その1から続く
取材活動を「偽計業務妨害」?
私は一連の高橋裕行教諭の行状について、関係するメディアで使うために彼の属する中学校の管理組織である群馬県吉岡町教育委員会に取材を書面で申し込み、高橋教諭へ委員会を通じて質問状を送った。すると高橋教諭は、ツイッター上で「取材を拒否する」と述べ、私をののしり始め、「偽計業務妨害で警察に訴える」と騒いだ。高橋氏の妻という人も私を罵った。
この行為は公務員が職務上知り得た得た情報をネット上で漏洩し、第三者にも伝えたことになる。教育委員会にこれを知らせると「そんな行動は想像もしていなかった」とあきれていた。また取材活動が「偽計業務妨害」として刑事事件となった例など聞いたことがない。社会常識を疑う。
取材活動を「偽計業務妨害」?
私は一連の高橋裕行教諭の行状について、関係するメディアで使うために彼の属する中学校の管理組織である群馬県吉岡町教育委員会に取材を書面で申し込み、高橋教諭へ委員会を通じて質問状を送った。すると高橋教諭は、ツイッター上で「取材を拒否する」と述べ、私をののしり始め、「偽計業務妨害で警察に訴える」と騒いだ。高橋氏の妻という人も私を罵った。
この行為は公務員が職務上知り得た得た情報をネット上で漏洩し、第三者にも伝えたことになる。教育委員会にこれを知らせると「そんな行動は想像もしていなかった」とあきれていた。また取材活動が「偽計業務妨害」として刑事事件となった例など聞いたことがない。社会常識を疑う。
群馬県吉岡町教育委員会に話を聞いた。高橋教諭の行動への批判、クレームが何件も同委員会に寄せられているという。「何度も彼を呼び指導している。教師にふさわしい言葉づかい、また職務の精勤を求めているのに態度を改めない。『個人の問題だ』と繰り返すばかり」と、困惑していた。
高橋教諭の行動について管理者としての責任を聞いたが、委員会側は「問題がないように指導したい」を繰り返すのみだった。高橋教諭、彼の属する群馬県と吉岡町の教育委員会のそれぞれの行動は、民間企業では考えられないいいかげんさで、「公務員の甘え、無責任」にしか思えない。もちろん高橋教諭の行動が異常だが、その放置も問題だ。組織構成員が社会に迷惑をかけるなら、まともな組織は懲戒などの権限を行使してその是正を迫る。
委員会からの質問に、高橋教諭は「私は戦っている。攻撃されている」と述べたという。「誰と戦うのか。教師が戦う必要などあるのか」と委員会側がつっこみを入れた。すると高橋教諭は「戦っているんだ」と繰り返したそうだ。
原発をめぐるネット世界上の善と悪の最終決戦「ハルマゲドン」に参戦しているという妄想に、高橋教諭はとらわれているのかもしれない。属する組織内ではこの人に冷たい視線が向けられているようだが、ネットは自分の存在が確かめられる逃避先になっているのだろうか。大人ならネットではなく自分の仕事や、現実の諸問題と格闘するべきなのだが。
普通の人なら「おかしな変人」で笑ってすむ話だが、高橋教諭が公立中学校で子供たちを教えているという現実を考えると恐ろしい話だ。
小事から大問題を考える−その1「教育の無責任体制」
「1つの重大事故の背後には、29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する」という、労働災害における「ハインリッヒの法則」がある。高橋教諭のおかしな行動は、この法則のように、小さいながらも日本の抱える大問題につながっているように思える。
一つは教育の荒廃である。公立中学校の教師が、異常な行動を続けている。それなのにこの暴走を、管理組織が止められない。無責任の連鎖だ。
筆者に匿名のメールがあった。「(高橋教諭の)ネットでの行動を心配している。彼によって子供が悪影響を受けることが不安だ」「フェイスブック上に教え子たちの写真を公開している。彼に関係があると子供たちが思われたら心配だ」「教育委員会の動きがにぶい」。こんな内容だった。高橋教諭のフェイスブックは外部に閉じているので、彼に近い人かもしれない。
筆者は返事をした。「私が力になれることは限られます。もし、あなたが児童の保護者であるならば、行政が動かないなら政治を動かしてはどうでしょうか。グループをつくり吉岡町長、町議会、地元選出の県議会議員に陳情するのです」。返事はなかった。子供が事実上人質となっているために、学校の教師に異議を申し立てることを保護者は不安がるのだろう。
安倍政権の重要な政策課題の一つは「教育改革」という。しかし国政レベルで制度をいじったとしても、現場の教師の質が低く、「クズ」とか「嘘つき」と、仕事もしないで他人と罵り合いを続ければ、何の効果もないだろう。
高橋教諭は教育界で例外的存在なのだろうか。暗澹たる気持ちになる。
小事から大問題を考える−その2「軽薄な言論とデマが福島を壊す」
高橋教諭の行動から見える、もう一つの問題は「無責任な発言によって福島の復興が妨害されている」という事実である。
福島の人々、また東日本大震災の被災者の方々は、冷静に災害に向き合い、その秩序だった行動は日本と世界の人々に感銘を与えた。ところが放射能をめぐるデマを拡散する「ノイジーマイノリティ」(騒ぐ少数者)と、一部のメディアがいて、一部の人がそれを信じ、復興の足を引っ張る。以下は少し前の高橋教諭のツイッターの一例だ。
高橋教諭は「汚染食品」と被災地の心情を踏みにじる発言をして、それを流通させてはいけないとしている。現実には、厚生省の食品安全基準(1キログラム当たり100ベクレル)が厳しすぎて東北の農産物の流通が妨害され、被災地の農漁業が混乱し、復興が遅れている。この人は、そうした事実を勉強もしないで、被災地に迷惑を与えるデマを流すことを繰り返している。
高橋教諭や上杉隆氏のようなネット上の「雑音」を、社会の大半の人は真面目に受け取っていないだろう。ところが目立とうと彼らは声高になる。そして「全員一致」を追求する不思議な民主主義体制を持つ日本では、こうした「ノイジーマイノリティ」の話を、国も行政も聞き、一定の影響を持ってしまう。
高橋教諭は悪しき一例だが、彼だけではない。福島の放射能問題で同じような行動をする人が散見された。
第一のパターンとして、勉強も調査もせずに、誤った情報を拡散し、騒ぎを大きくしようと試みる人がいた。そこに福島市民の生活への配慮はない。自分の主張だけが大切な人が多いようだ。
第二に、放射能の問題を反原発の主張と無理に絡める動きがあった。原発の是非の主張と今起きている放射能のリスク評価とはまったく別の話である。前者は自由に語ればいい。ところが、人々の不安につけ込んで後者を強調して前者を語る人がいた。これはとても卑劣な行為だ。
第三に、風評被害の恐ろしさを、まったく考えていない人がいる。チェルノブイリ事故、スリーマイル島事故では、放射能による直接の被害は限定的なのに、その後の社会混乱が地域社会を壊してしまった。同じ社会混乱による被害が福島に出ているのに問題を深刻に受け止めていない。
言論には責任が伴う。表現の自由は最大限認められるべきだが、福島と被災地に迷惑を与えるデマ、誹謗や中傷は止めなければならない。「自由を壊す言論の自由」を私たちは決して認めてはならない。
風評被害をなくすことが復興へつながる
古来、「道化師」という職業がある。シェイクスピアの戯曲では、滑稽なことを言い、登場人物の怒りと嘲笑を受けながら、物語を新しい視点で解釈させる重要な役割を持つ。黒澤明監督の映画『乱』では、才人の俳優である池畑慎之介氏が「道化」を演じて、印象に残る役割を果たした。
高橋教諭は無名だし、意図していないだろうし、知性も感じられないが、その行動の滑稽さと異様さで、放射能をめぐる言論での「道化」のような役割を担っている。この姿は、放射能をめぐるデマの異様さを私たちは認識できるはずだ。
原発事故を語る際に、放射能をめぐる誤った情報を流し、福島・被災者の人々を誹謗する必要などまったくない。自分の行動と言葉に酔い、誤った情報を流したり、無責任な発言をしたりして、福島・東日本の被災地に迷惑をかけた人は反省してほしい。恥ずかしい心当たりがあったら、二度といいかげんなことを言わないと、誓うべきだ。
軽薄な言論、そして反原発を題材にした社会改革「ごっこ」にはうんざりだ。福島・東北の同胞、そして私たちが、デマのない静かな環境の中で、放射能問題に冷静に向き合えるようになってほしいと願う。
石井孝明 経済ジャーナリスト ishii.takaaki1@gmail.com
高橋教諭の行動について管理者としての責任を聞いたが、委員会側は「問題がないように指導したい」を繰り返すのみだった。高橋教諭、彼の属する群馬県と吉岡町の教育委員会のそれぞれの行動は、民間企業では考えられないいいかげんさで、「公務員の甘え、無責任」にしか思えない。もちろん高橋教諭の行動が異常だが、その放置も問題だ。組織構成員が社会に迷惑をかけるなら、まともな組織は懲戒などの権限を行使してその是正を迫る。
委員会からの質問に、高橋教諭は「私は戦っている。攻撃されている」と述べたという。「誰と戦うのか。教師が戦う必要などあるのか」と委員会側がつっこみを入れた。すると高橋教諭は「戦っているんだ」と繰り返したそうだ。
原発をめぐるネット世界上の善と悪の最終決戦「ハルマゲドン」に参戦しているという妄想に、高橋教諭はとらわれているのかもしれない。属する組織内ではこの人に冷たい視線が向けられているようだが、ネットは自分の存在が確かめられる逃避先になっているのだろうか。大人ならネットではなく自分の仕事や、現実の諸問題と格闘するべきなのだが。
普通の人なら「おかしな変人」で笑ってすむ話だが、高橋教諭が公立中学校で子供たちを教えているという現実を考えると恐ろしい話だ。
小事から大問題を考える−その1「教育の無責任体制」
「1つの重大事故の背後には、29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する」という、労働災害における「ハインリッヒの法則」がある。高橋教諭のおかしな行動は、この法則のように、小さいながらも日本の抱える大問題につながっているように思える。
一つは教育の荒廃である。公立中学校の教師が、異常な行動を続けている。それなのにこの暴走を、管理組織が止められない。無責任の連鎖だ。
筆者に匿名のメールがあった。「(高橋教諭の)ネットでの行動を心配している。彼によって子供が悪影響を受けることが不安だ」「フェイスブック上に教え子たちの写真を公開している。彼に関係があると子供たちが思われたら心配だ」「教育委員会の動きがにぶい」。こんな内容だった。高橋教諭のフェイスブックは外部に閉じているので、彼に近い人かもしれない。
筆者は返事をした。「私が力になれることは限られます。もし、あなたが児童の保護者であるならば、行政が動かないなら政治を動かしてはどうでしょうか。グループをつくり吉岡町長、町議会、地元選出の県議会議員に陳情するのです」。返事はなかった。子供が事実上人質となっているために、学校の教師に異議を申し立てることを保護者は不安がるのだろう。
安倍政権の重要な政策課題の一つは「教育改革」という。しかし国政レベルで制度をいじったとしても、現場の教師の質が低く、「クズ」とか「嘘つき」と、仕事もしないで他人と罵り合いを続ければ、何の効果もないだろう。
高橋教諭は教育界で例外的存在なのだろうか。暗澹たる気持ちになる。
小事から大問題を考える−その2「軽薄な言論とデマが福島を壊す」
高橋教諭の行動から見える、もう一つの問題は「無責任な発言によって福島の復興が妨害されている」という事実である。
福島の人々、また東日本大震災の被災者の方々は、冷静に災害に向き合い、その秩序だった行動は日本と世界の人々に感銘を与えた。ところが放射能をめぐるデマを拡散する「ノイジーマイノリティ」(騒ぐ少数者)と、一部のメディアがいて、一部の人がそれを信じ、復興の足を引っ張る。以下は少し前の高橋教諭のツイッターの一例だ。
高橋教諭は「汚染食品」と被災地の心情を踏みにじる発言をして、それを流通させてはいけないとしている。現実には、厚生省の食品安全基準(1キログラム当たり100ベクレル)が厳しすぎて東北の農産物の流通が妨害され、被災地の農漁業が混乱し、復興が遅れている。この人は、そうした事実を勉強もしないで、被災地に迷惑を与えるデマを流すことを繰り返している。
高橋教諭や上杉隆氏のようなネット上の「雑音」を、社会の大半の人は真面目に受け取っていないだろう。ところが目立とうと彼らは声高になる。そして「全員一致」を追求する不思議な民主主義体制を持つ日本では、こうした「ノイジーマイノリティ」の話を、国も行政も聞き、一定の影響を持ってしまう。
高橋教諭は悪しき一例だが、彼だけではない。福島の放射能問題で同じような行動をする人が散見された。
第一のパターンとして、勉強も調査もせずに、誤った情報を拡散し、騒ぎを大きくしようと試みる人がいた。そこに福島市民の生活への配慮はない。自分の主張だけが大切な人が多いようだ。
第二に、放射能の問題を反原発の主張と無理に絡める動きがあった。原発の是非の主張と今起きている放射能のリスク評価とはまったく別の話である。前者は自由に語ればいい。ところが、人々の不安につけ込んで後者を強調して前者を語る人がいた。これはとても卑劣な行為だ。
第三に、風評被害の恐ろしさを、まったく考えていない人がいる。チェルノブイリ事故、スリーマイル島事故では、放射能による直接の被害は限定的なのに、その後の社会混乱が地域社会を壊してしまった。同じ社会混乱による被害が福島に出ているのに問題を深刻に受け止めていない。
言論には責任が伴う。表現の自由は最大限認められるべきだが、福島と被災地に迷惑を与えるデマ、誹謗や中傷は止めなければならない。「自由を壊す言論の自由」を私たちは決して認めてはならない。
風評被害をなくすことが復興へつながる
古来、「道化師」という職業がある。シェイクスピアの戯曲では、滑稽なことを言い、登場人物の怒りと嘲笑を受けながら、物語を新しい視点で解釈させる重要な役割を持つ。黒澤明監督の映画『乱』では、才人の俳優である池畑慎之介氏が「道化」を演じて、印象に残る役割を果たした。
高橋教諭は無名だし、意図していないだろうし、知性も感じられないが、その行動の滑稽さと異様さで、放射能をめぐる言論での「道化」のような役割を担っている。この姿は、放射能をめぐるデマの異様さを私たちは認識できるはずだ。
原発事故を語る際に、放射能をめぐる誤った情報を流し、福島・被災者の人々を誹謗する必要などまったくない。自分の行動と言葉に酔い、誤った情報を流したり、無責任な発言をしたりして、福島・東日本の被災地に迷惑をかけた人は反省してほしい。恥ずかしい心当たりがあったら、二度といいかげんなことを言わないと、誓うべきだ。
軽薄な言論、そして反原発を題材にした社会改革「ごっこ」にはうんざりだ。福島・東北の同胞、そして私たちが、デマのない静かな環境の中で、放射能問題に冷静に向き合えるようになってほしいと願う。
石井孝明 経済ジャーナリスト ishii.takaaki1@gmail.com