自民党の安倍晋三総裁が、憲法改正の国会発議要件を緩和する「96条の改正」を、参院選で争点化する意向を表明した。改憲政党の歴代総裁の中でも、憲法改正に強いこだわりを持つ安倍総裁の意志が前面に出た格好だ。
夏の政治決戦で、潜在傾向にあった憲法改正問題が浮上することになる。すべての有権者が、この際「最高法規」の在り方について議論を深めることに異論はない。重く受け止めねばならない。
ただ、改憲要件の議論を先行させることについては、違和感がぬぐえない。
憲法の内容自体を議論する以前に、改憲のハードルを下げる手続きの是非を国民に問うのは本末転倒だ。改憲論者からも、96条改正には異論が続出している。姑息(こそく)な戦略と言わざるを得ない。
国防軍創設を主張する安倍政権にとって9条改正は悲願であろう。天皇制の見直しなども視野に入れている。ならば参院選でも、9条を含めた改正案を堂々と最前線に押し出し、正面から国民の審判を仰ぐのが筋ではないか。
現憲法の改正要件は「各議院の総議員の3分の2以上の賛成で国会がこれを発議」。対して自民党の改正草案では「衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が発議」となっている。
「世界的に見ても改正しにくい憲法」が緩和の理由だ。
しかし各国とも日本に比べ要件が緩いわけではない。米国は「両院の3分の2以上」「全州の4分の3の承認」、ドイツは「連邦議会・連邦参議院の投票総数の3分の2の同意」など。むしろ日本よりハードルは高いといえる。
米国は6回、ドイツは58回の改正をしているが例えば米国では「大統領の3選禁止」などの「修正」だ。加えて、要件を緩和した改正ではないことも指摘しておきたい。
言うまでもなく、立憲主義下での憲法は、個人の権利を保障するため国家権力を規制する最高法規だ。ゆえに国に数々の義務を課している。
戦後レジーム(体制)からの脱却を目指す安倍総裁にとって、憲法は自らを縛る存在なのであろう。草案では「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」と定める規定を追加した。
憲法を尊重する義務を国民に課すこと自体、立憲主義からも憲法の理念からも遠ざかっているのではないか。時の政権の思惑によって簡単に改正できるようでは、もはや憲法とは呼べまい。
国民が国家を監視するための法律であるからこそ、憲法には権力の安易な介入を防ぐための装置があるのだ。その意義を再認識したい。
96条の改正は、憲法の精神の危機でもある。