつ)を抜かす、お前ら小会員こそが、我ら興門からして、別在、否、別物の
輩(やから)なのである。哀。

小笑。其れにしても、今に成って恩師の僧侶に対する呵責などを羅列しているようだが、ったく、
その背景などを敢えて隠匿して掲載する、怪文書フェイクの姑息な姿よ。哀。

よいか聞け!

恩師の信心指導について、小生と対決するならば、いつでも来い! 見事、粉砕してしんぜよう!
 

通りすがり@法華講殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月26日(金)17時29分42秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用 編集済
  >靖国の短くも文化的な歴史を考えれば、そう簡単に遠ざかることは出来ない、意識として無視する
>ことの出来ない自分がおり、正宗信徒としてのあるべき姿との乖離にさい悩まされる日々が続くこと
>になりそうです。

応に其の意識こそは、日本人として当然の事でありましょう。祭祀の基準は別として、国興のために
散っていった英霊に対して、心から哀悼の念を生ずるは当然の事であります。まして、彼の大東亜の
戦火は、我が日本国の侵略戦争ではなく、実に欧米らによる経済弾圧への抵抗であり防衛であった、
という事からして、それら防衛戦に散っていった英霊に対する想いは、常に心の中に置くべきである、
と小生は思うものであります。尚、通りすがり殿は『(靖国を)意識として無視することの出来ない自分
がおり、正宗信徒としてのあるべき姿との乖離にさい悩まされる日々が続くことになりそうです』と
申されておりますが、靖国の意義は意義として理解する事は、別に富士門信徒として乖離するものでは
ありません。大いに靖国神社の意義というものを、神天上の法門から理解し、其れこそ靖国の靖国たる
真の姿こそを、日蓮大聖人の仏法から見定めて往くべきであると、小生は思うものであります。

>大忠霊塔(大東亜戦争戦没者顕彰塔)については、早速次回の登山の折に詣りたいと思っております。

其れがよろしいでしょう。

>天照大神、八幡大菩薩に関するご高説はとてもためになりました。
>皇祖皇宗に対する崇敬心は日本人のアイデンティティにもかかわることですから、
>これと正宗法門との整合性への言及は初見で、ストンと落ちるものとなりました。

領解して戴ければ幸甚であります。

>今更言うまでも無いですが、小生は正宗信徒であると同時に、歴史観は保守思想に拠っております。
>これまでなかなか同じような立場の方にお会いする機会、お話しする機会が無かったもので、
>管理人さんとのお話は貴重でありがたく思います。
>今後ともよろしくお願いいたします。

日蓮大聖人曰く『しかるに我が日本国は一閻浮提の内、月氏漢土にもすぐれ、八万の国にも超えたる
国ぞかし』と。(新編 1299)

本より、我が日本国こそが全世界に於いて最も優れた妙国であり、釈迦のインドよりも、天台の支那
よりも優れているのであります。したがって、日蓮大聖人は、閻浮提第一の聖人、つまりは大聖人
なのであります。果たして『保守』もなにも、最高の『保守』であるべき事が、我が妙国に住する者
の採るべき姿ではないか、と小生は思うのであります。その大日本国をして『小日本』などと揶揄す
る支那人などは、謗法のほの字も知らない、まったくの無智の民族であり、そういう可哀想な民衆を
仏法からして救う事こそが、我ら日本人の務めであると思っております。

通りすがり殿には、今後とも御投稿、御閲覧を宜しくお願い致します。
 

幽界の命

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2013年 4月25日(木)21時42分57秒 p7114-ipbfp01osakachuo.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.44688[元記事へ]

法華講のおばちゃんさんへのお返事です。

> ★悪鬼というのは幽界の命ともいえます。世の中の存在には目に見えない種々の界があるのです。
> 幽界の中には、様々な悪鬼、悪魔もいるわけで、そういう悪鬼外道が来たって災異を起こし、難をなすのである。(大白法H15・7・16日顕上人猊下ご指南)


この御指南には同感です。

私の母の生前の話ですが、小さい時、大阪の布施という街に住んでいたらしいですが、近所のおばーさんが熱心な「ミーさん信仰(ヘビ)」をしており、毎日ミーさんを熱心に拝んでいたらしいのです。で、このおばーさんが死んだ時の話ですが、翌朝、通学途中で相当長いアオダイショウが横たわって死んでおり、道を塞いでいたとの実体験でした。
町内会の人が処分したらしいですが、不思議な話ですね。

次に不思議な話ですが、私が小さい時、創価の地区座談会に出席していた時の話ですが、やはりヘビを信仰していたおばーさんが座談会に出席していました。おばーさんの質問は、入信してはいるものの、勤行をする度にヘビが背中とか体中を突くというのです。結局、蛇に負けて数か月後死んでしまったという私が実際にこのおばーさんから聞いていた話です。



こういうことってあるのですね。



 

Re: 通りすがり@法華講殿

 投稿者:通りすがり@法華講  投稿日:2013年 4月25日(木)21時12分30秒 p37095-ipngn101funabasi.chiba.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.44693[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

お返事ありがとうございます。
ご教示拝読いたしました。

結局の所、本来国が行うべき戦没者追悼を、現行法上民間の一宗教法人に
任せていることが問題なんだと思います。しかれば、

> 其の形態が実現した時に於いて、堂々『慰霊施設』に訪問す
> れば良いと思うものであります。

管理人さんがこう仰っているとおり、靖国を非宗教法人化し、
『月並みの神社よろしく大麻(神札)や御守りなどを「参拝者」に授与し、
以って其れらを神よりの力と定義する処』を廃した上で、
例えば国立追悼法人靖国社、のような国家護持の形態を取れば、
法華講衆としても堂々と赴き手を合わせられるのでしょうね。

どなたかが「靖国に拘っている」と仰いましたが、拘るのは当然で、
それは何よりも英霊との約束が靖国の地であることが厳然たる事実としてあるからです。
時を待つべきのみ、だと言うことでしょうが、靖国の短くも文化的な歴史を考えれば、
そう簡単に遠ざかることは出来ない、意識として無視することの出来ない自分がおり、
正宗信徒としてのあるべき姿との乖離にさい悩まされる日々が続くことになりそうです。

大忠霊塔(大東亜戦争戦没者顕彰塔)については、早速次回の登山の折に詣りたいと思っております。

天照大神、八幡大菩薩に関するご高説はとてもためになりました。
皇祖皇宗に対する崇敬心は日本人のアイデンティティにもかかわることですから、
これと正宗法門との整合性への言及は初見で、ストンと落ちるものとなりました。

昭和三十八年版勤行要典四座御観念文、
> 【奉祈念天皇陛下護持妙法爾前迹門之謗法退治・一天四海本因妙廣宣流布大願成就御祈祷の御為に】
日本人としては当然の御観念文だと思います。
なにより日本における広宣流布とはまさに国家祭祀の長たる天皇の帰依が根本になるでしょうから。
恐らく、前半が削られることになったのはあの「国立戒壇」問題でありましょう。
その意味に於いても、創価学会・妙信講(顕正会)の罪は重いと思わざるを得ません。


今更言うまでも無いですが、小生は正宗信徒であると同時に、歴史観は保守思想に拠っております。
これまでなかなか同じような立場の方にお会いする機会、お話しする機会が無かったもので、
管理人さんとのお話は貴重でありがたく思います。

今後ともよろしくお願いいたします。
 

追記

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月25日(木)17時34分38秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  当方の記憶が正しければ、約3年前の、平成22年6月から公の場に姿を見せていない池田太作は、
一体全体、どーしているのか。

聞けば、大きなオシメをしてベッドに横たわり、時折、白目をむけて大声で喚(わめ)くと云う。

何ぃ? 証拠を出せだと?

莫迦者!

お前らこそ出せ! 連日、聖教新聞にメッセージを出す、池田太作の健康な姿を!!
 

創価学会員の妄弁

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月25日(木)17時32分17秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  創価学会員による以下の発言を目にした。

*************************************************************************

創価学会員です。

秋谷前会長の脱会云々に関しては、日蓮正宗信徒が発行している『慧妙』に掲載されただけのお話し
です。過去何年か前の『慧妙』をみても、秋谷前会長の脱会云々と書いてきております。

本当のお話でしたら、スクープネタとして週刊誌が掲載しております。

中西総務の脱会に関して、週刊誌が報道しているのに、秋谷前会長の(脱会の)話が掲載されない時点で、
虚偽であるとみるべきでしょう。

秋谷前会長は知りませんが、日蓮正宗の根本教義たる「戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」「血脈相承書」
などが、ニセモノであり、創作であると言う事が、公になっている今、(日蓮正宗に)戻る価値は何も
ありません。富士大石寺が恋しくて戻る学会員も居るでしょうが、それは日蓮聖人と無縁の世界に行く
だけです。

日蓮正宗は、10年も経てば経済的に困窮し、朽ちる宗派です。
「板マンダラ」「日蓮本仏論」など、ニセモノ・創作思想諸共、朽ち果て、消え去るのです。

*************************************************************************

>秋谷前会長は知りませんが、日蓮正宗の根本教義たる「戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」
>「血脈相承書」などが、ニセモノであり、創作であると言う事が、公になっている今、
>(日蓮正宗に)戻る価値は何もありません。

此の者は阿呆か。ならば何故『日蓮大聖人出世の本懐として御図顕された弘安2年10月12日の
大御本尊』と公言するのか。何故『日蓮大聖人は末法の御本仏』と公言するのか。何故『日蓮大聖人
は後事を直弟子の日興上人に託した』と公言するのか。

さてや、此の者も蝗蟲の一味であるのか。
つまりは面従腹背の裏切り者という事か。

兎も角、こういう者共は、いち早く創価学会から追放した方がよろしい!

哀笑。其れにしても『秋谷会長は知りませんが』とは、つまり会長がどうであろうとも、俺様の教学は
俺様のモノだ、という事であろう。哀。こういうのを「馬鹿」というのである。

そういえば、似たような奴が小生の周りに二人ほど居ったのぉ。
つまりは足して「三馬鹿」という事か。

ったく、話にもならんぞ。呆。
 

蜜月が故の擁護であったいう詭弁

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月25日(木)13時30分42秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  恩師、青年訓に云く『第一は、無智の者に永遠の生命を教え、日蓮正宗の本尊の絶対無二なる尊貴を
知らしめて、功徳の大海に思うがままに遊戯する、自在の境涯を会得せしむる為に、忍辱の鎧を著
(き)、慈悲の利剣をひっさげて戦うのである』と。

仍って御隠尊猊下に曰く『したがって(創価学会の)八百万世帯にいたる大折伏は、戸田氏の清浄な、
正法を護る気持ちの中から行われたところであり、その中から皆様方が現われてきたのであるという
事をはっきりと見定めるところに、創価学会に縁のある方々が、創価学会の存在理由とその経過、
すなわち正しい仏法の流れを正しく知る所以があると思うのであります』と。

                       (平成4年3月29日 法華講連合会壮年部大会)

さて、今もって学会本部には、昭和26年5月19日御書写の日昇上人の常住御本尊(脇書・大法
弘通慈折広宣流布大願成就 模刻)が安置されているのは承知のとおりである。

つまり、此の御本尊は、お前らが昨今言う処の『「宗門との蜜月時代」に下付された御本尊』という
事にもなる。而して、此の常住御本尊が日蓮正宗から御下付された時、応に創価学会は第二代会長・
戸田先生大号令の下、会員一丸となって大折伏戦を展開していったのである。

しかし、今の小学会員は、それら恩師の忠魂の戦いをして『宗門と仲が良かったから』などと軽口を
叩くのである。哀。

そうか。其れは真(まこと)の事か。果たして当時、恩師が御本山と仲が良かったから、宗教の根本
尊崇たる本尊に於いて、其の大信心を全うし、その御本山への忠烈を会員に入魂したとでも言うのか。

其れは真(まこと)の事であろうな。而してもし、その論拠が崩れたならば、お前ら小学会員は、
其れこそ恩師戸田先生の大信心に唾する、まさに忘恩の似非会員である事を、此に証明されるので
ある。よろしいか。

本より、其の破折の論点は唯(ただ)一つ。

つまりは、御本尊を下附する日蓮正宗と、その御本尊を下附される創価学会、という破門以前の関係、
つまり、其れら正統・富士門流に於る御本尊授与の大義が、総本山と信徒団体という関係に於いて、
其の真義が受動的に変化してしまうものであるのか、という一点である。

果たして、僧俗による蜜月の関係、つまりは対人、対組織の関係に於て、其の両者間の良悪が、富士門
七百年来の根本たる本尊義を左右し、其の正邪さえも司ると言うのか。

小学会員よ。其れは違うであろう。

応に法の正邪、つまり本尊の正邪こそは、其の関係の良悪を超越するものである。

その様な事、大聖人と大進房、否、日興上人と波木井実長との関係を観れば、容易に判るというもの
である。

よいか。今一度言おう。

御本仏・日蓮大聖人から相伝された日興門流の御本尊義は、それ以降の僧俗関係の善し悪しによって
変化させられるものではない、いや、その本からして変化するものではないという事である。

仍って、曾(かつ)ての創価学会が富士大石寺の信仰に忠実であった事は、決して当時の信者による
「良好な関係」によって為されたものではなく、其れは応に、信者による「確たる信心」によって
為されたものなのである。

関係が良好であるから信ずるのではなく、信ずるが故に関係が良好となるのである。

其れをお前ら小学会員は、今に於いて『蜜月だったから、宗門を守っていただけ』などと嘯(うそぶ)
くのである。

ったく、何という言い草であろうか。

云うまでも無く『日蓮大聖人の真実の教えは、独一本門といい、文底秘沈というも、みな一閻浮提総
与の三大秘法の大御本尊を根本とした教えでなくてはならない。今日末法に於いては、富士大石寺に
こそあれ、他にはないのである』との恩師の大指導は、決して宗門への世辞でもなく、其の和合関係を
維持する為の美辞でもないのである。

したがって、当時の事をして『宗門との蜜月を堅持する為に、富士大石寺の法義を守って来た』など
という言い分は、応に好嫌の領域に於いて、其れこそ信者の都合によって宗門を擁護してきたという、
まこと恩師の御本山に対する忠烈に唾する詭弁であると小生は此に断言するものである!

上記の如く、文底秘沈・独一本門たる法義は、本より七百年来、富士大石寺に連綿されて来た法義で
あって、決して他門にはないのである。まして、昭和になって設立された在家団体に有ろう筈(はず)
も無いのである。又、だからこそ恩師は、創価学会の会長として御自らの口から『創価学会に君らに
信心してもらうものなんか何もない』、つまり、創価学会としての教義などは、其の元からして無い、
と申されたのである。

而して、創価学会の会長が会員に対し『学会に君らに信心してもらうものなんか何もない』などとは、
其れこそ学会の会長として、御本山に対する絶対的帰依が有ったればこそ言える指導であって、現在
のお前らが言う様な、世辞でも、妄言でもないのである。まして、会員に嘘を付いていた、などとは、
とんでもない事であり、其の様な事は絶対に無いのである。

ったく、何で法華講員の小生が、お前ら創価学会員に、恩師の大信心を今にして教えなければならな
いのか。つまり、其れだけ、今の学会員は、外道信者に成り下がってしまったと云う事なのである。

哀笑。何とも情けない限りよのぉ。

よろしいか。何度でも言おう!

本門戒壇の大御本尊を厳護する意味に於ては、宗創に於ける関係の良悪によって、その正義の価値が
変動するなど絶対に有り得ないのである!

仍って恩師に云く『誰がなんと言おうと、誰がどうあろうと、私は総本山に御奉公の誠を尽くし、
猊下に忠誠を尽くし、広宣流布のため、今こそ死身弘法の実践を、この佳き日に誓うものであります』

と。

而して此の恩師の大誓詞は、応に日蓮正宗第六十四世・日昇上人の御在時になされたものである!

まさに今、お前らの本部師弟会館に安置されている常住御本尊。其の御本尊を認められた日昇上人に
対し、恩師戸田先生は、その大信心に於いて忠誠を誓われたのである!

其れを今になって『宗門との関係を維持する為に、学会はその法義を守って来ただけだ』などと!

お前らは其のセリフを恩師の墓前で言えるのか!!

ったく、宗教の根本尊崇に於いて、曾(かつ)て、とか、今とか、そういう次元で立て分けるなどは、
彼の立正佼成会が本尊を変更する度に用いた、会員を欺く為の詭弁とまったく同じではないか!

今は険悪の仲であるから、今まで遵守してきた仏法義は蜜月時代の過去の法義なのであって、現今の
険悪な関係に於いては、其の法義は我々には通用しない、などという屁理屈は、抑も、日蓮大聖人の
仏法からして有り得ない話である!

よいか! 良好であろうが、険悪であろうが、元から在る正義は正義なのである!

又、其れだからこそ、法華講総講頭でもあられた恩師・戸田先生の信心指導が、今以って我ら日蓮正宗
信徒の正信に響き渡るのである!

応に是れこそ、僧俗に於ける組織体制の変貌が如何に為ろうとも、大聖人の仏法、就中、富士大石寺
の法義は今昔に於いて些かも変節しておらない証拠なのである!

よいか!

其れら事実をして『破門以前は蜜月だったから、富士大石寺の法義を仕方なく守っていた』などと、
今になって其れを本性にするなどは、応に恩師戸田先生の大信心に対する冒涜である!!

ったく、詭弁を弄するものではない!

果たしてお前らは、それら詭弁の罪悪を心の中では判っておるから、未だ創価作成本尊から日蓮正宗
御歴代上人の判形を抹消し切れないのであろう!

違うか!!

反論あるなら申してみよ!!

当に恩師の御遺訓を破ったのは池田である!!
而して、今以って残留する創価学会員も同罪である!!

言うまでもなく、恩師は本よりの日蓮正宗の信徒であった!
そして日蓮正宗法華講総講頭の御立場で其の生涯を全うされたのである!

仍って小生は、其の恩師の赤誠に裏切る事なく、昔も今も変わらずに日蓮正宗の信徒と成っているの
である!

果たして現在、恩師の指導どおりに実践しているのは小生か!
其れともお前ら小会員か! 最早、その様な事は火を見るより明らかであろう!

本より小生は、今もって富士大石寺に忠誠を尽くし、其の不変たる決意を、総本山に眠る恩師の御霊に
御報告申し上げるのみである!

思えば昨年、御逝去された柳沢元総講頭が『私が死んでから、50年後に戸田さんが出現するでしょう。
その後、私が生まれ出て御奉公させて頂きます』と、月例登山に参加された同志から聞くに及び、
まこと、恩師の大信心は、今もって法華講員の鏡であると、改めて此に確認した次第である。


     妙法の広布の旅は遠けれど

      ともに励まし ともどもに征(ゆ)かなむ


今以て、大講堂の正面左手に建つ、恩師戸田先生の歌碑を詠む時、真の学会精神は、我ら旧創価学会
青年部にこそ伝持されているのであり、其の打ち捨てた現今の組織などは、其れこそ波木井実長こと、
池田太作と、民部日向こと、離脱僧侶の禿人が蜷局(とぐろ)する組織であり、其れこそは富士大石寺
御開基、日興上人が打ち捨てた、彼の身延山に同ずるものなのである。

さても、お前ら現創価学会は、いずれ古参会員の消滅を待って、応に其の作成本尊から御歴代上人の
御判形を抹消し、其の場所に池田太作の花押を入れるのであろうが、応に其の時、池田創価学会は、
真の邪教たる新興宗教として、恩師が構築せし創価学会と決別し、見事、其の教義に於て、魂の独立
を果たすのである! 而して、真の魂の独立こそは、彼の創価大の宮田が提唱する『日蓮本仏排斥論』
に創価学会が同調し、遂には『池田大作書写本尊』を有して『凡夫本仏論』に教変すると聞き及んで
おる。して、その前兆なる証拠が『日蓮本仏排斥論』に対する黙認なのである。呆。

さても恩師をして両舌の徒と悪口する学会員よ!
さても恩師をして無知の徒と侮蔑する学会員よ!

お前らは全員、日蓮大聖人の御教示に違背する、邪宗邪義の徒輩である!!

ところで、秋谷城永(栄之助)元創価学会会長が脱会した、という情報が後を絶たずに入っておるが、
其の事実なりを証明できる学会員はおらんのか。ったく、宗門の人事がどーの、あの僧侶があっちに
行った、こっちに行ったとバカ騒ぎするお前らが、事、身内の一件になると、静まり返るのである。

哀笑。なんとも情けない根性であるよなぁ。鼻笑。

開口一番! 『秋谷元会長は、今でも学会員である!』と証拠を持って断言する者はおらんのか!

ったく、会長を務めた者が脱会するなど、宗教組織として死に体(教義の崩壊)に等しいものである!

変節を美化する阿呆集団・池田創価学会。

こんなものは、立正佼成会と同じである!
 

正論

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月24日(水)21時36分28秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  牧口会長に云く、

『東亜共栄圏乃至世界列国にこれからの新秩序の中核として吾等が実証によってこゝに提供せんと
する最高価値の大善生活法は、人生の理想として何人も渇望する所のものであり、仏教の極意たる
成仏法こそ之に応じた妙法であり、又「惟神(かんながら)の道」の真髄も之でなければなるまい。
所謂(いわゆる)皇道精神もこれ以外にあるべきはない』(牧口常三郎全集 第10巻/9頁)

本より『惟神の道』とは、神と共にある、という神道の精神を述べたものであるが、牧口会長は、
其の『惟神の道』の真髄こそは、仏教の極意たる妙法でなければならない、と論説し、又、皇道の
精神についても、妙法に依らなければならない、と述べている。

実に是れこそは正論であって、応に「奉祈念天皇陛下護持妙法爾前迹門之謗法退治」の一文に合致
するものである。而して、天皇の祖神は八幡大神であり、其の神は「大菩薩」の称号を以って御本尊
に認められているのである。果たして、其れら妙法に於ける皇道を以って、富士大石寺の勅使門が開
くのは何時の事であろうか。応に是れこそは、身延には真似のできない国家広宣流布大願の証しなの
である。

尚、池田太作率いる、新興外道教団、創価学会などは、今に於ては『広宣流布』などと発音すること
自体が許されない無頼集団であり、そんな者共が、支那(シナ)の中共政権に対して、今だ媚び諂って
いるなどは、其れこそ国神たる天照大神・八幡大菩薩に反旗するものであり、其れこそは国賊・売国
の先兵でしかないのである。ったく、そんな者らが『神社への参詣は謗法だ!』などと…。哀笑。

あまり笑わせるものではない。
 

通りすがり@法華講殿

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月24日(水)16時21分51秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  御返事、遅くなりました。昨日の夜に帰宅し、本日の投稿と相成りました。

其れでは御返答致します。

>神社参拝についての話題が出ているので乗っかりますが、
>日蓮正宗教義では原則として神社参拝は禁止ですが、
>靖国神社(及び各縣護国神社)は別と小生は考えます。

>これについては、創価教育学会会長牧口常三郎氏が良いことを言っています。
>「(靖国)神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。
>吾々が靖国神社へ参拝する のは『よくぞ国家の為に働いて下さった、
>有り難うございます』というお礼、感謝の心を現はすのであって、
>御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。」(大善生活実証録)

>これは至言だと思うのです。靖国神社は戦没者慰霊施設として国家が建立し、
>国民のコンセンサスが得られている場です。また、その意味では、靖国神社の神札・御護守などは
>全く以て不要でしょう。

>管理人様はいかようにお考えでしょうか。
>ご教示戴ければ幸いです。

先ずは第一、靖国神社そのものが、単なる戦没者の慰霊施設として機能していれば良いのですが、
その国家建立の慰霊施設が、訪れる者に対して記念品を贈呈するのではなく、其れこそ月並みの神社
よろしく大麻(神札)や御守りなどを「参拝者」に授与し、以って其れらを神よりの力と定義する処に
単なる慰霊施設ではなく、専(もっぱ)ら宗教施設として活動としているものと理解すべきではないで
しょうか。

となれば、我ら富士門信徒はどうあるべきか。

敢えて靖国神社を捉えるならば、其れこそ何百万の戦没者の位牌を束ねて、一つの建造物としたもの
でありましょう。つまり其れらの位牌に対して報恩感謝する、という事にもなります。加えて上記の
如く、神札や御守りを授与している宗教団体との事実からして、我ら法華講員による靖国参拝などは、
現時に於いてはやはり神天上の法義からして、謗法与同になるかと思います。
しかし、参拝の姿勢ではなく、其の敷地内に立ち入る事については、制止するものではありません。

したがって、御貴殿が言われる処の『靖国神社は戦没者慰霊施設として国家が建立し、国民のコンセ
ンサスが得られている場です。また、その意味では、靖国神社の神札・御護守などは全く以て不要で
しょう』とは、全く其のとおりであり、其の形態が実現した時に於いて、堂々『慰霊施設』に訪問す
れば良いと思うものであります。

日寛上人に曰く『凡(およ)そ神天上とはこれ謗者の前に約するなり。若し信者の前に約さば、諸神恒
(つね)に頂(いただき)に居するなり』と。(文段 258)

以って此れを思えば、我ら富士門信徒は、恒日頃の勤行唱題に於いて、常彼岸・常回向の姿勢をして、
戦没者への追善を供養すべきであり、其の正信に於いて、諸天は感応して天上から来下してくるので
あります。尚、御山(富士大石寺)に於いては、大忠霊塔(大東亜戦争戦没者顕彰塔)もありますから、
終戦記念日に於いて、其れこそ参拝されては如何でしょうか。

聞けば靖国神社とは、長州藩(山口)の鎮守社にすぎない、との批判もあるような。
して見れば、彼の西郷隆盛も江藤新平も、そして新撰組の土方歳三も祀られてはおらず、戊辰戦争に
於ける会津藩の戦死者などは除外されております。果たして靖国に於ける『英霊』とは、どのような
基準を以って決せられるのでしょうか。思うに何とも不平等な祭祀の基準であります。

尚、当方は今もって、昭和三十八年当時(其の当時は創価学会員)の勤行要典を用いております。

其の初座の御観念文に曰く、

【生身妙覚自行の御利益、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・天照大神・
正八幡大菩薩等総じて法華守護の諸天善神、諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増御為に】

又、其の四座の御観念文に曰く、

【奉祈念天皇陛下護持妙法爾前迹門之謗法退治・一天四海本因妙廣宣流布大願成就御祈祷の御為に】

果たして、此の御観念文こそ、神天上法門の根旨でありましょう。つまり、真(まこと)の神社とは、
日蓮大聖人の御法魂在(ま)します、富士大石寺を謂うのであり、文字にして神とは応に『たましい』と
読む事からして、実に其の神(たましい)の社(やしろ)こそは、我らが多宝富士大日蓮華山大石寺なので
あります。

日蓮大聖人、日興上人に対して申さく、

『首題(南無妙法蓮華経)も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天王日月等も
鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉(ことごと)く日蓮なりと申す心なり』と。(富要第一巻 32)

さても、天皇の祖神は応神天皇(八幡大神)であり、其の大神(おおかみ)をして、大菩薩と号したるは、
これ仏法の深義に於いて、須らく日本国の妙国(法華経流布の大国)たる証しであり、その神仏の習合は
単なる国家体制の維持方策にあらず、其は天照大神も八幡大菩薩も須らく、久遠の本仏たる日蓮大聖人
の力用に依って発揮される国神である、という事を改めて確認すべきでありましょう。

尚、日蓮大聖人をして単に愛国者とする見方もありますが、それは外相の面であって、我が大日本国は、
日蓮大聖人が御誕生される妙国であるからこそ、予(あらかじ)め日本と称されたものであり、実に愛国
とは、日蓮大聖人を尊崇する事こそが、愛国の第一である、という事を領解しなければなりません。
仍って、日蓮大聖人を誹謗し、又は悪しく敬う者どもは、すべてが国賊と成るのであります。

諌暁八幡抄に曰く『若し爾(しか)らば此の(八幡)大菩薩は宝殿を焼きて天にのぼり給ふとも、法華経の
行者日本国に有るならば其の所に栖(す)み給ふべし』と。(新編 1543 /真蹟所在・富士大石寺)

さても、別して法華経の行者とは、日蓮大聖人御一人の事であれば、其の大聖人の御法魂在(ま)します
富士大石寺こそが、実に八幡大菩薩の栖(すみか)である、という事を肝に銘じるべきでありましょう。
さすれば自ずと、過去諸精霊への追善は、何処(どこ)に於いて為されるべきか、何処を中心にして為さ
れるべきか。其の答えが見えて来ると思うものであります。

此に改めて、通りすがり@法華講殿には、深慮される事を願ってやみません。

尚、文中の後半に於いては、一庶民殿への御返答も併せて申し述べました。

以上であります。
 

「一大秘法とは本門の題目のことである」との妄想を破す。

 投稿者:黒川和雄  投稿日:2013年 4月22日(月)08時33分58秒 p7114-ipbfp01osakachuo.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  日蓮正宗を批判する者、就中、本門戒壇の大御本尊を否定したい輩のすることは大体決まっている。

〇本門戒壇の大御本尊の説明が御書に一切ない。
〇〇〇御書は偽書である。
〇御書のどこに日蓮大聖人が末法の本仏であると宣言しているのか。

実に大した習いそこねが世間には多いものだ。さて下の莫迦者はどのカテゴリーに入るのであろう? この手の莫迦者は一応大聖人を末法の本仏と認めているのであるが、一大秘法である本門戒壇の大御本尊を否定し、一大秘法とは「南無妙法蓮華経の本門の題目である」という。

〇「ただの阿呆」というカテゴリーに入るであろう。

要するに読みそこなっているのだ。
自分の主張を通したいがために、あちこちから文証を引用し、「ほら、ここに書いてあるだろう」というのであるが、大聖人の御化導は多方面から見つめなければその真の意味を理解することは出来ないのであります。
このような人間を「文献莫迦」というのであり、また「依義判文」が出来ない衆生ということだ。

宜しいか!

大聖人を離れて南無妙法蓮華経は宇宙法界のどこにも無い。大聖人、その身体が人と法が合体した御本尊である。
南無妙法蓮華経だけが客観的に宇宙に遍満しているとでもいうのであろうか? 遍満しているといってもそれを悟られた方を無視して存在するとでもいうのであろうか? その「法」を悟られた「人」であるからこそ仏なのである!人法別箇であるのか、それとも人法一箇であるのか? おのずからいくら呆でも分かるであろう!

そう言えばこの莫迦者と同じようなことを言った人間が過去にいた。そうだ、創価学会の池田太作である!
太作曰く、「南無妙法蓮華経は宇宙の法則である」、また正信会の久保川法章である。曰く、「ダイナマイト一発で吹っ飛ぶようなものが大聖人の出世の本懐ではない。大聖人の魂魄が一大秘法である」と。

さて話を戻し、これを細かくブレークすると、

南無妙法蓮華経=本門の題目
日蓮大聖人=本門の本尊
大聖人が居られる場所=本門の戒壇

となる。これが三大秘法である。当然、その全てを括れば大聖人の一身の当体が一大秘法となることは言うまでもない。即ち人法一箇ということだ。

大聖人曰く、

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝)

「今末法に入って、眼とは所謂未曽有の大曼荼羅なり。この御本尊より外に眼目無きなり」(御講聞書)

「日蓮がたましひをすみにそめながして、かきて候ぞ信じさえ給へ」(経王殿御返事)

「釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり、故に今能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)

「諸経諸宗中王の本尊万物下種の種子無上の大曼荼羅なり」(百六箇抄)

もうお分かりであろう。大聖人の魂は御本尊以外にはあるまい。

妄想者曰く、

曾谷入道許御書には、

「其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄なり」

また三大秘法抄には、

「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり」

とあるように一大秘法とは「妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄」です、と結論付けているが、果たしてそうであろうか? 貴殿は「五重玄」という意味を知っているのであろうか? 貴殿は天台の観念観法実践者と言っておこうではないか。

日蓮大聖人に於ける五重玄とは、御本尊のことである。

大聖人の『名・体・宗・用・教の五重玄』は、天台大師が釈尊の説いた法華経について解釈した五重玄ではなく、要法としての『妙法蓮華経の五字』に具わる五重玄である。

三大秘法抄の『末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり』文もこの意である。

久遠元初の法についての五重玄については当体義抄文段に示されている。『至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法(名)に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し(体)之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得る(宗)なり』(五一三頁)と仰せのように、この一法は、一切衆生が即身成仏できる力用(用)が有ることを明かされた受持即観心の教え(教)なのである。

そして、この五重玄を具足された御当体こそ日蓮大聖人即本門戒壇の大御本尊なのである。


さて、この莫迦者は三重秘伝抄をこのように挙げている、

「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり」(三重秘伝抄)

しかしこの御書の数行前には、このように仰せである。

「予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当

初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」(三重秘伝抄)

チャント大聖人の真意は「寿量品に建立する所の本尊」とお書きあそばされているではないか。従ってその本尊の力用が五重玄ということである。貴殿はそれを故意に省略したのであるか、それとも知らなかったのであろうか、実に笑えるではないか!

以上、この悩乱盲者の邪義は悉く崩壊した。

追伸
この悩乱盲者、自ら当方に法論を望んだが、当方の簡単な質問「大聖人を切り離して南無妙法蓮華経が宇宙法界にあるのでしょうか?」、実に簡単な質問であるが、一言も回答無く遁走したということを付け加える。
たぶん、当方と法論することが恐ろしかったのであろう。邪義悩乱の呆とは大体こういうものである。屁理屈、詭弁、そして最後は言葉に詰まり、遁走ということだ。

 

Re: ほうほう

 投稿者:法華講のおばちゃん  投稿日:2013年 4月17日(水)22時33分18秒 caa1f165.tcat.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.44689[元記事へ]

元学会員さんへのお返事です。

> デジタル大辞泉 隠れた善行や功績などを広く知らせること。広く世間に知らせて表彰すること。
>
> まあ言っちまえば、歴史の勉強あるいは戦争で、国や現段階で日本に感謝をしているアジア諸国のために戦った、英霊というか旧日本軍の方々に感謝を申し上げるって意味で言ってるじゃないですか?
>
> ってか宗教というよりは、政治的立場ってのが正解だと思われますね。まあ靖国は性質上歴史を知る上での重要な施設だともいえます。

★政治的だろうが なんだろうが、邪宗の靖国神社ですることは、聖霊を地獄に落とだけです。
明治以来、戦で亡くなったのは、軍人だけではありません。

戦った人だから、祀って感謝するという考え、富国強兵時代に始めた、軍国主義を宣揚しているように思えて仕方ありません。
亡くなった人には、追善回向ですよ。

とりわけ、戦で恐怖を味わいながら亡くなった軍人ならば、地獄を感じているでしょう。今でも地獄を感じていると察します。

謗法の人間を中心にして 苦を感じている亡者の感謝会して、亡くなった軍人の何の役に立つのですか?
その中心に立つ人は、誰なのですか?

政治的にするとなると、仮に、創価学会員が、総理大臣になった場合、その人間が、中心になって法要をする場合だって、ありうるということになります。

今の総理大臣だって、謗法のものなのに、ましてやその上を行く創価学会員が、そんなことしたら、世界は
とんでもないことになります。
仏様に背いて、法華誹謗の限りを尽くしている創価学会員なのですから。

謗法の法要をしてもいい などという法華講員がいるとしたら、
その人はまだ、信心が足りませんね。一から出直すべきです。

★靖国神社も、単に謗法の社という以外、何の意義付けありましょうか。









 

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