2007年 09月 25日
元サハリン再会支援会代表、新井佐和子 (「正論」平成6年12月号) 「サハリン残留者」の多くは、実は戦後ソ連が労働力として北朝鮮から徴用したのだ―。“日本の戦後補償"にすりかえる論者の誤りを突き、五十嵐官房長官の責任を問う。(編集部) 一、「日本が置き去りにした」というとんでもないウソ 拝啓 大沼保昭様 『諸君!』11月号にあなたがお書きになった「戦後補償と国家の品格」を拝見しました。 私が1977年頃より、あなたとほぼ同じ年月、「サハリン問題」に関わってきましたことは、ご承知のことと存じます。サハリン問題については、私は、当初何の知識もなく、単なる"贖罪感"のみでこの運動に飛び込んだのですが、次第に運動に疑問を持ちはじめ、数年後には運動体を離れました。後年、「樺太帰還韓国人会」の会長をしていた朴魯学、堀江和子夫妻と、個人的に関わりを持ち、朴魯学さんの死後、夫人と共に、「サハリン再会支援会」を作って、サハリン韓国人の招請活動を行ってきました。このような立場から、今回、あなたの書かれたものを拝見しますと、見逃すこどのできない事実の誤りが多々見受けられます。 ウソも百回言えぱ真実になるといわれていますが、百回など言わずとも、大学教授や弁護士、政治家等が、それらしく主張すると、たちまちそれが「定説」化していく、あまり歓迎できない風潮が、わが国にはあります。 私のようなものが、これまで何十回訴えても、耳を傾け.てくれるマスコミは、ほとんどありませんでした。 かくして、まちがいがそのまま「定説」になり、やがて「歴史的事実」となって、「戦後補償」などという、とんでもない問題に発展していっているのが現状です。 あなたは『諸君!』掲載論文の「在韓被爆者とサハリン残留朝鮮人の救済」という項で、「もう一つは、終戦時に日本がサハリンに置き去りにした朝鮮人の帰還の問題です。残留朝鮮人は、冷戦構造下、ソ連と韓国との間に国交がなかったために、故郷に帰れなくなっていま.した。そのため、1990年から日本政府は年間約1億円、肉親再会事業への支出を行い、実際にいままでサハリンから多くの在留朝鮮人が故郷を訪問して、肉親との再会や墓参を果たしています」(下線筆者)と書いています。 あなたは終始一貫、サハリンの朝鮮人を日本が置き去りにしたと主張しておられますが、その根拠は一体どこにあるのでしようか。 あなたの御著書『サハリン棄民』の中で参考文献にされている資料一つを見ただけでも、日本が置き去りにしたのではないことが充分立証されます。お忘れになったのか、それともその大事な個所に気付かれなかったのでしょうか。 ジョン・.ステファン(安川一夫訳)の.『サハリン』(原書房、1973年)には、「……朝鮮人は日本人と同様帰国を希望していた。しかし地元の情勢、国.際情勢は彼らの希望を阻んでしまった。ソ連としてはこの朝鮮人の労働力が石炭、パルプ、水産業に重要な役目を果たして.いたため、ソ連は如何なる犠牲を払っても事業運営の継統を望んで.いたのであった」とあります。 次に、日本政府の資料、厚生省援護局編「引揚げと戦後30年の歩み」の中に米ソ引揚協定の条項が載っています。 米ソ引揚協定一、ソ連邦又びソ連邦支配下の領土よりの引き揚げ対象者は、 (イ)日本人俘虜(筆者注:旧日本軍は全員シベリアに抑留され、現実には引ぎ揚げることができなかった) (ロ)一般日本人。 とあるだけで、朝鮮人は含まれていません。 また同協定の乗船処理及び輸送の第二項には「引揚港における引揚者の結集及び引揚者を乗船させる責任は、各引揚港の引揚係官にある。同官憲は同時に各引揚船に乗船させるべき引揚者の選択、乗船順序の立案及び監督に関し一切責任を負う。右の引揚係官とはソ連当局を指すものである」(下線筆者)とあります。 つまり、同協定では、.引揚者の選別は.ソ連当局が自由にできるようになっていたのです。日本国の介入する余地などはまったくありませんでした。 あなたのいう「戦後責任」なるものは、日本政府がサハリンに朝鮮人を置き去りにしてきたことを重要な根拠としているものですが、以上の事実から、それはまったく根拠のないものです。 これに関連して、残留者数の問題に触れておきます。 最近の帰還状況をみると、殆どか韓国に縁故のない人ばかりです。.親威の範囲の広い韓国で無縁故者というのは、戦時中、韓国からサハリンに移住していった人ではなく、たとえぱ、戦後北朝鮮から延べ5万人ほど労働力として派遣されてきた人のうち、何割かの帰国せずに定住した人や、戦前からソ連本土に居住していて戦後サハリンに移住してきた朝鮮系ロシア人が圧倒的に多いとしか考えようがありません。こういう人たちに、何故、日本が責任を負わなければならないのでしよう。 たとえ、純粋に朝鮮半島南部から徴用等で行った人であっても(筆者の推定でほ現存者は数百名、.終戦時は数千名。多くのマスコミがいっている4万3千人などという数字は、まったく根拠がない。産経新聞94年10月10日「アピール」欄参照)、残留させられた経緯(ソ連と北朝鮮の思惑=後述)を考えれば、日本だけで出すお金ではないと思います。ましてや、生活補償金等は論外です。 二、突然出現した"議員懇" 次にあなたはこう書いておられます。 「この問題には、私自身も1976年から関わってきたので、事情を簡単に説明しておきます。この肉親再会事業の陰に.は、原文兵衛参議院議長(自民党、現在は党籍離脱)と五十嵐広三官房長官(社会党)の、実に粘り強い尽力がありました。1986年に私がお願いして以来、お二人はおよそ票にも金にもならないこの問題の解決のために、身銭を切ってモスクワ、サハリン、ソウルに飛び、日本政府、ソ連政府、韓国政府、北朝鮮政府に繰り返し繰り返し働きかけてくれました。ソ連のゴルバチョフによる改革、冷戦終結という情勢も手伝い、各政府から柔軟な対応を引き出すことができたわけです。正直なところ、私は原さんと五十嵐さんがここまでやってくださるとは思わなかった。政治家には最初からあまり期待していなかった。しかし、日本の政治家の中にも本当に立派な方がおられた」(下線筆者)。 現在、私は『現代コリア』誌に.「サハリン韓国人帰還運動の真実」を連載中で、30年間「樺太帰還韓国人会」の会長として、「サハリン韓国人帰還運動」に文字どおり身を挺した故朴魯学さんのぼう大な日記を整理しております。重要な都分のみ拾っても、実に多くの方々の名前と活動記録が出てきます。つまりこのサハリン問題の解決のためには、もう何十年も前から、朴会長の要請を受けて、歴代の総理以下多くの閣僚、政治家、官僚、国際機関の関係者、内外の言論人らが取り組んできていたのです。 、勿諭、朴魯掌さんが軸になっての活動であることは言うまでもありません。これらの地道な活動が20数年続いた後、83年衆議院議員草川昭三氏の単独サハリン訪問によって、再会事業か行われるようになったことは関係者周知のことです。 原文兵衛会長、五十嵐広三事務局長の下に「サハリン残留韓国、朝鮮人問題議員懇談会」(以下議員懇)が設立されたのは1987年ではないですか。もうその頃は既に朴魯学氏主導の家族再会事業が軌道に乗り、外務省からも、滞在費の補助を88年度には予算化するという予告を受けており、殆どの問題は解決していたのでした。 原文兵衛、五十嵐広三両氏か身銭を切ってモスクワ、サハリン、ソウルに飛び、とありますが、一体何の交渉に行かれたのでしょうか。 ふりかえってみますと、あの頃は、社会党が、どういう風の吹きまわしか、にわかにこの問題に取り組み始めたときです。 かつて(1974年5月)朴会長は各政党に対し公開質問状を出したことがありますが、社会党は、それに対し、「サハリンに居る朝鮮人はみな朝鮮民主主義人民共和国の国民と認められるから韓国に還すことに協力出来ない」旨の回答をしてきたのです。 当時同党の委員長であった土井たか子氏までもが、今になってモスクワに「サハリン帰還問題」をひっ下げて飛ぶということで、当時私は、「議員懇」の設立に深く関わり、朴魯学氏の死後、「議員懇」傘下の再会事業組織を作った高木健一弁護士から「土井たか子に会ってくれないか」と頼まれました。私は「既に問題は解決しているのだから、その必要はない」と断ったことがありました。 政治家たちが、サハリンヘ行こうがモスクワに飛ぼうがそれは自由です。かつて反対した党の政治家がにわかに動き出したとしても勝手です。しかし、サハリン帰還問題はその時点では解決していたのです。それなのに、"身銭を切った"などと恩着せがましくいうのは、あまりにも独りよがりのいい分ではないでしょうか。 三、帰還を阻んだのは北朝鮮だ 次に「北朝鮮政府に繰りかえし働きかけ」とありますが、これは聞き捨てにできない重大な発言です。 サハリン帰還問題で一番のネックになったのは、北朝鮮の存在なのです(北朝鮮は、サハリンにいる朝鮮人は、わが国の在外公民である、という主張を現在までも貫いてい.る)。.ソ連は在サハリン朝鮮人を労働力として価値か薄くなってきた70年代半ば頃から、還してもいいという意志を示し始めました。ところがソ連(中でもサハリン)は政治的に常に北朝鮮を意識せざるを得ない位置にありました。70年代頃より言いはじめた「日本には帰ってもよいが韓国に帰っては困る」というソ連の主張は北朝鮮の圧力があったからにほかなりません。ソ連にとっては、出国するならそれらの人たちが、何処にいこうと関知する問題ではなかったのです。にもかかわらず、日本を特定したのは、当時のソ連は、友好国北朝鮮の顔をたてなければならなかったのです。 こういったソ連側の事情を知りうる立場にあったのは、実際に帰還の仕事に携わった者だけです。しかしそうでなくとも、北朝鮮という国の異常性を少しでも、理解していたなら、サハリン朝鮮人の韓国帰還の促進を北朝鮮に.働きかけるなどということは考えることもできない暴挙です。それをあなた方は本当に行ったのですから、北朝鮮並びに東アジア情勢についていかに無知であったかを暴露する以外のなにものでもない行為です。それを自慢話にするというのでは、無知も極まれりとあきれるばかりです。 ペレストロイカ以降、韓ソが接近してその懸念は次第に薄れてはきましたが、それでも、元北朝鮮籍を取っていて(生活の都合でよく国籍を換えることがある)後に無国籍に戻った人の韓国永住帰国を扱ったときなど、"元北朝鮮国籍"を理由に、北朝鮮側にら致されても文句がつけられないという不安がつ.きまとい、極秘に行動しなければならないほど緊張を強いられたものでした。 四、「サハリン」を食いものにした五十嵐官房長官 次に、あなたは、原さん、五十嵐さんのお二人を、「およそ票にも金にもならない、この問題解決のために実によく働いてくれた立派な政治家」と、大変高い評価をしておられます。本当にそうなんでしょうか。 原さんのことはさておき、五十嵐さんについては、どうしてもこの場を借りて申したいことがあります。今年6月に発表した、朴魯学さんの夫人、堀江和子さんの、次の文をお読みください。 『夫・朴魯学の人権を無視した社会党前大臣』 堀江和子 「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」が発行した『サハリン残留韓国朝鮮人問題と日本の政治』という分厚い本が知人から送られてきました。 この「譲員懇」というのは、1987年に百数十名の国会議員によってつくられ、事務局長は細川内閣のとき建設大臣をしていた社会党の五十嵐広三議員です。同会が出来た頃はもう既にサハリンからの帰還が実現しており、私の夫朴魯学は帰還事業が多忙の中、何回となく国会に呼び出され、資料をいろいろ提出させられていました。朴はその頃から大変身体が弱っていて、翌年2月に入院、3月16日に永眠いたしましたが、その前日.15日に突然五十嵐議員が.「感謝状」なるものを持って見舞に来られました。(中略) グラビアをパラパラとめくってみましたら、な.んと朴の病床のあわれな写真が載っているではありませんか。臨終の前日の姿ですから私たち遺族にとっては見るに忍びない写真です。(中略)五十嵐議員が朴に「感謝状」を読み上げている場面を自分のために撮っておきたかったのでしょうか。.議員の地元、北海道のテレビや新聞がものものしく病室に入り込んできて家族は元より病院側にも大変迷惑をかけ、葬儀場にも同じ新聞とテレビが来ました。朴の業績を讃えてくれる目的ならばなにも北海道のマスコミを連れてくる必要はないはずです。.一体感謝状とは誰のためのものだったのでしょうか。グラビアの全部で4、50枚にもなる写真をよく見るとほとんどのものに五十嵐議員の顔が出ています。これではまるで五十嵐議員の政治宣伝の本のようなものです。(中略) 子や孫たちも、こんなときにおじいちゃんの写真を無断で撮ったのもひどいけど、いま又、承諾もなしに本に載せるなんて許せない、とみな憤慨いたしました。それで早速次のような手紙を五十嵐事務局長宛に4月12日、内容証明付で出しました。 「(前文略)右写真掲載については、私共遺族に対し、貴会より、事前に何の御連絡もありませんでした。故人の臨終前の写真であり、しかも病床の最も哀れな姿を人目にさらされるにつき、遺族の感情に何ら思いを致すことなく、ただ、事務局長の功名を高めるためのみに利用されたかの如き掲載スタイルには、強い憤りをおぼえざるを得ません。故人はもとより遺族一同にとって耐え難い苦痛であります。いやしくもサハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会と称され、人権を口にされる団体であるならば、故人の人格はもとより遺族の感情にも最低の配慮があって然るべきと存じます。しかるに、かかる配慮を全く欠いた本書については、即刻そのすべてを回収頂きたく、その上で、再度の流通におくことを防ぐいみから、当方にお送りくだされたくご通知申し上げます。(後文略)」 (『現代コリア』.1994年6月号より) その後、五十嵐議員からは、写真を回収したという連絡はなく、勿論謝罪の言葉もないそうです。それどころか、この原稿を書いているいま(10月19日)、問題のこの本の韓国語訳出版記念会出席のため訪韓するというニュースが報じられています。 「票にならない」というのも、堀江さんの文をお読みになれば、サハリン問題を票集めに使っていることは一目瞭然でしょう。五十嵐氏は、サハリン問題で何処へ行くにも、必ず地元の新聞、テレビを引き連れて行かれるようです。票にならないわけがありません。まあ、それは政治家ですから大いに利用するのもよろしいですか、「議員懇」設立の際、議員の中には、ずっと以前からこの問題に尽力して来られた民社党の田渕哲也議員や公明党の草川昭三議員を差し措いて、それまでこの運動に反対してきた党の議員が事務局長に納まって見当違いの活動を派手に宣伝し、あまつさえ朴会長とそのご遺族の人権をふみにじっています。これはどうみても、党利党略、私利私欲のため、サハリン問題を食いものにしてきたとしか、私には考えられないのですがいかがでしょうか。 五、成果だけ奪う“議員懇”の手口 「議員懇」なるものが、一体何をして来たのかについても触れないわけにはいきません。 「議員懇」が設立した頃、実際に再会活動に携わっていた朴さん夫妻(朴魯学・堀江和子)にとって、当時切実なことは、サハリンからの家族再会希望者を招請するにあたって、身元引受人になってもらう人をみつけることでした。身元引受人になるには、納税証明、職場証明、戸籍謄本等が必要です。そして滞在費を負担し、滞在中の行動の全責任を負うのです。40数年ぶりに、自由の国に浦島太郎のような心境で帰って来て、右も左も分からない人たちの、全ての生活の面倒から、出入国の手続き、帰りの航空券の予約購入、特定の銀行しか出来ないルーブルと円の交換、秋葉原電気街での買物(家族再会とはいえ、日本旅行の主目的はこれ)、観光案内、はたまた再会した韓国の家族とのトラブル調整、何から何まで2、3週間付きっきりでお世話をするということは、並大低の苦労ではありませんでした。この身元引受人になってもらうことこそがこの時の帰.還運動(活動)の唯一の仕事ともいうべきものでした。 ところが、「議員懇」の中では、草川議員を除き誰一人招請人になっては頂けませんでした。原会長、五十嵐事務局長にも、この招請活動の実際を理解してもらうために、招請依頼をしましたが、招請したという形跡はありません。 大沼さん。たしかあなたには一度招請人になって頂いたことがありましたね。勿論手続きは全て朴さんのところでしました。ところが実際にその人がサハリンから来られるようになった時にはあなたは日本におられず、身元引受はしていただけませんでした。それでもサハリンの人は、招請状に名前の書かれている大沼保昭さんを生涯の恩人と思って、その人たちにとっては最も貴重な品物をおみやげにと持って来られたのでした。それほど招請とは、双方にとって重みのあることなのです。名前だけ貸せばよいというものではないのです。 それから細かいことですが、お耳障りなことを言わせて頂きます。 ある一時帰国者が、ぜひ日本の病院で持病の糖尿病を治療してもらいたいと言ってきて困ったことがありました。保険に入っていない.外国人旅行者が日本で医者にかかることは莫大な費用を要するということを分かってもらうのは難しいことです。その時、東大病院が、宿舎から近かったことを思い付き、東大法学部教授のあなたなら何とか便宜を計ってもらえないかと相談を持ちかけました。たとえ有料になってもサハリン帰還運動の"第一人者を任じておられるあなたなら何とか面倒をみてくれるのではないか、という甘い考えがこちらにあったからです。しかしその期待は見事裏切られ、断られました。そのため、本人はもとより既に病を得ていた付添いの朴魯学さんがどれほど苦労をされたか分かりません。 以上のように、実際に家族再会のためにサハリン、韓国双方から来日した人の全てのお世話、永住帰国者には、お年寄りの身体を気遺いながら韓国まで付添って送り届けるまで全責任を持つ、このことこそが帰還活動なのです。そのこと以外に何かあったの.でしょうか。あなたが「あった」と主張されても、それはサハリンの人には何の関わりもないことでした。 "サハリン支援の国の予算化"は、「議員懇」の唯一の成果とされていますが、村山政権誕生以来にわかに浮上してきた戦後補償論のきっかけを作ったのがほかならぬこのサハリン再会事業援助金です。 これは元々、再会事業が民間の手で始められるようになったとき、宿舎や滞在費を2、3人の有志の拠出金で賄っていたことから、外務省が見かねて招請人には実費の何割かをお世話料として、旅行者には新幹線代と食費程度の額を進呈するようになったのがはじまりでした。ソ韓の国交がなかったことから日本で帰還運動がはじまり、日本が仲立ちとなって家族再会や永住帰国が行われたのですから、かつては同じ日本人としで苦労を共にしてくれた客人をもてなす、という程度のいわば交際費のような性格のお金でした。「樺太帰還韓国人会」には、朴さんの人間性に惹かれて、運動資金は全部出すと申し出た日本人篤志家の支援がありましたから、国のお金はあまり当てにせずとも出来たのです。 この補助金が支給されるようになった88年度から、社会党を背景として、高木健一弁護士が招請事業を始めました。大量の印刷物をサハリンに配り、「当方は宿舎も高級マンション(都内一等地にある社会党系不動産会社所有のマンショ.ンで「土井たか子後援会事務所」の表札のある豪華な都屋と、その他数室を使用していた)で、お米も沢山用意してございます……」というような客引きまがいの宣伝を行い、亡夫朴魯学さんの跡を継いだ堀江和子さんの招請事業に妨害を与えたという事実を、あなたは御存知のはずです。招請状一枚作るに、は大変な手間と費用がかかります。苦労して手続きしてもいつの間にか「高木派」に乗り換えられてしまったことがしばしばでした。あるときなどは、入国準備が全部整いソ連出航の連絡を受け、当日港に迎えに行くと「高木派」にら致されてしまったなどということもありました。政府の補助金は連れて行った方に出るのです。お金はともかくとして、連れ去られた側の屈辱感と戸惑う帰国者に対する申しわけない思い、今思い出しても煮えたぎるような悔しさを、堀江和子さんとその御家族(一家を挙げて招請活動に協力)は味わわされてきたのです。これが、「人権」を声高に口にしている人たちのやっていることです。 六、歪んだ“招請”、見当外れの補償 このように、サハリンとのパイプのない人が、強引に数だけの実績を伸ばそうとするには、他人の招請を奪ったり、同じ人を何回でも招講するようになっていったのです。その結果、希望者は大勢いるにもかかわらず"実力者"だけが何回も日本の国民の税金を使って大名旅行をし、.ラジカセ、テレビ、ビデオ、中古車等を買って帰り、法外の利益を得ているというのが実情でした。 二重、三重の招請で実績を挙げ、それに伴って補助金の増額が要求され、現在は、年間1億数千万円が支出されているそうではないですか。現在、帰還事業は、日韓の赤十字社に移され、年に十回チャーター便が出て、その費用と韓国滞在費まで日本が支出しているとのことです。 ソ連の一方的都合で置き去りにされ、ソ連社会のために働いてきた人に「苦しかったでしょう」などと日本が償い金などを差し出すことは、もの笑いのたねになるばかりだと思います。大沼さんは、その点どのように考えておられるのでしょうか。 八○年代の後半日本に来た人たちは、誰一人日本に恨みを持っている人はいませんでした。サハリンの生活は豊かで暮らしいい。唯故郷がなつかしいだけだ。と人間誰もが持つ共通の感概だけでした。それが最近になって補償金を要求する気運が出てきたのは、いまのロシアの暮らしが苦しくなってきたことにもよるでしょうが、その裏には、右にみたような人たちが、自己の売名のためにサハリン問題を利用し、それらの人たちにチエをつけ、個人請求なら出来るといって裁判にまで持ち込んで期待を持たせるのです。 従軍慰安婦問題、それにつづいて燎原の火の如く広がって行った各種戦後補償問題は全て同根から出ているのです。 大沼さん。過去この問題で努力されてきた人たちは、自分たちのやったことを語ろうともしませんでした。あの頃の少くない日本人は、口には出さずとも「過去」へのこだわりを持っていました。ですからかつてあなたがリーダーとして関わられた「樺太残留韓国人帰還請求裁判」には、右のような考えを持った多くの日本人市民と、同胞愛に燃えた在日韓国人たちがこれに参加し、帰還実現の運動に取組んだのでした。私もその中の一人です。 しかし実際は、あなた方專門家のミスリードによって真実が見えなくされ、無駄な支援を続けさせられてきたのでした。戦後50年間、かつての戦争や植民地支配等に関わる問題は、すべて日本の責任、と思い込んでしまうのが平均的日本人の歴史観でした。 しかしそうなってしまった要因は、故意に事実を歪めて世に伝えて来た、.あなた方のような進歩的文化人の責任であるように思えてなりません。あなた方がそれに気付いておられないならば、今後もまた多くの日本人が"戦後補償"という美名にまどわされて、無益な運動に引きづり込まれることになるでしょう。そのようなことに決してならないようあえて苦言を呈した次第です。 http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&task=view&id=357&Itemid=32 ■
[PR] by thinkpod | 2007-09-25 18:08 | 半島
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