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さて、ここで、面従腹背の創価学会員に人気のある、僧侶から学者に転落した還俗者、松岡某の事に
ついて、少し述べておこう。
此の者、正統・富士門流から退転するも、後に東大で博士号を取得して、何やら悦に入っている様で
あるが、先ずは仏法義に於いて、それら学術の資格などは、単なる苔の一端である、という事をお主
には言っておこう。又、その様な事は、日蓮大聖人の学者に対する手厳しい記述からして裏付けられ
るものである。
して、此の退転学者の物言いであるが、観れば、ベラベラと恣意的な妄想を書き並べておるが、応に
此れこそは、文献莫迦と同じ思考性(連想遊戯)であり、其の本性こそは、己(おのれ)の懐疑によって、
整然と組み立てられた(相手教学の)積み木が破壊されるを愉快とするものであり、又、其の快楽を満た
さんとするが故に、繰り出す妄想の全てが恣意的となるのである。
して、此の学者殿。
先般の物言いに於いて『日蓮一期弘法付嘱書と身延相承書はその根本であり、これより血脈相承の
すべてが伝承されている』などと惚けをかまして恥を掻いたのであるが、此れこそは、図に乗って
滑った「ドジ」の典型である。哀笑。
して、小生が一番目を引いた珍舌は、
『阿部(日顕上人)は、しばしば創価学会に於ける過去の発言を取り上げ、それと私の発言との相違を
非難する。私の論の矛盾を指摘したいのならば、私の発言内容を根拠にすべきである。そうではなく、
私という「人」を根拠とし、〝松岡は創価学会側の人間だから、過去の学会指導と違うことを述べる
のは自家撞着である〟などと言うのは論理的におかしい』
と云うものである。哀笑。
いやいや、小生から言わせれば、此れほどの『遁舌』はないであろう。小笑。
先ずは第一、正統・富士門流の法義と対するに、己(おのれ)の私義私感で対するとは何事か。
果たして此の学者。一体、何処の宗教の者であるのか。一体、何を信仰しておるのか。
先ずは、そういう事を明らかにすべきである。
加えて『私という「人」を根拠とし、「私」の発言内容を根拠とすべき』などと云うは、抑も仏法義
からして邪論であり、少しの智慧が有るならば、正義は法に依って人に依らざるものである、という
事を先ずは理解すべきである。
はて、そう云えば、同じ様な事を言っていた御仁が居(お)ったような。
『組織は組織、私は私。しかし不利益はありません』
『私に対立する勢力、アレら、日蓮正宗教学です』
おお! 此れはまさしく彼の雪中老人の弁であった。哀笑。
今では『会長は会長、私は私』と言いながら、信州の山奥に於いて、磨き粉を商っているそうな。
何だ。東大博士の松岡某と、雪中老人との言い分が全く同じではないか。哀笑。
つまり此の両者をして『此の俺たちが、創価学会側の人間であるのに、学会教学と其の指導に対して
違う事を述べるのは自家撞着である、と言う日蓮正宗側の言い分はおかしい』と言っているのである。
哀笑。小生から言わせれば、もはや、そういう遁舌を吐いた時点で論敗であるぞ。
松岡某よ。お主は仏法を論ずる者として、少しは恥というものを知りなさい。哀。
一体、彼の雪中老人や蝗蟲と同じレベルで、何を論じようと云うのだ。哀笑。
日蓮大聖人曰く『自義に違ふ文有れば理を曲げて会通を構(かま)へ、以て自身の義に叶はしむ』と。
さてや、お主なども、此の御訓戒に触れる「自義優先」の不信心者なのであろう。
よいか。だから日蓮大聖人は『学者』を嫌うのである。
果たして、此のような者が、もし日蓮大聖人の御在世に居(お)って、ベラベラと屁理屈を書き並べて
いようものなら、いの一番、大聖人から言われるであろう。
『何、宗義は宗義、私は私とな。つまり、お主自体が法であり教義という事であるか。何だ。お主は
附仏法外道の主(ぬし)であるのか』と。
して、此の退転学者。
先の文句に於いて『日寛上人の六巻抄は、長らく貫主直伝の秘書とされた』と云いながら、其の舌も
乾かぬうちから『六巻抄は外部向けの言説である』などと、其の言説を翻(ひるがえ)しておる。
ったく、六巻抄をして『その内容が特に他門の目に触れぬよう、厳重に秘匿されるべきは当然である』
と断言していた御仁がである。
さても、此れこそは似非学者の醜態であるのか。其れとも、小生が過日に対した蝙蝠信者の一類である
のか。兎も角、その都度の論状に於いて、都合よく主張を変えるは、此れまさに虚偽に塗れた自義優先
の業(わざ)であり、本より論ずるに足らない我義我執の輩(ともがら)なのである。
日蓮大聖人が曰く『私説を以て公事に混ずること勿(なか)れ』と。
富士門の僧をやめ、東大の博士に成っても此の体たらく。
松岡某よ。赤面して然るべきではないのか。哀。
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