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安倍晋三が企画・脚本・主演の醜悪な「国民栄誉賞」儀式
安倍晋三が背番号96をつけて始球式のパフォーマンスをやり、国民栄誉賞を私物化した問題について、それを正面から批判している新聞記事を見ない。残念と言うよりも絶望的な気分にさせられる。5/5の東京ドームの中継映像は、金正恩のサッカー観戦とか遊園地視察を喝采する北朝鮮の民衆と、それを絶叫調で賛美している北朝鮮中央テレビの報道と同じものだ。全体主義国家のグロテスクな個人崇拝の絵である。日本は北朝鮮と同じ国になっている。否、北朝鮮の方が、まだ日本より理性の救いがあると言えるかもしれない。北朝鮮の民衆の場合は、それをエキストラ動員の義務でやっていて、独裁者への歓呼は、自らの本意ではない強制の演技だからだ。日本の場合は、それが全体主義国家の政治ショーであるという認識がない。薄々自覚がある者も、言論の自由があるのに口に出して言わない。この授賞式と始球式は、読売の渡辺恒雄も関与しているが、ほぼ全てが安倍晋三本人の企画立案によるものだろう。安倍晋三の幼稚さやバカさ加減がよく現れているし、安倍晋三の愚民観が露骨に滲み出ている。おそらく、松井秀喜の引退セレモニーの計画の時点で、国民栄誉賞を絡めた人気取りのパフォーマンスの介入を工作し、長嶋茂雄とペアにする政治イベントの演出に仕立てたのだろう。それなら背番号96をと、悪乗りに出たところが安倍晋三らしい。


この二人の国民栄誉賞は、安倍晋三が人気取りの政治ショーのために案出したもので、最初から官邸外の東京ドームで授賞式を行う演出が想定された決定だ。自然に、下から推薦が沸き起こった上での授賞ではなく、そのため、当初から、なぜこの二人なのかと疑問を差し挟む声が絶えなかった。そして、疑問の声を掻き消すべく、、マスコミを総動員して二人の国民栄誉賞を正当化し、その儀式を神話化する情報工作が続いている。読売とNHKだけでなく、全マスコミが、長嶋茂雄と松井秀喜の師弟愛を賛美し、ヒーローの偶像崇拝に塗り固めることで、この政治を正当化するのに躍起になっている。乗せられてはいけない。そもそも、松井秀喜が国民栄誉賞に値する活躍をしたのだろうか。この選考は、国民栄誉賞そのものの価値を貶め、権威を危うくした人選と言えよう。政治の論理と思惑が先行したところの、国民不在の行賞だ。それならば、野茂英雄に与えられないのはおかしい。日本人選手が米大リーグで活躍する環境を切り拓いたのは、野茂英雄の独力によるものだったし、さらに二度のノーヒット・ノーランという快挙を達成している。野茂英雄を飛び越えて、いきなり松井秀喜が国民栄誉賞というのは、どう考えても不自然だろう。また、生きて元気なうちに長嶋茂雄に授賞する必要があったと言うのなら、V9監督で93歳の川上哲治や400勝で80歳の金田正一はどうなるのか。菅義偉は会見で、野村克也や張本勲や門田博光にも授与を検討するという意味の発言を残している。

そんなことになれば、プロ野球選手に対する国民栄誉賞の大安売りになってしまうではないか。落合博満にも資格があるし、江夏豊にもある。他のスポーツ選手や芸能人と根本的に基準が違ってしまい、野球選手の授与者の粗製乱造を止められくなる。松井秀喜について言えば、今、マスコミと政治が神話化しているような図とは逆に、本当は長嶋茂雄がクジを引き当てない方が本人の野球人生にとってよかった。星陵のときの志望先は阪神か中日だった。巨人指名が決まったとき、松井秀喜は少し複雑な表情を見せていた。意外で想定外の進路だったからだ。日本のプロ野球の本塁打記録は、年間で55本、通算で868本、王貞治が保有している。これを追い抜く素質と能力を持った打者は松井秀喜に違いないと、そう誰もが思ったことだった。体格がよく、飛距離が図抜けていて、フォームのバランスがよく、スイングが鋭く、ミートのセンスも抜群。野球選手として本塁打を打つために生まれてきたような素材だった。中日に入団し、名古屋で静かに選手生活を送っていれば、55本超えは簡単に達成していただろうし、50本以上を20年間打ち続けることができただろう。巨人と他球団とでは、野球以外のメンタルなプレッシャーが違う。特に、毎晩のように地上波で全国中継があり、大リーグへの注目と関心が少なかった当時の巨人はそうだった。北陸の田舎生まれの松井秀喜には、東京でマスコミの寵児になる巨人の花形選手ではなく、中日の四番が最も適性に合っていて、雑音なく打撃に集中することができただろう。

同じことは、ケガに泣き続けた無冠の帝王の高橋由伸についても言える。選手にはそれぞれ運命があり、その中で自らの野球人生を描き上げるしかないが、高橋由伸がヤクルトに入団していれば、何度かは本塁打王のタイトルを取っていたし、三冠王の可能性も十分あったに違いない。これまでの打者人生で達成した記録は、その天才や期待と反して、きわめて不本意な成績で終わっている。そうした問題(野球外の負担)を察知していたから、高橋由伸は巨人ではなくヤクルトを希望したのだろうし、プロ入り前の松井秀喜の想定に巨人がなかったのも、似たような理由のためと思われる。ネット情報には、プロ入り時の希望チームの中に巨人とダイエーが入ってるが、これは後の付け足しで出来上がった「事実」で、よくある捏造である。1992年まで遡って20年を俯瞰すれば、巨人入団は本人にとって不運だったし、ヤンキース入りも失敗だったと言わざるを得ない。結果的に不本意な形で引退に追い込まれ、政治に利用される人形になってしまった。中日か阪神に入っていれば、守備は三塁手をずっと続け、30代半ばで一塁手に回り、内野手で一生を終えただろう。何でもできる有能な子だから、勝手に読売に外野手に回されてしまった。そのことが、NYでの手首骨折という悲劇に繋がっていく。そんなイフヒストリーを想像すると、長嶋茂雄との師弟愛などという言葉が、とても嘘くさく聞こえる。松井秀喜は、打撃も、人格も、プロ入り前に完成されていた。

松井秀喜に技術を教える立場に立てる人間はなく、それを磨き上げるのは本人の独力だった。巨人時代の10年間というのは、東京生活に慣れたり、マスコミ対応に馴らされたり、虚飾の世界、そして権力の世界との接触と適応でずいぶん無駄な徒労をした時間だったのだ。一方の長嶋茂雄についても、5/5の姿をマスコミは囃し立て、英雄神話のように輝かせ、そうすることで安倍晋三の人気を盛り上げようと必死だが、本当に、本人は納得し満足しているのだろうか。窮屈そうに、無理に、不自然に、苦痛を我慢して演技をしているように見えたのは、私だけだろうか。一部に、あの姿がリハビリ中の患者を勇気づけるのだという声がある。果たしてそうだろうか。その説明は、安倍晋三とマスコミによるマインドコントロールの言説であり、真実を逸脱したところの、巧妙な欺瞞の合理化ではないのか。一人一人の冷静な観察と倫理的感性が問われる。昔の明朗な長嶋茂雄を知っている者にとって、あの歩き方、あの喋り方、あの曝され方は、やはり痛々しい。政治利用の場に駆り出されている気の毒な身を察して、同情や憤慨を覚えるのが自然だろう。障害者の尊厳の問題としても、あれでよかったのかは疑問が残る。少なくとも、全中継ではなく編集して見せるべきだった。テレビ報道は、長嶋茂雄の容態が、昔よりもよくなっていると言っている。しかし、実際に見た感じはそうではなく、キャンプを視察する姿を編集して見せていた過去の映像と較べて、身体が悪化している印象を否めない。

悪化したと言うよりも、老いて一段と衰えたという診断が正確だろうか。77歳だから無理もない。国民栄誉賞を与え、その「元気な姿」をテレビで見せるなら、あのような生中継ではなく、編集でそれらしく加工して映像を流すべきだった。あのとき、安倍晋三は、額縁入りの大きな重い栄誉賞の賞状を、そのまま半身不随の長嶋茂雄に手渡そうとした。横から松井秀喜が手を添え、長嶋茂雄を介助したのだが、当然ながら、それは仕組まれたヤラセのシナリオである。だが、横に松井秀喜がいなければ、長嶋茂雄はそれを片手で受け取らざるを得ない場面だったのだ。通常、そういう非常識なことをするだろうか。半身不自由な障害者に対して、起立させ、大きな重い賞状を手交し、片手を差し出させて拝受させようとすることそのものが異常だ。そのような式次第を作為し堂々と実行することが、障害者の立場を無視した冷酷な発想に思えてならない。障害者への配慮がない。松井秀喜が近寄って補助するという「師弟愛」の演出と強調が先にあり、そうした芝居の「感動」を国民に押しつける意図がある。安倍晋三が企画した身勝手な演出に、マスコミを動員して国民を漬け込み、「国民的感動」が捏造されている。正常な理性と感性を持った者なら、その進行を奇妙に感じ、非常識だと思い、安倍晋三の独善と酷薄を感じたことだろう。自分を目立たせ、テレビで人気取りをするためなら、どんなことでもやる安倍晋三の無神経に怒りを覚えたことだろう。しかもそこに、96条改定の政治宣伝を割り込ませる愚劣な悪乗りまで加えていた。

GWの期間中、安倍晋三は、外遊の記者会見を常にNW9と報ステの時間に割り込ませていた。安倍晋三がニュースの時間に生中継で割り込むように、公共の電波を私物化して差配し、自分の宣伝のために利用している。この自意識過剰な男は、北朝鮮の金正日のように、一日でも自分がテレビのニュースの主人公になって褒めちぎられることがなければ我慢できない性分なのだ。テレビは、自分への喝采と礼讃を国民に見せつける手段である。記者会見の連日の割り込みは、これまでの首相の外遊ではなかったことだ。それに対して、古舘伊知郎を含めて、報道関係者は異を唱えることなく、嬉々として安倍晋三に付き合い、「将軍様」の賛美を続けている。来る日も来る日も賞揚と拝跪を続け、それを「世論調査」で弾き出す「高支持率」の「根拠」にしている。北朝鮮そのものだ。


by thessalonike5 | 2013-05-07 23:30 | Trackback | Comments(0)
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