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大学では教えられない歴史講義

2009年8月31日(月曜日)

三木武吉への歴史歪曲

カテゴリー: - kurayama @ 22時57分52秒

 総選挙の結果による与野党交代は、第二次護憲運動による加藤高明内閣、占領期の片山哲内閣、記憶に新しい(古い?)細川内閣についで四回目。文句なしの民主的な政権交代は、現行憲法下では、実質的に初めて。「これだから民主主義はダメなんだよ」などと言われないような政権運営を民主党には望む。望んでいるのは本音。できると思っているかどうかは内緒。

 今回の選挙、民主党が勝ったと言うより自民党が負けたのである。鳩山首相は、百日以内に何ができるかですな。ただ民主が勝ったと喜んだり、自民が負けたと関心でいる人たちに苦言。

 本番は来年の参議院選挙です。

 来年の参議院選挙で、陛下の与野党が争うという形にしないと、さらに六年とりかえせないのである。

 しかし、吉田の孫の麻生を倒したのが、やはり鳩山一族。武吉はどこだ?かつて鳩山由紀夫は「私にも三木武吉がほしい」と口走ったが、小沢一郎?

 ちなみに甚だしい歴史歪曲に関して。

 三木武吉は、身を捨てて自民党を結成した政治家、とされる。しかし、武吉にとって自民党結成は手段であって、目的ではなかったのである。目的は、自主憲法制定である。自主憲法制定とは、日本人にあった憲法を制定することであって、今の日本国憲法の条文をいじることではない。ついでに武吉は強烈な反共主義者で、共産党との連立は拒否したのである。世界の歴史上、共産党と連立を組んで勝ったのはシリアバース党くらいなので、武吉の良識は称えられてよい。

  三木武夫=最大限に原理原則論者を装った機会主義者

  三木武吉=最大限に機会主義者を装った原理原則論者

 しばしば政治家は目的を達成するために、自分の目指す原理原則を隠すこともある。

 されに上を行くのが歴史修正主義者ならぬ歴史歪曲主義者である。三木武吉の目的が自民党結成であることにすれば憲法問題は忘れ去られる。憲法改正という言葉を言えば言うほど、日本国憲法の(条文の)価値観は定着する。


来年の参議院選挙が本番

カテゴリー: - kurayama @ 02時29分51秒

 全般的に予想通りの展開。公明党の幹部二人が落選とは思わなかったが。

 来年の参議院選挙が本番なのである。時間はない。

 日本を守りたい人たちは、自分に何ができるかを考えよう。

 私は、「陛下の野党」と「陛下の党内野党」を作るために頑張ります。

 小沢より自治労・日教組が問題ですな。


2009年8月30日(日曜日)

番組見ましたが。

カテゴリー: - kurayama @ 12時23分03秒

 結果がわかりきっている総選挙よりこちらが大事。

 「サンプロ」見ましたけど、司会の田原総一朗が、その場にいない人(橋本明と西尾幹二)を攻撃しだす、という予想もしない展開で、議論にならなかった。

 大事なことは、現在のままだと「マッカーサーの時限爆弾が爆発する」ということ。皇族がお一人もいなくなるということです。


2009年8月29日(土曜日)

女系天皇は女性差別

カテゴリー: - kurayama @ 23時20分38秒

 本来は、皇后陛下は皇族でならなければならなかったが、光明皇后以来、臣下の女性もなれることになった。本来は、先例の変更は望ましいことではないが、時の事情で止むを得ない場合もある。その時に変わらぬものこそ真の伝統である。

 では、光明皇后による新儀においても変わらなかった伝統とは何か。

 男女分業と女性尊重である。

 恐れ多くも、我々日本人は、皇后陛下や皇太子妃殿下を皇族に対する最高の敬称でお呼びするのに何の違和感もない。皇后陛下も皇太子妃殿下も元は民間のご出身であられたが、そんなことは誰も気にしない。女性だからである。

 ではなぜ女性だと気にしないのか。育児と出産、特に出産は絶対に男性にできないことだからである。出産により、皇統をお守りいただいた女性に対して最高敬称でお呼びすることに何の問題があろうか。新儀においても変わらなかった、むしろその後も生き続けた伝統とは、男女分業と女性尊重である。この伝統と原則を変えるとは、男が子供を産めるようになるほどの驚天動地の新儀である。それか、それに匹敵するような出来事が起きてから考えればよいのである。

 さて、皇族の女性方は民間人とご結婚されると、臣籍降下される。もちろん配偶者の男性が殿下、ましてや陛下と呼ばれることはない。この原則の前には、藤原・平・源・北条・足利・豊臣・徳川といかなる権力者も触れることはできなかった。つまり、皇族以外の男性を殿下、ましてや陛下と呼ぶことはありえない、これが日本国の国柄である。女性に対しては構わない、これも日本国の国柄である。

 この伝統を壊してどうしようというのであろうか。

 あまりにも恐れ多い例えだが、もし足利義満さん(仮名・男性)が皇族の女性と結婚しようとしたとしよう。ではその男性を義満殿下とでも呼ばねばならないのか。義満さんが一体、何の資格で呼ばれるのであろうか。義満さんは自らの腹を痛めて親王殿下や内親王殿下をお産みになられたのであろうか。その足利さんがよこしまな考えの持ち主であったらどうなるのか。

 女系天皇だとこれができてしまうのである。

 帝国憲法審議と同時の明治の皇室典範論議でも女系天皇は議題にはのぼったが、のぼっただけで却下されている。他に方法がある時に採用する手段では決してないからである。

 皇室と日本の伝統に反する女性差別をなぜあえてする必要があるのか。問題が多すぎる。


2009年8月28日(金曜日)

男系天皇は男性排除の論理

カテゴリー: - kurayama @ 09時45分46秒

 男系天皇とは、父方を辿れば天皇にあたる、ということである。これは男性排除の論理なのである。なぜか。

 藤原氏の中にはかなりの専横を行った者もいた。基経とか道長とか。しかし、彼らがいかに横暴であろうと、外戚という手段に頼らざるを得なかった。自分の娘を天皇の后妃(きさき)にして、孫を天皇にするしかなかった。男系天皇の原則があったからである。ちなみに、この外戚の場合、母方の祖父は藤原さんにあたるが、父や父方の祖父は天皇である。決して、藤原さんが陛下と呼ばれることはない。せいぜい「関白殿下」までである。

 藤原道長、平清盛、足利義満、徳川秀忠などと皇室に対して横暴を極めた者も存在したが、この男系天皇の原則だけは超えられなかったのである。

 日本でも、庶民は婿養子によって家を継続させる伝統はあるが、皇室には先例がない。また、庶民と違うからこそ伝統としての意味があるのである。

 庶民がそうだから天皇にも姓を与えよう、などという議論が成立するのか。ここに違和感を感じられるかどうかは、感性の問題である。


2009年8月27日(木曜日)

予告 世紀の一戦

カテゴリー: - kurayama @ 13時52分46秒

 今週の日曜日朝10時からの「サンデープロジェクト」で、

竹田恒泰先生が、皇室典範問題で所功先生と討論を行うそうです。

 選挙当日なので、投票に影響のありそうなネタはできないとのこと。事前には、別の方と聞いていたのですが、よりによって因縁がある人と。。。

 竹田先生は女系反対、所先生は推進、と真っ向から主張は対立しています。この問題で所先生、色々な方と感情的な対立をしていますが、竹田先生ともあったようですね。そのやりとり、今はH.P.から削除されていますが。

 私はこの問題に関しては竹田先生の主張に全面的に賛成です。

 所先生が皇室を思う気持ちは否定しませんし、皇室の問題に関して長年深く研究されてこられた方だということも重々承知しております。ただ私の判断する基準は時局認識です。

 日本共産党も含めて日本人全員が皇室の安泰を祈っている、というなら私は所先生の説でも条件によっては構わないと思いますが、それがありえない以上は不賛成です。


2009年8月25日(火曜日)

閔妃が金玉均に謝罪すれば?

カテゴリー: - kurayama @ 02時40分23秒

 もう昨日になるが、「報道ステーション」での特集。

 李氏朝鮮の支配者・閔妃を暗殺した日本人の子孫が謝罪しに行き、正しい歴史認識とともに友好を深めようというお涙頂戴物語。あきれた。そもそも伝聞でこの人たち、自分の祖父が実行犯だと思っているが、それって証拠になるのか?ちなみに安達謙蔵という後に内務大臣にまで出世した戦前政党政治家も「我こそは実行犯なり」と自慢していたが。

 間違った歴史認識に基づくいわれのない自虐意識、絶対に日本人を不幸にする。というか、もうさんざんなっている。

 まず事実確認。閔妃暗殺事件とは、日清戦争で敗北した清を見限った朝鮮が宗主国をロシアに乗り換えようとし、これを阻止しようとした現地の三浦梧楼公使が独断でその首謀者である閔妃を暗殺したとされる事件である。実行犯には諸説あり。日本人も朝鮮人も襲撃に参加しているのは確か。政治的には、朝鮮宮廷の派閥抗争に日本人が介入した形。ただし、三浦は証拠不十分で放免。

 次に日本側の反省。特命全権公使であろうとも、独断で任国の事実上の支配者への暗殺計画に加担するなど、論外。国内的根回しがあまりにも不十分。少なくとも艦隊派遣準備のひとつもないと困る。日清戦争直後で疲弊している時なので、準備があっても困るが。それにロシアのような列強の介入を招いたらどうするつもりだったのか。というか、その後も朝鮮王室は極端な親露的姿勢になって、王様は一年間もロシア公使館に移住するは、軍隊を引き入れるはで、大変な事態になるのだが。三国干渉の記憶も覚めやらぬときに、あまりの冒険主義に過ぎる。結果的に十年後の日露戦争に勝った、ではすまない。法律論では三浦は無罪かもしれないが、公使としての政治責任は重い。特命全権公使は大臣と同格の陛下の名代なのだから、結果責任は問われてしかるべし。

 その上で、番組検証。

 そもそも閔妃って何者か?番組では韓国では誰でも知っていて(と言いながら、小学校で半分くらいしか手を上げていなかったが)、尊敬されている国母のような存在、ということだが。そのようなすばらしい人物を日本人が暗殺したから、韓国は反日になった、この暗殺事件は韓国の反日の原点らしい。

 ほほう。では、韓国で一度でも王政復古運動のひとつでも起きたのか?そんなに敬愛されているなら、日本からの独立回復後、李朝が復活してもよさそうなものだが。

 次に、閔妃の人柄。とにかく夜郎自大の固まり。そもそも反日侮日に凝り固まる。そして親日改革派の金玉均を海外まで付回して暗殺、死体を凌遅刑にする。凌遅刑がどんなものかは、残虐趣味にすぎるので省略。

 当時の朝鮮、極少数ながら日本の明治維新のように自分の力で生きていこうとした人々もいたのである。そういう人は徹底的に弾圧されたのである。

 なぜ親日派を弾圧した人間を褒めたたえているのか、よくわからん。私が韓国の愛国者なら、報道ステーションのことを不気味に思う。

 日本の対韓国謝罪派も媚米拝米論者もそうだが、その国の反日派の意見を聞き、そいつらと仲良くして、自国民を見下すやつが多い。

 報道ステーション、閔妃なんて誰も知らないと思って言いたい放題知ったかぶりをして日本の視聴者を見下してくれているが、今の金正日をとやかく言えないような人物を持ち出されても困るのである。

 いっそのこと、日韓友好のために、閔妃の子孫を金玉均に謝らせてみてはどうだ?


2009年8月24日(月曜日)

最も危険な「無宗教」とは

カテゴリー: - kurayama @ 19時40分31秒

 宗教はなぜ危険なのか。自分のことを宗教だと思っていないからである。

 自分も世の中にあまた存在する宗教の中の一つである、他の宗教も尊重しなければならぬ(宗教的寛容)、などというのは近代思想であって、たいていは「我こそは正しい教えなり」などと信じているのである。宗教戦争とは、「正しい教え」どうしのぶつかりあいだから、やめられないのである。

 「我々は宗教ではありません」とよく聞くが、これにはまったく逆の二つの意味がある。

 一つは、自分だけが「正しい教え」だと思い上がっているわけではないので、そんなに危険視しないでください、という世俗社会との調和を訴える意味である。日本人ならば神道だろうが仏教だろうが「無宗教」であろうが、どのように認識していようと、この意味で「宗教ではない」=「無宗教」かつ「多宗教」であろう。

 もう一つは、「自分の信じているのは正しい教えです。世の中で宗教などと呼ばれている間違った教えとは違います」という自分だけが正しいという一番排他的な意味である。この場合は宗教の形態をとるとは限らない。占いとか自己啓発セミナーとか何とか学とか、宗教の名前を冠さない場合も多い。あまつさえ「変な新興宗教にかかわってはいけませんよ」などとおせっかいを焼いてくれる場合もあるから、もはや手の施しようがない。

 「無宗教」という言葉、日本人は穏健中立客観的な意味で使っている場合もあるが、本来の「無宗教」は本質的に危険であるし、「無宗教を装う宗教」というタチの悪い集団も存在しているのである。

 「無宗教」の慰霊施設が靖国神社と違ってみんなが納得する、などと考えているとしたら、あまりにも基礎知識がなさすぎる。


2009年8月23日(日曜日)

戦争は民主主義を促進し、民主主義は戦争を残酷にする

カテゴリー: - kurayama @ 22時47分26秒

 古来、参政権とは特権である。日本国憲法学では人権、それも基本的人権とされるが、本来は特権である。中世欧州では神聖ローマ皇帝の選挙権のことで、選帝侯七人にだけ与えられていた。ちなみに古代では、市民とは兵役の義務の代償として参政権を得た者のことである。

 近代において、宗教戦争から脱却したウェストファリア体制以降、王朝戦争とは王様どうしの決闘であった。物理的にも場所を決めて、決闘のごとく、ただし大規模に戦う、というのが常であった。

 それが、フランス革命・ナポレオン戦争によって国民戦争と化す。専門家軍人である傭兵が退場し、国民軍が編成されていき、各国は徴兵制を導入していく。このように国民が軍事的義務を果たすと、権利として参政権(選挙権・被選挙権)が付与されていく。

 つまり、戦争が民主主義を促進した、のである。

 そして問題の第一次大戦である。王朝戦争の時代と違い、物理的に敵国都市や軍事工場を攻撃できるようになった。これは大砲の進歩と飛行機の発明が大きい。よって、国家の生産力をどれだけ動員できるかとともに、敵国の鉄・金・紙(軍事力・経済力・文化力=人の力)を破壊するか、という戦争になる。

 ちなみに女性も銃後の守りとともに、生産力向上のために軍需工場に動員されたり、戦場に行ってしまった男性の代わりに社会進出するようになる。第一次大戦を契機に、各国で婦人参政権が認められていくのは、女性も戦争に協力したからである。この時、女性が働きやすいようにと、女性用スーツが発明された。

 だから、女性用スーツは軍国主義の象徴、である。私は、とある場所で「靖国神社は軍国主義の象徴です」とのたまう女性に、「貴女が今着ているスーツの方がよっぽど軍国主義的ですが」と教えてあげたら、絶句されてしまったことがある。

 日本とフランスが1945年までとうとう認められなかったが、この両国は女性差別が強かったという以上に、総力戦を理解していなかったとして批判されるべきであろう。事実、第二次大戦で国土を占領されているし。もっともフランスの場合は、「あげます」と言っているのに、貴族層を中心に「義務が大きいからイヤ」と婦人の方から拒否していたらしいが。

 それはさておき、第一次大戦は戦勝国の英仏も被害は甚大で、ドイツへの憎悪は国中に充満していた。「戦争をやめましょう」とか「ドイツにも寛大な講和を」などと政治家は言い出せない状況になっていた。なぜか?政治家は選挙で選ばれるようになっていたので、そんな軟弱なことを口にしようものなら、落選確実だからである。結果、ロイド・ジョージもクレマンソーも散々戦争を長引かせた挙句、ヴェルサイユ会議でドイツ民族を抹殺するに等しいような条約を押し付けたのだが、押し付けざるを得なかったのである。

 つまり、民主主義は戦争を残酷にする、のである。

 表題、法則とまでは言い切れないが、西欧の歴史を見ているとかなりのところでそれは言えるとは思います。


「次の内閣」にならない?

カテゴリー: - kurayama @ 04時41分29秒

 最初は「知り合いの知り合いの知り合いの知り合い」と、口コミではじまった「帝国憲法講義」も、「『正論』見ました」と興味を持って来てくださる学生さんもいらして、広がりを感じます。ありがたいことです。このブログも結構、見て頂いていましたし。

 今日の内容は、春に竹田恒泰先生の授業にゲストで御呼びいただいた際の、慶應大学大学院法学研究科での授業レジュメをそのまま使ったので、かなり高度に思われたかもしれません。レジュメは「大学ではできない、大学院の授業」になっていましたが。

 さて、気になったのが下の記事。

 題して「鳩山政権人事構想」で 、民主「次の内閣」“影”のまま…?

http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090823/elc0908230202000-n1.htm

 鳩山氏は「次の内閣」(NC)大臣を実際の組閣には反映させない意向を示している。だが、民主党が議院内閣制の手本とする英国では政権を取った政党は「影の内閣」から閣僚を起用するのが通例だ。1997年、労働党のブレア元首相が政権を取った際も、副首相、蔵相、外相など全閣僚の3分の2を「影の内閣」から起用した。鳩山氏がNCを無視して組閣すれば「NCは単なるお飾りなのか」と批判も招く可能性がある。

 「次」と呼ぼうが「影」と呼ぼうが、その人が現在の閣僚に代わる、という意味のはずだが。まあ、首相が人事でフリーハンドを得たいという気持ちはわからないでもないが、原則としては全閣僚を「次の(影の)内閣」から登用すべきであり、それが公約遵守のはずだが。

 大事なのは、影の大臣が現職大臣への質問の中心になり、代替政策を提示することなのだが、日本ではあまりというかまるで行われていない。ついでに、副大臣は細かい答弁を仕事とする役職だが、これもあまりいかされていない。どこの役所でも副大臣の扱い、もてあましているようだし。国会答弁の作成が官僚の仕事の大半を占めるのが、あらゆる意味での無駄だが。

 与野党とも、英国の形式ではなく、実質を真似ないと、無意味である。


2009年8月22日(土曜日)

公明党と創価学会の関係

カテゴリー: - kurayama @ 01時40分34秒

 昔、ハマコーありけり。曰く、「公明党は、天皇陛下の次に池田大作先生を尊敬すると明言すれば、政教分離に関してそれ以上何も言う必要はない」と。

 ハマコーこと浜田幸一代議士、主語が「創価学会員は」でないところが政教分離の原則をわかっていらっしゃる。さすがである。宗教者の信仰、心の中については言及しないのが政教分離が確立した文明国の通義だからである。

 ちなみに、これがアメリカでの話ならば、天皇が星条旗に置き換わるだけである。戦前の日本には不敬罪があったが、今でもアメリカでは国旗侮辱は重大な刑法犯である。というか、アメリカに限らず、普通の国では。

 今の日本みたいによほどの場合を除けば国旗侮辱が実質的に許されている国が異常なのである。まあ民主党の鹿児島での「国旗切り裂き事件」なんて、サミット参加国どころかOECD参加国で許される国が見当たらん。そんな民主党でも良いからお前は嫌だと言われている自民党、猛省した方が良いが。公明党との関係でも自民党が色々とだらしないから悪いのである。もののついでの余談だが、第二帝国とかワイマール共和国には、自民党と公明党の悪いところだけを集めたような、ドイツ中央党という泣きたくなるような政党があった。

参考:室潔『宗教政党と政治改革』(早稲田大学出版会、1977年)

 

 ところで、「天皇陛下に忠誠を誓え」と言われただけで何か変な想像をするのは勝手だが、国王陛下とか大統領閣下とか総書記とか無敵の将軍様に置き換わるだけで、国家が結集原理を必要とする以上、国民に共同体への忠誠を要求してくるのは当然である。(もちろん、それがいきすぎると大変だが)

 創価学会、フランスなどでは危険な宗教と扱われているようだが、彼の国が宗教に関して異常に敏感なのは20日の記事を参照。何せ、20世紀初頭の第三共和制の最大の政治争点が、初等教育を国家と教会のどちらが行うべきか、という国だから。何の比較にもならないが、三アンリ戦争のどの宗派よりも創価学会のほうが穏健であろう。本当に何の比較にもならないが、逆に当時のカトリックやユグノーと同一視されることを創価学会がどう考えているのだろうか。

 小室直樹という田中角栄のあらゆる行為を評価する学者がいたが、彼が唯一角栄を指弾したのが、評論家の藤原弘達への出版妨害事件に手を貸したことである。これは創価学会・公明党の皆さんは言われて耳が痛い古傷だろう。日本国が言論の自由を認めている以上、相手に言わせて反論するのが掟であって、相手に言わせないのは反則である。これは法律に定めがあろうがなかろうが関係ない、守らねばならない法である。それこそ過去の歴史を直視して、反省して、未来志向になれば良いのでは?なんだかどこぞの首相談話みたいだが。

 宗教団体が選挙を手伝い、しかも影響力が大きいと信者以外の不安を煽るのは必然であろう。だから公明党がこう言えば良い。

 「心の中での道徳としての信仰はありますが、社会生活においては天皇陛下と日本国民で定めた法秩序を守ります。自分の自由が大事なので他人の自由を守ります。国民として政治には積極的に参加しますが、特定の宗教団体を政治利用して、他の団体に不利益を与えるような真似はしません」

 ちなみにこの台詞、吉野作造が繰り返し述べていたことである。これが言えないとしたら、問題だろう。少なくとも、誰もが認める創価学会の指導者である池田大作名誉会長が天皇陛下万歳を唱えたという話は寡聞にして知らない。吉野はしょっちゅう言っていたが。

 やたらと原則論ばかりで、事実論が少ないが、こういうことを創価学会も公明党も明言していないし、本来は自民党にしてもその前の日本新党や新生党にしても、連立を組むならこういうことを聞いて、公の場で確認していなければならないのである。


2009年8月21日(金曜日)

新興宗教とは

カテゴリー: - kurayama @ 23時40分59秒

宗教の前提。特に日本の場合。

一、どの宗教も最初は新興宗教である。

二、新興宗教は危険だが、「新興」の内が一番元気がある。

三、新興宗教はやがて体制化して「新興」ではなくなり穏健化する。

「二」に関しては、では浄土真宗は?となるが、蓮如上人はほとんど創業者そのものです。その証拠に明治時代の研究者が真っ先にやったのが親鸞上人の実在の証明ですから。ながらく架空の人物説が主流だったので。

「三」は、日本の場合、異常に早い。奈良仏教も平安仏教も鎌倉仏教も大体30年以内。ちなみに欧州の場合だとカトリックは約1300年かかった。プロテスタントの穏健化が同時期なので、約130年。イスラム教ではまだ穏健化していない宗派もありますな。でも1400年前から一貫して過激な宗派はひとつもないが。

 戦前日本では、○○教なんて「かなり怪しい団体」の扱いを受けていたが、今では考えられまい。ちなみに○○に入る団体、ひとつではない。

 大本教は戦前に大弾圧を受けていたのだが、かの吉野作造(キリスト教浸礼派)は、原内閣の姿勢を「生ぬるい!」と批判していたのである。

 宗教が「新興」の内はどうしても元気=過激に走りやすい。では世俗社会とどこで折り合うか、憲法学の教科書にウェストファリア体制について滅多に書いていないのが不満である。自由とか人権を論じるとき、市民革命なるどう多めに数えても三ヶ国でしか発生していない現象より、当時「欧州」と数えられたすべての国が参加したウェストファリア会議の方が重要だと思うのだが。


2009年8月20日(木曜日)

政教分離とは

カテゴリー: - kurayama @ 14時07分20秒

 政教分離とは。政治と宗教の分離ではなく、政府と教会(教団)の分離である。

 日本国憲法の教科書にはやたらと国ごとの細かい分類がある。しかし、大事なことは、「特定教団に不利益を与えない」か、「特定教団に利益を与えない」か、の違いである。

 サミット参加国では、フランスだけが後者で、あとはすべて前者である。日本国憲法の支離滅裂な条文と判例と学説においてすら基本的には守っている。

 大前提。あらゆる国家に儀礼が必要である。

 儀礼権は国家元首に属する。その儀礼権と言う大事だが面倒な行為を、米国のように実権を有する大統領がやるのか、英国や日本のように君主が引き受けるのかの違いだけである。(このあたりは、ウォルター・バジョット先生の『英国憲政論』の根幹でもある。)

 さて、その儀礼が宗教性を否定するとどうなるか。フランスでは大統領就任式で参謀総長が大統領(予定者)に勲章を与える。ちなみに「世界初の無宗教国家宣言」をしたアルバニアでは、エンベル・ホジャへの個人崇拝が家庭生活に浸透した。

 米国の場合だと、正副大統領は選挙で選ばれるが、聖書に手を置いて宣誓して、大統領に就任する。ケネディの後のジョンソンは飛行機の中であわてて宣誓式を行ったし、ニクソンの後のフォードなどは選挙で選ばれてすらいない。「聖書に手を置いて宣誓」とは、ある意味で選挙以上に重要な大統領就任の要件なのである。

 ではこの「聖書に手を置いて宣誓」は政教分離違反なのか?「特定宗教に利益を与えない」を厳密に解釈すれば問題になろう。しかし、「特定宗教に不利益を与えない」の原則では問題ない。別に、ヒンズー教徒のアメリカ人がそれで不利益を蒙る訳ではない。

 靖国神社に首相が参拝すれば?少なくとも他の宗教が不利益を蒙るわけではあるまい。実は、「愛媛玉ぐし訴訟」以外のすべての判例がそう認めているし。(原告や学説では「首相の参拝で靖国神社のH.P.のアクセス数が増えた。心が傷ついた」などと本気で主張するものもいるが、さすがに裁判所では相手にされていない)

 なお、目的効果基準を打ち出した、津地鎮祭判決、名判決と言われ、結論自体はまったく問題がないのだが、論理構成には不満だらけである。もちろん、目的と効果のどちらに比重をおくかにこだわる学会の傾向にも不満である。大事なのは「まじめな社会生活を送っている宗教団体に不利益を与えないこと」だと思う。


2009年8月19日(水曜日)

最高裁は弱い?

カテゴリー: - kurayama @ 01時52分01秒

 最高裁はなぜ政府権力に弱いのか?超難問ですね。帝国憲法講義でもそこまでいけないかもしれません。おいおい、お話しますけど。

 一つだけ言っておくと、憲法典の不備を東大芦部憲法学が正当化している訳です。

 まずは基礎的な事実関係、実態をしる為に、野村二郎『日本の裁判史を読む事典』(自由国民社、二〇〇四年)からどうぞ。便利で充実していて、本音満載です。


ファシストは左翼か?

カテゴリー: - kurayama @ 01時44分38秒

 表題への解答。右翼にも左翼にもファシストはいる。

ソ連や中国の共産党=左翼ファシズムが国をのっとった。

イタリアファシスタ党=左翼・社会主義陣営から裏切ったムッソリーニが一国一党を実現。

ナチスドイツ=社会主義的体質も持つ右翼が国をのっとる。伝統右翼とは終始対立。

ポルトガルのサラザール、スペインのフランコ=政治的には一国一党、経済的には資本主義。

 ついでに、第二次大戦は「デモクラシーのファシズムへの勝利」という大嘘がまかり通っている。

 ではソ連は民主主義国か?中立国のポルトガルやスペインは?敗戦国でも大日本帝国が問題なら(立憲主義ではあるが)、ソ連の侵略に対抗するために枢軸国についたフィンランドは?

 まあ、主要国のファシストは社会主義的傾向の奴らが多かったのは確かだが。

 長谷川公昭『世界ファシスト列伝』(中公新書、二〇〇四年)をお勧め。完全版は長らく待望していました。


2009年8月18日(火曜日)

「無宗教」補足

カテゴリー: - kurayama @ 01時32分58秒

 無宗教には二つの意味がある。一つは、特定の宗教団体に所属していない、という意味である。日本人の大多数はこの意味での無宗教であろう。だからといって、穏健な信仰者を軽蔑している訳ではあるまい。むしろ行事や儀式だけなら多宗教であるとすら言える。

 もう一つは、あらゆる宗教を「アヤシイ存在」と意味もなく見下す立場である。世の中の宗教にはまじめな信仰者もいれば、邪教も存在する。それらをひっくるめて、何の知識もなく「アヤシイもの」と見下す立場である。かといって、価値中立な訳ではなく、単に見下しているだけである。民主党の言う、無宗教とはこの意味だから困るのである。

 同じ言葉でも二つのまったく異なる意味がある場合がある。この場合の無宗教がこれだから困るのである。単に「靖国神社が嫌い」を主張したいがために「われこそは無宗教なり。価値中立、穏健公正、客観的なり」と主張されるから困るのである。

 


2009年8月17日(月曜日)

とうとうNHKが帝国憲法の偉大さを称える?

カテゴリー: - kurayama @ 16時29分34秒

「官僚〜」の裏番組でNHKが吉田久大審判事(今の最高裁判事)の「気骨の判決」をドラマ化していた。

 一般にはなじみがない人物だが、法制史では有名な方。「昭和十七年衆議院選挙の鹿児島選挙区での大政翼賛会の種々の妨害行為は公職選挙法に照らして違法である」として選挙のやり直しを命じた人物。

 同種の事件で、すべての判決が翼賛選挙の合法を判示しているだけに「気骨の判決」とされる。ちなみに史実でもドラマでも、判決言い渡し直後に辞表を提出し、大学教員に(中央大学)。

 この事件の示す論点は以下。

一、「時局」「政策の利害の比較考量に鑑み」などと、「政府のやったことは正しいという前提に立つべき」とする裁判官が多かったということ。

二、それでも、裁判官の職権行使の独立は守られたこと。同時期のナチスは、司法権独立を尊重する建前を吹聴しつつ、無罪放免された被告を裁判所の外で私刑にしたりした。スターリンのソ連は言うに及ばず。

三、政府の方針に逆らった吉田が、大学教授として市民生活を送れたこと。受け入れた大学はお咎めなしである。せいぜい、吉田に尾行がつきまとったくらい。英米と比べても戦時下では異例。対日戦争に反対したリンドバーグがアメリカ社会から抹殺された例を想起されたし。

 あと、番組ではあまり描かれていないが、東条英機という人は、自分の統治行為の違憲性はかなり自覚しているのである。例えば、陸軍大臣と参謀総長の兼任問題では、辞表提出を拒む杉山元参謀総長に「違憲だ!」と抵抗された時には、(お前に言われたくないとばかりに)「非常時だ!」と論破しにかかっているのだが、貴族院議員5人が官邸をひそかに訪れ問いただしにきた時は素直に謝った上で「非常時なので許してください」と低姿勢なのである。東條は良くも悪くも生真面目な官僚なので、法律論とか細かいことはかなり気にするのである。

 さて、現代の問題として重要なのは「一」である。戦後の最高裁の政府正当化のすさまじいこと。これ、実は戦前も戦後も変わりないのである。むしろ帝国憲法下でこそ吉田久のような立派な裁判官が存在したとも言えるし、逆説的に裁判官に勇気があれば、立憲主義も法の支配(法治主義)も守れる、ということを訴えたかったのか。

 立憲主義において大事なのは、憲法の条文に何が書かれてあるかではない。法の精神を守ることである。条文と解釈をこねくり回して、政府の違憲違法非立憲的行為を正当化してはならないのである。

 新旧憲法下における司法権のあり方、極めて重要な問題なのだが、ひとつだけ。日本国憲法下においてこそ、権力に弱い裁判官は多い。

 NHKが帝国憲法下において気骨のある裁判官がいたと、帝国憲法は法として生きていた、とする番組を作った意義は大きい。NHKにも心ある人はいるみたいだ。

 JAPANデビューみたいな愚かな番組もあるが。


TBS版「官僚たちの夏」は来ない! 第七回

 何だか、佐藤栄作に代わって、あの世からの名誉毀損訴訟を起こしたくなった。長塚京三演じる須藤大臣、もはや佐藤栄作とは別人である。佐藤さん、あの世からギョロ目で睨んで下さい。って、今の人は佐藤栄作がギョロ目で、記者会見の時なんかにすごい迫力で威嚇してたのは知らないか。しつこいが、あんな弱々しい政治家ではありません。

 今回は風越一派(その走狗が須藤前通産大臣)が推進する「国内産業保護法」が、池内総理の包囲網によってあえなく潰える話。これでもかと反風越派が悪を極めた描き方をされていたが、やっていることはどっちもどっち。ドラマの描き方だと、風越たちだけが正義の味方に見えかねないが。

 風越の政治家への暴言はもう慣れた。もはや敬語すら使っていなかったが。それは官僚としてまずいだろうけど。

 今回の古畑通産大臣こと福田一、ウィキペディアではやたらと持ち上げられているが、TBSでは救いようがない俗物大臣として描かれている。城山原作の方がむしろ風越の横暴に腹を据えかねたとして同情的ですらあるが。

 余談だが、別件の取材中に福田一に関しての秘話を聞く機会があったのだが、よく三木武夫はこの人を閣僚に登用(前代の田中角栄内閣からの留任)させたなぁ、という政治家です。この話、もう少し詳しく書きたいのだが、もう少し取材を詰めてからにしたいと思っている。

 さて、風越たち、貿易自由化は悪だと思っているが、風越の妻や娘はバナナが安く買えると喜んでいる。風越に批判的な片山らは「天下の悪法」と呼んではばからないが。そらぁ、官僚主導の業界再編とか、法律による銀行への融資の(実質)強制とか、

 社会主義国の官僚統制そのものである。

 政財界に相手にされない風越の苦し紛れの一言!

 今は挙国一致の時です!

 これに対するいつも悪役の山岡頭取(大蔵省出身天下り)の反論。

 統制経済の復活だな!

 ごもっともである。

 風越に毒づかれた(って、これもすごい行為だが)池内総理の返答。

 返り血を浴びるのが怖くて一国の総理が務まるか!

 これもごもっともである。


2009年8月16日(日曜日)

無宗教こそ最も危険な宗教

カテゴリー: - kurayama @ 19時12分39秒

 宗教学者が百人いれば、宗教の定義は百通りある、とのことである。宗教とは何かを考えること自体が宗教(学)の使命でもある。

 ちなみに、最高裁判決は「超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する信条と行為」と定義している。とにかく超越的存在を信じる行為の体系が宗教と言えよう。

 もう十年位前になるか、とある学会で「宗教とは、religioつまり人と人との結びつき、が語源であるとは共通理解だと思われるが・・・云々」と質問したら、パネラーの魂に火をつけてしまったのか、大論争が始まったということがあった。

 さて、民主党が作ろうとしている無宗教の国立墓地なるゲテモノに関して。人は死ねば物質にすぎない。その死んだ人を慰霊するということは、そこに物質以外の存在を信じているということである。物質以外の超自然的超人間的存在を信じるということは、それが既に一つの宗教なのではないか。いかに無宗教だと言い張っても。少なくとも最高裁の定義では立派な宗教である。政府が無宗教の国立墓地なるものを作るのなら、この判例をどう変更する気か?しないで無視すればどうなるか?その状態を文明国では憲法危機と呼ぶ。

 宗教というとアヤシイ、などという若者は多い。それでいて正月には神社で手を合わせて現世利益をねだり、盆休みやクリスマスを満喫する。

 確かに、本当にアヤシイ宗教団体は多い。特定の宗教団体に属していなければならないなどということはない。あるイスラム教国のように、飛行機に乗る際に「私は無宗教です」と申告した瞬間、動物といっしょに荷物置き場に回された、などというのも日本人の感覚からは行き過ぎと思われるだろう。しかし、深刻な宗教紛争を経験したことのない日本人にとっては(幸せなことに)わかりにくいが、宗教とは信じる価値観そのものなのである。むしろこのイスラム教国の行為はアヤシイ宗教団体などと違って真っ当だといえるのである。

 比叡山延暦寺根本中堂の不滅の法灯の話は『正論』の七月号で述べた。実はそのときの朝のお勤めでお坊さんから講話を聞かせてもらったのだが、「特定の宗教に入りなさいとは言いません。しかし宗教の存在を否定する人は懸念します。なぜなら、宗教を信じるとはある価値観を信じることだからです。価値観のない人は動物と同じです」といったことをおっしゃっていた。

 無宗教が宗教ではないとのたまう方々。つまり自分は「価値中立である」「不偏不党である」とでも言いたいのか。ものすごい上から目線である。要するに「自分の主張が正しい教えである」と述べているに過ぎないではないか。無宗教という価値観も一つの価値観・宗教であり、他の価値観・宗教と同じなのである、という謙虚さが微塵も感じられないのである。

 自分の信じる価値観が世の中にある多様な価値観のうちの一つであると思わず、価値中立的な普遍の真理であるという確信。これこそが最も危険な宗教ではないか。

 無宗教こそ最も公平な価値観、正しい教えだという幻想が存在するが、そんなことはありえない。自覚なき無宗教こそ最も危険な宗教である。


2009年8月15日(土曜日)

軍国主義はファシズムの宿敵

カテゴリー: - kurayama @ 23時35分18秒

 靖国神社への罵倒語として、しばしば軍国主義の象徴などと称される。ではそう思っている人に聞くが、軍国主義こそファシズムの宿敵である原理をご存知か?

 「全体主義」「国家主義」「軍国主義」「ファシズム」の違い、わかっているのだろうか?全部、大日本帝国への罵倒語として使用されるが、「悪いもの」くらいの定義しかないから怖い。

 「全体主義」とは、「異論を許さない体制」のことである。普通は独裁体制のことをさすが、ドイツのような「民主主義の否定は許さない」なども一種の全体主義と言えるのである。革命とか無政府状態を認めない国は実は「全体主義」になりうるのである。国民の自由への制約が、緩いか厳しいかだけであって。

 「国家主義」とは「国家を至上とする価値観」である。外国の支配を受けない、宗教教団やマフィアや貴族や軍閥など政府の命令に従わない団体が存在しない、ということである。元来、穏健思想である。例えば、フランスではジャン・ボダンの理想に基づいてリシュリューが実行した。

 「軍国主義」とは「軍事を国策の最優先事項とする状態」のことである。「国家主義」は一度はこの状態を経験するものである。日本だと、元寇の際がそうであると言える。近代だと日露戦争に至る富国強兵の過程などがそうであることに異論はあるまい。昭和期は?まともな統一的な国策もないのに「軍国主義」になれるはずがない。せいぜい「軍国主義的傾向」、くらいであろう。「軍国主義モドキ」でも良いが。まあ「軍国主義」を目指していたことはわかるが。

 「ファシズム」とは「党が国家の上位にある体制」である。イタリアファシスタ党もナチスもそうである。同時期の日本では「一国一党」と言った。だから、大政翼賛会を作るために全政党が解散したときに、グルー駐日アメリカ大使は「政党がひとつもなくなってファシズムはできない状態になった」と日記に記しているのである。一つの党が、愛国心や軍国主義を鼓吹しながら個人崇拝を強要しつつ国家を乗っ取ろうとする時、必ず立ちはだかるのが軍である。ドイツ国防軍はヒトラーに対して最後まで抵抗し続けたのはこの原理による。

 「ファシズム」と「国家主義」「軍国主義」は原理的に両立できないのである。

 ではなぜ日本の学者は世界的に共通の「ファシズム」の定義をごまかすのか?(ほんとにわかっていない御仁は別として)

 共産党がファシズムだからである。スターリンや毛沢東がヒトラーと同じような体制で、共産党は国家の政府をのっとり、秘密警察とともに軍と対立している、などとは言いたくないのである。しかし、事実はそうなのである。ソ連では共産党と赤軍とKGBが三極対立していたではないか。

 大日本帝国では最後まで憲法が生きていたから、ファシズムにはなりえないのである。また、軍国主義になりきれなかった日本に、軍国主義の象徴も何もなかろう。

 以上の原理と事実を踏まえた上で。「靖国を軍国主義の象徴」とのたまう方には確認する。

「では靖国神社をアンチファシズムの拠点だとあなたはお認めになりましたね。大日本帝国がナチスドイツやソ連邦や中華人民共和国とはまったく違った体制の国家であったとお認めになることになりますがよろしいですね。実際に靖国が軍国主義の象徴であったかどうかは、あなたが靖国をアンチファシズムの象徴であったとお認めになったと確認できてからお答えします。はっきり宣言してください。靖国神社のおかげで日本はナチスやソ連や中共のような危険極まりないファシズムにならなかったと。」

 このおちょくり術、どうぞご自由にお使いください。たいていの相手は沈黙します。


靖国行ってきました

カテゴリー: - kurayama @ 22時58分06秒

 本日は朝六時まで雑誌原稿執筆。この日にふさわしく、三木武夫と松野頼三の話。おそらく読者の皆様にとってはまったく新しい戦後史になると思います。詳細は近日発表。乞御期待。

 さて、八時に大村益次郎像の前に集合。有名人とか、いろいろな団体の方がいた。飽きない。小泉さんと安倍さんも来られていたとか。どうでも良いけど、鳥肌実もいた。

 チャンネル桜の皆さん、竹田研究会の皆さん、ゆっくりご挨拶できずすみませんでした。

 吉住健一都議と四団体をはしごしたが、昼食での話題。

「対馬問題」を長崎県の政治家は触れて欲しくないらしいので、東京の政治家が問題にしているとのこと。なぜ長崎県の政治家は領土問題なのに弱腰なのか?そんなことはここでは言えません。ご想像通りです。それこそしょうがない

 さて、靖国神社は気軽に参拝できるところなので、あんまり堅苦しい作法を強調するのは無粋。仏教団体やキリスト教団体も首相の靖国神社参拝を支持する冊子を配っていた。この「良い加減さ」こそ日本的で平和なのである。他の国だとありえない光景ですな。

 しかし、一点だけ絶対に守っている作法がある。

 二礼二拍手一礼、である。なぜか?

 総理大臣の公式参拝において、どこぞの内閣法制局は靖国参拝が宗教性を帯びてはいけない、などとまくしたてて、首相に対して一礼だけをさせている。法律オタクの法律無知、条文オタクの法知らず、ここに極まれりの愚行である。この方たち、政教分離の何たるかをわかっていないのだが、それにだまされる政治家も政治家である。まさか政教分離を「政治と宗教の分離」などと勘違いしていないだろうか。これ、神仏習合とかウェストファリア条約から説きおこさないと駄目な気がしてきた。

 中曽根首相の参拝において、靖国神社の松平宮司は「手水、玉串、二礼二拍手一礼は参拝者の心のありようだが、御祓いだけは神社のすることだから」と譲らなかったらしい。一般の参拝者は、手水(ちょうず)で手を洗うだろうし、玉串料代わりにお賽銭くらいは出すだろう。となると、問題は二礼二拍手一礼になる。

 あんまり細かいことを言っても知らない人にはうんざりされるが、私は二礼二拍手一礼だけは守っている。無知な亡国官僚の戯言への抗議である。

 民主党は無宗教の国立墓地などというカルト施設を作りたいらしい。意味がわかっていないのだろう。これもそもそも「英霊」の意味というか国際常識から教えねばなるまい。


2009年8月14日(金曜日)

サロン開催

カテゴリー: - kurayama @ 01時14分04秒

 本日、「倉山憲政史サロン(仮)」を開いてきました。紹介制の内輪の会と聞いていたのに、「QOLのH.P.で見て着ましたぁ」との方々も。そんなことならこちらでも宣伝しておけばよかった。残念。

 前日深夜に、親友の吉住健一東京都議から電話。「行きます!知識がないと仕事にならない。知識をもらいにいきます!」と激励の一言。気軽な茶話会くらいのつもりいたが、彼の「タメになる知識」をネタ仕込み。おかげで体調が良くなり、朝七時の会に出席するために四時から散歩を始めても、足取りが軽かった。「友情パワー」みたいなものか。誰かが真剣に期待してくれるっていうのは、やる気になります。

 内容は

「ハマコーって、自民党の中でどれくらい偉かったの?」

「小沢が100人の子飼いをつくろうとも、福島瑞穂の5議席の方が強い憲法上の理由」

「自民党議員が斜めに登る、四つの出世の階段」

というような話でした。

 高校生時代の世の中の仕組みがまったくわからなかった自分にわからせるようなつもりでやりました。

 それにしても、もう少し名称が何とかならないものか。硬いなあ。


お返事

カテゴリー: - kurayama @ 01時01分14秒

皆さん色々と書き込みありがとうございます。

<憲法とは

どこぞの宮沢憲法学みたいに、「憲法は人権を実現する手段だ」とか目的と方法が転倒したこと言い出したらどうしましょう。学生さんの書き込んだ定義は一般的な定義です。講演ではさらに踏み込んだ定義をしています。今後、このテーマで色々な所で講演しますので、時間と場所が合えばお越しください。早朝が多くなりそうですけど。

<無宗教墓地

どうやら、靖国神社でなければ嫌だという人の気持ちは踏みにじって良いらしい。マルクス曰く「無宗教ほど危険な宗教はない」と。総本山のご本尊が言ってるのだから間違いあるまい。

<地方議員

税制に限らず、細かい地域特性には精通するでしょうね。とするとここで大事なのは、国会議員は何をすべきか。防衛・外交・司法制度・国民教育・治安・通貨政策など、か。岸信介など、経済財政は官僚でもできるけど、総理になったからには外交をやりたい、と述べていましたね。

日本在住外国人が地方に増えている以上、地方議員こそ国際政治の基礎を学ぶ時代が来ました。


2009年8月13日(木曜日)

最近の反応ーそもそも憲法とは

カテゴリー: - kurayama @ 05時16分37秒

 最近、いろいろな所でいろいろな方から反応をいただくが、ほとんどがうれしい反応ばかりである。理解されるというのはうれしいものである。

 憲法の話をすると、よく「改憲派ですか、護憲派ですか」という質問を受ける。結論だけ聞かれると困るのである。改憲派にも、「第一章を変えよ」などという人もいるので、うかつな返答はできないのである。

 そういった中で私が常日頃強調しているのは、「憲法論議とは条文いじりではない。その前に日本とは、日本人とは何かを考えること、知ることが大事だ。その上で、あるべき日本の姿を考えて、条文は最後だ」ということです。

 最近、多い講演のオファーが「そもそも憲法とは?」です。こういう話をしています。

 そう言えば、靖国参拝の時期ですね。

 


2009年8月12日(水曜日)

東京都議会、民主と自民の対立で流会

カテゴリー: - kurayama @ 23時58分11秒

 東京都議会が開会すらできていない。衆議院選挙と関係なく仕事をしてほしいが。

 その昔の東京市議会は伏魔殿と言われ、政友会の鳩山一郎と民政党の三木武吉が鎬を削った舞台でもある。この二人、後には吉田茂を倒すべく奔走する盟友となる。
 
 ちなみに、東京市に比して、東京府は影が薄く、戦時中の昭和十八年に東京府と東京市は合併して、東京都となる。これが現在の東京都の始まりである。
 
 帝国憲法の制度では、公務員の兼職は可能だったので、鳩山や三木は東京市会議員として活発な活動ができたのであり、尾崎行雄などは国会では万年非主流派か野党だったが、東京市長としては有名な桜の木の逸話などを残せている。
 
 外国ではフランスのシラク大統領が長らくパリ市長として辣腕を古い、首都防衛の観点から安全保障に精通し、バルカン問題で揺れる欧州の安定化に多大な貢献をしたことは記憶に新しい。というような話は日本ではあまり知られていないか。
 
 本朝においても、知事や市長などの地方自治体の首長が国政においても発言力を有するようになった。石原東京・橋下大阪・上田埼玉・森田千葉・松沢神奈川・東国原宮崎といった現職、増田岩手・北川三重・橋本高知の元知事も活動は県内に留まっていない。

 国政(=国会+政府+政党+派閥)で研鑽するのも政治家の仕事だが、いかんせんその他大勢の中の一人の陣笠と化してしまいかねない。
 現在は公務員の職務専念の趣旨から、地方自治体の長に立候補しようとすれば、国会議員はその地位を失ってしまう。しかし、知事などの首長の経験は貴重である。兼職禁止や立候補資格の厳格さを考えても良いのではないだろうか。当選したらあとは何もしないよりは、地方政治で自分の能力を活かしたいと思う方が真面目では?もちろん、気軽に立候補されても困るが。

 しかし、それにしても民主党は都議会第一党なのだから、自分達の政権運営能力を示す絶好の機会なのだが。このまま都議会が開かれず、空転してしまうと鼎の軽重が問われよう。
 少なくとも、都知事への拒否権集団と化してしまっては困る。


2009年8月11日(火曜日)

頭を下げるのは嫌いだが、結局主計局に弱い(後編)

カテゴリー: - kurayama @ 22時55分51秒

 官僚機構においては、予算や権限を取ってきたものが偉いのである。逆に、手放したものは末代までの笑いものとなる。(その最たる例が鳩山威一郎大蔵次官)

 風越先生も官僚である。官僚機構の論理には忠実である。
 風越先生、「左遷」先の特許庁長官の在任時には「いいか、おれたちは主計局の金をもらうんじゃない。国家の金をもらうんだ。主計局に一々頭なぞ下げに来るもんか」と言いつつも「ただ、今度だけはちがう。非常事態だ。のんびりとして居れんし、何が何でもとらねばならん」と、特許出願審査官の増員の為の予算を獲得に奔走する。
 これだけ聞くと、よい話である。

 ところが。風越長官がこの一件で「大物長官」「名長官」と言われるのは良いが、それで事務次官就任の噂が流れるというのは如何なものか。不確実だった風越の次期次官就任がこの功績と評判で、確実に流れが変わっていく。(290頁)
 結局、自分の出世のためには、主計局に出向くのである。

 天下国家のためなら、下げたくない頭を下げる、というのならばまだわかる。しかし、風越が主計局に出向くのはこの時の一回限りである。
 めでたく(?)風越は事務次官に就任するが、この時の予算折衝では、大蔵事務次官との折衝以外、何もしない。すべては部下任せである。そして官房長の鮎川(テレビでは高橋克実が演)が過労死してしまう。(329頁) 
 風越が殺したようなモノでは?

 腹心の部下が過労死してでも、他人には頭を下げない!

 もはや、見上げた根性である。(つづく)


拉致と日教組と民主党

カテゴリー: - kurayama @ 02時06分51秒

 こういう記事があった。 教員は政治力 民主、「わが世の春」待つ日教組

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090810-00000547-san-pol

 すごいとしか言いようがない。

 事実関係だけ並べると、

 静岡県知事選では公立学校教員の政治的中立を完全無視して全面支援、当選。

 輿石東民主党参議院会長曰く「政治を抜きに教育はない。教育を語るとき政治を語らなければならない」と公言。 

 民主党唯一の有力支持組織が連合。その中でも自治労と日教組が最有力。

 民主党には8人の日教組議員、輿石以下の3人が「次の内閣閣僚」。

あたりはこれまでも知っていた客観的事実だが、

 槙枝元文元日教組委員長が議長を務める「朝鮮の自主的平和統一支持日本委員会」は、北朝鮮への制裁措置の中止を求める要望書を麻生首相と中曽根外相に送ったとのこと。

 槙枝と言えば、昭和50年に「スト権スト」を起こし、当時の海部俊樹官房副長官とのテレビ討論で徹底論破された人物という印象しかないのだが。同記事によると、「もっとも尊敬する人物は金日成」「平成3年に北朝鮮から親善勲章第一級を授与される」とのこと。

 平成14年9月17日に金正日自身が日本人拉致を認め謝罪した後にここまで北朝鮮擁護的行動を取れるのであるから、見上げたものである。確信的行動ですな。ではどうやって北朝鮮に拉致されたままの日本人を取り返すのだ?

 古の大英帝国は、デンマークに王妃として嫁いだCaroline Mathildeが宮廷クーデターにより、離縁され、その身体に危機が迫った時、駐在公使が曰く「彼女が離縁されたのならばデンマークの王妃ではなく、英国国民である。彼女に危害を加えるならば、コペンハーゲンに艦隊を派遣する」と。

 デンマーク王国はこの論理と覚悟にぐうの音も出なかったのである。

 戦争をしないで他国にとらわれの身になった同胞を助け出した、という先例としてあげたが、こういう例は歴史上いくらでもあるのである。日本人として研究すべきであろう。

 だが、この前のクリントン訪朝を見ても、もはや米国にすらこれをやる力がないことが怖い。


2009年8月10日(月曜日)

ジェノサイドについて

カテゴリー: - kurayama @ 02時16分20秒

 米国の広島と長崎での所業がジェノサイドにあたるかどうか。

 ジェノサイドとは「ある国民・人種・民族・宗教の構成員への抹消を目的とした集団殺害」と、ジェノサイド条約での定義がある。

 かの者ども当該行為は、「人体実験」「日本やソ連への威嚇」など動機に諸説あるが、「日本人の抹消」までは考えてはいないだろうし、当時米国が保有していた原爆では物理的に不可能である。意思も能力も有さない以上、ジェノサイドには当たらないだろう。

 だからといって米国の行為はまったく正当化されない。非人道行為とか、残虐行為とか、国際慣習法違反とか、当時のハーグ・ジュネーブどの条約にも違反するとか、文明に対する敵対行為とか、には該当するが。

 なお、もっとも有名なジェノサイドの既遂犯はタスマニアに対する英国。ヒットラーのユダヤ人に対するそれは不幸中の幸いで未遂犯で終わった。現在の中華人民共和国の少数民族に対する一人っ子政策の強制などは明らかにジェノサイド条約違反だが、なぜか日本の人権活動家は寛容である。

 ちなみに、広島と長崎への原爆投下が米国にとってまったく不必要だった理由。最初から国体の護持さえ認めれば、日本は降伏を受容できたはず。少なくともしなくても良い戦闘はあったし、原爆による日本人の恨みをかう必要もない(普通はああいうことをやれば最低100年は恨まれる)。

 グルー国務次官の、米国の国益の観点からの批判である。


TBS版「官僚たちの夏」は来ない

環境ファシズム万歳?! 学歴秀才に栄光あれ?!

と思わせられる視聴感だった。やはり歴史歪曲によって池田勇人を貶めていた。

 いよいよ風越一派の特定産業振興臨時措置法(番組では「国内産業保護法」=原作の「指定産業振興法」)をめぐる政官界の派閥抗争が本格化する。池内総理(池田勇人)に取り入る玉木派VS須藤通産大臣(佐藤栄作)を担ぐ風越派、という構図で、公害対策やら予算折衝やらありとあらゆる政策が絡んでくるのだが、単純にいえば「玉木と風越のどちらの政策を採るか」という醜い派閥抗争である。結果、総理に直接取り入って自分の政策に関する予算だけを獲得した玉木が、直接の上司である通産大臣と事務次官の怒りをかい報復的に左遷されるという話である。

 今回は、風越らも玉木らもお互い様である。次から次へと自分の主張に都合の良いデータを提供してくれる学者を連れてきて相手を論破しようとする、というのは霞ヶ関の情景を丁寧に描いているとは言える。しかし、日本を思う熱い官僚を描くのが謳い文句では?

 こいつらが理想の官僚か?

 ちなみに、日本の特殊事情に関して。欧州だと学者の地位が高く、政府の大臣や官僚は「何が正しいか」を聞かせてもらうために、名門大学の教授をお呼びするのである。古くは小ピットが閣僚全員でアダム・スミスを最敬礼で迎えた伝統である。しかし、日本では官僚が自説を補強するもっともらしい権威として学者先生を呼びつけるのである。大学教授の方も、官僚から情報をもらって喜んでいる有様である。どことは言わないが、政府の審議委員や何かの肩書きをもらえることを無上の喜びとする方々が多数いる大学がある。嘆かわしい。

 さて、本題。池田勇人の描き方に対して、佐藤栄作の悲劇のヒーローぶりは何だ?いつから佐藤はひ弱なインテリになったのだ?予算編成で総理と衝突したくらいで打ちひしがれるんだ?原作では、激昂する風越を「政治判断だ」と軽くいなしているので、異様である。

 史実では、確かにこの頃から池田は佐藤を警戒し、佐藤派の番頭である田中角栄を大蔵大臣に起用するなど、佐藤への牽制をはじめている。対する佐藤の態度は「俺が総理にしてやったのに」である。池田が佐藤を一方的にいじめていた、などということはまったくない。むしろ、池田死後にその派閥を継いだ前尾繁三郎に対する佐藤総理の仕打ちこそ、恫喝・裏切り・いじめのオンパレードなのだが。池田の貶め方と佐藤への同情が異様である。

 なお、公害対策の話は前回に続き原作にないので、やはり架空の話。ただ注目すべきは、かの暴君風越信吾様も、環境問題の前では金縛りにあったように、「どいつもこいつも騒ぎやがって」との自説を撤回してしまう。

 最初は、公害問題を取り上げた仲間の御用記者を風越一派でつるし上げていた。庭野に至っては「非常時だ!」とまで言い切る。戦争映画の悪役憲兵か?しかし、風越信吾様も家まで押しかけられると考えを変えてしまう。今回の風越、妙に物分りがよい。

 今の受験界では「自然」「環境」は絶対の善の価値観である。神にも等しい「環境」の前では、「高度経済成長」や「科学技術の進歩」は悪魔化すらされる。実は学歴エリートの風越が環境問題の前に金縛りになるのは不思議ではない。この風越の態度、むしろ作り手の意識の反映だろうが。無論、環境問題を口にした途端に左翼呼ばわりするのも極端である。しかし、「企業=資本家=悪」というマルクス主義の価値観が支配的で、環境問題がその道具として使われた事実も忘れてはなるまい。

 別に池田勇人だって公害対策に無頓着だったわけではないのだが。高度成長と環境問題を二者択一のように扱うのはおかしいし、公害問題を強調しすぎて池田勇人の功績を否定するのもいきすぎだろう。教科書や試験問題などの、受験界ではそのようにおかしい記述になっているが。

 

 ところで、この番組、いまだにノンキャリアが一人も登場しないのだが、どうしてだ?

 ちなみに主要登場人物、全員東大法学部出身です。吹石一恵演ずる山本真(坂本春生)のみ経済学部。池田勇人は京大法学部出身なので、かなり差別された。佐藤栄作は東大法学部から運輸事務次官。

 これは重大な問題なのであえて問う。 

 日本のことを考えていたのは東大法学部出身のキャリア官僚だけか?

※一般的な「環境ファシズム」の「ファシズム」は「全体主義」の意味だろう。本来の「ファシズム」はそういう意味ではないので、注意。


2009年8月9日(日曜日)

NHKの自己批判?

カテゴリー: - kurayama @ 23時51分30秒

「官僚たちの夏」の裏番組の「NHKスペシャル」で、NHKが旧海軍批判をしていた。

 最近流行の「海軍悪玉論」だが、「陸軍悪玉論」が完全に定着しているがゆえに、という観点での主張には注意が必要である。つまり、陸軍だけでなく、海軍も、そして最終的には日本人全員が悪かった、という議論への誘導の危険があるので注意が必要なのである。

 対米開戦のように「間違っているとわかっていたことなら、何があろうとも最高責任者を説得すべき。目の前の仕事に追われて、セクショナリズムに陥るべきではない」とのディレクターの言。

「JAPANデビュー」のことか?NHK職員の多数があの粗雑極まりない番組に批判的だそうで。そういう反応しか入ってこないのだが。


2009年8月8日(土曜日)

憲法九条信奉者=核武装論者

カテゴリー: - kurayama @ 16時18分14秒

 8月は日本人にとって不愉快な季節である。

6日、広島への原爆投下。=国際法違反

8日、ソ連の裏切り参戦。=国際法違反

9日、長崎への原爆投下。=国際法違反

15日、敗戦。=実は有条件降伏だが、米国を中心とした連合軍は守らず国際法違反

 

 さて、私の大学の学生は、憲法九条の平和主義を信奉している度合いが高いほど、いきなり核武装論になる。なぜか?

 この世から犯罪が無くならないように、他者に対して暴力を振るいたい者も無くならないのである。それが国家の場合、最近の用語では「ならず者国家」と呼ばれる。「ならず者国家」の筆頭がもちろん、北朝鮮である。「東京を火の海にしてやる」と公言している北朝鮮に善意を期待できようはずがない。北のミサイルは日本に向いているのである。

 そこで、九条を信奉する学生に問う。「あなたは北朝鮮の脅威の下で憲法九条を頼って生きていきますか」と。

 そうすると、いきなり「日本も核ミサイルを持って、やられないようにしよう」と言うのである。空母も、F22も、陸上自衛隊の増強も全部飛ばして、核武装論になるのである。憲法九条を信じ、戦争について何も考えたことがないと、軍事とは核ミサイルがすべてだと思っているからである。現代戦では、核保有国が存在するからこそ、通常戦力も大事なのだが。

 要するに、自分を暴力から守りたいから、平和主義者になるのであって、警察と同じ役割を核ミサイルに求めてしまうのである。

 その昔、内村鑑三という、対外強硬論者から絶対平和主義者に転向した人がいた。転向というのは正しくないかもしれない。日本は豊かであり続けたい、戦争で悲惨な目にあうのはいやだ、という点は一貫していたので。日清戦争は勝てるから対外強硬論、日論戦争は勝てそうもないから絶対平和主義で、実は同じことなのである。

 「憲法九条信奉=核武装論」という図式、同じですね。

 


2009年8月7日(金曜日)

第一次大戦の日本外交

カテゴリー: - kurayama @ 16時27分45秒

 熱心なレス、ありがとうございます。本当に「大学でできない」やりとりと化してきましたね。以下、雑多ですが、思いつくままに返信をします。

 石井菊次郎の『外交随想』と『外交余録』を読みこなせば、外交史の基本は身につきます。外交官や外交史家のみならず、必読の教養書です。実はご質問に関する事項はすべて書いてあります。古本屋で見つけたら、値段にかかわらず即買い!という名著です。

 石井は、井上馨亡き後、最も国際政治をわかっていた日本人と断言できます。井上以前はともかく、以後は石井ほどの「外交英雄」はちょっと思いつかないです。匹敵する人がいないわけではありませんが。

 第一次大戦勃発当初から、石井はロシアへの援助を最も主張していました。英国のグレイ外相に対し、七年戦争の故事を引いて、「東部戦線を崩壊させてはならない!油断するな!」と説教したとのことです。実際に日露協商を実質的な軍事同盟にもっていくのに主導的な役割を果たします。さすがに帝国陸軍の派遣は日本の能力の限界を超えていたでしょう。後のシベリア出兵以上に国民的合意も得られなかったでしょうし。だから可能な限りの武器支援はしている訳です。

 ただ、第一次大戦はしょせん「欧州大戦」にすぎず、「世界大戦」になっていない訳です。カナダから地中海まで、帝国海軍が守っていたからです。

 ドイツ海軍唯一最大の利点であるUボートによる通商破壊は帝国海軍にはまったく通用しません。米国には通用してしまいますが。(この点の細かい話は、下記の平間先生の御著書を参照。)

 ではなぜ日本はヴェルサイユ会議で、五大国の末席であって、それ以上の発言力がなかったのでしょうか?この疑問に対しては、全権代表の西園寺公望や牧野伸顕の資質は、散々言われているのでとばします。

 あまり言われていないことで石井に関することで言えば、当時の首相の原敬が理由不明に石井を毛嫌いして、石井を会議全権団に入れなかった、ということは言えます。ついでに言うと、原敬は外務次官出身ですが、相当な外交音痴です。これもそのうち、ご紹介していきたいと思います。『原敬日記』の記述を見ても、井上馨の下で仕事をしていながら井上が何をやっているのかわかっているとは到底思えないですし。原に関しては、内政での評価と切り離すべきでしょう。

 英米との関係にしても、石井は冷静に見ています。ほとんどの人が忘れていますが、大英帝国にとって、第一次大戦後の米国は自らの覇権に対する脅威です。はっきり言えば、英米は相互に最大の仮想敵です。石井は、日本がしっかりしていれば、英米どちらも日本を味方にしようと擦り寄ってくる、と見ています。実際には、日本人の大多数が英米一体視による被害妄想を抱き、破滅に至るのですが。(親独派とアジア主義者は、反英米の一点で同意できる)

 原爆の日云々に関連してですが、これに関しては三国干渉以後の状況が参考になるでしょう。

 三国干渉によって、世論と衆議院議員の多数は「臥薪嘗胆!」とロシアへの憎悪を絶叫していました。一方で(干渉の直後はともかく)当時の日本の元老・外交官・高級軍人は皆、ロシアではなくドイツが黒幕だと知っていました。しかし、責任ある指導者たちは誰もそれを口にしませんでした。ロシア一国でも大変なのに、あえてさらなる敵を作る愚をおかしたくないからです。そして行動で、日露戦争による勝利と一九〇七年四国協商によって、苦境をひっくり返した訳です。四国協商とは、つまりは日本だけが安全地帯にいる対独包囲網です。これは日露戦争の勝利と、その前後の対外政策の成果です。

 アメリカが憎い、ソ連が許せないは正論です。しかし、敵は選ばねばならない訳です。まずは祖先たちは苦境をどう切り抜けたかを学ぶべきでしょう。

 また学ぶべき外国の事例もあります。イスラエルなどは、第二次中東紛争で、英仏を餌にして米ソを出し抜きました。

 米国に対する私の立場としては、反米でも拝米でもなく、親米であるべきだと思っています。現実には同盟国として仲良くするしかないのですが、拝米にならないためには歴史を忘れてはならないのは確かでしょうね。

 最後に、大英帝国絶頂期の外相であるパーマストン卿の言葉を。

「大英帝国には永遠の敵も永遠の味方もいない。永遠の国益があるだけである。」

※「シベリア出兵」などという独立した紛争は存在しませんが、便宜的に呼称を使用しました。そんな戦 争が存在したと思っているのは日本人だけです。最近、アメリカ人の一部も怪しいですが。

<推薦図書>

石井菊次郎『外交余録』(岩波書店、一九三〇年)

石井菊次郎『外交随想』(鹿島研究所出版会、一九六七年)

海野芳郎『国際連盟と日本』(原書房、一九七二年)

平間洋一『第一次世界大戦と日本海軍―外交と軍事との連接』(慶應義塾大学出版会、一九八八年)

君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交 : パーマストンと会議外交の時代』(有斐閣、二〇〇六年)


2009年8月6日(木曜日)

SAPIOの「外交英雄」記事

カテゴリー: - kurayama @ 16時01分26秒

 今週の『SAPIO』で「外交英雄」に関する記事が特集されていた。外交官・政治家に限らず、日本の外交的地位を押し上げた人物を識者のアンケートでランキングするという内容らしい。

 こういう特集をやると、日清戦争の陸奥宗光、日露戦争の小村寿太郎は必ず上位に位置されるのだが(陸奥は12位、小村は3位)、なぜかとりあげられない人物がいる。
 第一次大戦の石井菊次郎である。

 ざっと大きなものだけ、その功績をあげていくと。。。

一、辛亥革命に対し不介入政策、大陸動乱に巻き込まれず。
一、第一次大戦中、イギリスの外相に説教。予言を的中させる。
一、ロンドン宣言加入、日本を大国にする。
一、石井ランシング協定、聞き訳がなくなってきた米国を黙らせる。
一、国際連盟を仕切り、あらゆる欧州の揉め事を一手に処理。

 どの一行でも金字塔です。以上、一般に余り知られていないが、もっと正当に評価されて良いと思う。少なくとも、日本は外交音痴だと思っている人にこそ、こういうすごい人がいたことは知っておいて欲しい。

 本当はすごいのに、しかも真ん中にいるのに、評価されていない人にはもっと光を当てていきたいと思っている。


2009年8月5日(水曜日)

「陛下の野党」とは

カテゴリー: - kurayama @ 01時58分18秒

「陛下の野党」とは、与党だけでなく野党も国政に責任を負うべきである、という考え方である。形式的にだが、野党党首も国王(女王)から手当てをもらっているとのこと。

では実質的に大事なことは何か。野党も、予算案と法律案を作ることである。独力でこれをやれて、はじめて官僚機構を統御できるのである。そうでなければ知識と情報で優越する官僚に言いようにされるだけである。

日本では平成初期の政治改革でかなり法律(案)を作れる議員も増えてきたし、現に議員立法も増えている。もっとも、議員法制局の方は「条文まで作って来られる議員が多くて、細かい法律の勉強をされているのはわかるのですが、実際に何をしたいかわからないので、どうコメントしてよいかわからない場合もある」とおっしゃっていたが。

問題は予算である。予算は国家の意思である。

国民の税金をどう使うか、これを選挙で選ばれた国民の代表が決められないのであれば、その名に値しない。少なくとも民主政治ではない。このように、予算案と法律案を作る能力のある政党が二つ以上ないと国民に選択肢はないのである。

もうひとつ。政党間で基本政策や国家観が極端に異なってもらっては困るのである。少なくとも、イギリスでは労働党政権でも「アメリカの世界政策についていく」という方針は変わらないのである。翻って我が日本では軍隊を持つかどうかにすら合意がない。そんな国、他にどこがあろうや。

「陛下の野党」とは、野党であっても国家を安定させることにはかわりがない、という理念である。右でもなんでもなく、真ん中の思想である。

よく講演などで、「世の中を良くするために何をすればよいですか」と聞かれるのだが、政治家に「陛下の野党」という意識を持ちなさいと選挙民が求めるようになるべきでしょう、とお答えしている。知り合いにこの話をするだけでも違うだろうし。

問題は、陛下の与党すらあやしいことだが。(過去形にして、さらに強い未来形。)


2009年8月4日(火曜日)

「古い自民党」とは決別せよ?

カテゴリー: - kurayama @ 20時56分32秒

 ジェラルド・カーチスが総選挙への展望について述べている。http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090730/201274/?P=2

 やたらと日本人がありがたがるアメリカ人の政治学者である。彼は自民党が政権を失いそうな理由を支持基盤の喪失として、経済政策に関しては以下のように述べる。

経済情勢の悪化が理由でしょうか。これは、エコノミストなどがよく指摘するポイントです。しかし、「失われた10年」と言われた1990年代でも、細川政権のわずかな期間を除けば自民党は政権を維持し続けました。それどころか、実は自民党は経済が悪くなればなるほど強かった。「こんな経済が厳しい時に、経験のない野党には政権を任せられない」というのが、ずっと日本人の常識だったんです。

 そもそも自民党は何のための政党だったのか。一言で言えば「富の公正配分」をするための政党なのである。総中流社会が崩れ、格差社会だと国民が不満に思うようになったら、

「民主党でも良いから自民党はイヤ!」

と思われても仕方がないのである。ちなみに私は講演で今の情勢を、鎌倉幕府末期になぞらえて解説している。

 カーチス先生の最大の問題は、民主党を小沢と鳩山と菅だけで語っている事である。

 なぜ自治労と日教組がでてこない?

 それがすべてでは?

 ところで古い自民党と決別する方法?

 「陛下の野党」になれ!

 これを右翼だと思ったあなた!相当な左翼です!


2009年8月3日(月曜日)

岡田英弘先生を表敬訪問

カテゴリー: - kurayama @ 14時39分49秒

 先日、国士舘大学でご一緒させていただいている、モンゴル史の研究者の宮脇淳子先生の事務所をお訪ねさせていただきました。目的は、宮脇先生のご主人にして御師匠の岡田英弘先生への表敬訪問です。宮脇先生からいつも聞いているお話よりも全然お元気そうで安心しました。

 同じく国士舘の安重千代子先生と渡邊智先生、数人の学生さんも一緒でした。学生さんたちは本棚を見て興味津々だったり、どんどん自分から質問したりと、非常に意欲的でした。最近では珍しいですね。ちなみに全員「帝国憲法講義」に来ていただいています。

 一見して難しそうな「帝国憲法講義」に自分から来るくらいですから、勉強熱心さはすごいですね。私も質問攻めにされました。うれしいものです。

 さて、私は中国史を勉強するときに、岡田先生の本からはじめましたので、感慨深いものがありました。中国史というと、漢人の土地制度史という応用から入るものがほとんどですが、岡田先生は皇帝を中心とした基礎的な政治史から解説してくださるので、非常にわかりやすいです。

 学生さんたちから「どんな本を読めば良いですか」との質問だったので、岡田先生と宮脇先生の御本を薦めておきました。読む順番も指導しつつ。

 いろいろと興味深いお話がありましたので、少しずつご紹介していきたいと思います。


TBS版「官僚たちの夏」は来ない 第五回

前回までの風越の暴虐振りが、今回はなりをひそめている。嵐の前の静けさか?

今回は日米電算機交渉が話題。原作にもないし、TBS自身が「フィクションであり、別の人の話を風越に仮託している」と断っているので、なんとも言いようがない。

ちなみに日米貿易摩擦は長らく懸案となるが、ひとつだけ基礎知識を。アメリカ側から見ると、対日交渉の担当になると出世コースからはずれるのである。理由は、成果が出せない=日本との交渉で良いようにやられるからである。最近だとヒルズ通商代表が典型。と、大学院で別の学部の授業で習ったのが懐かしい。

ドラマでは話を単純化するために、池内総理(池田勇人)と須藤通産大臣(佐藤栄作)の対立を強調しているが、このときの佐藤は兄の岸信介とともに池田の自民党総裁(つまり総理大臣)当選に尽力している。

ドラマでは池内が強面の悪役、須藤がひ弱なインテリに描かれている。北大路欣也のイメージは、「政界の団十郎」と言われた佐藤栄作に近いかも。実際の佐藤は威圧感たっぷりで、かの田中角栄も佐藤の前では常に直立不動だったとか。他にも失態をしでかした大臣が土下座して許しを乞うたとか逸話は多い。ドラマの須藤は風越に振り回されている可愛そうな人として描かれているが、現実の佐藤栄作はあんな人ではない。

ちなみに風越、総理の命令に「お断りしてもよろしいでしょうか」「あの人のやり方を認めるわけにはいかない」などと駄々をこね、腹心の部下にまで「それはまずいんじゃないでしょうか」とさすがにたしなめられている。

風越よ、それを言うなら辞表を提出する覚悟で言いなさいよ。部下だけに泥をかぶせるのはいかがなものか。


2009年8月2日(日曜日)

今月の『正論』と国家元首について

カテゴリー: - kurayama @ 11時14分56秒

 今月の『正論』は読みごたえがありますので、社会問題に関心のある人にはおすすめです。

 まずは昨日紹介の川瀬さんの記事。私のコメントも載ってます(笑)。

 歴史好きな人には竹本忠雄名誉教授の「災厄としてのフランス革命 博愛は幻想 ルイ16世の遺書を読み解く」なども読みごたえがあるかと。

 あと佐藤優氏「回帰と再生と」の最終回で、私と竹田さんの対談に関して取り上げてもらってます。内容は国体論(天皇のありかたなど)に関して、「竹田氏の見解に全面的に賛成する」「竹田氏の言説を全面的に支持する」とのことです。というか、竹田さんだけが取り上げられたとも。(笑)

 これに関連して、世の中には天皇は象徴か元首か、という二者択一の論争があるのですが、その前に日本国憲法学ではこの二つの言葉、特殊な用法があるのです。

 「象徴」が最初に使われたのは、英国のウェストミンスター憲章です。もちろん「象徴」は積極的肯定的な意味です。竹田さんの用法はこのように、自国の歴史を体現する象徴、という意味です。この意味での「象徴」にはもちろん私も賛成です。

 ただ、日本国憲法学では「象徴にすぎない」などと天皇を貶める意味が圧倒的多数派です。同じ言葉でも、意味が違ってくるのですから恐ろしいものです。

 「元首」にしても、普通の国ではとりたてて強い意味はありません。国家の統一を象徴し、外国に対して国家を代表する、ぐらいの意味しかありません。

 ところが、日本国憲法学では「戦前の天皇制を思い出させる」「天皇を元首などというのは避けたほうが良い」などと言われます。ついでに日本国憲法学の通説では、「日本の国家元首は内閣総理大臣」です。

 つまり、彼らにかかれば、

日本の国家元首は麻生太郎

です。

 ついでに民主党が政権をとれば、

日本の国家元首は鳩山由紀夫

になります。

 そんな理屈、日本国を一歩でも出れば通じませんが。それにしてもすごい言説。 

 『諸君』が休刊の今、『正論』にはがんばってほしいですね。


2009年8月1日(土曜日)

『正論』で取材受けました。

カテゴリー: - kurayama @ 14時51分21秒

今月の『正論』で取材を受けました。

川瀬弘至「Jデビューの次は『昭和天皇 裕仁』 NHK“幻の番組”企画を追う」で、8行ほどですが。

要するに、敗戦という未曾有の国難に際して、天皇も皇族の方々も、日本を守るために一致団結して、ということです。

もちろん、言い足りているはずもなく(笑)。

たぶん、記事だけ読むと細かい事実とのつきあわせだけで批評されそうなので、本質的なことをひとつだけ追加。

終戦時、昭和天皇と弟宮の間には、深刻な確執などありません!

そこに至るまでも、世に言う宮廷抗争などありません!

これでわからない人にはこういう聞き方をしましょう。昭和時代のいつ、壬申の乱のような危機がありましたか?

とにもかくにもご覧ください。


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