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大学では教えられない歴史講義

2009年10月31日(土曜日)

「国民」とは誰か。

カテゴリー: - kurayama @ 03時30分41秒

 イェリネック先生の「国家」の定義を現代風に焼き直すと次のようになると考えている。

「領域の上に、ある価値観に基づく人間の集団が存在し、主権を有する政府によって統治されている存在。」

 (ひらたく言えば、土地の上に人が住んでいて、責任ある秩序があれば国家です。)

※領域=領土+領海+領空・・・領海は領土に近接し、領空は領土と領海の上空。

※人間集団=国家に属する人民を国民と言う。あまり美しくない定義だが。

※ある価値観=国柄(国体)。歴史・伝統・文化・宗教・言語など、国によって異なる。

※主権=あらゆる外国から独立し、国内では他に優越する存在を認めない権力。

⇒「我々は〜国民」であるという意識があれば良い。

⇒「〜人」という場合、国境を飛び越えてしまう場合があるので注意。

 では国民とは誰かと言うと、「国家に属する人間」という実も蓋もない定義が出来上がる。では民族との違いは?どう訳せばよいのか?との疑問が生じる。ただ帰化外国人(帰化人)を包含している点では、これはこれで優れた概念だが。

 一般に民族とは「一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体」を指す。これでは、英語のNationを指しているのか、Ethnic(group)を指しているのか、まったく区別がつかないのである。

 そこで、国民(多数民族)と民族(少数民族)に関して私の定義を。

「主権国家を有する意思と能力を兼ね備えた、一定の文化的特徴を基準とする排他的共同体」

訳例)国民・民族・多数民族(日本)=ナロード(旧ユーゴ)=nation

「主権国家を有する意思と能力の両方若しくはいずれかが欠けた、一定の文化的特徴を基準とする排他的共同体」

訳例)民族・少数民族(日本)=ナロードノスト(旧ユーゴ)=ethnic group

 「排他的」とは、特に悪い意味ではなく、「この人とは同じ人」「あの人と自分は違う」という意識の問題である。たとえば幕末では長州人と薩摩人はお互いによその「国」の人と思っていたが、朝鮮人や清国人と同様の外国人と思っていた訳ではない。「三国」と言えば、「日本・朝鮮・支那」のことであり、日本という共同体の中での「よそ」であって、意識として「日本人(国民)」を前提としているのである。この「朝鮮人や支那人とは違う」という意識が「排他的」の意味である。これは必ずしも国境の枠内におさまらないし、国境の内部で激しく露出する場合もある。

 チトーが建国したユーゴの場合、「ナロード」は六つに限定された。ユーゴ「国民」とは「ナロード」の上位概念であるが、他に該当する単語がないので、これを使用した。英語やドイツ語も同じである(本当は英語とドイツ語を比べるとさらに面白いのだが、複雑になりすぎるので今日は割愛。)。ユーゴ内に、ナロードノストはあまた存在したが、その中でもムスリム人は後に「ナロード」に昇格させてもらえた。

 では、「ナロード」と「ナロードノスト」を区別する要素は何か?現実における力関係だけである。そして力を持ちうる為には結束が不可欠であり、文化的な統合が極めて重要になり、敵を設定すると排他意識が凶暴化する。だから民族問題は深刻なのである。ついでに言うと、本来は「ナロードノスト」にすぎないものに「ナロード」としての自覚を促すウッドロー・ウィルソンというトラブルメーカーが居て、その後の各国の歴史で権利を認めざるを得なくなったりするのである。これが現代においても世界各地で「民族」紛争が絶えない理由である。

 では国民とは何か。「国民=ナロード+ナロードノスト+帰化人」である。

 人によって、nationやfolkを、ナロードの意味で使ったり、ナロードノストの意味で使うから、英語やドイツ語ではもはや定義不能になるほどややこしいのであるが、日本語の「国民」も、「多数民族」も、「ナロード」でありnationであり、folkなのである。

 日本人以外でこれを区別できる国民を私は知らない。誰か言語に詳しい人が居たら、歴史的事実付きで教えて欲しい。少なくとも、区別できるような国を知らない。例えば、所謂「国民国家(Nation State)」の典型とされるフランスにしても、パリと北仏と南仏など、元々はトルコとペルシャとアラブくらい違っていたのだし。それを「フランス人」として纏めるのは、前記三者を「ムスリム」と纏めるくらい無理があるのだが、二十世紀くらいまでに何とか無理やり統合したのである。「ナロード」=「国民」の図式にするために、「ナロードノスト」の意識を徹底的に破壊していくのがフランスの歴史であって、この為の殺戮など一七八九年からのフランス革命どころか、十一世紀くらいから散々やっているのである。でも、「ナロード(民族)」と区別できる「国民」に該当する単語があるのだろうか。私はフランス語は門外漢だが、岡田英弘先生などは「日本語以外には無い」と言い切っていらっしゃる。

 さて、「日本は単一民族国家である」と発言して、アイヌ語の抗議文を送りつけられて謝罪した愚かな総理大臣が居た。中曽根康弘と言うらしい。

 私ならこう答える。「日本は単一nation国家である。単一ethnic国家であるかどうかに関しては発言していない。」と。

 もちろん、この場合のNationが「国民」なのか「民族」なのか、「民族」だとしたら「ナロード」なのか「ナロードノスト」なのかは聞かれない限り説明しない。聞かれたら「アイヌ人(people)」に主権国家を持つ意思と能力があるのか。双方ともにあると証明できたら、アイヌ人はNationの訳語の民族として認める。ただし、国民国家であったとの事実には変わりがあるのか」と答える。

 帰化人が日本において、無視できない社会現象となっている時代は二回だけで、古代と現代だけである。誰でも知っている話だが、古代の帰化人は土着の日本人より大陸半島への排他性と日本への帰属意識が強かったのである。そうしなければ生きる道が無いのだから当たり前である。

 これでもかと譲歩をして、聖徳太子不在説までを認めても、奈良時代には「排他的共同体意識」は形成され、現在まで連続しているのである。その意識とは、「ナロード」「ナロードノスト」「帰化人」のすべての意識を包含した「国民」意識である。この意識こそが日本という国の重要な基層なのである。

 ここで問題。なぜ日本の学界の人達は「国民」国家を否定するのか。

解一)本当に何もわかっていない。流行か淫嗣邪教の信者のように唱える。・・・大多数。

解二)日本を滅ぼしたい。日本を日本でなくしたい。・・・少数だが、確信犯は極めて狡猾。

 今後への提案。民族問題を語る時は、何語を使うにしても、どの用法を使うにしても、上記定義の「国民」「多数民族」「少数民族」の概念は区別して欲しい。これはこの砦の皆さん以上に世界中の学界に求めたいのだが。


2009年10月30日(金曜日)

亡国前夜(6)―すべてを竹下登が決めた時代

カテゴリー: - kurayama @ 23時59分37秒

 中曽根康弘内閣は長期政権となった。最初の三年間は田中角栄の傀儡として。田中曽根内閣などと称された。最後の二年は、田中が倒れ、最大派閥田中派が分裂したこともあり、それなりの指導力を発揮した。「大統領型首相」などとイメージ戦略を打ち出していたが、実態は各派閥への根回しに奔走していた。もちろん最大の根回し対象は、田中派のほとんどを傘下におさめた竹下登である。

 吉田茂・池田勇人・佐藤栄作・中曽根康弘・小泉純一郎と、戦後の総理大臣は総選挙に二回勝った総理は安定政権を築いている。その任期のすべてにおいて安定していたわけではないが。

 中曽根も、竹下登大蔵大臣とその盟友(用心棒)である金丸信幹事長の協力で総選挙に勝利し、自民党総裁の任期を一年延長してもらった。これは小泉郵政解散の時も言われた話だが、国民が信任した総理を政党の都合で交代させるのは問題があろう。やはり、総理在任中は与党総裁の任期は数えないべきであろう。さもなくば、政党内の政権たらいまわしを認めることになる。

 現に竹下登もそのたらいまわしによって中曽根後継に就任した。しかも、候補者による話し合いの末、中曽根総裁の指名、という形で。当時のニュースでは「中曽根総理が竹下氏を後継総理に指名」などと流れていたが、この「」の部分、なぜそうなるのかをきちんと説明できる大人はあまりいなかったのではないか。形式的には、日本国憲法の規定に従って衆議院の首班指名選挙で選ばれるのであるが、その前に実質的に一部の政治家の談合で決まっているのである。しかも、中曽根の「裁定文」は、「安倍外務大臣を選びたかったの?」と思わせるような文言が並んだ後に「よって竹下登君がふさわしいと思います」である。

 竹下内閣は成立の由来からいかがわしかった。しかも、田中内閣と違い、強大な反対派閥は存在しない。「総主流派体制」などと称されたが、竹下の根回しとは、要するに通達である。野党に対しても同じことをするのである。ロッキード以来の疑獄事件と言われたリクルート事件で一年以上も世論の批判を浴び、消費税以下の支持率3%などと言われながらも、竹下が一番都合が良い時に辞めて、後任も自分の最も都合が良い人物に決めている。この間、野党も皆沈黙している。自分達もリクルート事件に関与していたのもあるが、竹下流国対政治に絡めとられていたからである。普段は元気な共産党までこの時ばかりはなぜか大人しかった。

 理解しにくいのであるが、この頃の野党は与党と談合して国会運営を行っていたのである。塩川官房長官など、「私は野党にお金を渡していました」などと公言していたのである。本気で政権をとる気のない野党ほど有害なものはない。田中角栄はこの種の工作費を「民主主義の必要経費」などと豪語していたが、その田中すら社会党・公明党・共産党の野党連合に衆議院解散に追い込まれているのである。竹下の野党対策の完成度や如何に。

 さて、竹下が宇野総理を選んだ理由は大きく二つ。一つは自分に忠実であること。もう一つは、中曽根派の一代議士にすぎない宇野を選べば生意気な同派の分断になり、中曽根派の実力者の渡辺美智雄が宇野後継に名乗りをあげづらくなること。他にも当選回数が、序列が、などと色々あるが、いずれにしても国民の意思とはまったく関係がなく、竹下一人の都合である。 

 竹下唯一の誤算は、宇野が参議院選挙に敗北したことである。ただ、この時は竹下の与野党談合体制は健在であったので、竹下の権力が大きく揺らいだわけではない。それなりに打撃は受けたが。

 次に選んだのは海部俊樹である。彼を選んだ理由は(馬鹿らしいので省略)。ただ、この総理、政権交代直後に解散をして安定多数を獲得した最後の総理なのである。しかも時の小沢一郎自民党幹事長が「体制の選択選挙」などと銘打ったので、自民党か社会党か、どちらかを選ぶ選挙となった。惜しむらくは、社会党が全員当選しても衆議院で過半数に遠く及ばない候補者しか立てなかったので、何の実質もなかったことであるが。

 あまりの竹下派院政に他の派閥(代表は小泉純一郎を含むYKK)や、竹下派内で反感を持つ政治家(代表は小沢一郎)の不満は高まり、海部は退陣に追い込まれた。この時、「竹下派傀儡の海部政権を倒せ!」と先陣を切っていたのが小泉純一郎である。誰に言われて?竹下に言われてである。この人、1998年には竹下に命令されて総裁選挙に立候補したほどである。この辺りの話、政治記事に当時から普通に書いてあるが知らないか、忘れているだけである。ちなみに小泉さん、「竹下派」を攻撃して名を上げたが、「竹下登」は一度も攻撃したことがない。

 次に選ばれたのが宮沢総理である。この人、結局何もできませんでした。竹下のいじめに耐えかねた小沢一郎が竹下派を飛び出した(追い出された?)り、自民党そのものから飛び出した(追い出された?)り、だけが唯一の特筆すべき事例である。

 さてここで問題。小沢一郎は間違いなく勝算ありと見て戦いを挑んだのであるが、少なくとも竹下派内の派閥抗争には完敗した。なぜでしょうか。この答が重要なのである。これこそが、日本国憲法統治構造の最大の理由なのである。

 

 長くなりそうなので、この項、一旦終了します。今回の記事、自分で書いていてイヤになるほどつまらない歴史的事実が羅列されているのだが、しかし事実なのだから仕方がない。しかも、これほどの出鱈目が日本国憲法の規定に一切反していないのである。おそろしや。


2009年10月29日(木曜日)

校正の合間に、今更「総理の指南役」

カテゴリー: - kurayama @ 23時40分07秒

 一一月中旬発売の単行本(一章を担当)の校正中、というか手動FAX送信中に書いてます。ネタの渋滞解消の内容です。且つ、「亡国前夜」の予備知識として。

 「総理の指南役」の方は、宣伝がしっかり止まっている間に、『歴史読本』の次の号が出てしまいましたが、図書館などのバックナンバーでお読みください。最初の「指南役とは」の節が戦後政治全体の要約です。

「保守本流」「一派優位」「政権交代」を鍵に、戦後政治を区分してみました。本当は松野頼三をしっかりこの砦でご紹介したかったのですけど。とっくに鳩山内閣ができるに違いないとの前提で書いていました。分量も、実際に書いたボツ分だけで二倍になりました。

 逆に、安岡正篤や瀬島龍三は、実証的に書けることが少ないので。瀬島に関してはいわゆる「スパイ疑惑」を抜きにしてどこまで言えるか、のような基礎知識としてお読みいただければ良いと思います。安岡では、細木数子は出てきません(笑)。ただ、「安岡は重要な文書の(作成者ではなく)起草者であった」との一文は、歴史学的に非常に重要なのでいずれ紹介したいと思います。これを読み解けば日本をめぐる歴史問題を解決できますので!(断言)

 できるだけ、予備知識無しで読めるように頑張ります。


亡国前夜(5)―恐怖の超権力者

カテゴリー: - kurayama @ 02時19分00秒

 これからの三回シリーズ、特に歴史の知識がなくても、細かいところは「そんなものか」くらいで流すか、興味があれば調べるかしてください。大事なのは、歴史を語りながらも今に通じる論理を語っているところです。「今、我々が社会に不安を抱いている。その正体は何なのか。」その問題意識だけで良いです。知識は気にしないでください。

 

 「田中角栄こそ戦後最大の政治家」「その後、数々のミニ角栄が出現した」などと、今の日本の問題を考える上で錯覚をおこさせる間違った歴史認識がはびこっているので、これは正さねばならないと思ってきた。そこに今の日本を考える上での本質はないのである。田中角栄が歪めた「憲政の常道」を跡形もなくした政治家、しかもいびつな形で超越的な権力を掌握した政治家のことを我々は忘れていないか。

 本題の前に、田中角栄伝説の根拠は「高度成長期の政治家」である。時流に乗った政治屋でありその手腕が卓越していたのは確かだが、日本人を豊かにした功績において池田勇人以上に位置するとそれは過大評価になるはずである。ところが、池田は専門家の評価こそ高いものの、一般的な人気は、しかも自称専門家間の評価でも田中の方が圧倒的に高い。はっきり言えば、高度成長に対する貢献度で言えば、高度成長計画そのものを立案した下村治と池田に使われた田中角栄のどちらをあげるべきか、などという議論すら必要かもしれない。

 私も個々の事実を取り出して、田中の功績や実力を評価するのは吝かではないが、「では、他と比較して」という冷静さを失えば、かえって彼のすごさがわからなくなるのではと思っているのである。少なくとも、「戦後最大の政治家」でないことは確かであろう。

 佐藤栄作、田中角栄、竹下登の三人はそれぞれ自民党最大派閥を支配し、十年間の権力を維持した。では三人の内、握った権力が一番弱かったのは誰か。これは明らかに田中である。佐藤の場合は、政敵が次々と病死するという幸運に恵まれたのが長期政権樹立の最大の理由である。逆に田中の場合は、常に政敵が強かった。三木武夫・福田赳夫は生涯のほとんどにおいて政敵であった。失脚してからの復権に関しても、福田の敵失に助けられている面も大きいのである。田中の権力の絶頂は三木武夫の実質的引退以降である。それでもあの手この手を使いながらも最弱小派閥の河本派(三木派の後身)に抵抗勢力としての存在感を許しているのである。色々とデータを挙げて田中派の権力が弱かった点の立証は可能であるし、田中の主観的な心象風景は愛人にして金庫番が残した『佐藤昭子日記』でわかろう。むしろ田中のすごさは、自民党内反主流派や東大出身官僚(特に最高裁と検察など司法官僚)などをついぞ統制できないにもかかわらず、次々と総理大臣の首を挿げ替えながら延命措置をはかる手腕にあろう。それが哀れを誘うし、国民にとっては大迷惑な話であったが。

 では、竹下登はどうか。その「戦後最大の政治家」の派閥を丸ごと乗っ取ったではないか。しかも周到な計画を立てて極めて合理的に。十年間も田中は警戒心を丸出しにしていたのであるが、それをも乗り越えて「憤死」同様の状態に追い込んだのである。田中が佐藤派に対して同じことをしたときは、佐藤は「派閥をやめる」と公言しており、影響力は末期症状であった。田中は権力の絶頂を維持しようとしていた時期である。ついでに言うと、同じ事を竹下に仕掛けた小沢一郎は結局は敗れている。政争術において田中が竹下に優越している点を私は知らない。竹下は運にすら頼っていないのである。

 竹下登こそ戦後最大の権力者である。そして現在の日本の国難を導いた大悪人である。その罪、藤原道長や徳川家斉に匹敵しよう。私はこの三人を「恐怖の超権力者」と呼ぶ。

 藤原道長・徳川家斉・竹下登の共通点は三つ。一つは、武力を用いずに、無敵の権力を握った点である。道長の場合は、散発的に火付け強盗で鬱憤晴らしをする勢力は存在したが、そこまでである。「天皇家を乗っ取ろう」などと言い出さない限り、彼の権力は無敵であった。徳川家斉は「世の中をよくしよう」などという気がまるでないので、現状打破の際に生じる摩擦が存在しない。天保の改革を用意していた改革派も、家斉の死まで待たねばならなかった。

 二つは、この三人、何の政治的功績もないのである。竹下の消費税などはどんなに国民生活に影響があっても、行政事項であって政治ではない。家斉の文化文政の経済文化発展も彼の功績にはできないであろう。何もしていないのであるから。道長に至ってはそれらに匹敵する内容すらないのである。三人とも、権力の保持以外に何もしたいことがない、だから権力は強まる、という、「見た目の繁栄期、実は危機が忍び寄っている時代」に特有の政治家なのである。

 佐藤栄作や田中角栄は少なくともやりたいことがあって、その政策の終了や失敗が求心力の低下に繋がった。田中に至っては「裁判で無罪になりたい」と、慢性的に弱点を抱えているのである。ところが竹下はそのやりたいことがないのである。政策がどうなろうと、求心力が低下しようがないのである。

 三つめは、安全保障体制が崩壊しているのである。藤原道長の時は「刀伊の入寇」によって大宰府が女真族に荒らされたが、政権は何もしなかった。徳川家斉の時は「フェートン号事件」により長崎が英国軍艦に荒らされたが、やはり何もしなかった。竹下登の時は不審船やらテポドンやら色々な不審物が北からやってきたが、いずれにおいても総理大臣を支配していた闇将軍は何もしなかった。そして三人とも彼らの権力はまるで揺るがなかった。国を思う改革派は沈黙を強いられたのである。

 

 さて、竹下内閣はリクルート事件で世論の猛反発を浴びたが、一年も誰も倒せなかった。政官界のすべてを制圧していたからである。自民党は田中闇将軍時代と違い総主流派体制で、竹下への挑戦者がいない。野党は懐柔されており、共産党まで本気で退陣要求をしていないのである。官界では検察のみマスコミへのリークという手段を通じて抵抗したが、内閣総辞職こそが竹下の反撃開始であった、とは研究の常識であろう。

 田中内閣は『文藝春秋』での暴露記事露出後数ヶ月で退陣に追い込まれている。次の三木内閣の手によって逮捕にまで追い詰められているのである。復権までには四年(少なく見て二年)かかった。

 竹下退陣後は宇野宗佑・海部俊樹・宮沢喜一が、十ヶ月空いて村山富市・橋本龍太郎・小渕恵三、すべて竹下の意向により総理となった。田中が遂にできなかった「自分の派閥から総理を出す」を二代も行っている。田中の場合、竹下がいつ派閥を簒奪するかという不安があったので、不可能だったのである。田中には竹下がいたが、竹下には裏切れるような政治家はいなかったのである。

 この間、金丸信や後藤田正晴が実力者としてもてはやされたが、彼らが竹下に優越した根拠はなんだろう。金丸は大蔵省には何の影響力もなかったし、後藤田は議員に子分すら一人もいなかった。むしろ彼らは竹下権力の両翼では?

 そして竹下登が権力を握った一九九〇年代の十年間をすべてのエコノミストは何と呼ぶか。「失われた十年である」。つまり、今の格差社会は竹下登が作ったのである。これ以上の説明が必要であろうか。一つだけ述べよう。それが今回の主題である歴史歪曲である。

 我々は竹下登に向けるべき批判を小泉純一郎に向けていないか。

 確かに小泉改革には、経済政策に限定しても言いたいことは多い。しかし、経済政策に限定すれば、なおさら小泉改革は竹下の平成不況へのカンフル剤の役割だったのでは?ならばカンフル剤が正しかったか否かではなく、根源まで遡って問題を分析すべきであろう。

 

 ここまで述べてまだ世間では、「角さんは大物、竹下など小物」などと言われかねないが、この砦ではそういう声は無視して次回二回分は予告。(タイトルは変えますが内容はかなり前からできています。)

「竹下登はどのように憲政の常道を歪めたか」

「保守を捨てた自民党が敗北した歴史的必然―竹下登の恐怖支配」

 田中で二回やったので、竹下では三回やります。このカルテこそ必要でしょう。日本人が「角さんの時代は良かった」などと間違った幻想を抱いていては処方箋が出てきようがないので。

 

 現在の政局は「竹下登の後の権力を誰が握るか」なのである。今こそ考えるべき政策は「竹下登が残した歪をどう正すか」である。

 藤原道長の後には後三条天皇から源頼朝に至る世界史に残る大変革を成し遂げた。この壮大な社会変革は簡単に語りつくせないが、後三条天皇の「粛清なき宮廷改革」や源頼朝の「簒奪なき構造改革」など、世界史にほとんど類をみないのである。

 徳川家斉の後には、天保の改革こそ失敗したが、改革の機運は止まらず、遂に幕末維新へと突入した。その後の明治維新の奇跡はご存知の通りである。

 では竹下登の後には?

 我々、生きている人間がやらねば誰がやる?

 そのためにも、(つづく)


華夷秩序は東アジア共同体の根拠か

カテゴリー: - kurayama @ 00時29分55秒

 あー。またネタの大渋滞が…。皆様ハイレベルなご質問ありがとうございます。さらに嬉しい悲鳴です。とは言うものの、最近はあまり重くない内容が多くて申し訳ないのですが。(?)

 結論から先に言うと、なぜ「キリスト教徒の白人クラブの真似事」を「華夷秩序」などという意味不明正体不明な代物を持ち出して、しかもまったく歴史も文化も異なる米国まで入れてやらねばならないのか、ということに変わりはないのですが。どうやらこう言っても総理大臣閣下や外務大臣閣下にはお分かりいただけないようなので、我々だけで勝手に話しを進めましょう(笑)。「特定アジア共同体」を作るくらいなら「全アジア共同体」でイスラエルやエジプトも入れればいかがでしょう(笑)?

 さて、かなりハイレベルな内容なので、全部をいきなりわかるのは無理なので、逆に気軽に読んでください。いきなり最終段落に飛んでくださってもかまいません。または、どんどん質問してください。私の代わりに答えてくれる方もいますし(笑)。そのやりとりが的確で礼儀正しいことが私の誇りです(これは真剣)。

 

 まず、「華夷秩序」の範囲です。実効性のある最小単位は中華宮廷でしょうね。例えば、一九一二年の中華民国建国から一九二四年に紫禁城を追い出されるまでの宣統帝などがこれです。辛亥革命や軍閥混戦と何の関係もなく、溥儀はそれ以前と同じ生活を送りました。中華民国大総統の袁世凱や段祺瑞などの北京政府から生活費をもらって、「イタリア内におけるバチカン」以上の独立性を保っていました。

 実行性のある範囲としては、「最盛期の皇帝が地方官を派遣した地域&朝鮮」でしょうね。この範囲では「秩序」は存在したでしょう。それは国際法と同じ意味での法ではなく、「権威者の命令」の意味での法でしょう。とても普遍性を持ちうる可能性などありえたとは思えませんが。それは今のチベットやウィグルを観れば一目瞭然で。

 中華帝国の主観によれば、皇帝は全世界の支配者です。宇宙の支配者と言ってもよいです。岡田英弘先生などは、東アジアどころか、かの大英帝国にも臣下の礼を要求する事大主義についてもご紹介されています。結果、アヘン戦争(※)で実力を見せ付けられるのですが。ある方から、駆け出しの院生の頃に「彼らはバルタン星人が来ても朝貢させる」と習った記憶があります。なるほど、と思いました。華夷「秩序」の本質は、儀礼(国際法における所詮プロトコール)にすぎないのであって、とてもウェストファリア体制どころかローマ万民法に及ばない代物であると断定して良いでしょう。

※「アヘン戦争」という名称自体が、英国を忌み嫌っていた米国などが広めた呼称。英国は英清戦争などと称します。

 「国家」「民族」に関しては近日、別に書きます。結論だけ言うと、この二つの言葉、日本語でしか完全には説明できないのです。ついでに「国民」も。予習用に参考文献を示しておくと、岡田英弘先生の御著書全部、阿部謹也先生の御著書全部、今谷明先生の御著書全部、1990年以降に出た日本語のバルカン半島に関する単行本全部、です(笑)。直接的にはバルカンの勉強が役に立ちました。他にも色々読み漁った、やっと自分なりの解答はみつかりましたが。でも昔の大学院の宿題ってこんなものだったらしいです。

 世界の歴史に関してその道の権威が何を言っているか、基礎的なことを見ていくと、「日本の歴史って全然遅れていないどころか、一番進んでいるのでは?」と思ったのです。

 よく、「島国根性」と言われますが、英国人が「大陸」「半島」などとユーラシア(ヨーロッパや仏独)やイベリア(のポルトガルとスペイン)のことをむしろ蔑称で呼んでいるという、欧州の高校生ならば誰でも知っている事実を知ると、別に「島国」で何が悪いの?と思えてきたのですね。

 ロシアの教科書には「日本は十九世紀まで世界史に登場しない国である」と書かれています。これを「人類の歴史に貢献していない」などと卑下する必要はないのでは?では世界史とは何か。ユーラシア大陸を中心とした歴史のことでしょう。それが誰の歴史か知りませんが、誰の歴史にしてもひたすら殺し合いの歴史ではないですか?そんな歴史に登場しなくて何が悪いのでしょうか。

 そう考えると、中華帝国の考える国の定義もいい加減です。そもそも、「皇帝と直轄領」「言うことを聞く者ども(朝貢国とか冊封国とか呼ばれる)」「その他良く知らない人たち(化外)」くらいの区別しかないので、「華夷秩序」を持ってきて「西洋国際体系に匹敵するのだ。彼らの近代国家概念や国際法に負けないだけのものを持っていたのだ」などと言い張るところに無理があるのでしょう。

 一六四八年ウェストファリア条約に始まる西洋国際体系など、日本ではとっくに聖徳太子の時代からやっています。だから、たかだか目の前の科学技術力や経済力の劣勢に臆することなく明治維新ができ、日露戦争に勝って誰に屈することもない大国として生きていけたのですから。聖徳太子で悪ければ、奈良時代で良いです。かつて、世界中に偉大な文明が存在しましたが、八世紀から途切れることなく続いているのは日本だけです。

 デンマークが九世紀、英国が十一世紀から続いていることになっていますが、当該期の彼らの歴史など日本で言えば神武天皇や日本武尊くらいの実証性です。百歩どころか千歩譲って奈良時代からが日本の確実な歴史である、と言っても世界最古の連続した歴史と文明を持っているのですから。

 ところで、日本とオーストラリアでは「我々はアジアか」などと知識人が言い出します。彼の国はそもそもが囚人を島流しにしてできた国なので、色々と劣等感を抱えるのはわかるのですが、なぜ日本がアジアに入れてもらわなければならないのか。日本は一国一文明で何が悪いのか、と問いたいのです。

 英国人(※)など、「英国と欧州」であって「欧州の中の英国」などとは考えないですね。米国に対してはいまだにもっと優越意識がありますし。

※この場合の英国の範囲はまたややこしいので、これもまたの機会に。

 皆様のやり取りを含めた以上の議論、これだけでも相当難しい問題があって、しかもまだ入り口の入り口くらいなのです。

 「みんな仲良く、だから一緒になろう」で一つの国家連合ができるなら、今ごろ世界連邦ができているでしょう。大体、総理大臣御夫妻が一緒になるのだって、そんなに簡単に誰も傷つけずにいきましたっけ?


2009年10月28日(水曜日)

華夷秩序とローマ万民法

カテゴリー: - kurayama @ 02時12分32秒

 相当、実証主義的で定評のある中国史家でも勘違いしていることがある。「欧米に国際法があるならば、アジアには華夷秩序がある」との言説である。華夷秩序などを「東アジア共同体」などと意味不明な団体の根拠にされては困るのである。

 国際法は、刑法のような裁判所や警察に強制されるような強制法ではないものの、法ではある。解決は、当事者間の決闘(これを戦争と呼ぶ)による、との合意がある時点で、国際社会の法である。最初は、欧州公法と呼ばれ、欧州各国共通の法として認識されていた。そして、世界中に拡大した。歴史的に平和に慣れた日本人には色々野蛮な点も多いが、何だかんだと洗練されて今に至っている。

 ローマ時代においては、万民法が存在した。ローマは多くの他民族を征服したが、彼らの習俗や法を尊重する姿勢を示した。緩やかな他民族の統合である。しかし、それら各民族の法の上位に万民法が存在し、帝国政府の責任においてすべての民族に適用される強制法であった。

 では、華夷秩序はどうか。確かに中華宮廷では皇帝の求める序列が絶対であった。もちろん、中華である皇帝が最高の地位であり、周辺諸民族は夷(野蛮)の地位しか与えられない。華と夷の関係には、強制力が働く。ただし、皇帝の実力が及ぶ範囲内だけである。夷と蔑まれた周辺諸民族は、自国に帰れば何の強制も受けない。単に朝貢だの冊封だのなど、中華皇帝が喜ぶ儀礼の見返りとしての経済的利益を蒙るだけである。ついでに言うと、重臣たちは朝貢国を増やして己の権力を誇示して宮廷での権力闘争に勝ち抜くために、わざわざ周辺諸国に頭を下げて朝貢をしてもらう、などということもあった。別に、中華帝国が東アジアで最強の国であり続けた訳ではないし、決して文化の中心とも限らない。少なくともいまだに命令と法律の区別がつかない国にまともな法文化など育つはずがなかろう。

 何より、周辺諸民族どうしは別に中華宮廷での序列を本気で信じていないのである。まともにそんな序列を信じている国は朝鮮くらいである。例えば、清朝は大英帝国以下来航する欧州各国に朝貢の儀を強要したが、では英仏関係は大清皇帝に決めてもらったのか。まったく無関係に戦争をしたり和睦をしているのである。これをアジアに限定して、日本とベトナムでも良い。ほぼ無関係に暮らしているではないか。

 少なくとも、華夷秩序は、夷と夷の関係を拘束する法になれていない。せいぜい、華と夷を拘束する外交儀礼にすぎない。ローマの万民法にはるかに劣っているのである。

 鳩山首相、「東アジア共同体」にアメリカ合衆国をいれようと発言したとか。いつからアメリカはアジアになったのだ?


生島さんご紹介と超満員御礼!

カテゴリー: - kurayama @ 01時46分15秒

 案の定、昨日は書き込みできませんでした。三時間睡眠後、大学に直行して授業。で、そのまま高田馬場のイベントに。

 嬉しい誤算。過半数が立見でした。さすが我が親友吉住都議。もうこの場所は使えないということに。しかし壁一面に立ち見ってのは、壮観ですね。座れなかった人たち、ごめんなさい。今度はもっと大きな箱を用意します。

 私が前座で、吉住先生がトリで、駆けつけてくれた赤坂大輔先生が大トリ(笑)。この方、四日に三回会ってます。

 真面目なご紹介では、生島馨子さん。といってもご存知の方は少ないかもしれないのが問題なのですが。生島さんの妹の孝子さんは北朝鮮に拉致された疑いが極めて濃厚ながらも、政府に認定されていない、いわゆる「特定失踪者」になります。七十歳になられる生島さんとしては、とにかく「若い人に聞いてもらいたい」との想いです。それもあってこういう場で是非お話をしていただきたいと思い、来ていただきました。

 この絶望的な状況下、多くの若者が「拉致された日本人の最後の一人を取り返すまで忘れないのだ」と意思表示をするだけで、世の中は必ず動きます!特に、来年の参議院選挙では、「拉致はもう忘れよう。なかったことにしよう」などという政治家を当選させてはならないのです。

 今こそ数は力!微力は無力ではない!関東圏で集まれる人は集まってください!そして、六十八歳の妹さんと生き別れになっている生島さんの想いを聞いてあげてください。この会には毎回来ていただいて、ご挨拶いただく予定です。

 来月は、かの英機大将直系曾孫の東條英利さんです。十二月八日も近いことですし。SNS神社人やカルチャージをはじめ複数の会社を経営される東條さんに、現代日本の若者に語ってもらいます。今月と二回連続三十代後半の講演になります。私は「知識ゼロからの昭和十六年の日本」をやります。なぜ日本は戦争に負けたのか、その原因は改善されたのか、に関して結論を出す前に知っておいた方が良い前提の話をします。

 ということで、詳細は後日お知らせます。乞御期待!


2009年10月26日(月曜日)

他人を褒めることができるから大人

カテゴリー: - kurayama @ 14時28分32秒

 皆様、熱心な書き込み、ありがとうございます。土曜日以来、大変な忙しさでして、明日の準備やら原稿やら校正やらなんやで皆様の御質問にお答えできない状態になっています。申し訳ありませんが、もう少しお待ちください。今、こうして書いているのもたぶん今日中に更新は難しいと思いますので。とはいうものの、仕事が遅くて、あと本を読む速度が遅くなって、自分でイヤになるのですが。「学術書一日一冊」をきっているのは少しまずいかなあ、と反省する今日この頃です。昔から論文を書いているとさすがに読めていないのですが。ただ最近は、思索にふける時間が増えました。本気で天下国家を想うとはこういうことか、と体感しています。頭が痛くなりますね。

 という次第なので、あまり本格的なネタは書けないので、さらに渋滞してしまうのですが、土曜日に思った少しイイ話を。最近は帝国憲法講義の常連さんも書き込んでくれているようで、うれしいのですが。

 他人を褒めるーしかも心を込めてーということに関して。

 私は、大学院生時代までは「倉山も人を褒めることあるんだ」などと言われていたものなのです。まあ、色々とんがっていましたので。学界の、というか、周囲の向上心のない人たちに取り囲まれている状況に対して、ですが。でも、極力辞めるようにしたのです。どうしても言わざるを得ない相手はいますけど、言い出したらキリがないので。

 今の時代、「世の中が駄目だ」など子供でも言えます。「アレが駄目だ、これが駄目だ」っていくらでも言えるのですね。だからこそ、「では何が良いものなのか」「こうすれば未来を切り開ける」といえる人こそが大人なのだ、と思うのです。

 この砦でも、「イイ物」を紹介するようにつとめています。で、土曜日にあったお話を。

 竹田研究会の仲間で、9月24日の記事で紹介させていただいた、赤坂大輔先生と某局プロデューサーKさんに関して。

 Kさん、歴史作家でもあられる赤坂先生の御著書、ちゃんと買って読んで、読みどころをみんなにご紹介されていました。Kさん曰く「きちんと一次史料に基づいて、おもしろい話を伝えている。この本を読んで大河ドラマを見ると、妻夫木聡が極悪人にしか見えない。直江兼続ってあれほどの無差別殺人をした人はいない大陰謀家。勝者が歴史をどれほど歪めるか、という見本のような話。上杉謙信ファンも驚く内容。直江ファン必読の書。」と。さすが、何だか読みたくなったです。こういう風に、切れ味鋭く人の良いところを紹介できる人になりたいですね。今の日本、優れた批評家に恵まれていないと痛感します。

 赤坂大輔『愛・直江兼続の敗北』(新人物往来社。二〇〇九年)

 皆さん、買いましょう!

 で、その赤坂先生に「この前の『歴読』の倉山さんの文章、最後の一段落に必ず余韻がありますねえ。一人ひとりの人物に対する細やかな愛情を感じます。」とお褒めいただきました。自分で読み返してみて、「確かに!」(自画自賛)。自分では気付かないものなので、うれしいものです。

 最後は何だか・・・になりましたが、「この砦、一日二回見てください。必ず良いことがあります。本人が更新するか、誰かが書き込みしてますから。」といった手前、頑張ります。


2009年10月25日(日曜日)

昨日の帝国憲法講義

カテゴリー: - kurayama @ 23時31分33秒

 政治家の方の御参加が多い日でした。また、正論やチャンネル桜で私のことを知って来てくれた大学生の方なども増え、嬉しい限りです。

 ネタ的には、順番を入れ替えて議会の話しをする方がよかったのでしょうが、こういう時こそ「守るべきものは守る」という姿勢を大事にして、最初に決めた内容通りに講義しました。

 国家は生存のために常に闘争を行わなければなりません。それは、「鉄と金と紙」によります。鉄とは軍事力、金とは経済力です。戦争をしたくないならばこそ軍事力を整えなければならない。その為には経済力がいる。これは国家が続く限り変わらぬ原理でしょう。別の言い方をすれば国家は常に戦争を行っているに等しいとも言えるのです。

 では紙とは、文化力や言語力と言うべきでしょう。単に外交力と言うよりも。戦前日本は強い軍事力を持ちながら使い方を誤り、滅亡しました。今の日本は、大きな経済力を持ちながら、そこに溺れて滅びようとしています。今まさに亡国前夜です。

 このような危機的状況だからこそ、誰かが誰もが言えない事を言わねばならないのです。そして誰もが国家の危機を認識しなければならないと信じています。

 例えば、「平和・人権・民主主義などの日本国憲法の三大原則などを信じていない」などと言える政治家はそんなにいないでしょう。まず落選でしょう。

 帝国憲法講義は「政治家や実務家にいえないことを言おう。それが学者の使命である。」と考えてはじめました。

 軍事力や経済力で負けては国家は生存できません。しかし最後に国家の価値を決めるのは文化力です。目の前の物質的な事象に眼を奪われて、考えることを忘れた国家はやはり滅びます。ローマ帝国も大日本帝国もそうでした。

 ただ、ローマ帝国はかけらも残っていませんが、日本国は滅んだ訳ではありません。たかが一度戦争に負けただけです。

 今ここにある危機の認識、それが我々の使命ではないでしょうか。

 来月は、帝国議会をやります。


2009年10月24日(土曜日)

亡国前夜(4)―田中角栄は大政治家か

カテゴリー: - kurayama @ 04時47分48秒

 田中角栄、良くも悪くも戦後日本を作った大政治家であると評されることが多い。本当か?

 大蔵大臣として、高度成長期の日本の舵取りをした。その通りなのだが、それはまずもって池田勇人の功績では?田中が有能に処理したとか、官僚を使いこなしたとか、その辺りは否定しないが、最近よくある「1960〜70年代の高度成長期」「その時代をリードした田中角栄」という言い方をされるが、全部が全部「角栄のおかげ」は言いすぎだろう。むしろ70年代の佐藤内閣はひずみが指摘されたし、その後を引き継いだ田中内閣は狂乱物価で日本経済をどん底に叩き落したのだし。

 自民党幹事長としては最高の人材だったのは間違いない。よく言われる「解散総選挙に勝利して、子分を増やして、総理大臣へ」という道をたどれたの、実はこの人だけである。ただ、それが何なのか、という話になる。単に自民党の議席と自分の派閥を増やしただけでは?

 総理大臣の時、経済政策には完全に失敗している。唯一の功績として教科書に載っているが、一九七二年の日中国交回復(正常化)とか。台湾を切って大陸と手を組んだのが、なぜ偉いのか、今となってはさっぱりわからない。そもそも中国と「国交回復」とか「正常化」とか、そういうものの言い方自体が、北京政府のプロパガンダそのままではないか。日本政府の立場としては、一九五二年日華平和条約によって、中国(中華民国)との外交関係正常化と果たしているのである。田中がやった一九七二年の合意は、「北京政府を中国の政府として認める」であって、国家承認をした訳ではない。中国と自称する国の存在はとっくに日本は認めて居るのであって、その代表である政府の認定を変更しただけである。「国交回復」「国交正常化」という言い方自体が自分の国の過去の行為を抹消するということにいい加減気付かねばならない。

 で、なぜ北京政府と仲良くすることが功績なのか?

 総理を辞めてからの壟断は前述の通り。刑事被告人である自分の都合の為に、解散総選挙をさせてみたり、総理大臣を好きなように取り替えたり、大臣や役所の人事を壟断してみたり。KGBの元工作員の回顧録を見ると、日本がスパイ天国になっていく過程と田中闇将軍の権力増大がこれでもかと符合するのである。なぜこんな簡単なことを誰も指摘しないか。KGBか田中角栄のどちらかにしか興味がない人が多いからであろう。両方に注目していたら一目瞭然なのだが。

 さて、以上の事実を踏まえて論点は二つ。

 一つは、田中の行為が日本国憲法上、違憲にならないのである。それどころか、民主主義として正当化できてしまうのである。常に彼の主張は、自民党総裁選挙や衆参の国会議員選挙で多数の支持を得ているからである。その支持数が絶対的か相対的かの違いがあっただけで。戦前の「憲政の常道」の時代においては、少なくとも元老の西園寺公望は絶対に許さなかったようなことを次々とやっているのである。

 憲法の条文に書いてあることさえ守ればそれで良いのか?合憲か違憲かだけが問題なのか。私は田中角栄が自民党田中派を通じて日本を支配した状態は、非立憲であったと思うが、日本国憲法には田中に制裁を加える力はなかった。

 

 もう一つは、歪められた歴史に騙されてはならない、ということである。

 田中の功績のほとんどすべては、誰かに使ってもらった時にこそ発揮されたものである。彼が頂点に立つと碌な事がないのである。その点で限界はあっただろう。

 少なくとも「日本を豊かにした高度成長期をもたらした政治家」としてはまず池田勇人を挙げるべきであって、田中角栄を池田勇人より上に位置できる理由を私は知らない。

 それでも、「角さんほどの大政治家はいない」との声も絶えない。これこそ本当か?(続く)


2009年10月23日(金曜日)

平成の征韓論?

カテゴリー: - kurayama @ 23時47分42秒

 中井国家公安委員長の動きに注目していた人はいますか。

 この砦を見ている人の中にはゆえあって正体を明かせない人や、色々な方法で色々なことを教えてくれる人が多いのです(本当は「お問い合わせ」フォームに伝えてくれるよりは、匿名でもレスをつけてくれるとありがたいのですが・・・)。今回は北朝鮮拉致問題に関する動きです。別に裏情報とかそういうものではないので、その手の話に興味のある方向きの話ではありません。むしろそこに流れている情報の中で見過ごしてしまいそうなモノに関してです。

 三日前、中井国家公安委員長が横田めぐみさんのご両親にお会いしたそうです。これをTBSだけが報道したようです。・・・(私、この局のニュースをまるで見ていないので、自分で裏をとった訳ではなく申し訳ないのですが。自信がない話でも、書いてくださいという人が居るのと、事の重大性に鑑みてあえて書きます。)

 この事実を聞かされて何を考えるべきかというと、拉致関係の中で横田さんに関して動きがあるのでは、ということです。例えば、北朝鮮がめぐみさんだけを帰してくるとか、それを向こうが日本に打診してきたとか。まあ、存在そのものが不確定情報のような国なので、何をしでかすか予想すること自体に意味がないのですが、ただ「何かがおきそうだ」と考えることは必要です。特に、家族会全体ではなく、横田さん夫妻だけ、とういうのが怪しいのです。少なくとも「中井大臣は何を考えているのか。何を知っているのか」には注視の必要があります。

 さて、推測に推測を重ねた話で恐縮ですが、とことん仮定の話として聞いてください。

 皆さんは、北朝鮮が横田めぐみさんだけを返してきたらどう思いますか?あるいは日本政府が認定し北朝鮮が「死亡」と伝えてきたら人たちのみを返してきたらどう思いますか。

 まず、一人でも多くの被拉致者が帰ってくるならば、素直に喜ばしいです。横田さんのご家族の人たちの心情を思えばそれを否定する人はいないでしょう。

 しかし、「横田さんあるいは日本政府認定者だけを返して幕引き」だけは絶対に許してはならないことです。では文明国ならばどのような対応をしなければならないか。四つあります。

一、現状復帰。=この場合、被拉致者全員と彼の地でできた家族を全員、日本に返すこと。

二、謝罪と賠償。=実は大事なのは賠償よりも謝罪です。あの国に支払い能力はないので。

三、責任者厳罰もしくは引渡し。=彼の国で拉致実行犯のシン・ガンスがいまだに英雄待遇、などあってはならないのです。もっと恥ずかしいのは、我が国の副総理と法相の存在です。

四、再発防止。=拡大解釈をすると、ミサイルを日本に向けたり核保有してはならない、も含みます。

 何が恐いかと言うと、北は「これで幕引き」、民主党政権は「横田さん奪還で政権浮揚。長期政権確立」などとされることです。抽象的には「被拉致者全員奪還」を、その為の具体的な方法としては上記四点の実現が必要なのです。

 日本人が誤魔化されると、世界の笑い者です。

 米国だと、共和党だろうと民主党だろうと同じです。パパでも息子でもブッシュだろうが、夫でも妻でもクリントンだろうが、オバマだろうが、答えは同じです。米国に限らず、民主国だろうが、独裁国だろうが、まともな主権国家なら同じです。

 クリントン夫が現職大統領の時、日本に来日してTBSの番組に出演して、北朝鮮拉致がまだ「疑惑」として扱われていた時に質問されて答えた内容を大学の授業で話しています。この番組をオンタイムで見ていたのですが、TBSのH.P.にはなかったことにされているので、これまた申し訳ないのですが。ただ、あの軟弱クリントンすらこのような原則は知っている、という点で我々日本人への戒めとして載せます。・・・(大体、こんな感じでした、としか言えないですが。)

 

 最後の一人を取り返すまで絶対に諦めてはならない。もし北朝鮮が話し合いで解決しないなら、いかなる手段を使っても、戦争を含めたあらゆる国家の総力を挙げて、取り返すべきである。一歩も譲歩してはならない。もし一人でも生きて祖国の地を踏めなければ、その人が死んだ場所にお墓を立てなければならない。国家は永遠に贖罪し続けなければならない。そしてそのお墓には、なぜその人がその場所で死ななければならなかったのか、墓碑銘に刻まなければならない。

 これ、「戦争をしなさい」といっている訳ではありません。それは先日のクリントン訪朝を見ればわかりますね。

 より直接的な解答をお知りになりたい方は、チャンネル桜での私の発言をお聞きください。まだYouTubeなんかに流れているのではないですかね。むしろ戦争をしないで被拉致者を取り返す方法を語ったつもりです。

 とにかく、明治六年の征韓論でもあったように、まずは国力をつけなければ話にならないのです。経済力だけでなく、軍事力も外交力も、国民全体の文化力も。


2009年10月22日(木曜日)

明治神宮にて禊しました

カテゴリー: - kurayama @ 15時41分57秒

 今朝、6時30分から竹田恒泰先生をはじめ、竹田研究会で明治神宮で禊をしてきました。気持ちが良いものです。結構、色々な方もいらしてました。4時起き2時間睡眠でも全然疲れないです。

 その後、もろもろお話。まだ言う訳にはいかない内容ばかりですけど、明るい話もありましたよ。

 自分達で運命を切り開かねば、という問題意識はみんなで共有しています。あとはどうやって行動するかを考えるだけです。世の中が悪いと呪うのは簡単ですけど、ではどうやって生きるかを考えるのが大人ですから。


亡国前夜(番外)―総裁任期と総理の任期

カテゴリー: - kurayama @ 00時46分11秒

 日本郵政の新社長、斎藤次郎元大蔵次官に決定。鳩山首相は「一度民間人を経験している人だから天下りにはならない」との説明。もう、野党時代に武藤財務次官の日銀総裁就任に反対したこととの整合性は?と疑念を抱かれている。斎藤氏と小沢一郎氏の蜜月は秘密でもなんでもない。細川内閣を二人で壟断した仲なので。今回の人事、これ以上ないほどの党派的人事なのだが、世論がいつまで許すやら。

 まずは、総理大臣の任期と与党総裁の任期に関する質問があったので。

 そもそも日本の総理大臣は短命政権が多い。それは与党総裁の権力が弱いからである。自民党では他の派閥の協力を得ないと総裁選挙に勝てない構造なので、実質的に連立内閣と同じになってしまう。特に田中派や竹下派のように突出した派閥が他の一派閥の領袖を総裁に推せばそれで決まってしまう時代は、総理の力が弱まると言う構造的問題があった。時の総理は支持者である田中角栄や竹下登に逆らえなくなるのである。

 で、この自民党総裁選挙そのものが問題だらけである。お願いだから一字一句規定を変えずに二回連続行って欲しいのである。田中派や竹下派が総裁選挙の規程を優位に運用してきた点も見逃せない。小泉総理誕生の総裁選挙でも現職の森総裁が規定を変更したことが勝因の一つにあげられている。これは憲法上の習律というより、私的団体である政党の自己規律の問題である。

 政党は民主制に重要なのだから、国家に対する責任を意識しなければならない。勝手に総裁選挙の規程を変更してはならない。これも「陛下の与党」「陛下の野党」の義務である。それをどこまで習律や条文など、国法体系に組み込むかは国によるが。今の日本のように政党助成金でだけ繋がっているに等しいと言うのは再考の余地があろう。

 さて、本題に。日本の総理大臣の任期は衆議院と同じになるので、実質的に四年である。議員だけでなく、数百万人のその時の党員も参加できる形式になってからは、「党員に選ばれたのだから、(反主流派の)議員が引き摺り下ろしてはならない」という言説も出始めた。ここまでは理屈としてわかるのだが、前回までに述べた大平内閣や中曽根内閣では、「総裁選挙で選ばれた総理を、衆議院選挙で負けたからと引き摺り下ろしてはならない」という意味不明な言い訳をまかり通らしたのである。あくまで政党は私的団体であり、衆議院選挙は国民全体の審判である。本末転倒、極まれりである。

 大体三年に一回衆議院選挙がある。自民党の総裁選挙は、党則により二年か三年に一回ある。これでは、ほぼ毎年のように総理大臣は選挙をしなければならない。

 戦前や占領期の政党ははっきり言えば談合で決まっていたのだが、一概にそれが悪いとは言えない。英国保守党などは一九六〇年代まで談合で決めており、党首選挙という概念すらなかったのだから。選挙もやり方を間違えれば逆効果になる。少なくとも、失政のない総理大臣を与党総裁の任期が来たから、と引き摺り下ろすような真似はなかった。一方で、福田赳夫総理などはこれで引き摺り下ろされている。

 さて、英国に限らないが、総理大臣在任中は与党総裁の任期を数えないという国は多い。民主党も自民党もこれを導入するのには抵抗があるだろう。特に与党の形勢を見ると現実的ではなかろう。

 むしろ野党になった自民党の方こそこれを導入すべきでは。

 あと、英国の二大政党は、総選挙で負けると「敗戦原因究明委員会」のようなものを作る。自民党はどう考えているのだろうか。


2009年10月21日(水曜日)

国土交通省は安全保障を所管?―北方領土問題での前提

カテゴリー: - kurayama @ 10時23分35秒

 組閣の日から「国土交通大臣は安全保障を所管する」と言及してきたが、いきなりその様相を呈してきた。前原大臣、北方領土を視察し、「ロシアに不法占拠されている」と述べて先方の反発を買い、鈴木宗男衆議院外務委員長から「外交は静かにやるもの。そういうことを言うものではない」と批判された。

 そういうことこそ公の場で言うものではないと思うが、ロシアへの何らかのメッセージのつもりだろうか。

 ここで「ロシアに気を使う鈴木宗男はどこの国の政治家だ?」などと批判が出そうである。私もそう思うが、その前に常識として確認したいことがある。

 第一に、北方領土はどういう経緯で今の状態になったのか。ソ連が一方的に日ソ中立条約を破棄し、敗戦直前の日本を裏切って占領したのである。そしてソ連の継承国であるロシアに引き継がれている。完全な不法行為である。事実認定には争いが起きようが無い。ロシアが言う「係争地域」とは「不法行為によって占拠されて(して)、国境紛争となっている土地」の緩やかな表現である。

 第二に、戦争で奪われた土地を奪い返すにはどうすれば良いのか。「軍事力で取り返すしかない」のが定跡である。沖縄や小笠原こそが例外である。この辺りの論理は、高橋昭一『トルコ・ロシア外交史』(シルクロード、一九八八年)がおもしろい。巻末に、「トルコ人の語る北方領土の取り返し方」が載っている。国会図書館とかでないと手に入らない本だが、「古本屋で見つけたら、絶対買い!」という名著である。そもそも、日本の要求が虫が良いのである。自前で軍事力を蓄えなくていない時点で、ロシア側にやる気を疑われているのである。

 そしてこれは日本外交史家や外交専門家のほとんどの人が勘違いしていることである。

 第三に、外交交渉では「成功」を求めてはいけないことである。つまり、外交とは取引である。交渉が妥結するとは、こちらも何らかの譲歩をすることである。一方的な場合は「恨み」が残るので。だから、個々の会議が必ずしも進展しなくても良い、ということなのであり、個別の会議で何の成果が無くても一概にそれが失敗だったとは言えないのである。アラブ外交を見ているとよくあるのだが、その交渉・会議をぶち壊して何の成果も無かったから「大成功!」ということもあるのである。国家は永遠である。だから目先の交渉でいらぬ譲歩をしてはならないのである。間違っても、「今度の日露会談で進展があるのでは?」などと期待してはいけないし、何の成果がなかったからといってそれだけで政治家や官僚を批判してはならないのである。そもそも上手くいくはずがない交渉なので。外交は焦るとしくじるのである。

 また、かなりの人が忘れていること。

 第四に、ロシアの政権の性格である。まさかメドベージェフ大統領が実権を握っていると信じている人はいるのだろうか。明らかに首相プーチンの独裁である。ではプーチンとは何者か。血生臭い権力闘争を勝ち抜いた秘密警察の支配者であり、力の信奉者である。では力の信奉者の特色とは何か。強きに諂い、弱きを挫くのである。日本とロシアの力関係はどうか。明らかに日本の方が弱い。

 以上から導き出される結論。プーチン健在の間に北方領土が返ってくるなどと言う甘い幻想は捨てよ。大日本帝国ならいざ知らず、今の日本にプーチンを動かせる力があるのか。あるとしたらプーチンにどのような弱みがあるのか。

 世の中には成功の見込みが無くても継続しなければならない努力もあるのである。そのような努力に対して成功を求める方がおかしいのである。

まず日本が強くならなくては話にならない!


2009年10月20日(火曜日)

亡国前夜(3)ー闇将軍と「憲政の常道」

カテゴリー: - kurayama @ 23時58分52秒

 「闇将軍」と言われた田中角栄の絶頂期は昭和五十五年七月の鈴木善幸政権成立から昭和六十年二月に脳梗塞で倒れるまでである。その権力はいかほどのモノであったか。

 数ある有力政治家を差し置いて、なぜ鈴木善幸が首相になれたか。

頭が悪くて無能だったからである。

??? これでは、さすがに意味不明であろう。もう一つ重要な理由がある。田中角栄への忠誠心が誰よりも高かったからである。つまり、頭が悪くて無能でも、田中角栄への忠誠心がある自民党代議士ならば総理大臣になれるかもしれない。むしろ頭が悪くて無能な方が都合が良い。そうなれば田中角栄への忠誠競争をはじめる。その競争に勝って、晴れて次の総理大臣になれたのが中曽根康弘である。おぞましい時代の到来である。

 どれくらい頭が悪かったか。世界中の新聞に「ZENKOU WHO?」の見出しが踊った。総理大臣になる覚悟も準備も全くなかった善幸さん、開口一番「私は財政や外交はわかりません。和の政治を目指します」と、聖徳太子が聞いたら卒倒するようなことを言い出した。総理になって最初の所信表明演説で、原稿用紙一枚分を読み飛ばして一言。「鈴木原稿、一枚減稿!」

 これ、私の作り話であって欲しい、と自分で書いてて思うが、当時のニュースになっていたことなので否定のしようがない。

 この時期の田中角栄、ロッキード事件の被告人で、自民党籍すらない、一無所属議員である。自分の裁判を有利に進める、ただそれだけのために自民党の中に田中派を扶植し、自分に都合が良い総理大臣を据え続けたのである。つまり、日本の統治機構のほとんどは一無所属代議士に支配されたのである。

 この時の自民党は反田中勢力が健在で、しばしば田中の権勢が揺るぎかけた。しかし、方法が悪かった。政争を挑むは良いが、常に「総理は田中の都合が良い人物で良いから、自民党総裁は寄越せ」と条件闘争をするのである。最近の「麻生おろし」でも唱えられた「総総分理論」である。こういう時の田中は決してぶれなかった。決まり文句は一つ。

「総理総裁の分離は、憲政の常道に反する!」と。この一言で、反田中派は沈黙させられるのである。そもそもの要求がお門違いだからである。自民党の総裁選挙で勝てるわけではなし、新党を作って第一党を目指すでもなし、確かに反田中派の行動は「憲政の常道」に反するのである。

 では田中は「憲政の常道」を守ったのか。確かに「憲政の常道」の原理に則ったから田中の主張は通っているのである。選挙で勝ったものがすべて、それが民主主義である。そういう意味で「憲政の常道」は田中の行動を正当化しているようである。

 しかし、「憲政の常道」が想定する総裁総理とは国民に選ばれた政治家である。国民に選ばれた与党第一党総裁だから、総理大臣の権力を行使できるのである。ところが、その総理総裁より強い政治家がいる。一無所属議員に総理大臣が言いなりになる、「憲政の常道」の想定外である。よって、与党の総裁選挙に出馬することなく、総理の首班指名選挙に出ることなく権力を行使する田中の存在そのものが、「憲政の常道」に反するのである。

 「闇将軍」とは、責任をとることなく権力を行使する政治家である。これは「憲政の常道」に反するのである。

 

 以下、他意のない独り言。田中さんの愛弟子である小沢一郎さん、「御輿は軽くてパーが良い」と漏らしたこともあるとか。海部俊樹さんのことであって鳩山由紀夫さんのことではないと祈る。


ソマリアのクイズ大会

カテゴリー: - kurayama @ 22時36分32秒

 最近、日本国内の行く末が気になりすぎて、国際記事への関心が薄れてしまってよくないのだが、こういう記事を見ると、心の底から平和の尊さを痛感したくなる。

http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2653772/4772307
【10月17日 AFP】ソマリア反政府勢力シェバブ(Shebab)が、イスラム教の断食月「ラマダン(Ramadan)」の最中に行った団体戦クイズ大会の優勝者に授与した商品は、豪華客船の旅などではなく、「ジハード(聖戦)」へのチケットだった。
 Abdullahi Alhaq氏は、16日夜の式典で「若者たちに武器が授与されたのは、現在アラーの敵との間に行われている聖戦に参加するよう勇気づけるためだ」と語った。
 このクイズは、ソマリア南部のキスマユ(Kismayo)でシェバブが主催し、ラマダンの1か月の間ラジオで放送した。キスマユ周辺の5地区も参加し、科学や文化、聖典コーラン(Koran)についてのクイズに挑戦した。
 優勝者はFarjano地区のチームで、AK-47自動小銃1丁、手投げ弾2発、対戦車地雷、それに事務用品の優勝賞品を手に入れた。
 式典には住民が大勢あつまり、Abdullahi Alhaq氏が「優勝したチームは、1000ドル(約9万円)相当の武器と事務用品を獲得する」と伝えると、観衆からは歓声や拍手があがった。
 キスマユで働くある男性は、AFPに対し、「知識を競い合った結果として、学生が武器を授与されるようなイベントを体験したのは初めてだったので素晴らしかった」と語った。
 シェバブと地元イスラム勢力の連合は、1年以上前にソマリアの主要港キスマユを制圧。イスラム法(シャリア、Sharia)の厳格な適用を実施して、スポーツやDVD、洋服などを禁止している。
 ちなみに準優勝者には、AK-47と弾薬が贈られた。©AFP

「憲法九条があるから日本は平和なのだ」などと狂信している人を抱える日本人は笑えまい。この人たち平和ボケ日本の対極にいる人たちなのだろうが、冷静なバランスを欠いているには違いないので。

 しかしこの記事、完成度高いなあ。


2009年10月19日(月曜日)

おさらいー「憲政の常道」とは

カテゴリー: - kurayama @ 15時29分17秒

 「憲政の常道」とは、以下の三つの要素から成立します。

一、衆議院第一党の総裁が総理大臣になること。

二、政権交代の前か後には総選挙があり、国民が選択する機会が与えられること。

三、慣例として認められること。

 学術的に定義すると、「二大政党による議院内閣制という憲法習律」となります。どうです、難しいでしょう?これ、言うは難しく、やるのはさらに難しいのです。詳しく説明すると、それこそ1000頁ではきかないので要点のみを。(笑)

 この三つの原則から派生して、色々と難しい話が出るのです。

 一からは、「病気でもない総裁を次々と変えてはいけない」「総理大臣より強い与党実力者がいてはならない。なぜならばその人は権力をふるうだけで責任をとらないから」「第一党がこぞって他の党の党首に投票してはいけない」「総裁でない人を総理大臣にしようなどという陰謀は許さない」とか。

 ニからは、「自党の都合で総裁総理を変えたのならば総選挙で国民に信を問わなければならない」「総選挙ができないのなら簡単に総理を変えてはいけない」「政権担当能力をなくして総辞職するなら、第二党に政権を譲らなくてはならない」とか。

 三からは、「法律の条文に書いてあるかないかだけを言い訳にしてはならない」「結果としても手続としても政治家は民主制を守り国民を納得させなければならない」「政治家には守らねばならない規範がある」とか、ですね。

 三から派生する話に至っては、「政治家にそんなことできるの?」と疑問に思うかもしれません。でもそれは天に唾する行為です。その政治家を選んでいるのは国民なのですから。「民主主義」などを建前にした以上、政治家どころか官僚のやった失敗まで「主権者である国民の皆様の決めたことですから」と言い逃れされてしまいますから。

 もうひとつ大事なことを。英国人はそれができているのです。彼らは数百年かけて(色々計算はありますが、私の計算では早めに見積もって約二百年、遅くて七百年)、それを自らの手で勝ち取ったのです。同様に、大日本帝国も、約六十年でそれを自らの手で勝ち取ったのです。しかも本家の英国よりも早く、彼らに負けないだけの立派なものを。

 どうせ何もできない、何をやっても無駄、勝つ奴と負ける奴は最初から決まっている。そんな子供じみた戯言をしたり顔で吹聴する輩は多い。そういうことを言う人こそ子供である。

 今の日本、駄目なのは子供だってわかっているのである。それを言う言説に何の価値があるのか。

 今の日本、真の大人は、こうすればよくなる!を具体的に提示できる人だと思います。私の仕事は、その為の材料を提供することです。大学の授業のように一方的な受身ではなく、皆様の参加をお待ちしています。


2009年10月18日(日曜日)

亡国前夜(2)ー「憲政の常道」を破った三角大福

カテゴリー: - kurayama @ 21時38分41秒

 鳩山故人献金問題、検察が本気になれば、いくら国民が忘れてもそう遠くない時期に問題となるであろう。「親の鳩山威一郎の代からの慣例でした」が言い訳になると思っているのだろうか。それだけ悪質だと言うことにしかならないのだが。

 いずれにしても、この「亡国前夜」の主題は「政権たらい回しは許さない!」である。追い続けていきたいと思う。

 

 さて、「三角大福」とは、三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫の次々と総理を努めた政界実力者である。あまりに政争が激しく総理の入れ代わりが激しいので、中堅代議士だった竹下登は「歌手一年、総理二年の使い捨て」と揶揄した。三角大福の平均政権担当日数は本当に二年である。問題は、この人たち、揃いも揃って「憲政の常道」を無視しているのである。

 「政権交代したら総選挙に訴える」「与党第一党の総裁のみを総理大臣候補とする」という、戦前の政友会や民政党が守っていた、「憲政の常道」の最低条件すら平気で蹂躙しているのである。

 田中内閣は実は弱体政権である。福田赳夫と争った総裁選の票を見ればわかるのだが、大平・三木に加え、中曽根康弘の支持がなければ負けていたのである。田中本人はそもそも総選挙を先延ばしにしたかったらしいが(それ自体が「憲政の常道」の蹂躙であるのは、池田勇人の項で説明した通り)、社会党・公明党・共産党の野党連合に総選挙に追い込まれるような有様であった。それでも新内閣発足から半年で解散総選挙に打って出ただけまだマシだが。

 次の三木内閣は、弱小派閥からの選出であり、「三木おろし」が年中行事であった。この総理、口を開けば「世論を信じる」などと言いながら、遂に解散を決断できず、現行憲法下で唯一の任期満了解散になっている。自民党は史上初の過半数割れを起こし、その敗北の責任を取って退陣するのだが、野党第一党の社会党は何も言わなかった。誰も当時の社会党に政権担当能力など期待していないので忘れているが、戦前なら与党第一党が政策で失敗したら、野党第一党は政権を要求したのである。濱口雄幸はそうしたし、戦後でも吉田茂は片山内閣退陣に際して同様にしている(この話が最重要なので、詳しくは後日に。)。まじめに政権担当する意思と能力がない野党第一党の存在は民主制にならない。これは今の自民党への批判であり、期待である。

 福田内閣も党務を大平幹事長に握られ、福田派の拡充を嫌う大平や田中角栄に阻まれて、解散したくてもできなかった。別に今の話や、羽田孜総理が小沢一郎新生党代表幹事の反対で解散権を行使できなかった話を思い出せとは言っていませんので。念の為。

 大平はようやく解散をしたのだが、その後の過程があまりにも無残である。総選挙で過半数を割ったにも関わらず、しかも本人は責任を取ってやめたがったのだが、田中角栄の「君に辞められたら俺が困る」という一言で説得された気になって翻意した。挙句に退陣を迫る三木に対して「では自分が辞めて社会党に政権を渡せと言うのか」と開き直っている。開き直る方も問題だが、「そこまで非現実的な話はしていない」と返す三木も三木である。いや、ここまで存在価値がない野党第一党の社会党が問題か。

 そして悪名高い「四十日抗争」が起きる。自民党が首班指名候補者を決定できないのである。この前の「麻生の名前は書きたくない」どころではない。今年は誰もが鳩山総理の実現を現実的には疑っていなかった。この砦で書いた話はあくまで理論上の問題である。しかし、この時は、本当に誰が総理大臣になるかわからなかったのである。総選挙の意味が無くなったのである。そして自民党から大平と福田の二人が首班指名候補に立つという前代未聞の事態が発生してしまうのである。

 「憲政の常道」とは、本当は総選挙による政権交代が望ましい、そうでない交代の場合は事後に総選挙に訴えなければならない、が骨子である。つまり国民が総理大臣を選べることに意味があるのである。これは英国でも戦前日本でも同じである。池田勇人は明らかにこれをわかっていたし、あえて不利な状況でも総選挙で国民に信を問うたのは前回の通り。

 野党第一党の社会党に政権獲得の意思がない、与党の自民党は総選挙よりも党の総裁選挙の決定が優先する。ここに「憲政の常道」は破られたのである。「憲政の常道」を破った政権は安定しない。これが原理である。当たり前である。国民に信を置かない民主性など、いくら憲法典に立派な条文が書いてあっても無意味である。それこそ「外見的民主制」とでも呼べばよい。憲法学者や歴史学者がよく帝国憲法のことを「外見的立憲制」などと呼ぶが、では日本国憲法はどうなのか。共産主義を信奉しているらしい憲法学者や歴史学者は自民党の支持者の訳ではないのだが、それならばそのような自民党政治を許している日本国憲法体制を批判しなければ筋が通らないではないか。

 何が何でも帝国憲法を悪魔化し、日本国憲法の悪口は言いたくないと考えている輩。

 やはりアカですらない、ただのバカだ。

 それはさておき、三角大福の混乱期の原因、戦前二大政党はいかに政争が激しくても守ったような規範すら無視したから混乱したのである。

追記:民主主義と憲政の常道の違い

 日本国憲法に「民主主義」「国民主権」の原理を入れることに、松本烝治憲法担当大臣は最後まで抵抗しました。その理由は「そんな無責任はできにない。国民に怒られる」です。

 現在の日本国憲法の運用においては、「憲法の番人」のはずの最高裁に政府からの人権擁護を訴えていっても、「国民に選ばれた国会の作った法律には合憲の推定が働く」「国家の重大事である統治行為は主権者の意思を尊重すべきであり、最高裁は判断すべきではない」「政府は国会により選ばれているが、最高裁は国家や内閣より国民より距離が遠いのでおいそれと判断はしない。よって政府の裁量は相当広範に認められるべきである」などと、文明国の法常識がある外国人が聞いたら失神しそうな詭弁を押し通しています。これを正当化しているのが芦部憲法学ですが。

 やたら複雑な言い回しの東大憲法学や最高裁の判例を大根切りに解説しているので細かいところは省きますが、要は今の憲法体制では、

「政府や国会のやったことは全て国民の責任」

というのが民主主義の意味なのです。松本大臣の懸念は見事に的中しました。例えば、現に裁判員制度が導入された時の最高裁事務総局の言い訳が「主権者に選ばれた国会で決まった事ですから」でした。こんな例、探せばほぼ無限に出てきます。例えば最高裁の判例集とかオンパレードですから。

 すべての立法を個々の国民が行おうとしたら直接民主制しかありませんが、それは物理的に不可能です。だからこそ、選挙区の議員は自らの手で選ぶ、が選挙に意味を持たせる最低要件です。少なくとも「この人は、公約の全部を実現できなくても、不誠実な約束を破り方をしない人格の持ち主だ」と判断する機会が与えられます。この辺りの詳しい話はE・バークが詳しいです。

 その最低限、しかも今の日本では当選して最初の国会で行う政治活動が首班指名選挙の投票、すなわち総理大臣を選ぶことです。その総理大臣の選挙で自分の選んだ代議士が誰に投票するかわからない、これでは民主制などありえないのです。

 これに対して「憲政の常道」は国民主権を必ずしも前提としません。議会における国王主権の英国にも、天皇の統治権を臣民が代行する戦前の日本にも、国民主権原理はありません。これはどうなるか。責任は政府の当局者にだけあるのです。「国民に選ばれましたから」「主権者である国民様が決めたことに従っただけですから」などとの言い訳は通用しないのです。むしろ、世論は「陛下の政府」「陛下の野党」の行動を監視する役割です。これをA・V・ダイシーは「民主制における世論は、国際法に対する軍事力のようなもの」と称しています。軍事力によって国際法が守られるように、世論の圧力によって民主制が守られる、これが英国憲法の考え方です。

 実はこの原理、帝国憲法では最後まで守られています。最後に確認できるのが東條内閣です。東條内閣の権力基盤、実は衆議院を手なずけていることなのです。悪名高い翼賛選挙で当選させたはずの衆議院が造反しようとした時に慌てて内閣改造による政権浮揚、などをはじめます。これが命取りになるのですが、「衆議院に不信任された内閣は解散か総辞職をしなければならない」との習律はこの時にも生きているからこその騒動なのです。

 翻って、三角大福以降の時代は。。。実は、日本国憲法体制においては、池田勇人だけが守った、と言った方が正しいのかもしれないのです。

 


色々お答え

カテゴリー: - kurayama @ 20時23分15秒

 別にスルーしていた訳ではないのですが、あまりにもネタの渋滞がひどいので、即答できないものも多くありましたので、答えられる範囲で簡潔にお答えしていきたいと思います。

10月14日 どうすれば、拉致加害者釈放に加担した大臣のことを国民が知ることができるか?

 あらゆる場所で人に伝え続けることでしょう。私はそうしています。今の時代、ネットという便利な道具ができましたから、昔だったら単なる噂話で終わることを世界中に発信できます。どのようにすれば効果的かを考えるのも必要ですが、とにかく手当たり次第触れ回ることでだんだんと合理的な方法がわかってくるでしょう。行動しないで頭の中で考えているだけで合理的な方法を思いつくなどということはありえないです。知り合いに政治家やジャーナリストが居る方は「知っていますか?」と問いかけるのも手ですね。

10月14日 スパイに加担した政治家や売国奴

 普通の国では政治生命の終わりですね。官僚も。「今の日本の政治家の中に一人も外国の言いなりになるような人はいない」などという前提でモノを考えるのは不合理でしょうね。だからといって証拠もないのに言う訳にはいかないですが。私も名指しはしていませんが、「この人たぶんなあ」との前提でその言動を批評している人はいますので、注意深く読んでください。聞かれても答えませんけど。

 ちなみに、「この人、確信犯なの?それともただの無自覚な利的行為なの?」の区別がつかない人もいるので、厳密にはわからないのです。例えば、内田康哉など「頼むから外国のスパイであってくれ。その方がまだ救いがあるから」などと願いたくなるくらいなのですが、たぶんタダのバカでしょうね。やってることは売国奴(頭が良くないとなれない)というより亡国奴(誰でもなれる)ですけど。こんな人物をよりによって三回も外務大臣にした日本の構造こそが戦争に負けた原因であり、今もその構造は続いていると思っています。これ、15日の藤沢さんとdodoさんのお話への答でもあります。

 『ヴェノナ』は、ゆっくり読みたいです。

10月16日 戦前の軍事大権

 前回の「帝国憲法講義」でこの話をしてきたところでして(笑)。正確に言うと「時の政権の私兵」ならまだ救いがあったのですが、「時の課長補佐辺りの作文が暴走して・・・」という、風越信吾の理想郷がそこにあったから問題なのです。まさに私の専門だった濱口内閣の話が随所に出てきて、しかも新田さんに至っては『正論』で私がした話まで出していただいて(笑)。

 一つだけ言えるのは、「軍部が独走して政府を無視して・・・」という教科書の記述はまったくに近く嘘である、ということです。あんまり細かく言うと、「帝国憲法講義」に差し支えるので(笑)。現在の問題ですと、自衛隊のクーデターなどありえないですね。(キッパリ)

10月16日 主権と神聖不可侵

 新田さんのキモは、「憲法典」が死んだ時、との記述でしょう。「憲法」とは日本国の歴史文化伝統そのものであり、「憲法典」とはその中であえて条文化した部分です。

 「憲法典」が死んだとは、正確には帝国憲法三一条(非常大権)を使えない状況ですね。ただ、上諭や一条で確認されている、「天皇の統治権=憲法そのもの」は日本が日本である限り否定できません。これは「憲法は死なない」ということでもあります。歴史の成文化である一条が死ぬことがあるかどうか、は議論の余地があるでしょう。終戦の御聖断も特定の条文を根拠にした訳ではなく、日本人なら誰もが当然の前提とした(先に定義した)天皇の統治権の発動として行われました。

 では日本国憲法の制定によって帝国憲法第一条で確認された日本国の歴史=憲法は死んだのかどうか。これは「国体論争」と言われ、激しい論争が各界でありました。宮沢憲法学は「帝国憲法一条に代表される日本固有の憲法は死んだ。生まれ変わった別の国なのだ」と述べています。これを八月革命説と言います。宮沢の政治力だけで通説になっていますが、八月革命説と言うより国体論争は再考した方が良いかも知れません。

 今、我々が生きている日本が本物の日本なのか。歴史的に連続した日本なのか。それとも断絶した日本なのか。事実特定における議論と評価としての善悪の議論、また難しい議論ですね。

10月17日 参議院

 また「帝国憲法講義」に差し支える話を(笑)。これは十一月にやります。今の政局論で言えば、参議院は「上院」ですね。だから福島瑞穂の増長に小沢一郎は耐え忍び、輿石東参議院会長(日教組)と高嶋良充参議院幹事長(自治労)との連携を強化しているのです。最近よく小沢信者の希望的観測として流れる「参議院選挙後に福島瑞穂を切り捨てて〜」の議論の意味はそういうことです。それ以外の解釈があれば教えてください。

 少なくとも、参議院選挙後に小沢一郎が「自衛隊32万人(=軽武装)実現」「ストライクイーグル級爆撃機20機以上の築城基地への配備」「(小型でも良いから)空母を保持」「陸上自衛隊若しくはその他地上軍による(警察では駄目)による全国原発・主要港湾・主要道路の対北朝鮮テロ警備の完成」「最高裁に干渉されない軍法会議軍律会議の設置と同様の軍刑法の立法」「有事法制をはじめとするあらゆる自衛隊法の許可事項列挙型から禁止事項列挙型への書き換え」「陸海空自衛隊の電子機器現代化の為の予算措置」「全自衛官に米国軍楽隊並みの射撃訓練の義務付け」「防衛大学校での出世の基準を対抗演習(もちろん真剣勝負)での優秀者とする」・・・などをやると思えますか。本当はまだまだあるのですが、どれか一つでもできていないと国防の不備としか言いようがないのですが。せめて以上全部やってくれると言う保障があるなら、私は小沢さんなり鳩山さんなり民主党政権を信じますが。以上、読者諸兄ではなく、世間に対してのモノ言いです。

 憲法論で一つだけ言えば、貴族院は枢密院に、参議院は内閣法制局に本来の権限を奪われた格好になっています。それでいて政局では今の参議院は途方もない拒否権を行使しているから問題なのですが。私は本来は「必要論」ですが、今のままだと「不要論」「有害論」に与せざるを得ないです。

 以上、全然簡潔になりませんでしたね。


2009年10月17日(土曜日)

亡国前夜(1)ー「憲政の常道」を守った池田勇人

カテゴリー: - kurayama @ 02時11分13秒

 読者の方々はどう思われるであろうか。この砦で毎日のように強調しているように、来年の参議院選挙が日本の運命を決する本番である。民主党政権が参議院選挙の直前に不利だった場合、別の総理を看板にして参議院選挙を戦うのは許されるだろうか。散々、自民党がやって国民に呆れられた挙句に見捨てられた行為であるが。それを民主党に許すべきかどうか。

 

 民主党の動きがおかしい。鳩山首相の指導力の欠如、目も当てられない。「官僚政治改革」など夢のまた夢、というような状態ができあがりつつある。もしこのまま鳩山首相の政権運営が失敗した時、まさか「参議院選挙がすべて」などと考えて、鳩山首相に代わる選挙向け総理を据えようなどと考えてはいないか。それならば衆議院との同日選挙をしなければならない。それが「憲政の常道」である。政権発足したばかりでそれは早すぎるのではと思われるかもしれないが、単に自民党が弱すぎるので助かっているだけである。

 私は予言する。民主党が「憲政の常道」を守るなら日本国民に幸福をもたらす。さもなければ、混乱だけが訪れる。これは歴史を勉強すれば明らかである。

「憲政の常道」の重大な要件は、選挙によらない政権交代があってはならないことである。つまり政権たらい回しをさせないことが「憲政の常道」である。

 小泉以後、安倍・福田・麻生と、自民党内閣が交代したにもかかわらず、一度も衆議院の総選挙で国民の信に訴えなかったのは記憶に新しい。少なくとも政権交代したら、その内閣は衆議院を解散すべき、それが「憲政の常道」である。もちろん、簡単に内閣を変えてはならない、という前提がある。簡単に内閣が変わるのだからそんなに総選挙をしていられない、というのは倒錯した議論である。それは「現状主義者」の戯言であって、「現実主義」とは無縁の議論である。

 自民党の総選挙によらない政権交代を批判して民主党は今の地位にあるのだから、よもや同じ事をする気はないだろう。それでは民主党が批判した古い自民党と同じである。もっとも今の自民党が昔の社会党と同じなので、「野党が弱いから一党優位が続く」などとなっては国民は悲惨である。少なくとも民主制からは程遠い。

 では古き歴史をたずぬれば、自民党にも「憲政の常道」を守った政治家がいたのである。それが池田勇人である。

 昭和三十五年、革命前夜を思わせる騒乱の中、岸信介内閣は退陣した。社会党も分裂して民主社会党(後の民社党)が結成され、政権担当可能な野党の結成に期待が高まっていた。

 このような中で、自民党の総裁選挙に勝利し、総理大臣の地位に就いたのが池田である。この時の自民党は衆議院定数四百六十七議席中の二百八十七議席と絶対多数を握っており、前の解散から二年しかたっていない。別に解散に訴える必要はない。むしろ黙って二年間をすごそうと考えるのが定跡であろう。現に側近らもそのように考え、翻意を迫った。それに対して池田は答えて一言、「朝、仙人が来てそう言った」と。

 岸首相の誘いに乗り主流派入りした時、総裁選挙に出馬した時、そしてこの時と、重大な政治決断をする時の池田の決め台詞である。客観的には不利である。少なくとも51%以上の勝率など保障できない状況である。そのような場合、理屈で説明しても無駄である。凡人には「見」えないが、政治家には「観」える風景がある。池田の場合、それがすべて当っているのである。ただ説明しようがないだけである。このような政治家の資質をマックス・ウェーバーは「情熱」と呼んだ。困難を切り開く勇気、世界を動かす力量、と呼んでもよい。結果、自民党は九議席を増やし、圧倒的多数を維持した。そして池田政権は長期政権となった。

 今の視点から見れば説明できる点は色々ある。ただ、これを「憲政の常道」という視点からの説明は知らない。あえて不利な状況で勇気を持って決断し、「憲政の常道」を守った。「憲政の常道」は守った政治家や政党にも利益をもたらすのである。

※なぜ「憲政の常道」を守ると政治家や政党の党利党略にもかなうのか、一見して不思議な作用のようだが、英国憲法を勉強すればわかる。A・V・ダイシーは、この原理を1000頁くらいかけて説明している。もちろん、一冊の本では済まない。手品の種のようなものだが、長いので省略。経済学が「適度に個人の欲を満たすようにすれば市場経済は上手くいく。」と説いているのと同じようなもの、と思っていただきたい。「適度に」がツボである。

 我々日本人は「憲政の常道」を守った池田勇人という政治家をもう少し誇っても良いのではないか。それは、我々日本人が欧米人に押し付けられるまでもなく、彼らにとやかく言われない民主制である「憲政の常道」を自分達の努力で勝ち取った点への誇りである。もう、「戦争に負けてアメリカ人に教えてもらうまで民主主義を知らなかった。マッカーサーが言うように、精神年齢は十二歳なのは尤もだ」などという嘘の歴史を信じるのはやめようではないか。

 池田勇人はあらゆる面で戦後最高の宰相である。特に「憲政の常道」を守った!この意義は今こそ問い直すべきである!

※根拠は、7月7日記事の「以下は専門的知識の前提がないと、やや難解な話を。」より後の、追記1と追記2に関連する部分をお読みください。それでもまだ一部である。

 さて再び問いかけ。イタリアでは上下両院の選挙は同時に行わる。日本でもこのような制度を導入しよう、との意見は多い。私は今の憲法で参議院の制度をいじれないのであれば、必ず衆参同日選挙を行う慣例を蓄積すべきであると思う。

 とにかく、政権たらい回しをするくらいなら下野して自民党に政権を譲る。鳩山首相はそれくらいの覚悟で政権運営をすべきであろう。その覚悟があるならば私も応援するし、何より「憲政の常道」が守ってくれるのである。


2009年10月16日(金曜日)

天皇に主権があったのか

カテゴリー: - kurayama @ 17時24分57秒

 今の教科書にはよく、「戦前は天皇主権、戦後は国民主権」と書いてあります。これは「戦前は天皇のような独裁者がいて暗黒の社会だった。それが今の憲法によって明るい民主主義の世の中になった」との意味です。この意味での「天皇主権」「主権は天皇にあった」は事実としても法理としても完全な間違いです。

 これとよく混同されるのですが、確かに戦前にも「主権は天皇にあるか否か」という大論争がありました。

 主権は天皇にある派=穂積八束&上杉慎吉の正統学派、吉野作造。著作をよく読めば清水澄。

 主権は天皇にない派=美濃部達吉。著作をよく読めば佐々木惣一。(主権は国家に?)

 この論争、美濃部の圧勝です。結局、主権を「現実の統治権は誰にあるか」に限定した定義に絞ったのが勝因です。現実に天皇は独裁者でも何でもない以上、穂積や上杉が権力のあり方を持ち出した以上、「では天皇は独裁者か」と美濃部に反論されて何も答えられなくなるのです。

 さすがに清水は「国民の権利は天皇によって保障される。だから天皇から統治の正当性を与えられている政府は国家(もちろん国民を含む)を守る義務がある」との論理構成です。当時の官僚は「そういう建前ですね」と理解したようですが。清水が天皇主権説かどうかを言い切るのは難しいのです。少なくとも粗雑な穂積・上杉とはまるで違います。

 吉野は「主権の問題などという学者の議論は現実政治には関係ない。国民を混乱させるだけである」と自分で言い切っていますので、本気で精緻な理論を組み立てた美濃部の方が、この議論では正しいでしょう。吉野の「天皇に主権がある(で構わない)」は政治運動のための用法であって、厳密な学術論争の定義ではないです。本人がそう言っているのだから間違いあリません。

 吉野が何を言おうとしているかと言うと、そもそも欧州において国王の絶対主義を正当化するために発明された「主権」概念を日本で論じる意味があるのか、とのことです。

 国家はいかなる外国とも対等である、国際宗教の下位に立たない、それが主権国家である、という意味での主権において争いはありません。その主権を保持し行使するのが教会でも貴族でもなく、国王ただ一人である、との理論を発明したのがジャン・ボダンです。フランスのアンリ四世はその通りに進めていき、宰相リシュリューやマザランの時代にはかなり実現しました。しかし、絶対王権もまた問題がありすぎたので、革命に至ります。国内的な主権者とは「何をしても良い、主(ゴッド)の代行者」の意味ですから。そもそも日本の国体とはあまりにも違います。

 帝国憲法のどこにも「主権」などという用語は出てきません。伊藤博文は「主権」概念がどのようなものか知っていたのです。だから採用しなかったのです。別に「天皇主権」などと言わなくても、「統治権は天皇にある」と書けば事足りるのですから。それを欧州かぶれの穂積が「日本の主権者は天皇だ」などと教科書に書いて国民が信じるようになったので、吉野は「そこを一々説明しても議論の実質がない」と述べた訳です。

 宮沢俊義は「戦前は天皇主権だった」と歴史を捏造しました。少なくとも戦前の宮沢は美濃部の弟子だったのですが、戦後の言説を見ると考えていることは穂積・上杉と同じです。

「日本にも、全国民の生殺与奪の権を握る主権者がいる。それは天皇である。現実にその主権を行使すのは官僚であり、東大法学部を出たことがその資格である。」という論理構造においてまったく同じなのです。宮沢憲法学は次のように述べます。

「人権とは、憲法の前にあり上にある。」

 戦前の「天皇」を「人権」に置き換えただけです。そしてこれが肝心なことですが、自分で言い出したことを守る気もないところまでまったく同じです。単に「戦前の天皇は恐いもの。戦後の人権はすばらしいもの」との印象を振りまくことが大事なだけですから。

 天皇主権説の危険がわかっている美濃部は「神聖不可侵である陛下を危険にさらす」と排撃し、穂積・上杉師弟を完膚なきまでに論破しました。ところが弟子(のフリをしていた、が正確でしょうか)の宮沢によって、見事なまでに国民の恨みは天皇に向けられました。

 戦後六十年間、教科書に戦前の日本では「天皇に主権があった」と書かれ続けています。そして、「では悲惨な敗戦は天皇の責任ではないのか」との疑問を抱かせるように誘導されています。宮沢の理論構成はよく読めば杜撰なのですが、それだけにプロパガンダとしてはとてつもなく成功していると言えるのです。

 そして今。「天皇って何のためにいるの?皇室って別になくて良いのでは?」と考える若者が増えています。少なくともこの疑問に答えられる大人がどれくらいいるでしょうか。

 私の活動は、「宮沢俊義の呪い」との戦いなのだと認識しています。これは勝ち目があるとか、なさそうだからやめるとか、そういう問題ではありません。最近は「とにかく負けるのはイヤ」という若者が多いようですけど。そういう人にこそ言いたい。

 明日地球が滅びると知って林檎の木を植えるのは愚かなことですか。人間の努力とはそういうものではないでしょう。大事なもののために戦って傷ついても、それは負けではないのです。そう思えば恐れるものは何もないのではないですか。

 私は、このままでは日本の終わりが迫り来ているわかったからこそ、自分の手で運命を切り開くのだと決意しました。


2009年10月15日(木曜日)

満員御礼及びお知らせ

カテゴリー: - kurayama @ 22時48分10秒

 本日の倫理法人会「経営者モーニングセミナー」、超満員でした。朝早くからお越しくださり、熱心にお聞きいただいた皆様、ありがとうございます。今後ともお気軽にお呼びください。朝6時入りの10分前にもう行列ができていたのにはびっくりしました。日本社会を何とかしたい、その為には勉強せねば、という意識の高さに感動しました。あまりの人数に名刺が足りず、申し訳ありませんでした。

 さて、題名こそ「そもそも憲法とは何か」で、「日本国憲法の条文だけが憲法ではない」という主張は変わらないのですが、ではどういう風な切り口でいくか、憲法がいかに我々の生活と関係があるか、という個々の論点に関して、毎回全く違うかのような話になっています。

 今回ですと、

なぜ小沢一郎は内閣法制局を敵視するのか?単に司法試験コンプレックスで説明できるのか?

そもそも内閣法制局とはどういう人たちなのか?

民主党の官僚政治批判における、財務省の位置付けは?歴史的背景から。

憲法九条を改正すれば核武装も拉致問題の解決もできるのか?

 などについてお話しました。町田経済同友会会長をはじめとした地元経済界の重鎮の方々や年齢の若い方々など、皆さん熱心で、こちらも調子よくお話できました。

 多くの方々が、「日本を良くしたい。その為に何とかしたい。」と思っているようです。同じような声は各地で聞きます。そこで、下記のような催し物を、わたくしの「帝国憲法講義」を主催していただいているQOLではじめます。私も前座でしゃべります。宜しくお越しください。

 

日本の経営を改善する青年の会(仮称)

日時:10月27日(火)18時30分〜20時 その後懇親会。

場所:東京都新宿区高田馬場4-4-13 NSMビル3階会議室

※定員三十名の部屋です。お早めにお申し込みください。

内容:吉住健一東京都議会議員「自由な議論と青年〜東京から日本を救う〜(仮)」

   倉山満国士舘大学講師「知識ゼロからの憲法九条」

※いずれも質疑応答を中心にする講演と講座です。

会費:社会人一口1000円、学生一口500円

※今後、続々と著名人による講演を予定しています。


2009年10月14日(水曜日)

日本国憲法第五十条の欠陥

カテゴリー: - kurayama @ 01時21分29秒

 まずは日本国憲法の第五十条【議員の不逮捕特権】をお読みいただきたい。

「両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。」

 文中の法律とは、国会法第三十三条を指す。

「各議院の議員は、院外における現行犯罪の場合を除いては、会期中その院の許諾がなければ逮捕されない。」

 大学の授業では、「議員の不逮捕特権とは英国の王様が反対派の議員を次々と逮捕して議会に干渉した歴史に由来し・・・」などと教えている。文字だけ見ても、あるいは国会法とあわせてみても、一見特に不備がある条文とは思えまい。

 

 では、帝国憲法第五十三条を以下に。

「両議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患ニ関ル罪ヲ除ク外会期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕サルゝコトナシ」

 違いは一目瞭然である。「内乱外患ニ関スル罪」が現行犯とは別に設けられているのである。伊藤博文の解説書である『憲法義解』は「議員には特権があるが、現行犯や内乱外患にはその特権は当然剥奪される。非現行犯と普通の罪犯は議院に通牒してから逮捕、現行犯と内乱外患に関しては逮捕してから通牒すべき」とある。

 つまり帝国憲法は、売国奴が国会議員を務めることを許していないのである。逆に日本国憲法は許しているのである。故に現行憲法五十条は欠陥があると断言する。少なくとも、「内乱外患」を削除した合理的な説明を管見では知らない。

 では条文の不備を補う方法はあるか。慣例の蓄積による策はある。例えば、日本人を拉致した実行犯が大韓民国の監獄に収容されている時に署名運動を起こし、遂には釈放に至らしめた上に、「政治犯かと勘違いした」「どうして署名したか覚えていない」などと結果責任を無視する発言をするような国会議員は大臣にすべきではない。こういうことを言うと、特定の副総理や法務大臣を批判しているのか、と言われるだろうが、その通りである。これは暴論であろうか。

 かつて、ロッキード事件で有罪判決を受けた佐藤孝行代議士は総務庁長官(国務大臣)に入閣するや世論の批判で辞任に追い込まれ、橋本内閣の支持率は激減して政権は一気にレイムダックへと突き進んだ事例がある。航空機会社から賄賂を受け取るのと、拉致実行犯を本国に帰国させて、あまつさえ人民英雄として切手にもなるような状況を生じせしめるのに加担した行為と、どちらが売国的行為か。

 さすがに、菅直人や千葉景子を逮捕せよとは言わない。法律論としては無理がある。しかし、政治論ととして、二人の入閣を認めるのは如何なものか。橋本内閣佐藤大臣と比較して、「日本国民は何を考えているのか」と世界に恥をさらすことにならないか。

 なぜこれを誰も問題にしないのだろうか。

 少なくとも、菅と千葉の両大臣、帝国憲法下においては許されません。


2009年10月13日(火曜日)

佐々木博士曰く「国民が皇室を見捨てたら・・・」

カテゴリー: - kurayama @ 23時56分58秒

 皆様、熱くそして高水準な議論ありがとうございます。この砦が幕末の適塾のように高い知的水準の議論で、社会を動かせるようになればなあ、などと思っています。(まだ「笑」ですけど、「真剣」です)

 通りすがりの2号さん、はじめまして。応援ありがとうございます。アカにもバカにもひどいめに遭わされ続けました。皆様のご声援だけが頼りです。これからもよろしくお願いします。

 さて、まずはご質問に関して。

一、日本国憲法における主権

 これは前文と一条に書いてある通り、日本国憲法における事実としては国民にあるでしょう。東大憲法学が四十一条に対してやったように、

「そんな条文はなかったことにする」

という、もはや学問ではない解釈をすれば話は別ですが。日本国憲法を認めた上では無理でしょう。特定の条文だけを解釈だけで無効にするよりは、まだ日本国憲法そのものの無効を考える方が筋は通ります。(それをやるべきかどうか、無効論が正しいかどうかは別として、比較の問題です。)

 あ、間違えました。人権尊重規定、全部なかったことにされていました。

 恐るべし東大憲法学。何を根拠に。。。って、これは長いので省略。

 

二、選挙では皇室の否定はできない?

 恐いことに、できます。これは国会に女系容認の皇室典範が提出されることを想像してください。少なくとも外見だけ同じで違う形のものにはできます。ということは。。。

 

三、政府と国家の違い(歴史の話)

 歴史学では大昔、「鎌倉幕府は国家か政府か」という論争がありました。別に鎌倉幕府は独立国でもなんでもないので、「政府」派の完勝でした。この頃の日本中世史家はまともでしたから。より正確に言うと、「政府」というよりも「統治機構」の方が正しいでしょうね。別に朝廷から独立していた訳でも何でもないので。当時は治天の君を頂点とする日本国があって、律令体制の中で実質的に機能する統治機構として鎌倉幕府があった訳ですから。

 細かい話ですけど、1573年に織田信長が室町幕府を滅ぼしたという記述は誤りです。その後も存続しています。私は「十何回目の滅亡」と呼んでますが、あの状態から復活するから、足利はすごいのです。

 あと、江戸幕府と明治政府が連続していないかと言うと、そこは議論の余地があるでしょう。外交史料館には幕府からの外交関係の引継ぎをしています。しっかり政府承継をしているので、「滅亡」という表現が適当かどうかを疑ったほうが良いかもしれません。こういう議論、日本近代史学では蛇蝎の如く嫌われますが。

 

四、政体と国体の違い(帝国憲法の議論)

 これは言い出すと、少なくとも一つの論文になるのでご容赦を、といきたいのですが、前回の続きの形で、ここからが本題です。

 美濃部達吉博士の東大学派や政府見解(※清水澄宮内省御用係)は改正限界説でした。特に、コミンテルン日本支部こと日本共産党の結成により、日本史上はじめて「天皇家を滅ぼす!」と明確な意思を持った日本人集団が現れてしまった訳ですから、「天皇を中心とした日本の国体を変更する憲法改正は可能である」とは言えなくなるのです。ただし、これは政策の都合として「してはいけない」と言い張っているだけで、法理論上の根拠は?と言われると明確に示せないのです。

※清水博士は、学者としての見識と政府見解での意見が必ずしも一致しないので、細かいところはこれからの研究課題です。

 それに対して佐々木惣一博士の京都学派は「いかなる改正にも限界はない」との法理論でした。ここで憲法史に詳しい方は疑問に思われるかもしれません。「佐々木博士は美濃部博士や清水博士と同様に陛下に対する忠誠心のお強い方だったのでは?」と。

 それは私も否定しません。ではどういうことか。

 佐々木博士はあくまで法理論として限界はない、とのお考えでした。もちろん、天皇個人のいっときのお考えで歴史と伝統を否定することはできない、との立場は明確です。そもそも帝国憲法からして、明治大帝が皇祖皇宗にお誓いになる形式で定められたのですから。どこぞのシアヌーク国王のように勝手に共産主義国の首領を名乗るなど、日本では許されないのです。(かの国でも元に戻しましたが)

 しかし、佐々木博士は日本の皇室の伝統を、陛下は国民を「大御宝(おおみたから)」「赤子(せきし)」として大事にし、国民もまた陛下をお守りする、これが日本の自然にあった国体であるとしました。佐々木博士は知りえなかった話ですが、昭和天皇なども「皇室は国民とともにあった。国民を信じる」とのお言葉を敗戦の危機の際に何度も漏らしています。

 その国民が「もはや皇室はいらない」と言い出した時に、それを法理論などでは物理的に止められないし、止める法理も存在しない、と断言されました。ここまでは法律解釈の話です。

 ところが、続きがあります。佐々木博士は法律論(である論)とはまた別に政治論(べき論)も唱えています。

 国民が皇室を見捨てた時、日本は日本ではなくなる!

と。

 新旧憲法の議論において改正の限界を認めるかどうかに関しての現在の私は、宮沢憲法学が勝手に決めた「平和主義・国民主権・人権尊重」などは改正の限界でも何でもない、と考えています。その根拠は長いので、今月第四土曜日の帝国憲法講義でやります。

 では皇室の問題はどうか。現在の時局認識でしか言えませんが、危機にあります。これは何度も繰り返した通りです。

 一人でも多くの国民が「皇室に手をかけるな!」と声をあげるべきでしょう。

 国民が守らない限り、皇室は政府の特定の官僚やその走狗の政治家たちによって壟断されます。

 

 あー、ますますネタが渋滞する。嬉しい悲鳴です。


2009年10月12日(月曜日)

治安維持法など生ぬるい?―「改正の限界」があるならば

カテゴリー: - kurayama @ 13時32分00秒

 仙台さんのご質問にお答えする形になります。同時にdodoさんへのお答えにもなっていると思います。それこそ尽きることがない深い質問であり、憲法学が現実の生活に直結する大変な問題だと認識させられます。

 本当の憲法学は、自分が、国家が生存するためにはどうすれば良いのか、を考える法哲学ですから。

 まず英国の場合、「主権という概念が正しいならば、主権は議会にある。議会が王制の廃止や国王の処刑を決定したら、その執行書に国王は署名しなければならない」などと言われます。

 ただし、英国には不文の憲法である憲法習律(法体系に組み込まれた慣例)があります。王制の廃止や国王の処刑などを議会が法律で決行すれば、それは英国革命以前の状態に逆戻りします。その覚悟があるならばやって良いですよ(実際には無理ですよね)、という考え方で英国憲法体系は成り立っています。

 ここで大陸法の立場からのよくある批判。主権は絶対無制限のはず、なぜ習律なるもので縛れるのか?矛盾である。

 英国憲法学者答えて曰く。「どうでも良い!憲法は国家のためにある。」と。

 実際には、王制の廃止や国王の処刑はできないことになっています。憲法は人権のためにある、国家など本当は嫌い、政府が守ってくれればそれで良い、などと考えている東大憲法学には思いもよらないでしょう。

 

 さて、本題。我が国の日本国憲法には「改正の限界」なるものがあるそうです。「平和主義・国民主権・人権尊重」はいかなる憲法改正においても変えてはならないのだそうです。俗に三大原則と言われます。誰が決めたか?宮沢俊義東大教授が勝手に決めました。

 改正の限界に天皇は入っていません。「天皇制の廃止は、していけないことではない」と宮沢が勝手に決めました。その後、憲法学者と称する信者達が宗教として広めただけです。今や教科書や試験を通じて支配的価値観になっています。でも何の根拠もありません。むしろ、「改正の限界」を強調する東大憲法学によれば、これは明らかな矛盾です。

 仙台さんが指摘されたように、「皇室制度を廃止する改憲」に対して天皇には拒否権がないとおかしいですし、三大原則以上の絶対の原則でなければならないはずです。

 こういうことを言うと「天皇に対する批判を許さないなど、戦前の治安維持法と同じだ。」などと言われるのですが、英国の場合は見ての通りです。フランス憲法は「共和制を否定する改憲は許さない」と明記しています。ドイツはナチスと共産党を非合法化していることを「戦う民主主義」などと誇っています。米国では共和制に対する忠誠、具体的には国旗国歌に対して忠誠を示さないと刑務所に入れられます。

 実は治安維持法の内容など、今の世界の文明国の憲法法律には明記されているのです。

 ちなみに日本の憲法学者の多数はいまだに「人民には革命を起こす権利がある。」などと考えています。中には「明治憲法にも革命権的考え方があった。だから後進的だと言うのはおかしい。」などと述べる方もいます。ここまで頓珍漢だと、もはやどこから批判すれば良いのかわからないのですが。

 国民があるべき国家の姿を考えねばならないでしょう。今からはじめないと、あと少しで手遅れになります。

 現実的政策論の話です。女系容認の皇室典範改定が通ったら、天皇が御名を拒否し、衆議院に解散を命じることは可能であると思います。鳩山首相が聞くか聞かないかの話だけで。少なくとも警告権の発動は立憲君主に認められた権利なので、すべてを鳩山首相の責任で行うべきであると思います。ただし、現実的政策論である以上、それが報道に漏れたら大変でしょうが。

 一九三一年の英国では、与党労働党の造反によってマクドナルド総理総裁らが追放されるという事態がありました。この時に国王は野党保守党との連立を命じ、解散によって保守党が多数になりマクドナルド政権は継続した。その後、マクドナルドは退陣に際して首相の座を保守党に渡している。ということがありました。

 この時の国王の措置は違憲の疑いが指摘されますが、世界恐慌という大英帝国が覇権国として生き残れるかどうかの未曾有の危機に際して、しかも政治家が当事者能力を喪失した時に、国王が大権を行使した歴史はあります。

 この時の先例をそのまま日本で適用するのは反対です。しかし、皇室のあり方などという日本建国以来の大問題であり、天皇家自身の問題に対して陛下に「象徴なんだから黙って国会の決定に従え」というのは、それこそ違憲の疑いがあると思います。日本固有の伝統は言うに及ばず、日本国憲法の立場に立っても。少なくとも条文を読めば、伝統に反する疑いのある皇室典範の改定に天皇が意思表示もできずに署名しなければならないとの法理はどこから出てくるのかわかりません。

 東大学派が良く使う筆法で書きます。彼らは、人権その他の説明ではよくこういう書き方をするのですが。

「天皇が皇室を否定する決定を公布するのは明らかな矛盾である」

 これを書かない一点で、私は宮沢と芦部が作った東大憲法学のすべてを否定します。皇室の敵であると同時に、彼らの論理が破綻しているからです。

 東大憲法学を本気で信じている狂信者に、もっと平たく言いましょう。

 貴方達はアカですらない、ただのバカです。


2009年10月11日(日曜日)

誰が憲法の無効を宣言できるのか

カテゴリー: - kurayama @ 01時34分57秒

 たった今、非公開紹介制の茶話会から帰宅しました。こういう仕事も請け負っています。お気軽にお問い合わせを。

 あと来週は、月に一度の(笑)、倫理法人会です。早くからお世話になっていますので、お話があればお引き受けさせていただきます。執筆以外の仕事は控えると言いながらも(笑)。何だかんだと頼まれると断れない性格でして。ちなみに、各地の倫理法人会、どこでもすばらしく歓待されて、温かく熱心な聴衆の方が多いので、というのが喜んでうかがわせていただいている理由です。

 

 さて、またしてもdodoさんの鋭い御質問ですので、本編でお答えさせていただきたく思います。「帝国憲法講義」でもあまりにも難しい話なので、はしょった点も多いので。

「天皇は憲法の無効を宣言できるか。その為にカウンタークーデターをできるか。その行為は合憲とすることが可能か」との問いに対して。 

 まず、最近流行の日本国憲法無効論への疑問です。よくあるのが、「議会の決議で無効にすれば良い」という論議です。衆参両院がどうして憲法の無効の宣言をできるのか、その法理が私にはさっぱりわかりません。いわんや他の機関にはなおさらできない訳です。

 清水澄博士、金森徳次郎大臣、菅原裕弁護士の無効論に関しては傾聴に値すべきだと思います。しかし、一部の粗雑な無効論とははっきり言って一緒にされたくないです。

 ちなみに、マニアックな方から、「あなたは改正憲法論ですか、無効論ですか」と聞かれるのですが、「八月革命説には反対です」とだけ答えるようにしています。結論が無効論であれ改正憲法論であれ、誰の説には賛成、誰の説には反対、との立場ですので。憲法学の議論をする時は、全体の理論構成を見て判断しています。ただ「昭和二十年八月十五日に、日本では実は革命が起きていた」などというまったく事実に反する、宮沢俊義東大教授の妄想にはお付き合いする積もりはありません。結論も理論構成も正しいものが出てくるはずが無いので。でも、八月革命説が通説だから恐いのですが。

 閑話休題。

 では誰が憲法の無効の宣言をできるか、というと、「憲法の前にある存在、憲法の上にある存在」である天皇だけができます。しかも、個人としての天皇陛下ではなく、歴史と伝統を体現する存在としての天皇にのみできる訳で、しかも国民の総意に基づく必要があります。この解釈、帝国憲法においてはすべての学者の一致した見解でした。あらゆる論点で主要学者は対立しましたが、この一点においては、穂積・上杉の正統学派、美濃部の立憲学派、佐々木の京都学派、実質的な有権的解釈者であった清水のすべての人が一致しています。
 しかし、ここまで言い切られてしまうと、保守を自認する方も違和感をもたれるのでは?少なくとも政治家で「天皇は憲法の上にある!」と言い切れる人はいないでしょう。間違いなく選挙には落ちます。

 ここまで現在の日本国憲法の価値観が定着してしまった以上、陛下に「我が国の歴史と伝統に反する日本国憲法の無効を宣言してください」とお願いするのは国民としては躊躇します。

 そしていよいよ問いに対するお答えですが、無効であると宣言してカウンタークーデターの挙に出ることは可能でしょう。あくまで法理論上は可能だと思います。投げやりな言い方をすれば、「一番最後に出た結論を正当化するのが法律学である」などという言葉もあるくらいですから。
 しかし、大化の改新・壬申の乱・承久の変・正中の変から南北朝動乱に至る数え切れない後醍醐天皇の挙兵・幕末動乱、など結局のところ正統性を確保したのは武力による勝利です。負けた場合は「主上御謀反」などと正当性が無い行為として扱われました。将来の仮定としてもかなり危険な議論ですし、法律論にはなじまないような気がします。
 今の国民の間にも「それは正しい!是非、陛下の挙兵を!」と望む声は出ないと思います。

 かなり政治論による答えのような気がしますが、法律論だけで答えるのは難しい問いであったとのことでご容赦を。

注・「正当化」は「単に今起きたことを正しいとする行為」で、「正統化」は「正当化された行為を歴史的に正しいとみなす行為」と使い分けているので御注意を。誤植ではありません。


2009年10月10日(土曜日)

もしも日本でファシスト政権ができたら

カテゴリー: - kurayama @ 12時50分13秒

 まずはdodoさんの質問にそくしてご返答を。

一、帝国憲法下における、ファシズム政権に対する天皇によるクーデターの合憲性

 まったくの合憲です。正確には「クーデター(謀反)」ではなく、「カウンタークーデター(討伐、上意討ち)」になります。2.26事件をご参照ください。あの場合は、ファシズム政権の成立ではありませんでしたが、昭和天皇は「国体の精華を毀損するものである!」と激怒なされました。ファシズムもこの「国体の精華を毀損するもの」の一つなので、適当な例かと思います。戦前は「国体」という概念がありました。散々、悪の権化のように言われますが、「天皇と国民がお互いを守る」という意味です。ここでの昭和天皇の用法は、国民の一部の政府当局者や暴徒に好きにはさせない、との意味です。

二、日本国憲法下では?

 合法的に成立したファシズム政権に従うのが、日本国憲法の解釈によれば正しくなります。ただし、あくまで日本国憲法によれば、ですが。その政権が選挙で選ばれていた場合、まったくの合法になるでしょう。ただし、その場の気分で合憲合法になる場合もあるでしょう。細川政権を参照(前にも書きましたが、あれは合憲ではあっても、非立憲なのは間違いないでしょう。)。世論も支持し、憲法学者も気分で意味不明な理屈を並べて正当化する可能性はありますね。

三、日本国憲法下で合法的ファシズム政権を合憲的に止める方法

 議会が決めた合法行為は合憲である、との前提に立っている以上、最高裁に憲法の番人を期待するなど、期待する方が無駄でしょう。今の最高裁に「気骨の判決」の井上判事のような立派な方がいると信じている日本人、どれくらいいますかねえ(8月17日を参照)。

 素直に条文を読めば止められるのでしょうが、現実には間違いなく無理です。内閣法制局も東大憲法学も、権力には弱いですから。本当に暴力で法を支配するファシズム政権が成立したら、間違いなくなびくでしょう。

 帝国憲法においては、ファシズム政権に限らず非立憲的な政権が成立し国民の権利が抑圧されそうになる場合、天皇には秩序回復する権能がありました。帝国憲法は有事を想定した憲法だからです。だから平時は儀礼的存在であっても、「天皇の統治権」を明記していたのです。条文でも、「できるだけ使わない」ことが前提の三一条非常大権がありました。(ワイマール憲法は末期には大統領非常大権が日常化しましたが)

 翻って現行憲法の象徴天皇はどうでしょうか。そもそも現行憲法は有事など存在しないことを前提に成立しています。だから有事における天皇の位置付け、などを議論している人がいないのです。

 帝国憲法の権威であった、清水澄博士(最後の枢密院議長として現行憲法の成立を見届ける)は、こんな憲法では天皇をまったくの傀儡としてしまう、まともな憲法ではない、と入水されました。

 一方の権威である佐々木惣一博士(貴族院議員として現行憲法の審議で数々の追及)は、戦前と同様の解釈になんとか持っていっています。

 主流の東大憲法学は宮沢俊義という人が師匠の美濃部達吉博士の憲法学を乗っ取り、「天皇など省庁として残してやった、本来ならいらないもの」という解釈を推し進めています。戦前と同様に「天皇と国民が支えあう」のが国体であるとした佐々木博士の解釈はもはや風前の灯で、清水博士の懸念が現実になろうとしています。

 結論。日本には天皇を廃し、国民を抑圧しようとするファシズムが近づいている。今の憲法の価値観に縛られている限り、ファシズムは合法的に浸透する。それを防ぐには、国民が声を上げるしかない!

 私は可能な限り、知っていることを伝えます。皆さんも正しいと思ったことは人に伝えてください!


2009年10月9日(金曜日)

判例と正義と衡平

カテゴリー: - kurayama @ 23時58分19秒

 十月二日の叔父さんの息子さんの書き込みに対して、ある法科大学院の院生から解説して欲しいとの要望がありましたので、本編の方で別に所見を述べたいと思います。しばしお付き合いをしていただけるとありがたく思います。決して法律オタクのマニア議論には終わらせないようにします。

 さて、叔父さんの息子さんの趣旨は以下の通りと理解しています。

事実:現在の民法の規定では、非嫡出子は嫡出子の半分の財産しか相続できない。これは憲法の法の下の平等の原則に反する。よってこの民法の規定は無効なので、同額を相続させて欲しい、として最高裁まで争った。結果、却下された。

争点:旧民法から引き継いだ現在の民法の趣旨は、非嫡出子も嫡出子と同等と看做せば、一夫一婦制を前提とした民法の趣旨に反する。まったくの平等にしないことこそ公序良俗に適するので、合理的であると長らく解釈されてきた。しかし、社会情勢は変化し、国によってはまったく平等に扱うような判例や立法措置をとった場合も増えている。ではわが国においても、最高裁が判例変更をして違憲判決を下し、諸外国と同様に、嫡出子と非嫡出子を差別しないようにすべきかどうか。

 その上で叔父さんの息子さんは、子供に罪はないのだから、財産も平等にあげるべきだ、とすべきだとの主張のようです。大根斬りに平たく言えば、浮気してできた子供にも、平等に財産をあげるべきかどうか、ですね。

 まず、外国(判例ではフランスがあげられている)はさておき、日本における法体系はどうか。

 民法は非嫡出子の権利を認めないまま、まともな法の保護の対象とはしていない。つまり、浮気には厳しい。

 しかし、年々判例は浮気は社会現象として容認すべきとの立場に変化している。時々、「法は悪事にも加担する」とばかりに、不倫でひどい目にあった人を救済したりする。

 憲法典は化石。日本国憲法の条文は変わらないまま。では社会情勢の変化に鑑みて、当該民法の規定は合憲か否か。判断するのは裁判官であり、特に最高裁の判例は法律以上の効力を持つ。

 で、下された判決が「現状維持」なので、叔父さんの息子さんは、「子供を救済しなさいよ」と怒ってらっしゃるのですね。

 ただ、これを最高裁の判事が判断できるのですかねえ。非嫡出子に平等の権利を認めず「浮気は悪だ!」とするのと、「浮気は現にある。だから現実の子供の権利を認めよう」と非嫡出子に平等の権利を認めて、正妻の子もその他の子も同様に扱うのと、どちらが正義か、を判断しなければならない訳ですし。そしてここで最高裁の裁判官が下した判決が法的効力を持ち、且つ法的に正しい価値観となる訳ですから。

 ちなみに英国の場合は、どんどん判断を下します。共通法(Common Law)という通常の法体系、このような場合だと民法などで救済できない事件が発生した場合、衡平法(Equity)という判例法によって正義の実現をはかる、という方法をとっています。ちなみについ最近まで英国の最高裁は貴族院だったので、司法府と立法府のどちらの決めたことが優先する、などという議論そのものが発生しません。議会(の中の最高裁)の決定が絶対です。

 日本の法体系は、明治以来大陸法(特に仏より独)が中心で、戦後は英米法(特に米法)の影響が強いです。最高裁の判例など、条文の引用など稀で、ほとんどが判例に従っているかどうかです。裁判官がひとたび下す判決の影響って、想像以上に強いのです。しかもというかだからというか、先例踏襲主義が強いですし。

 しかし、判例中心の裁判運用をしながら、「何が正義か?」の議論があまりにも欠けているのではないか、という印象はあります。結局、弱者は立法に頼ればよいのか、判例を求めればよいのか、どちらもできないのが日本の現状ですし。

 条文の背後にある、なぜその法律はそういう条文になっているのか、その条文が実現しようとしている正義とは何か、についてもう少し議論をした方が良いと思う。

 当該事件に関しては、再び繰り返します。「浮気でできた子供には半分しか財産をあげない」のと、「浮気でできた子供も、正妻から生まれた子供も、平等に財産を相続できる」のと、どちらが正義ですか。そういうことを考えるのが、本当の法律論だと思います。こういう議論、法学部では意外と嫌われるのですけどね。


2009年10月8日(木曜日)

国際連盟脱退(2)ー内田康哉という人

カテゴリー: - kurayama @ 14時53分47秒

 内田康哉、明治・大正・昭和の三代のすべての御世において外務大臣を務めた唯一の外交官である。この人物、あまりにも無能なのである。満洲事変期の外交交渉過程を見ていると、なぜかリットン調査団にまちぼうけをさせて真意を疑わせてみたり、などの無意味な所業が多く、後に「馬鹿八」と自他共に認められる有田八郎次官(回顧録の名称が『馬鹿八と人は言う』である。本当に馬鹿だったのである。)があきれて収拾に駆けずり回るという、目も当てられない惨状なのである。

 その昔、外交史料館職員の方と「史上最悪の外相は誰か」に関して激論になったが、その時にこの内田と田中真紀子が断トツのワースト一位を争ったのである。個人の資質としてはやはり田中真紀子の方が問題があろうが、国益への打撃に関しては内田の方が取り返しがつかないだろう、という結論になった。もちろん、個人の資質にも問題がある。リットンを待たせた内田と、アーミテージに会わなかった田中。歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。(たまにはマルクスも本当のことを言う。扇動師は十に一回は本当のことを言うらしい。)

 そして、ここまで無能だとどこか一つくらい褒める所があるだろうと思って必死の調査をしたのである。というか今も継続中だが。結論から言うと、無い!検証に耐えられる功績がゼロなのである。大体、回顧録を見るとその人の事蹟がやたらと美化されているのである。しかし、

 内田康哉伝記編纂委員会編『内田康哉』(鹿島平和研究所、1969年)

 のどこを探しても、無い!それどころか、日清戦争前年に「日清朝三国同盟」などを夢想していたらしい。あの状況でどうしてそういうことを思いつけるのか。明治六年以来、日本と清及び朝鮮は延々と紛議を続けているのでは?これができるくらいなら西郷隆盛は死ななくてすんだだろうに。

 駐墺大使の時は、第一次大戦に至るバルカン問題が大変な状況になっているのだが、彼の手書きの公信を私は見たことが無い。タイプ内の公信や公電はいくらでもあるが。つまり、彼が本当に仕事をしていたかどうかが不明なのである。例えば、日露戦争の高平小五郎駐米公使などは、多数の手書きの公信が残っている。内容にも卓越した経綸が伺える。こういう比較をすれば一目瞭然なのである。

 同様の事態は駐露大使時代に際しても起こっている。この時はロシア革命で大変だったのだが。本当になにをしていたのだろうか。

 外相としても、中華民国動乱は石井菊次郎次官と倉知鉄吉次官にまかせっきり、というか何か口を出すたびに異変が発生している。横浜正金銀行の高橋是清なども、何もできないくせに話を通さないとむくれる内田に辟易している。

 二回めの外相時は日英同盟廃止である。これは原敬首相と幣原喜重郎駐米大使の大失策だが、原が内田を登用した理由。イエスマンだから。内田を含めたこの三人、外務官僚出身と言いながら、外交がわかっていないである。日本人はいい加減気付くべきである。特権官僚は専門家でもなんでもない、と。肩書きがあるのと、その仕事がわかっているのはまるで違うのである。日本の病根である。

 三回目は満洲事変である。議会で「たとえ焦土となっても満洲国は渡さない覚悟である!」などと演説し、世界を敵に回してしまうのである。十三年後、本当に日本は焦土になってしまった。今の民主党のマニュフェストもそうだが、世の中には守って欲しくない公約もある。

 内田は帝国大学法科大学出身で、面接試験のみでの外交官登用である。つまり素養が東大での授業だけなのである。幕末維新の志士のように白刃を潜った訳ではないので現実外交の丁々発止がわからないのである。別に試験官僚でも優秀な人はいる。内田と同時期に欧州に居た飯島亀太郎などは、よくぞここまで、というような仕事ぶりである。本当に国のために命を賭けているのである。しかし、出世していない。おそらく飯島亀太郎が何者か、私より詳しい人ってこの世にほとんどいないのでは?本当にすごい人なのだが。

 日本近代官僚制では、一つの仕事に精通すると出世できない。今に至る試験官僚制やその前の東大法学部無試験任用官僚制の問題点は、東大での授業がすべて、となってしまうのである。それがオックスブリッジのように、授業が国家経営の方法や国際スパイとしても通用する人材の養成、といった水準に達していれば良いのだが、まあ恥ずかしい限りである。

 ついでに内田は資産家の娘と結婚していながら赤坂での派手な生活が当時から噂であった。それを英国人が知っているのはまずかろう。百万光年ぐらい譲って(百歩ではない)、仕事さえできれば個人の私生活などどうでも良いとしよう。せめて内外に知られないようにできないものか。ちなみに私が知る限り、日本人の本当に優秀な外交官は、愛妻家か苦労をかけすぎて離婚のやむなきに至った人しかいない。たまに妻の顔を見るのがイヤで外務省にこもりきりだった大臣、などもいるが。社交も外交の一つなのだから、細君の協力抜きでは成り立たない仕事であろう。これは石井菊次郎が散々強調している点である。

 貧乏は働けばまた取り返せる。身内の問題である。しかし、対外政策の失敗は国家の破滅である。日本は一度滅びかけているのである。戦争の反省とは対外政策の反省である。「軍部の圧力」の前に、外務省の怠惰と無能こそ反省すべきであろう。

 内田のような官僚は、はっきり言えば、国家の寄生虫である。

 北条時宗はなぜモンゴル帝国に勝てたのか。対外政策における挙国一致体制を作り上げたからである。日本人の裏切りそうな反対派を粛清したからである。

 寄生虫官僚の炙り出し、これなくして日本再生は無い。これはまじめに働く官僚にとってこそ、必要な作業である。


2009年10月7日(水曜日)

国際連盟脱退(1)ー言い訳可能か?

カテゴリー: - kurayama @ 16時47分03秒

 現在では昭和十六年十二月八日の開戦を正しかったと評する人はいまい。少なくとも負けた、という点で政府当局者の責任は否定できない。ただし、ソ連を警戒しながら、支那事変を抱え、背後から支援する英国との対立が続く中で、表面上中立を保ち国力を蓄えていた米国から挑発され続けた中で、どのような選択肢があったのか、やむをえない決断であったという面はある。

 ではここに至る過程でどこに原因があったのか。昭和六年九月十八日から昭和八年五月三十一日までの満洲事変である。この事変において、日本は軍事的には全戦全勝であった。しかし、外交的には大失敗し、国際連盟脱退に追い込まれた。細かい立証は昔、論文で散々書いたので、興味がある方はご参照を。何が問題かをかいつまんで言うと、国際連盟脱退(正式には二年後)には何の弁護の余地もないことである。

一、軍事的に勝ちながら、外交で負けた。国際宣伝戦においては泣きたくなる。

二、別に国際連盟から追い出された訳ではないのに、勝手に出ていった。侵略国と認定されて除名されたソ連とは違うにも関わらず。というか、当時の政府当局者、リットン報告書をまじめに読んだのだろうか。

三、国際法的に一方的に正しいのにも関わらず、国際社会にそれを説得できなかった。(マニア向けに言っとくと、幣原は最初と最後はまとも。芳沢は盛り返した。)

ちなみに満洲に主権を主張するなら、同地で起きた不祥事はすべて蒋介石政権の責任で「謝罪・賠償・責任者処罰・再発防止」を行わねばならないはずだが、日本の外交史家でこれを主張する人は寡聞にして聞かない。

四、事変勃発以前の外務省の怠慢。交戦相手の張学良軍閥など今の金正日とやっていることはまったく同じである。「抗議をすると相手が困るから」と、何もしなかった。日中友好が大事だったらしい。

 さて、この時の首相と外相は誰でしょう?昭和十六年の東条首相や東郷外相には汗牛充棟な批評があるが、斎藤実首相と内田康哉外相の失態についての批判はあまり聞かない。

 昭和八年の大日本帝国は、東アジアの大国である。米国もソ連も日本相手に戦争をする意思も能力もないのである。中華民国に至っては軍隊の数が多いだけで、鎧袖一触できてしまったのである。

 それにも関わらず、常任理事国を務める国際連盟から脱退してしまったのである。逆に今の日本が中華人民共和国を国際連合から追い出すなど、思いもよるまい。それと同じことである。

 これを失態と言わずして何と言おうか。(この項、続く)

 


2009年10月6日(火曜日)

金解禁と井上準之助の評価―専門家すら騙した城山三郎の嘘―

カテゴリー: - kurayama @ 02時15分18秒

 今回は城山三郎の最も悪質な嘘について。色々と難しい話になるかもしれないが、「戦前の日本人は何に耐え、何には我慢できなかったのか」について謎解きをしていくつもりでお付き合いを。

 大正期以来の、第一次大戦後の戦後不況、関東大震災後の震災不況、昭和初期の金融恐慌、そして昭和四年以降の世界恐慌で、日本の社会不安は頂点に達した。今が百年に一度の不況と言われるが、敗戦直後とか、この昭和恐慌の時代に比べれば、まだマシである。この当時は帝国大学を出ても就職がない時代だったので。ただし、今ここで国家の舵取りを誤れば、昭和恐慌の後に満洲事変・支那事変・大東亜戦争と慢性的戦時体制になったように、日本が亡国の道へと突き進むのではないか、との不安は大きい。少なくとも、今の慢性不況や格差社会は今なら間に合うとは思う。しかし、今すぐ対処しはじめないと、取り返しがつかないことになるとは思う。

 その点で、昭和恐慌とは何だったのか、という疑問への関心はつきない。また、この時の経済政策を担当した井上準之助蔵相(濱口・若槻両民政党内閣で約二年二ヶ月)の評価も人から色々聞かれるのである。昭和恐慌については優れた研究として、以下をはじめ若田部昌澄先生の御著書を最も参考にした。

 若田部昌澄『昭和恐慌をめぐる経済政策と政策思想』( 内閣府経済社会総合研究所、二〇〇三年)

 ただ御著書を読み進めていて気付いたのだが、井上準之助を評価するに当って、批判者すら、重大な事実関係において城山三郎に騙されているのである。若田部先生も途中でそれにお気付きになられたふしがある。

 まずは、誰もが共有できるであろう事実の確認である。

一、井上準之助は、日本銀行時代、まったく官僚らしからぬ仕事ぶりであった。そのような日銀時代の井上に目をかけ、引き揚げたのが高橋是清であり、やがて財界人として井上は高橋是清の第一の側近と自他共に認める地位に上がる。

ニ、井上はあらゆる仕事において信念の人であり、日銀時代も大蔵大臣時代も実際に強力な指導力を発揮した。相当な自身屋であり、無理な仕事も自分ならやり切れると言う態度が目に付いた。確かに横紙破りでも押し通していたし、種々の制約から不可能と思われるような仕事もしばしばやり遂げていた。特に当該期では、満洲事変の収拾に自信を失った宮中側近達が憲政の常道の放棄を考え始めた時に一人敢然とその維持の必要性を力説し、全員に感銘を与え、西園寺元老の信頼を獲得した。

三、濱口内閣の蔵相を努める直前まで金解禁政策には反対を表明していた。財界人として高橋元政友会総裁の側近であり、田中義一政友会内閣から外相就任を要請されたほどであり、民政党内閣の蔵相就任は誰もが驚愕した。少なくとも濱口雄幸との関係よりは深かった。

四、金解禁とは、十年間歴代内閣ができなかった、金輸出解禁政策のことであり、十年前の交換レート(旧平価)であれば民政党少数党内閣が政令一本で実行できるが、昭和四年現在(実際には五年に決行)の新平価で行おうとすれば、議会での法改正が必要があり、紛糾が予想された。よって、旧平価解禁を選択した。

五、濱口も井上も金解禁直後の不況は予想していた。しかしそれは日本の企業体質を強めるためには必要な事態であると認識していた。財政政策も付随するように引き締め政策をとった。

六、現実の金解禁は折からの世界不況に直面し、後に「暴風雨の前に雨戸を開けたようなもの」と評されたように、金融のみならず日本経済のあらゆる面に打撃を与え、井上の在任中は遂に回復することはなかった。東北地方では娘の身売りなどが相次ぐ、悲惨な境遇となった。

七、濱口と井上が推進したデフレ下のデフレ政策や金本位制の復帰は、今日においては完全な失敗であると認められている。実は城山三郎すら、この政策の誤りは認めて居る。ただし、当時においては、旧平価解禁の危険性を明確にしていたのは石橋湛山ら四人組と言われた極少数であり、井上の後を受けて金解禁を停止して金本位制から離脱した高橋是清すら本当のところはよくわかっていなかった。

八、井上がなぜ濱口の要請を受けて蔵相に就任し、しかも民政党に入党し、金解禁政策を推進したのか、その動機を説明できる一次史料に基づく議論はない。というのは、井上準之助関係史料は東京大学法制資料センターにあるのだが、ここ事実上非公開に近いような閲覧状況なので。それ以外は、たぶん全部見たがよくわからない。まあ、密室で話し合われたことなので。

九、民政党に入党した井上は党内の政争に勝利し、わずか二年で若槻総理の次の総裁候補の地位に至る。つまり総理大臣候補の資格を得た。

 一つの項目に内容を詰め込みすぎたが、話の展開上ご容赦を。

 さて、城山三郎が流した最大のデマ。

「井上準之助は、その生涯において金解禁政策論者であった」

『男子の本懐』には牽強付会な史料引用の数々で、井上がさもその生涯を通じて金解禁論者であったと繰り返し強調される。城山自身が紹介している「三」の事実とどう整合するのか不明だが。

 結論から言えば、「井上は間違った政策とわかっていても自分ならやり切れるとの過剰な自信で引き受けて、ものの見事に失敗した」が適切な評価ではなかろうか。

 根拠は、「一」「ニ」「三」である。「五」は慢心と経済見通しの甘さ、と評しても良い。「四」はそれに、党利党略、の面も加味して評価してよかろう。「六」は本質的議論に争いはなかろう。「七」は予見可能性=どこまで予測できたか、以外は議論にならないと思う。「九」を根拠に、政権欲に目がくらんで志操を曲げた、との評価も成立しないではない。

 とにもかくにも、強力な指導者が間違った政策を推進した悲劇なのは間違いない。しかもつい最近まで間違った政策であると認識していたのに、自分がそれを推進する要職に就くと絶対曲げられない信念と化していく怖さである。

 石橋湛山らの卓見は今日から見れば驚異的である。しかし、民政党政権を説得できなかった。

 高橋是清は大蔵大臣として「不況乗り切りの達人」であったが、政党政治家としては非力であり、総理大臣は務まらなかった。

 井上準之助は敗戦までの昭和の二十年間で最も指導力を発揮した政治家である。しかし、その政策は間違っていた。

 

 民主制は、英雄がいなくても国家が運営できるような制度である。戦前の日本人は、突出した英雄がいなくとも、何とか生きていこうと奮闘していたのである。それは立場の総意に関係がなかった。国民は、今よりもひどい不況の中でも耐えたのである。

日本人は貧乏には耐えたのである!

 では何に我慢ができなかったのか。それは満洲事変をみれば明らかである。対外政策の失敗である。戦前の日本人は不況のはけ口を海外侵略に求めた、などとされてはたまらないのである。現に高橋財政で不況は回復に向かっていたのに、支那事変に日本を追いやった特定の人たちがいるのである。

 そして民意の怒りはその人たちに向かわずに議会政治に向いてしまったのである。井上も高橋も暗殺され、石橋は不遇であった。

 政治家としての井上や高橋に全くの失政がなかった訳ではなく、その点での批判はやむを得まい。しかし、彼らが日本を敗戦の絶望に突き落とした主犯でないのは明らかであろう。少なくとも、より直接的な責任がありながらまったく免罪されているかの如き人たちがいる。

 なぜか城山が美化する外務省の特定の官僚である。この話はまた別に。


2009年10月5日(月曜日)

近衛対東條―語らずの弁―

カテゴリー: - kurayama @ 15時30分12秒

「加藤対清浦」は飛ばします。私の専門である「憲政の常道」はゆっくり本格的にやりたいと思います。本当は近衛対東條も飛ばしたかったのですけど、最低限二つだけ書いておきます。

「近衛対東條」というか、日本史全体で最も重要な組織について書きませんでした。まだ誰も本格的には述べていないのですが。前回の帝国憲法講義に来ていただいた方はおわかりですけど、ばらさないでくださいね。

 昭和十年代の日本に何が起きていたか、について世間では語りつくされた感があるようですけど、私は重要な点についてまったく語られていないと思っています。なぜこの人たちを抜きにして昭和史を語れるの?というほどの重要機関です。今でも名前を変えて存在していますし、新聞報道を見ると、鳩山内閣があっという間に取り込まれたのがよくわかります。この人たちの研究は現代史的意義もあると思うのですが。重要人物を四人並べた中、三人までは何とか相当の研究者やかなりの歴史マニアの方は知っていましたが、一人は知っている人に出会えたことがないです。昭和十年代、未解明部分だらけです。何となくの仮説はあるのですが。

 もう一つは、最近の近衛文麿再評価論への批判箇所です。「近衛が投げ出した政権を東條が押し付けられた見方もできる」ですが、私は短い行数で全部の立証はできないのであえて引いた言い方をしていますが、これは実は断言できます。ただし立証しようとしたら一冊の本になりますが。「なぜ日本は無謀な対米戦に突き進んでいったのか」は皆さんが疑問に思うところだと思います。

 正確には「なぜ、ソ連の片手間の、中国の片手間の、イギリスの片手間に、アメリカと戦争をしたのか」だと思いますが。これの絡みでよく「帝国憲法(体制)は生きていたのか」とよく聞かれます。

 一応、解答。憲法典は生きていたが、憲法体制は死にかけていた。憲法習律の中でも生きているものもあれば、死んでいるものもあった、です。さすがに要約だけだと難しいですね。


2009年10月4日(日曜日)

またまた弁論大会の審査委員をしてきました

カテゴリー: - kurayama @ 23時56分01秒

 急遽、弁論大会の審査委員をすることに。帝京大学雄弁界主催の全関東大学弁論大会に行って来ました。6月以来です。真剣な議論と活動が強い絆をつくる!美しい伝統を後輩たちが引き継いでくれるのはうれしいものです。

 私が大学生の頃は、「朝から朝まで!」という付き合いを毎週やってました。大学の授業の出席は厳しくなかったですし、バブルのおかげでバイトにだけは事欠かなかったので活動費は何だかんだと捻出できましたし。ちなみに「朝から朝まで」とは下手をすれば金曜日から火曜日くらいでした。毎週土日は関東中の弁論部とか雄弁会とかの名のつく団体が結集して何かの行事をしていましたし、終われば最後は誰かの家に何十人も押しかけて、延々議論、が日常でしたから。

 私はバブル期は日本史全体の中でも、最もどうしようもない時代だったと考えているのですが、それでも「人が大量に集まる、人が集まるから情報が飛び交う、情報が飛び交うから金を稼げる、金を稼げるからまた集まることができる」という文化がありましたから。平成不況になってからは、「とにかく多くの人が集まる」ことの意味がよくわからない、というのがあるということを最近になって発見しました。ちなみに私はバブル期の就職活動の恩恵をまったく蒙らなくなった世代ですけど。

 ということは今はバブル期より悪い時代なのか?と嘆いても仕方がないので、何かをしましょう。私はこういう活動をするようになりました。

 講演なんかで「日本がおかしくなっている。取り返しがつかなくなってからでは遅いと思うけど、どうして良いかわからない。」との声をよく聞きます。

 でもできることはあります。例えば、この砦のレスで意見表明や交換が行われていますが、あるいは疑問を質問してくださるでも良いですけど、それだけで違ってくると思うのですね。

 何となく慣習法的に、学術的な話か愛国的な話であれば何を書いても良い、のような雰囲気になっていますが(笑)。

 この砦をきっかけに、少しでも日本のために貢献できれば、と考えています。


2009年10月3日(土曜日)

外交の教科書(2)―中江兆民で米国の論理を読む

カテゴリー: - kurayama @ 20時00分14秒

 アメリカで政治学や国際関係論を学んできた方が時々不可思議な発言をされる。

 アメリカ合衆国は民主主義の味方である。一度でも民主主義を経験した国を決して見捨てない。(だから、「いかに中国の脅威があろうと、台湾を絶対に見捨てない。」と付け加える人もいる。)

 是非とも、ブダペストやプラハでおっしゃって欲しいものである。

 冷戦期、ソ連のくびきから脱しようと、ハンガリー動乱やプラハの春が発生した。しかし、米国は何をしたか。何もしなかったのである。自由や民主化を求める声がソ連の戦車に押しつぶされる時、米国は見殺しにしたのである。

 なぜか?自由や人権や民主主義は、あくまで武器であって、使える時と使えない時があるからである。本気で信じて動いている訳ではないからである。たまにウッドロー・ウィルソンみたいな狂信者が登場するが、さすがにあそこまでの理念先行の安全保障政策はアメリカ人の、しかも民主党だってついていけないのである。

 では、米国に限らず、国際政治を動かす論理は何か?

 帝国議会における最高の演説政治家である斉藤隆夫代議士の、昭和十五年の帝国議会における「反軍演説」の台詞を借りよう。

 徹頭徹尾、力の論理である!

 有名な「反軍演説」、当時の支那事変での政府と統帥部の無能な国策指導を批判したのであって、読みようによっては「東亜共栄圏とか意味不明なきれいごとを言っていないで、真面目に戦争をやれ!」とも読めるのである。

 戻って、米国がハンガリーやチェコを見捨てた理由は何か?この論理に従えば簡単である。力が及ばないし、及ぼそうとしてもソ連にかなわないからである。別の言い方をすれば当時のハンガリーやチェコはソ連の勢力圏だったからである。

 これをデモクラシーの全体主義(共産主義でありファシズムでもある)への敗北と捉えるか。しかし、国家は、力だけで動いているのでも理念だけで動いているのでもないが、強いてどちらかをあげるとすれば、力で動いているのである。そもそも、敵が敵の勢力圏で何をしようと、そこに手を突っ込まないことは敗北でもなんでもない。だから今のチベットやウイグルで中華人民共和国が何をしようが、米国は何もできないし、それが即敗北ではないのである。

 ちなみに大学生の時に私が英国の某大学を表敬訪問した時、「日本では、第二次大戦がデモクラシー対ファシズムの対決であったとの説が主流です」と述べると、「ではソ連は民主主義国か?」と呆れられた。もっと言えば、日本はファシズムでも持たざる国でもないのに、なぜか親ドイツに傾斜したのだが。

 ウェストファリア条約以後の世界(欧州)の大国が二大陣営に別れて争った紛争を調べてみたが、完全に理念で分かれたのってなかったなあ。

 冷戦ですら、米中和解が一つの決めてだし、西側陣営にも独裁国もあったし(というか、チトーなぞ我こそが共産主義の本家なりと唱えながら実質的に米国陣営についた)、世界最大の民主国のインドがソ連についた時期もあるし。

 ちなみに今の論理をわかる古典として以下。

中江兆民『三酔人経綸問答』(岩波書店、二〇〇七年、初版は一八八八年)

 手に入れやすさ ★★★★★ ・・・たぶん、永遠に再販するでしょう。

 わかりやすさ  ★★★★  ・・・明治の文体なのを考慮。

 読みごたえ   ★★★★  ・・・入門基礎ですから。


2009年10月2日(金曜日)

今更「読売改憲試案」

カテゴリー: - kurayama @ 14時53分24秒

hnさん、志木さんのレスをきっかけに、「読売改憲試案」を読み返してみました。

ひどい!ひどすぎる!これなら今の憲法の方がはるかにマシ!

という、憲法学の知識ゼロで読んだ時の感想と同じです。二〇〇四年版も根本的に頭の中身は同じで、まともに論評したくない代物です。もちろん、今の視点で観ると、さらに穴が目立ちます。あえて二つだけあげておくと、一つは「国体の前に政体を決めてどうするの?」ということです。米国のように国体と政体が一致するならまだしも、日本という国家の前に民主主義があるという前提がおかしいのでは?では民主主義の価値って何ですか?と言いたくなります。民主主義にも色々あるのに、「ファシズム=悪いもの」対「デモクラシー=良いもの」という単細胞な理解で、我が国の憲法の最初に民主主義を持ってこられても困ります。この草案、完全に東京裁判史観の反映です。

 もう一つ、彼らは今の憲法九条の戦力不保持と交戦権否認を否定している点を主張したいのでしょうが、それならば、晩年の松本烝治博士が無効論の菅原弁護士に述べたように「九条二項のみ廃止、あとは改正規定の緩和で真の日本の憲法を論議する時間を作った方が国民教育にも真の憲法論議にもなる」と述べましたが、現実論としては傾聴に値すると思います。

「読売改憲試案」のような日本国憲法の価値観を全肯定して、さらに改悪するような憲法になるくらいなら、私は護憲派です!今の条文を固守します。しかし、今の憲法を根本から国民全体で見直さなければならない。よって、今から、日本国憲法の価値観に基づかない、「記紀」以来の歴史と伝統と文化に基づいた教育が必要である。これが『正論』6月号での竹田さんと私の一致した立場です。そんなに多い訳ではないですけど、「竹田さん護憲派対倉山改憲(無効論?自主憲法制定?廃憲?)派」のような誤読をされた方がいましたが、あの対談は同じ事を二人でまったく別の角度で言っているだけです。憲法論議は結論だけが大事となると条文いじりに終始します。「帝国憲法講義」で散々「条文いじりではない憲法論」を唱えているのですが、最低あと六年、楽観論の範囲であと二十年くらいは同じ事を言い続けなければならないのだな、と思っています。

「読売改正試案」のような代物、学部生の憲法学の知識があればありえないのですが。こういう代物が出てくると、「これだから改憲派は頭が悪い」などと護憲派東大憲法学に言われてしまうので、―実際に言われています―困り者です。

 あと、かしわもちさん、私の代わりに丁寧な解説ありがとうございます。

「皇室典範」の原文は、『六法全書』に普通に載っています。

 いわゆる「人間宣言」の原文は、白黒ですけど画像で見られます。画像閲覧システムは無料ですぐに取り込めますので、ご安心を。

http://www.jacar.go.jp/

で、「新日本建設に関する詔書」で検索すると一発ヒットします。「人間宣言」などと入れても、そんな文書は存在しないのでご注意を。


外交の教科書(1)―世界を知りたければ、中山治一!

カテゴリー: - kurayama @ 02時19分16秒

 ヴァンダレイ・シウバという格闘家がいる。見るからに凶暴そうな顔をしている。その彼が何かのインタビューで「俺は学歴はないが、本を読み、世界で何が起きているかを知ろうとしている。」と答えていたのが印象的だった。古すぎて出典がどこだかわからないが。

 国際常識として、学問とは「世界を知ること」なのである。日本の大学生、どころか学者でもこれをどれだけ知っているだろうか。歴史や文学のような人文科学であれ、政治や法律のような社会科学であれ、数学や医学のような自然科学であれ、世界を知るための方法論なのである。ただ、自分がやっている分野の技術や知識だけを覚えても、それは学問ではないのである。

 本題に入る前に、かつて絶句させられた質問。私が「日本史だけ見ているとわかりにくいが、普通の国では、その国で一番優秀な人間を外交官にする」と気軽に発言した瞬間、「資料出してください!」と。あ、あのう、常識ですが。仕方がないのでハロルド・ニコルソンを紹介してあげたら「一次資料じゃないじゃないですか!」と。そ、そこから説明しなければいけないのかぁ。マキャベリ時代のイタリア半島の歴史から説き起こしてあげたが、この砦の読者の皆さんは、せめてウェストファリア体制で勘弁してください。

 さて、「世界を知る」とは、まずは世界のニュースに興味を持つことからです。日本の新聞は国際面が薄いので有名です。外字新聞と比べてください。国際情報誌も少ないですし。ネット時代に負けて『世界週報』が廃刊したのは残念だけど、あの雑誌も末期は明らかに質が落ちていたから何とも。ネットにあがっていない古い事件を調べるには最適です。

 古いこと、というと怪訝な顔をされてしまう今日この頃ですが、歴史を知らないと今何が起きているかわからないのは自明でしょう。(というか自明であって欲しい。)

 そこで、まず世界史の簡単な概説書から。

 講談社の『新書西洋史』全八巻をお勧めします。ローマ以外の七巻は名著揃いです。一巻の分量は高校教科書より薄いので、興味のある時代から一度読んでみるのも御一興。国際人として社会の第一線で活躍したい人は通しでどうぞ。途中に一巻だけある苦行も、学者や外交官への修行です(笑)。

 さて、その中でも、現代国際社会はどのように始まったのか、を理解するために以下。

 中山治一『新書西洋史(7) 帝国主義の展開』(講談社、一九七三年)

  手にいれやすさ ★★★

  わかりやすさ  ★★★★★

  読みごたえ   ★★★★

 どんな言葉や理念や情報が飛び交おうが、結局は近現代国際政治の主体は国家であって、大国が誰を敵と味方と判断するかによって動く、ということがわかりやすく説明されています。おそろしく単純化すると、ビスマルクはすごい、ウィルヘルム二世はダメということです。明治時代の日本史もこの二人を無視して語れるはずがないですし。世の中が動くには論理があります。

 私、大学院生の時に、中山さんの本はたぶん全部読みました。この方、日本史の論文も書いています。何より、かの総力戦研究所の研究員だったのですね。総力戦研究所、優秀な西洋史の研究者が参集しており、戦後の史学を支えたのです。

 古本屋にも安い値段で大量に出回っています。五つ星で評価していこうと思います。ちなみに読みごたえの四つ星は、入門書だから星ひとつ減です。でも深いですよ。


寺内対原(5)―是々非々とは―

カテゴリー: - kurayama @ 01時19分07秒

 戦前日本において、「軍部が強く衆議院が弱かった」と主張される方に問いたい。

一、なぜ西園寺政友会内閣を潰した後の元老会議で、宮中入りしていた桂太郎が言い出すまで、誰も総理の引き受け手がいなかったのか。・・・内閣を潰した勢いで政権奪取なり、傀儡政権の樹立をすれば良いではないか。

ニ、なぜ、海軍出身の山本内閣は、海軍にとっても権限縮小になる、軍部大臣現役武官制を廃止したのか。・・・これでは与党政友会の言いなりで、山本は原敬政友会総裁の傀儡ではないか。

三、なぜ、陸軍の総帥である山縣元老は、山本内閣を打倒する際に、大隈重信のような過去の人となっていた政治家を必要としたのか。・・・実際に総理になられるとひどい目に遭っている。

四、大隈内閣の閣僚は第一次護憲運動が敵視した桂内閣の閣僚とほぼ同じなのに、問題の「二個師団増設」を実現している。たった二年間に何があったのか。

五、そもそも「軍部」の定義は?これって今の「官僚機構」の定義くらい曖昧では?

 これに対する回答は、別の場でできればと思っています。

 少なくとも戦前の日本を駄目にしたのは、「軍部」「軍ファシズム」「陸軍」「天皇(制ファシズム)」「財閥」などとする史観では、説明できないでしょう。「天皇」とか「ファッショ」に持っていくのはまったくの誤謬であり、結論先行の議論であるとは、散々書きましたので。これらの結論のよって、完全に免罪されてしまっている人がいるのですね。罪とはもちろん、戦争に負けた責任のことです。その免罪された人たちは、戦後ものうのうと特権を享受して、今に至っても同じように政策を間違えて、失敗のつけを若い世代に回している訳です。

 これまた謎解きに、乞御期待。

 さて、表題の本題。与野党伯仲の時に、第三党が「是々非々」としばしば標榜する。羽田派(小沢派)脱党に際して、自民党と野党連合が伯仲した時に、日本新党がこの言葉を使ったのは記憶に、、、新しくないか。まあ、結果として日本新党首班の細川内閣が成立したのは覚えていらっしゃるでしょう。今の公明党も使っていますけど。

 元祖は原敬です。

 つまり、大隈重信総理&与党同志会が、山県有朋元老率いる官僚閥と仲たがいし、結局は大隈が勇み足で自爆して、山縣閥の寺内正毅が首相になるのである。

 

 ちなみに「勇み足」とは、単独で大正天皇に、後継総理として加藤高明を推薦したのである。これで認められていたら、大正天皇が実権を行使したことになるだろう。現実には何の権限もない大隈の推薦は無視されて、山縣以下の元老が奏薦する寺内正毅が総理になるのだが。

 さらに脱線すると、「元老にだって権限は無い筈だ!」などと曰う方が学会にもいらっしゃるが、この教授たちは「憲法慣例」という言葉を御存知ないらしい。「文字で書かれているかいないかがすべて」などというのは、アメリカ法や日本国憲法特有の発想であって、そんなものは法律論としても偏った極論なのだが。

 

 閑話休題。話を整理すると、政府は寺内官僚閥、それまでの大隈重信を支持していた衆議院第一党の同志会は野党に回るのは確定的である。さて、衆議院を敵に回してしまう形勢である。政府は何をしたか。衆議院第二党であり、昨日までの政敵であった政友会に秋波を送るのである。

 それに対する原敬の答が「是々非々」。この時期の『原敬日記』刊本の副題にもなっている。

 寺内は「外交には挙国一致が必要だ」と衆議院に呼びかけ、「臨時外交調査会」なる意味不明な委員会を作る。同志会は参加を拒否するが、原の政友会と犬養毅率いる第三党の国民党は参加する。そして、総選挙で政友会は同志会に逆転して、第一党に返り咲くのである。

 原は閣内にこそ入らなかったが、この臨時外交調査会でやりたい放題やるのである。原敬と言えば駐仏公使(大使がいないので最高職)や外務事務次官を努めた高級官僚で、その道の専門家と思われている。誤りである。官僚として出世したからと言って、その道の専門家とは限らないのである。現に、日露戦争中の伊藤や山縣は、軍事外交の重要な会合には総理であり総裁の西園寺公望は呼んでも、原はまず呼ばないのである。井上馨などは直接の上司だっただけに、原の無知無能ぶりはイヤと言うほど知っているのである。

 政党政治の推進者である原の功績は大きい。しかし、彼が外交専門家であったとは言えない。はっきり言えば、しょせん現場も仕事もわからない特権官僚の限界である。

 「是々非々」とは、「自分が決めたいように決める」の宣言である。この、「大隈対山縣&寺内対原」の構図で得をしたのは誰だろうか。

                              (この項、ひとまず終わり)


2009年10月1日(木曜日)

評判紹介

カテゴリー: - kurayama @ 01時37分40秒

 ようやく、三日間のほぼ徹夜から脱出。布団で寝ると起きれないので椅子で座ったまま時々落ちてました。まだまだ、執筆専念月間は続きますが。

 さて、会う人会う人にこの砦を絶賛されて恐縮です。ある大学の教授には「研究者らしいブログ」とお褒めいただきました。励みにします。

 あと、かつてミスユニバースと並ぶあの某ミスコン出身であった経営者の方からも(長くてややこしいな)、「見てますよー」とありがたいお言葉。

 大学生からは「就職活動の参考になります」との声も。どんどん参考にして下さい。スポーツでもそうですが、目の前の記録を上げるより前に、基礎作りが必要な時期もありますから。プロではなく、アマの場合は技を覚えるよりも、走り込みとか柔軟体操とか基礎体力作りからですよね。芸術やスポーツは基礎ができてからが出発点ですが、受験や資格は基礎ができたら終着点(合格)という試験も多いです。これでも体育学部教員なのでそういう社会人教育もしています。

 やはり情報化社会だからこそ、基礎知識としての教養が必要です。大学が、「こうすればここにたどりつける」という方法論を示していないから、「自分でやれ」となって、どうして良いかわからないということになりかねません。そこは教員として責任を感じます。「そんなことも知らないのか」とは今は絶対に言えませんから。本当に習っていないので。

 応用的な情報よりも、基礎的な知識!学生の参考になるような発信を頑張りたいと思います。


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