2013年05月05日 22時15分57秒 posted by uruseiblog

進化と戒律と経験

テーマ:ブログ

闇の中から異常者の咳が聞こえてきました。


水戸や福島狙いの地震もありますし
そんな所の工作員が私を追ってきては
地震で脅かされているのでしょう。


そう言えばそろそろ彼らの最後の手段、
HAARPによる大衆マインドコントロールの危険性にも
警戒が必要な気がします。

昨日、組織的犯罪に関して思考していましたが
結局は2000年前からのユダヤタルムードの教えと
その中で彼らが利用してきたその敵対者淘汰の手段が


どんどんと発展して今に至ることになったということを
ひしひしと感じることになりました。


考えてみればこの地球社会は策略の中で
進化と発展を続けてきた社会だと言うこと。


そして今行われているのは、この社会の末端にいる人間による
同じような立場の人間同士の共食いでもあると言う事を嫌でも認識しました。


そう言えば付きまとってくる自動車のNOで
その所属を髣髴させる人間達がいます。


ぞろ目に関しては集団ストーカー被害の定番となっています。


今日見かけた珍しいNOは


999です。


私の想像こめての傾向ですが

88NOには公安協力車両
99NOにはユダヤ教徒や部落


44NOは暗殺部隊のように


自動車のNOでも彼らの所属が判るようです。


彼らは組織全体の中から分かれては
その独自の役目を果たしているのではないでしょうか。


しかしこのように社会の中の末端一般市民同士が争っている最中にも、


権力者階級ははるか雲の上から、
自分には火の粉が降りかかる事のないこの見えない戦争を


余裕を持って眺めているかと思うと
何よりも腹立たしいものがあります。


元はと言えば世界の中のごく少数の人間達が企み、
この社会の中でひそかに実行してきた策略に


今では世界中の多くの人間が巻き込まれては
そのために一般市民が自分達の首を絞めあい
更には殺し合いを実行しているようなものです。


そしてそのやり口は2000年前のイエスキリストの時代と同様で、
ターゲットを精神異常者扱いしたり、悪人と仕立て上げることで
特定のターゲットとされた人間に対して
多くの人間を煽動しけしかけ淘汰すると言う手法。


ただ、長い時間、人間心理を徹底して研究してきた彼らの手口は
過去の経験含めて進化し続け


今では自らの手を使用する事なく
踊らされた大衆を持って同胞を淘汰すると言う、
中世の魔女狩りさながらの行為と変貌したのだと言えます。


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脳を興奮させられたので
ここぞとばかり暴走してコメントしておきます。
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脳の強烈なマインドコントロールもありますし、
私は正直言えばこの社会から
早々と卒業したくて仕方がない状態に置かれています。


攻撃に抵抗する意識が以前にまして消えています。


自分はこの地獄から天国に這い上がれると
確信しているからでもあります。


”無責任”とか”自分ばかり”とは言わないでください。


私は十分に苦しんだと思います。


そして自分の出来る事を精一杯実行して来たとも考えています。


自分が生まれてきた本来の目的を忘れては
暴走する事になったために覚醒が遅れ、


そのまま悪魔達に止めを刺される寸前になって
初めて自分のあるべき実態に気がついて、


その後覚醒してからは自分の背負うべきカルマ以上のものをフンダンに背負い
身の丈以上の負担に苦しみ続けて来たとも思ってもいます。


私は偶然にも、生まれながら、
ユダヤの息の掛かっている事に自覚していない
間接的なユダヤ傀儡たちに監視されていた人間です。


それが部落なのか創価学会なのか在日なのかは不明ですが
私に対しての管理とマークの歴史については
本人達が一番良く知っているはずです。


覚醒すべきこのろくでなしは、
人生の中で悪魔達の誘導にも踊らされ、
意識しなくて良いことをも意識させられ


コンプレックスまで植えつけられて
心ばかりに気をとられて生きてきた情けない男です。


初めて宇宙の法則に触れた時には
ゲームや競馬や会社の事そして妻との生活に溺れて
更には偽の宇宙人グレイに騙されて


それを真理と受け止めることが出来なかった愚か者でもあります。


最後にはそんな人間達から社会からの締め出しをくらい
それにもまんまと嵌って
今ではこの社会の中では何の価値もないただのゴミです。


ただ、私はある意味これで良かったと思っています。


ぬるま湯に漬かり続けていたならば
私は死ぬまで覚醒を果たせなかった可能性があるからです。


止めを刺そうと奴らが焦った事が結果的に私を覚醒させたのです。
(大泉の時に樹海に行っていればその後の人生はなかったと想います)


以前もそんなことを記事で書きましたが
今度はそれを利用しては”魂磨き”と称しては
自分達の行動を正当化してきたのが身近な工作員達。


これが私の身近な悪魔達の特殊思考回路です。


全てが自分達を正当化する思考であり、
自分達が悪かったと反省したり思考する事がないのです。


全てが自分を美化する事と
自分を正当化した状態で物事を思考する事があたりまえのようで


そこから始まる思考が私達一般人と異なることは
言うまでもありません。


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兄弟姉妹と理解者は食料の備蓄をお勧めしておきます。


それは万が一の地震への備えのためですし
そんな時代がそこまでやってきている可能性を感じているからです。


日本を憎む人間達は地震を引き起こしたくて仕方がない。


おそらくはこちらは親米反日のフリーメーソン
朝鮮半島系の人間や外国の人間の有志や
国内反日在日有志が中心かと想像しています。


一方では親米利権ネットワークの人間達も、
自分の安全保障の上で地震を引き起こすことを容認している。


こちらが公安、部落そしてそれの延長として
創価学会あたりの人間達のネットワークを想像しています。


要するに日本はユダヤにノルマとして課された不幸のノルマを
いずれかの方法でこなす事を求められていて、


それを今実行しようと国内外の人間達が
独自の思惑を持って争っているのだと思います。


更にはそんな人間達の中の危険すぎる人間達を
潰して歩いているような人間達もいるかもしれません。


私はそんな何重にも重なったユダヤ傀儡の目的と実態に
なんとなく気がついています。


災害を引き起こして続・友達作戦となれば
大掛かりな米国の介入も想像できますし、


日本と中国のトップあたりを脅かしては
日本と中国との戦争に導こうと言う可能性も出てきました。


そんな時には当然国内では
混乱に便乗しては多くの人間が淘汰される事になると思います。


”絶交”が実行されることにもなるかもしれないわけです。


イスラエルにもきな臭い話が聞こえてきてますし
朝鮮半島の戦争の話は早々と立ち消えることでしょう。


フリーメーソンの計画としては、日本はこのアジア周辺の国々の中で
率先して貧乏くじを引く事に成っている事が想像できるのです。


勿論全ての国の一般の国民には何の罪もありません。


ユダヤの手先と課してそれが正義だと信じている愚かな人間達が
それを実行する可能性があるという事です。


そして其の人間達の行動が実現するか、
その人間達が潰されて行くか社会が
今後この社会の中で実行されていくのだと想像しています。


そして其の時に一番警戒して欲しいのは兄弟姉妹ですし理解者です。


ユダヤにとって一番手強い人間として
率先して淘汰される可能性があるからです。


其の時にはそれを卒業の機会として受け止めるも
それに抵抗して苦しみながらも広報するかも
個々の意志に関わってくることになります。


勿論天使達からの加護はあると思いますが
彼らとて直接地球の支者層の傀儡に誘導されている多数の人間から
皆の肉体を守ることは難しい事は理解すべきです。


朝鮮半島にしてもアメリカにしても中国にしても
そして日本の部落や創価学会・統一教会あたりにしても
其の中の一番の各国のユダヤ側近のフリーメーソンの人間達も


皆がユダヤから課された独自の役目を果たし
それが彼らがこの社会で存在するための条件と成っているのだと想像しています。


つまりは彼らは其の策略に関わってしまった事から脅されていて


ユダヤの言いなりになれば厚遇は受けれるが
それには歯向かうと存在すら脅かされる状況に置かれているのだと思います。


そんな中で上から下へと圧力がかかり最後に末端でそれを執行するのは
暴走した人間と、壊れている人間、命を脅かされている人間と
言うことになるのだと思います。


自然界には自然のピラミッド構造が出来上がっているでしょうし
弱肉強食と自然淘汰の縮図も出来上がっていますが


ユダヤ長老会パリサイ派サンヘドリンは
それをこの人間社会の中に自然を装いながら作り上げてきたのでしょう。


末端の人間の暴走は止まらないと思いますし、
其の人間達もその後は淘汰されることも有り得ます。


私のように裏まで見つめる努力をしている人間は
怒りのやり場に困ってもいますが


しっかりと理解して頂きたいのは
この仕組みを作り上げてきた姑息で狡猾な人間達の存在です。


私は末端の人間達に関してはどうでも良くなっています。


昨晩も夜中に奇声を上げていた人間もいますし
壊れた人間や、騙された人間、そして元々が道徳心のない人間が
利用されているのですし


更にそんな人間達が遠隔からの抵抗できない攻撃を
仕掛けてくるのですから何を言っても無駄だと思いました。


私や兄弟姉妹と理解者は、この社会のそんな実態をしっかりと見つめて、
悪魔と其の傀儡が作り上げた社会の末路を生ある限り見届けていくのです。


これも私達にとっては滅多に体験することの出来ない現象です。


法則に触れた事で歯車が狂ってきた社会の実態


もしくは科学力で神に歯向かうことを選択した人間達の
作り上げた社会という特別な環境です。


其の行く末は同じでしょうが、
それを体験する事も通常はないと開き直って
この特殊な空間と其の時間を生きて欲しいと思います。


忘れないで欲しい事は”正義”と”勇気”をもてない人間
そして”自分の脳で思考できない人間”は変わる事が出来ないと言うこと。


私は其の事も身近な人間達の気配から理解する事にもなりました。


聖書の引用で、


私達は熱くあるか冷たくあるべきだと言う話をしていますが
それ以前に勇気や正しい正義感をもっていない人間は
私達のように変わることは出来ないようです。


簡単に周囲の人間に左右されますし
不安や恐怖で誘導されるからです。

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昨日は自分を蔑める事で
この社会の中で自らを美化する人間達に対抗してみましたが
少なくとも彼らにとっては単なる攻撃強化の理由にしかならないでしょうね。


この社会の中の多くの人間達の意識が
2000年前にイエスキリストがサタンの会派と切って捨てた人間達に
近づいている事を、私達は理解すべきだと思います。


彼らは元々の思考が自分勝手なのです。


思考の中心に自分の立場の正当化が存在して
それを前提にありとあらゆる思考をするからです。


そして其の思考に毒された人間達も
まったく同じ思考をする傾向になるようです。


其の実態をユダヤ傀儡組織の思考とあわせて、戒律の形式と実質

そして体験の重要性という事で記事にしてみました。


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【本題】

最近は”キリスト教”を通してイエスキリストを
蔑める様な書き込みを頻繁に目にするようになりました。


キリスト教徒誰もがイエスの教えを実践しているわけではないのですし
キリスト教を信仰していないものがイエスの使徒を名乗ることも出来ます。


しかし表面に見える事ばかりを信じる私達は
其の裏の実態を見破ることも出来ません。


そして気がつくとイエスキリストはユダヤの思い通りに
聖人としての立場から蹴落とされようとしているようにも見えます。


つまりは長い時間をかけて
キリスト教内部に入り込んだユダヤの傀儡達の暴れっぷりが
見事にユダヤの策略を実現しつつあるのだと言うことではないでしょうか。


この社会を支配するのはサタンの法ですし
この社会の神はサタンです。


これは極端な話と言うよりは
今の私から見えるこの社会の実態だと思っています。

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私達は時には物事を体験せずして
それを禁止事項として戒律として持つ事があります。


其の時代の人間が人として当たり前に持つべき戒律として有名なものに
旧約聖書の”モーセの10戒”があります。

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主が唯一の神であること


偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)


神の名を徒らに取り上げてはならないこと


安息日を守ること


父母を敬うこと


殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)


姦淫をしてはいけないこと


盗んではいけないこと


偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)


隣人の家をむさぼってはいけないこと
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この場合にモーセが戒律としたものは


当時、特定の神に従っていた人間達の社会の中で
その人間達が持つべき常識として当たり前に守るべき事であり、
人としての最低限守るべきとしたものであり


その正否に関しては異論はありません。


少なくとも前半の宗教的な意識を除けば、
それは現代の人間にも当てはめる事の出来る道徳です。


その後ヘブライの民は人格神によって更に多数の戒律を与えられ
それを守ることで自分達を義とみなす習慣となっていたと思います。
(その是否には触れません)


ただ、時代が進み文明が複雑になっていくと
その社会の中で”正しい事”と”正しくない事”の区分は難しくなります。


第一に、正しいとか正しくないと言う事を
私達は”善”と”悪”と言う形で判断することになりますが、
その善と悪の尺度も人によって異なりますし、


一方では私や兄弟姉妹でさえ、何を持って正しいとか正しくないと認識するかは
その時の個人の境遇や思考により、更には時と場合によって異なるからです。


”正しい”と”正しくない”と言う事の判断基準に関しても
絶対的な尺度はないことになります。


そしてそれは天使達の社会では時には”動機”や”結果”によって
判断される事にもなります。


宇宙の法則では、その行為が結果として万物への奉仕に役立つこと、
そして自らの精神的な進化に役立つ事を正しいと認識するからです。


そしてその根底となる基準はその行為の動機や目的が
創造主の意志に沿っているか沿っていないかと言う事になります。


しかし私達は新たな事象に対する物事の正否を判断する時に
その基準を創造主の意志から容易に引き出すことはできません。


そこで多くの戒律は、他人がそれを実行している結果を見て、
もしくはその事象が世間一般に及ぼしている傾向を見て、
善と悪とを判断することになるのだと思います。


しかしそこでも私達個人の価値観がその判断の尺度となります。


組織的・人的な戒律はそれが学校であれば校則
会社・宗教などであれば社内規定・禁止事項として与えられる事になります。


そして私達の社会は戒律に満ちています。


しかしそれは特定の人間達が
善と悪を自らの価値観で作り上げた物の場合が多く


創造主の意志に照らして正しいか正しくないかと言う
基準ではありません。


だからこそ私や兄弟姉妹や理解者は、
他人の影響を受けて戒律を作り上げるのではなくて、


自らが体験してはそれを学習の機会として知識を得て
その中で正しい事と正しくないこと分類し
戒律として持つ事が大切となります。

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ところで経験が生きた学習の機会であることを
理解できるでしょうか。


戒律の弊害がここで出てきます。


例えばインターネットを危険と看做して罪だと看做している人間がいたとします。


その人間はインターネットを使用する事がないのです。


その結果、ネット上の不要なデマに踊らされて心を動かす事もないでしょうが
一方では情報の全てはTVや新聞と言ったメディアとなり


それを掌握しているユダヤにとって都合の良い価値観をもった
人間へと変貌していく事になります。


一方インターネットを使用している人間は
その中で時には偽情報に騙されたり
ネット詐欺に遭って痛い思いをするかもしれません。


しかしその中での試行錯誤で、後には自分とって有効な情報や
ネットでしか得られない真実の情報を得ることが
容易に出来るようになるかもしれません。


その時、その人間は体験を通じて学んだ事になります。


その人間は進化したのです。


一方ネットを禁止している人間は、
少なくともネット詐欺に騙される事もありませんし
ネットの中の偽情報に踊らされる事もありませんが


一方では既存の価値観に騙されたままで
その人間には一切の進化は起きない事になります。


つまりはこれが戒律の弊害だと言うことです。


私達は自分達の行動に知識だけで制限を設けると、
何も行動に移す事も出来ませんし
体験の機会を失う事になりかねないのです。


それを実行する事が確実に自分にとって
そして他人にとって良くないと認識できる事は
私達は体験してはいけません。


麻薬や犯罪と言われる行為などです。


しかし人的戒律とされている物の中には、
必ずしもそうとは限らないものが沢山存在しています。


食物の制限や、特定行為の禁止など含めてです。


戒律を持たされた事でその体験の機会を失った人間は、
少なくともその行為を実行する事で罪を犯す事になるかもしれない
危険から逃れる事は出来ますが


一方ではその体験によって学ぶ事の出来るかもしれない学習の機会を
永遠に手に入れる事は出来ないのです。


私達は他人の意見によって物事を判断するのではなくて
時には自らの体験によって、それを身をもって理解する事が大切なのです。


実行してみたらそれが自分の進化にとって良くない物であったと認識すれば
それを戒律として持って同じ行為は繰り返さなければ良い。


もしもその行為を実行した事で結果として他人に迷惑をかけたとなれば
その事を反省しなければならない。


そんな自らの体験の中で思考し学習しそして教訓を得る事で、
私達は単に他人から勧められた戒律をもって意識する時とは異なった
生きた戒律を得ることにもなります。


その時に自分が傷ついて、そして後悔して、
苦しんで反省することになったその想いは
私達にとって決して無駄ではないと言うことです。


勿論人間によって正しくないとされていた事が
私達にとっては正しいと言う事だって沢山あると思います。


正否の判断できないものを危険としてはそこに近寄らない行為は
結果としては人間を罪から遠ざける事になるかもしれません。


しかしその人間は自分が身を持ってそれを体験したわけではありませんし
自分自身には何の成長を齎す事もないのです。


例えてみれば、友達とザリガニを取りに行った時に
どぶ川の淵に立たって友人達の様子を見ている分には
自らの服を汚す事もなければ痛い目に遭う事もありませんが


例え服を泥だらけにしたとしても、途中転んで足をくじいたとしても、
川の中からザリガニを手に入れる事のほうが
私達にとっては価値のある事だと言うことです。


ここでの”泥”はもちろん罪や誤りの象徴です。


”ザリガニ”は”真理”です。


何もしなければ罪を犯す事はないので
一見綺麗なままでいることも出来ます。


でもそこには成長はないと言うことです。


言ってみれば、自らが判断したわけでない戒律に身をまとう行為は
単に私達をそのままの状態に保つためには有効でも、
私達に進化を齎す為の機会を奪う事にもなりかねないと言うことです。


私達は体験をする事でその中で自ら思考します。


そしてその体験の中から色々な学習をする事にもなります。


今回は泥だらけになってザリガニを取ったけれども、


このようにすれば服を汚すことなくそして転ぶことなく
服をきれいに保ったままで目的を果たす事が出来ると言う
創意工夫を学ぶこともあるでしょう。


ザリガニを手にしたけれども
一万円もするブランド品の服をだめにして親に叱られて、
自分の行動の浅はかさを学ぶかもしれません。


このように自らの体験によって私達がそこから何かを学ぶ事は
「百聞は一見に如かず」とか「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という
格言として古人にも提示されているものです。


しかし現代社会の私達は頭でっかちになりがちで
情報や知識を単純に手にする事でそこで多くを学んだつもりになって


自ら思考することや 自らが体験してその中から教訓を受けることを
忘れてしまっているのだと思います。


しかもこの社会の情報や知識の全てが正しいわけではないのです。


私や兄弟姉妹にとって、体験は貴重な進化の機会です。


傷つく事や失敗することを恐れては私達は何事も為す事は出来ません。


アダムスキーが生命の科学の中で
必要以上の警戒心が私達の体験の機会を奪うと言う趣旨の話を
していたはずです。


同じ体験であっても、それを体験する個人によって
それは良いものであったり悪しきものであったりしますし、


更にはそれが本人にとって良い学習の機会となるか
単に後味の悪い体験としてしまうかもその本人の意識次第です。


私達は何事をも成功体験とする事は出来ません。


しかし私達は失敗からこそ多くを学ぶ事もあります。


その意味では失敗をし続けて
その中から素直に課題をみつけ学習が出来た人間の方が


体験を恐れて失敗も成功もしていない人間よりも
多くを学び進化する事になると思います。

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イエスキリストの言葉の中で


「私は善人を救いに来たのではなくて
悪人を救いに来たのだ」
と言う一節がありました。


あれは私達の理解では


自分の事を顧みて、
自分と言う人間が沢山の罪を犯して生きてきた事を認識し
それを反省する意識を持っている人間こそを
イエスは救いに来たのだということでした。


イエスの教え=宇宙の法則では善人を救うことは出来ません。


何故なら”善人”には反省する機会がないからです。


本当はこの社会の中には
善人と言われるような人間はただの一人もいないはずです。


善人なのであればとっくの昔にこの社会から卒業しているでしょうし
ずべての人間が必ず多くの罪を犯しているのが私達の社会の人間の実態です。


ただ、多くの人間が罪の基準を誤り
自らを義であると思い込んでいます。


人間が心を持って明文化して制定した戒律を守れば
それが自分を”義”とするのだという誤った意識のためにです。


そんな意識を持った人間は自分が罪を犯してきた事を
認めることもできません。


反省して創造主の法に立ち返る事が出来ないのです。


しかし私や兄弟姉妹そして理解者は自分のことを理解しています。


自分達が如何に罪だらけの、ろくでなしであるかということをです。


でもそれを自覚し驕り高ぶりを捨て、謙虚な意識を持つ事が出来たからこそ
私達は自らの至らなさを認め父の元に帰る事ができました。


そして私達は知っています。


行動や言動に出さなくても
私達は心で想っただけでも罪を犯す事になる事をです。


心無い想いを持つだけでも、それは私達にとっては罪ですし


イエスは形式ではなくて
心のあり方こそが大切だと言うことも明言していました。


それが理解できていないからこそ、
私達は自分達が罪深い意識を持った、
善人とはかけ離れた存在であることを自覚できないのです。


闘争意識や分割意識、妬みや嫉みや恨み、憎しみ
自尊心、驕り高ぶり、嘲笑、差別意識、
このような心のあり方はこの社会の中ではもちろん罪にはなりません。


でも実は私達にとって大切なのは
形式事としての戒律を守ることではなくて
心のあり方を正しく持つことだと言うことです。


パウロが肉の想いと表現した先述のような想いは
私達の誰もが持っている意識であり


そのような意識を持つこと自体が実は罪なのだと言うのが
パウロの語っていた神の戒律=宇宙の法則です。


宇宙の法則では模範すべき意識は創造主の意識であり
創造主は肉の想いを持たないからです。


そして”神の戒律”では形式よりも実質としての思いの方が大切なのだと言う話を


イエスは
「私は哀れみ(別箇所では”誠実”)は好むが生贄は好まない」


という創造主の意識を引用して理解を求めていました。


繰り返しになりますが、


誠実や哀れみと言った意識は
創造主の分身である私達の魂からの想いであって


創造主は生贄や貢物をしてもらう事を願っているのではなくて
創造主の想い通りの存在でいる事を願っているのだと解釈できます。


生贄や貢物と言った行為は形式を象徴してもいます。


私達にとって必要なのは、
神に貢物をするとか生贄を捧げるとかそんな行為ではなくて

創造主に対する感謝の意識だと言う事にも繋がる話です。


いくら口では創造主に感謝し形式的に貢物や献金や生贄を捧げたとしても
大切なのは形式的な行為ではなくて感謝と言う想いの方であり、


神のために、ありあったお金を持って豪華な神殿を建ててみせるよりも
食事の度にでも創造主に感謝する其の気持ちの方が大切だと言うことです。

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更に体験に関して触れておけば、私達にとって大切なのは、
人生において形式に拘って他人の目で認識できる失敗を犯さない
減点の少ない人生を送ることではなくて、


この人生の結果として、私達が創造主の意識に近い物を
持つ事が出来る様になるかどうかと言う事になります。


そしてその意識を持つ事が出来るようになるためにも
自ら持つべき心の想いをも変えていくよう勤める事が要求されますし


そのために学習の機会としての体験は
私達にとって必需品となっていると思います。

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聖書の笛吹けど踊らず。。。のくだりでは


自分達を義として他人を裁く事を
批判的に見つめるイエスの見解も伺えました。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11354468175.html
イエスの教え VOL6


この一節は、


進化のために何もしていない人間が
自分達は形式ごとを為しているからと自らを義と看做し


一方では其の価値観を尺度として、他人の行為をあら捜しすることを
批判的に取り上げた一節だと解釈させて頂きました。


そしてイエスの生きた時代はその様に象徴できる時代で
其の中心にパリサイ派長老会サンヘドリンがいたのです。


更にそれから2000年、今の時代を其の時と比べると
人々の実態は以前にも増して酷くなっています。


自分達は進化のための努力などしておらず、
下手をすれば魂の退化を繰り返しつつも
戒律を守ることで自分達を義としている人間達が


独自の尺度で他人のあら捜しをするだけではなくて、
今では他人を自分達の作り上げた戒律で罰してもいるからです。


そんな凄まじい時代の中ですが、
私と兄弟姉妹と理解者は正しい進化を果たすことの出来る
人間であり続けたいです。


創造主の分身であり続ける事が大変なこの社会。


私達の魂の真価が問われています。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.


今の社会の実態のおかしさは
例えば聖書の中の”イエスの神殿での暴走”の捉え方にも現れています。


イエスキリストは神殿の中で商売をしている人間や
金貸しをしている人間達を怒りちらし追いやりました。


これは宗教や神と無関係の意識の人間達が単純に見つめれば
イエスが一方的に暴れた行為とされるでしょうし
今の日本社会の法律や慣習であれば逮捕される事にもなります。


この実態を引用してはイエスキリストの人間性を
批判的に表現している人間がいたのです。


私達が念頭に置くべきは、彼らユダ王国の民は
ユダヤ教という名の戒律を持ち、それを生活の規範としていて
彼らの価値観や慣習は通常私達の持っているものとは異なっていたと言う事実です。


現に、イエスは神への冒涜者と言う事で死刑です。


私達のこの日本の中では有り得ない意識が
まかり通った事になります。


しかもイエスは神への冒涜などしてはいませんが
神官でも司祭でもないのに神の意志を語ったと言うことで
それを偽の神の意志を語る人間であり神の冒涜者とされた訳でもあります。


この意識がまかり通るのであれば
両替商を追い払ったイエスの裁きは優しいものです。


ユダヤ教徒がそれほど神を崇高なものとしていたのであれば
神の神殿は聖なる場所であり


其の場所で商売や金貸しという低俗な行為を行うことこそが
本来であれば神への冒涜行為なのです。


つまり神殿で商売をしていながら牢屋に入れられもしないし
罪として罰を受けない事がおかしいのだと言う話にもなります。


イエスは他人を殴ったわけでも殺したわけでもありません。


しかし神に対して何の罪も犯していない存在は
犯罪者として極刑を受けることになったのです。


全ては闇の支配者の心三寸と言うことではないでしょうか?


イエスを批判する人間はユダヤ教意識の人間が多いようです。


自分達が他人を批判するには
批判するのに都合の良い箇所を引用しては
其の部分だけを強調しては悪徳であると批評し


イエスキリストの信頼を全体的に貶めようとする。


彼らの思考は姑息です。


自分達の前進でもあるサンヘドリンが
真の創造主の法を語った人間を無実の罪で死罪にした事など
彼らは認めることもないでしょうし、彼らの思考は常に自分勝手なのです。


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