(10月18日)大倉幕府跡が国指定史跡にもなっていない「武家の古都・鎌倉」の現実は、世界遺産登録に向けての恥部です。幕府周辺遺跡群の元治苑跡地では住民の反対にもかかわらず、マンション建設が進められようとしています。登録の動きをきっかけに幕府跡を史跡にしようという市民の動きも出始めました。このままでは登録も覚束ないという五味文彦・東大名誉教授らに学者グループとしての行動を呼びかけております。
穴柱列が付属方面に続く発掘現場(『鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書』9より)
「幕府跡を史跡に」をテーマに、「鎌倉中世博物館を支援する会」(代表中島章夫さん)の定例会が17日開かれました。私も含めて8人が参加し、元文部官僚で国会議員でもあった中島さんから現状報告を伺いました。会では市民組織「いざかまくらトラスト」など3団体が松尾崇市長あてに5月10日付けで提出した「幕府跡遺跡登録範囲の変更についての要望書」のコピーと明治15年作成の帝国陸軍迅速測図などが配布されました。
要望書は「神奈川県遺跡台帳」に「大倉幕府周辺遺跡群」として登録されている横浜国立大学付属小中学校を「大倉幕府跡」の遺跡範囲に編入することを趣旨としたものです。現在台帳登録されている範囲の西側境界は、国大付属の校庭東縁を通る南北道路になっており、迅速測図でもはっきり確認されます。1993年に行われた関連の発掘調査でも幕府西縁を示す塀の後や大型柱穴列が見つかっています。
これに対して松尾市長からは、5月30日付けで回答が寄せられました。「今後の状況の進展を踏まえて、遺跡台帳の範囲についても検討していきたい。なお大倉幕府周辺遺跡群、大倉幕府跡はいずれも周知の埋蔵文化財包蔵地であり、文化財保護法における保護に関わる取り扱いに違いはないことを申し添えます」との内容でした。要望内容に直接答えたというよりか、すでに保護しているとして焦点をはぐらかしたものでした。
中島さんは「このまま放っておくと、別なものに転用されかねない」として、とりあえず周辺遺跡群を「大倉幕府跡」に統合して、その上で国史跡に指定すべきだと2段構えの対応を迫っています。最終的には「史跡登録されれば幕府跡を国の手で特例的に発掘調査する道筋が出てくるかも知れない」というわけです。来年6月の世界遺産登録の決定待ちという状況は、幕府跡という姿なき資産に目を向けさせる最後のチャンスでもあります。
定例会では①市民組織や学者、専門家グループに働きかけて、要望書の拡大版を市長に再提出する②周辺遺跡群も含めて県台帳の書き換えを働きかけるなどの具体案も検討されました。附属の移転の可能性などもうわさとして聞かれるだけに、世界遺産の町の恥部を一掃する上でも市民の英知が試されているともいえるでしょう。
さまよう世界遺産
(7月5日)鎌倉市に美術品の収集など文化活動を進めている「センチュリー文化財団」(東京)から扇ヶ谷の土地と建物の寄付の申し出があり、ガイダンス施設や博物館としての整備・活用が急速に具体化しつつあります。この時期に一体何があったのでしょうか。鎌倉市(世界遺産担当)ではイコモスの調査を前に「理解を深めるには必要な施設」と言っています。マスコミや市議会への説明はあったようですが、市民団体の鎌倉世界遺産登録推進協議会は無視された形のどたばた劇で行方はどうなるのでしょうか。市議への現地説明会(2012.06.27)
「鎌倉市へ文化施設に役立つよう寄付の申し出を受けた扇ガ谷の一等地の土地・建物を見学しました。6月22日の総務常任委員会で、私は世界遺産ガイダンス施設の準備について質問をしましたが、半年前の答弁と変わらずに御成小学校の旧講堂を候補地として検討しているとの答えでした」
鎌倉市の案内で現地を訪れた市議の安川健人さんは、ブログで視察を語っています。
市議の質問からたった5日後の27日、鎌倉市は土地・建物の申し入れに対して寄付や買収で取得して世界遺産展示施設と鎌倉博物館の建設計画を議会報告しました。25日に審査会の認可がおりたそうで、今回、突然の公表。いきなりのすごい施設と土地(約1.5ヘクタール)の寄付の話に、なんだか狐につままれたような気がしました」と言っておられます。
報告によると扇ヶ谷1丁目の無量寺谷にある土地は約1万5000平方メートル、建物は3棟で約1700平方メートル。センチュリー財団と関連の不動産管理会社、個人の3者が所有しています。計画地の44%の土地と建物1棟は鎌倉市で買収することになり、9月の市議会に議案として提案する予定とか。元は旺文社社長だった故・赤尾好夫のコレクションや絵画、彫刻などを収蔵するミュージアム建設計画があったところです。
イコモス調査を念頭においての急仕立ての構想のようですが、思惑と違って来年夏の登録が見送りになったら、ガイダンスセンター、博物館建設という大前提はどうなるのでしょうか。登録とは切り離してあくまで文化都市として建設を進めるという度量はあるのでしょうか。中世博物館構想が浮沈してきた野村総研跡地、ガイダンスセンターとして第三次総合計画第二期基本計画にはじめて事業費が計上されたばかりの御成小旧講堂の保存活用はこの先、どうなるのでしょうか。
鎌倉市関係者は「旧講堂の活用をまず進めるべきではないのでしょうか。建物を寄付された旧華頂宮邸、長谷の前田邸、相当な金額で購入した由比ヶ浜の旧鈴木邸、金融機関から寄付された鎌倉山の旧鎌倉園など提供を受けながら有効利用されていない市有地が多く残されており、センチュリーの場合も適切に利用される保障はまったくありません」と懸念を強めています。
(3月27日)鎌倉が世界遺産登録に挑むということにどんな意味があるのか。何よりも世界遺産の価値があるのか。愛する町だけに自分なりに考えてみようと思って、出版の準備に取りかかってから5年が過ぎます。その間、平泉が一度は落選し、再挑戦で登録されました。落選のときは見合わせた鎌倉の推薦書も、今年1月にはようやく提出されました。そして延びに延びた出版も何とか脱稿にこぎつけ、出版社に手渡しました。表紙で考えている鎌倉大仏のアップ写真(高木治恵撮影)
ブログで随時内容を送信してきたものを「どうなる鎌倉世界遺産登録」という表題でまとめました。登録をめざすことには反対しているわけではありません。イコモス調査員が現地調査して外国人の視線で鎌倉の魅力を知らせてくれるのなら嬉しい話です。でも取材を進めれば進めるほど市民の無関心を強く感じ取りました。しかも行政主導で進められ、市民に対する広報活動が遅れています。
こんな状況では世界遺産になっても得るものは少ないという思いが、出版の原点をなしました。仮に登録されても現状のままでは、登録後の持続的展開の可能性も希薄です。5部構成で第1部(世界遺産への道)では、世界遺産条約制定からはじめて暫定リストに記載されて20年の登録にからむ鎌倉のとまどいを追いました。第2部(現代に生きる文化遺産)、第3部(中世遺跡と近代都市)では、現代社会との接点を候補地でルポしました。
第4部(文化遺産保存最前線からのメッセージ)は、新聞社の特派員時代と早稲田大学客員教授として危機遺産を研究課題として取り組んでいた時代に接した考古学の世界に学者や専門家の国際的な活躍をまとめました。また世界遺産に挑む鎌倉に一言ずつコメントを求めました。第5部(世界遺産の町の将来)は登録を町づくりの一歩にすることなど、取材を通して感じたことを提示しました。
ジャーナリストの視点で市民の立場から見た現状報告でもあります。ただ来年夏の世界遺産委員会での審議までほぼ一年の期間限定の出版計画だったので、通常の出版社を通じての発行は危険すぎるとして、断られてしまいました。2006年に「死にざまの昭和史」を担当してくれた大手出版社の編集者に相談したところ、「自費出版で第三者を介さずに主張をストレートに出すことができる」として、東京・恵比寿のピープレスという出版社を紹介してくれました。
校正からレイアウト、写真の配置、表題の決定に至るまですべて自己責任の出版です。どんな形のものになるか初めての経験だけに不安もあります。ご関心があったらぜひ読んでみてください。7月はじめの刊行の際はまたブログでお知らせします。
(10月25日)東日本チャリティーシンポジウム「世界遺産・平泉に学ぶ」が23日、東京国立博物館平成館講堂で開催されました。東京文化財研究所と並んで岩手県教育委員会、平泉町と暫定リスト記載の「武家の古都・鎌倉」「国立西洋美術館本館」「百舌鳥・古市古墳群」推進母体である神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会と東京、大阪の関係機関が主催した大型企画です。鎌倉の登録に向けて果たして効果があったのでしょうか。
シンポジウム「平泉に学ぶ」のパネリスト(高木規矩郎撮影 2011.10.23)
文化庁の近藤誠一長官の基調講演などで、6月に世界遺産になった平泉の「登録への足取り」が明らかにされました。3年前に「記載延期」で登録を見送られたあと、石見銀山の「緑の鉱山」のような決め手となるキャッチフレーズを欠く平泉は苦戦を強いられました。もともと9資産だったものを仏国土(浄土)の表現のために、奥州藤原氏の居住地だった「柳之御所遺跡」は構成資産に入れて再挑戦したのですが、世界遺産委員会で除外され、最終的には5資産で平泉の登録が認められました。
近藤長官は「日本的価値をつなぐストーリーを保つものとして柳之御所をいずれ世界遺産委員会やイコモスに分からせる必要があります」として、登録地拡大に想いを託しておられました。ユネスコへの推薦にあたって候補資産を厳選し、明確なストーリーでつなぐというのが、鎌倉や西洋美術館を抱える東京などがまず平泉の経験から学ぶべきところなのでしょう。
副題「世界遺産と都市」に沿って、シンポジウムでは中世都市が取り上げられました。平泉と鎌倉はそれぞれ都市としての機能を持っていたとの結論でした。とくに「歴史都市はこれから作っていくものです。これから20年30年たって、鎌倉に相応しい都市にするための計画があるのかどうかが問われます」(京都府立大学准教授・宗田好史さん)といった鎌倉には耳に痛い評価も聞かれました。
とくに人々の活動の舞台となっている都市の中での世界遺産のあり方を考えるというシンポジウムの狙いからすると、候補資産周辺でマンション建設などの開発がなくならない鎌倉の現状は、問題を抱えているようです。世界遺産に推薦された鎌倉は、首都圏の都市に生きるという現実をしっかりと受け止めて将来のあるべき姿を考えていかなければならないでしょう。
暫定リスト記載の世界遺産候補については映像による資産紹介が行われました。仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群については、古代国家にからむ大王陵としての展開も考えられ、前方後円墳を中心として「緑の古墳」を訴える単純明快なスピーチが興味をそそりました。だが鎌倉は「山稜部と一体となった稀に見る政権所在地の類型」といってもイメージがわきません。「武家の古都」を明確にイメージさせる努力が必要だと思いました。
(8月31日)日本国として正式に世界遺産として推薦するかどうかが決まる文化庁の特別委員会を控え、鎌倉と富士山は登録への重大な岐路に立たされています。「金を中心とする佐渡金山の遺産群」を暫定リストに入れて、世界遺産登録を狙う新潟では鎌倉の帰趨は他人事ではありません。地方紙「新潟日報」も鎌倉ウォッチを続けるとともに、特集記事を掲載するなど熱を入れています。
新潟日報の鎌倉特集の一部(8月22日付け)
候補から20年鎌倉/「武家」前面に独自路線/世界遺産“次期挑戦組”から「佐渡」の課題探る/京都・奈良と一線画す/推薦書充実へ海外の視点
8月22日朝刊に掲載された特集の見出しを見るだけでも、登録に向けての鎌倉の準備の現状が浮き彫りにされます。鎌倉に3度4度と足を運んで、関係者とのパイプを強めてきた東京支社の井川恭一記者の記事で構成されています。
鎌倉が持つ価値を証明し、保存管理計画をまとめた推薦書案はほぼ出来上がり、国内審査を待つ段階。平泉は一度落選したことで、推薦書の中身がより注目されることになった。文化庁から開催を求められた国際専門家会議では、異なる視点を取り込むことで、推薦書の内容に厚みが増した。その一つは山稜部をより広く世界遺産として捉え、前面に打ち出すよう助言し、推薦書案にも反映された・・・。鋭い切り口で鎌倉の現状に切り込んでいます。でもなぜ新潟で鎌倉がこれほど大きく取り上げられるのでしょうか。
「佐渡」については登録審査が年々厳密化される中で、保全管理が重視されるとして、鎌倉の体験から学んでいる形です。「400年以上にわたり、国内外の金銀の採掘技術・手法を導入し発展させてきた」ことなどが評価され、2010年に暫定リストに記載されました。鎌倉はすでに登録された内外の世界遺産をつねに念頭におきながら、登録の可能性を打診してきたのですが、同時に20年近くにわたって足踏みしてきた体験が後に続く佐渡などの候補地から注目されているのです。
日本記者クラブでユネスコの前世界遺産センター長フランチェスコ・バンダリンさんが記者会見されたとき声をかけられ、井川記者と名刺を交換しました。特集を読んだあと電話で、記事掲載の背景を聞いてみました。
「暫定リストに記載されて20年、ようやくユネスコへの推薦という段階に至った鎌倉の世界遺産とのかかわりの歴史は、まさに日本の歴史でもあります。これから先、推薦書の評価基準がせまくなるとか、登録の見通しがますます狭くなりつつあるとき、佐渡が鎌倉の歩んできた道を振り返り、学ぶべきところを学んでいくことは極めて重要になります」
いつか念願かなって登録に至り、世界遺産の保護管理の長い道を歩み始めるまで鎌倉の試行錯誤の歩みを新潟の空から見守っていてください。
(8月22日)「平成教育学院1年1組」というテレビ・バラエティー番組で鎌倉の世界遺産運動の現状が取り上げられました。暫定リストに記載されながら、彦根城と鎌倉がなぜ登録されないのか考えようというものです。まじめな取り組みながらバラエティーという限界もあり、今一つ物足りない内容でした。
テレビ放映された市民フォーラムの光景(テレビ画面より)
番組では市民も積極的にかかわっているとして鎌倉世界遺産登録推進協議会活動も紹介されました。収録時にたまたま開かれていた市民フォーラム委員会の情景が収録され、私も委員の一人として隅っこの方で登場しました。それでも「グランパがテレビに出た」と大津(滋賀)にいる孫たちから電話が入り、ちょっとした騒ぎになりました。番組は世界遺産に挑む鎌倉の現実を知るという宣伝効果は確かにありました。
でも内容となると「古都京都・奈良の存在」(古都鎌倉の意味が薄れる)、「国宝などの建造物が少ない」の二大欠陥が表示され、視聴者に問題の本質を考えさせる十分な説明もありません。むしろ「鎌倉はだめ」という烙印を押しているかのようにも受け取れます。彦根城についてもすでに世界遺産に登録されている姫路城と同時代の城郭と説明されていましたが、この欠陥を取り繕う映像も紹介されています。
他の城にはない特徴として、城内に残る大名庭園や大規模な厩(うまや)、城下町としての独自の景観など、彦根城と密接に結びつく景観がテレビ画像を提供しているのです。しかも大津城から天守閣を移築するなど他の城から壁や柱などを持ち込んで部材として活用するなど、ユニークな築城方法がとりいれられています。鎌倉には果たして目に訴えるような歴史的景観がどれだけ残されているのでしょうか。
バラエティー番組を見て強く感じたのは、鎌倉にはカメラの焦点となる景観や紹介すべき情報が少ないことです。24か所(最新の整理を経て現在は22か所)を世界遺産候補地として漠然と紹介するだけでは印象は薄れます。800年以上続いた武家政権の誕生の地といくら強調しても焦点ぼけは免れません。歴史を感じさせる景観があまりにも少ないという欠陥が付きまといます。
鎌倉市にしても文化庁や市民の世界遺産協議会にしても、これまでは意識してこなかったことですが、鎌倉を象徴する歴史的景観や目に訴えることができる情景を絞り込んでいくことが大事なのではないかと思いました。候補地の絞り込みもその一つになるかも知れません。「平成教育学院」が残していった数少ない教訓の一つです。
4回にわたる鎌倉世界遺産ワークショップをめぐって主催の「市民フォーラム」実行委員会が開かれ、今後どういう形で続けていったらいいのかをテーマに活発な議論が展開されました(2011年2月24日)。実行委に参加したのは福澤健次(フォーラム事務局長)、香山隆(パブリシティ委員長)、大野健一(世界遺産協議会委員)さんと私の4人。論点は登録の本質にもかかわるので、議論についてご報告します。
世界遺産登録の中心テーマは若者をはじめ市民の賛同を得ること(高木治恵撮影=若者のシンポジウムで 2010.11.20)
ワークショップは第1回(世界遺産に鎌倉を)、第2回(世界遺産お勧めコース)、第3回(どう守る世界遺産)、第4回(鎌倉の世界遺産登録へのまなざし)というテーマで4回開かれました。結果として幅広い層にわたる市民からの参加が得られないという根本的な問題点が浮き彫りにされました。鎌倉の世界遺産運動の特徴であり、限界でもある「市民の認識」を深め、賛同を得るためのワークショップであることを考えると、過去4回の開催が成功したとは言えません。どうしたらいいのかということで、議論が展開されました。
委員の1人はハロン湾、フエ、ミンソンなどベトナムの世界遺産を回ってきた体験に基づいて、「いずれも小規模ながら町の中でそれぞれの文化遺産が息づいている」、「町に住みながら住民が文化遺産を大事にしている」として「鎌倉にはまったく見られない環境である」と問題提起しました。では鎌倉とはどんな特徴を持つ町なのでしょうか。首都圏にあり、東京に通うサラリーマン層が多く、旧市街地と周辺の生活圏に分かれた分散都市で、江ノ電が中軸をなす街といった他の世界遺産都市にはない特異点があげられました。
思うような成果はあげられなかったものの、分裂しがちの市民意識を一本化していく上で、ワークショップが有効な手段であることについては意義はありません。ではどうしたらいいのでしょうか。いろいろな考えが出されましたが以下の4点に集約できると思います。
●東京に通うサラリーマンを対象にしたワークショップを開催する(東京の抱き込み)。
●鎌倉文化会議を設立して世界遺産登録に向けての演出をする(文化の継承)。
●子供たちのサッカー支援の父親グループとか、妊娠女性の意見交換グループなど特化した市民グループに働きかける(コミュニティ対策)。
●文化遺産の保全について次世代を育てていくためには、教育現場と一緒になって考えることが必要なので、小中学生を対象としたワークショップを考える(若者対策)。
いずれも魅力的なアイデアです。過去4回のワークショップは総論的な性格のものでした。今後はテーマを特化して、各層の市民にさらに広がっていくような演出を考えるべきなのではないでしょうか。「ところで登録に失敗したら、世界遺産の精神をどのように継承していけるかもワークショップのテーマとして取り上げてもいいのでは」といったところ、「われわれがやっているのは登録を成功させるためのもの。マイナス効果のものは避けるべきだ」と強く反発され、すごすごと退散しました。
金槐和歌集の和歌に詠われた植物のうち、フラワーセンターにも見られるものを取り上げたマップです。ポイント16以降を紹介します。
(16)(フジ、ふじ、藤)
ふるさとの 池の藤波 誰植えて むかし忘れぬ かたみなるらむ
(17)(ナツヅタ、つた、蔦)
わが恋は 深山の松に 這ふ蔦の 繁きを人の 問はずぞありける
(18)(ヤマザクラ、さくら、桜、山桜)
山桜 散らばちらなむ 惜しげなみ よしや人見ず 花の名だてに
(19)(イロハモミジ、別称タカオモミジ、もみじ、紅葉)
もみじ葉は 道もなきまで 散りしきぬ わが宿を訪ふ 人しなければ
(20)(ヤブツバキ、つばき、椿、玉椿)
ちはやぶる 伊豆のお山の 玉椿 八百万代も 色はかはらじ
(21)(イチョウ、銀杏、公孫樹)該当する和歌はありません。実朝は鶴岡八
幡宮の大銀杏に潜んだ甥の公暁に殺されます。
(22)(シダレヤナギ、やなぎ、柳、垂柳、青柳)
あさみどり 染めてかけたる 青柳の 糸に玉貫く 春雨ぞ降る
(23)(キク、きく、菊)
濡れて折る 袖の月影 ふけにけり 籬の菊の 花のうへの露
(24)(マユミ、まゆみ、真弓、白真弓)
しらまゆみ 磯辺の山の 松の葉の 常磐にものを 思ふころかな
(25)(ウツギ、うつぎ、空木、卯の花)
神まつる 卯月になれば 卯の花の 憂き言の葉の 数やまさらむ
(26)(コケ類、コケ、こけ、苔)
岩にむす 苔のみどりの 深きいろを 幾千代までと 誰か染めける
(27)(アカメガシワ、ひさぎ、楸、久木)
うちなびき 春さり来れば 久木生ふる 片山かげに 鶯ぞ鳴く
(28)(ヤマブキ、やまぶき、山吹)
春雨の 露のやどりを 吹く風に こぼれてにほふ 山吹の花
(29)(カツラ、かつら、桂)
あはれまた いかにながめむ 月のうちに 桂の里に 秋は来にけり
(30)(ネズ、ネズミサシ、むろ、古名むろのき、榁)
みさごゐる 磯辺に立てる むろのきの 枝もとををに 雪ぞつもれる
(31)(コナラ、ははそ、柞)
下紅葉 かつはうつろふ 柞原 神無月して 時雨降れりてふ
(32)(オミナエシ、をみなへし、女郎花)
さを鹿の 己が棲む野の 女郎花 花にあかずと 音をや鳴くらむ
(33)(ハス、はす、古名はちす、蓮)
小夜ふけて 蓮の浮葉の 露のうへに 玉とみるまで やどる月影前回のブログで紹介した(12)(クマザサ、ささ、隈笹、笹)と(13)(ヤマハギ、はぎ、萩、俗名山萩)については、マップでは和歌が割愛されていました。マップ作製にあたった三日会では「どちらも『笹』『萩』として登場するため状況証拠などから判定すると、クマザサ、ヤマハギと断言できるほどでもなく、候補とされる作品が取り立てて秀歌というほどでもないという、二つの理由が重なって、ここはやめておこうとなりました」と言っておられます。クマザサと疑われた候補の一つは「笹の葉に霰さやぎて深山辺は、峰の木枯らししきりて吹きぬ」、ヤマハギの方は「朝なあさな露に折れふす秋萩の、花ふみしだき鹿ぞ鳴くなる」だったということです。
「鎌倉三日会」と「古都鎌倉を愛する会」が作成した「金槐和歌集散策マップ」を頼りに大船のフラワーセンターを歩いてみました。金槐集に出てくる植物と合致したのは、33か所のポイントのうちわずか4、5か所だけでしたが、中世の美意識に触れる緊張感を味わうことができました。マップ上の番号、植物名と源実朝の和歌を示す金槐集のアンソロジーです。
シダレエンジュ
(1) (エンジュ、槐)該当する和歌はありませんが、金槐の金は鎌倉の金偏で槐(えんじゅ)が右大臣の位を示し、実朝が詠んだ和歌集であることを表したものです。
(2) (クロマツ、まつ、松、黒松)
鶴の岡 あふぎて見れば 峰の松 梢はるかに 雪ぞつもれる
(3) (ススキ、すすき、薄、花薄、尾花)
虫の音も ほのかになりぬ 花すすき 穂にいずる宿の 秋の夕暮れ
(4) (オイシバ、みちしば、道芝)
消えなまし けさ尋ねずは 山城の 人来ぬ宿の 道芝の露
(5) (フジバカマ、ふじばかま、藤袴)
藤袴 きて脱ぎかけし 主や誰 問へどこたへず 野辺の秋風
君ならで 誰にか見せむ わが宿の 軒端ににほふ 梅の初花
(7) (スギ、すぎ、杉)
東路の 関守る神の 手向けとて 杉に矢たつる 足柄の山
五月雨の 露もまだひぬ 奥山の 真木の葉がくれ 鳴くほととぎす
(9) (カワラナデシコ、なでしこ、撫子、大和撫子)
ゆかしくば 行きても見ませ 雪島の 巖に生ふる 撫子の花
(10)(ミヤコザサ、ささ、都笹、小篠原)
笹の葉に 霰さやぎて 深山辺は 峰の木枯し しきりて吹きぬ
なよ竹の 七のももそぢ 老いぬれど 八十の千節は 色も変わらず
(12)(クマザサ、ささ、隈笹、笹)和歌割愛
(13)(ヤマハギ、はぎ、萩、俗名山萩)和歌割愛
(14)(ミヤギノハギ、はぎ、宮城野萩)
道の辺の 小野の夕暮 たちかへり 見てこそゆかめ 秋萩の花
(15)(ヒノキ、ひのき、ひ、檜)
まきもくの 檜原の嵐 冴えさえて 弓月が岳に 雪降りにけり
(以下は次回ブログでお伝えします)
三代将軍源実朝の歌集「金槐和歌集」にちなむ「金槐和歌苑」を鎌倉に作って、「武家の古都」の精神文化を支える主軸にしていこうという動きがあります。鎌倉世界遺産登録推進協議会メンバーでもある三日会が創立60周年記念行事として推進してきました。今年は和歌集ができて800年でもあり力を入れてきたのですが、実現には程遠い状況です。どこか世界遺産登録と同じ道を歩んでいるように見えます。
実朝は武家政権のトップの座につきながら、四季の移り変わり、花鳥風月を愛で和歌として残してきました。武家政権の発祥の地となった鎌倉には、「武」だけではなく「文」にも優れた遺産が残されているということを知ってもらう上でも和歌苑創設の意味があるというわけです。そこで三日会では県立フラワーセンター大船植物園に的をしぼって、県との交渉を進めてきました。
これまでの調査では金槐集に関係する植物は、エンジュなど57種に上りますが、うち30数種がフラワーセンターで植栽されていることが明らかになりました。そこで①和歌苑の案内板を建て、現在ある「和風庭園」の一部を整備する②50種の植物の名前と和歌に解説を加えた説明板をそれぞれの該当か所に設置する③案内パンフレットを作って、センター入口でお客に手渡すことなどを県側に提案してきました。
マップにも出てくるエンジュ(実際はシダレエンジュという異種とか)(高木治恵撮影 2011.02.22)
協議会の市民組織が作成した「金槐和歌集散策マップ」がホールの片隅に積んであるだけで、具体的に提案内容を盛り込んだものは何もありません。マップを頼りに空っ風が吹き付ける2月の午後、園内を散策してみました。
(コウウヤマキ、まき、真木、槇)五月雨の 梅雨もまだひぬ 奥山の 真木の葉がくれ 鳴くほととぎす
(ミヤギノハギ、はぎ、宮城野萩)道の辺の 小野の夕暮 たちかへり 見てこそゆかめ 秋萩の花
植物名と実朝の和歌が33首、提示されていました。
該当樹木には和歌も書かれておらず、何の説明もないので見落としたものもあるのでしょう。実際にマップと合致したのは4、5か所だけで、何とも後味の悪い散策に終わりました。センターで責任者に聞いたところ、「県立なので(金槐集に)特化したものはできない」と曖昧な返事でした。三日会の役員は「せめて名札だけでもつけてほしい」と申し入れを行ったそうですが、何の返事もないといっています。
元理事の橋爪幸臣さんは、和歌苑構想が盛り上がってこない現実にひびれを切らしています。
「武家の古都の文化を大事にしようという動きがすこしでもあれば、すでに鎌倉の世界遺産登録は実現していたはずです。吾妻鏡に出てくる地名などもあります。無味乾燥した地名を旧地名に戻したらどうかと提案したこともあるのですが・・・」
世界遺産の登録推進には無力かも知れませんが、鎌倉の歴史が内蔵している精神性をじっくりと考える必要があるでしょう。その意味でも金槐和歌苑ができるのか、できないのかには、世界遺産に対する市民の決意が問われているように思えます。
神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会会長の兵藤芳朗・副市長は、2010年度末の推薦書原案の仕上げに向けて実働部隊の陣頭指揮にあたっています。重責を担うだけに悩みも多いようです。
2010年の第34回世界遺産委員会終了の時点での世界遺産登録件数は911件(うち文化遺産704件、自然遺産180件、複合遺産27件)。件数が急増していることも新たな登録のハードルとなってきています。こうした障壁を乗り越えて登録を取り付けるのは困難を伴う状況です。
「鎌倉に対するわれわれの思いは京都・奈良と並ぶ三大古都であり、日本を象徴する都市の一つだという思いでもあります。鎌倉には歴史的な社寺や考古遺産が数多く残されていますが、中世の都市を思わせるような街並みがあるのかということになると、現実は非常に厳しいと言わざるを得ません。しかし、ハードルを乗り越えて鎌倉が世界遺産のある町になったということになれば、それが誇りになると思います。予想されるハードルを踏まえてこれから変えていくべきところは変えていくというというようなところで、挑戦する価値は大いにあります。いまだに世界遺産になってどうなるのだという議論もあるようですが、やはり世界遺産に挑戦して、世界の目で見てもらうというのが、われわれに課せられた責務ではないでしょうか」
「確かにそのためにお金(税)を投じなければいけないということが一方にはありますが、将来のことを考えれば不適切な表現かもしれませんが、一種の投資だと考えています。それぐらいに考えていかないと、百年先に今のわれわれは鎌倉について何をしていたんだという話になりかねません。百年先にわれわれが町を挙げて世界遺産登録をしたのだということがあれば、鎌倉に携わることが楽しみになり、そこに住むことが誇りにもなるでしょう。世界遺産への挑戦を契機に次の時代の鎌倉を作っていこうという意気込みが、これから登録を目指すものには大切な事だと思います。鎌倉が一枚岩になってやっていくぐらいの心意気、気持ちを持っていかないといけないのではないでしょうか。」
年度末を1カ月半後に控え、順延された推薦書原案を文化省に提示して、鎌倉は登録に向けたレールに乗ることができるのでしょうか。見通しは決して明るいものではないようです。
「一時はその辺の読みは靄がかかったような状態だったのは事実です。しかし文化庁も前からやってはくれてはいますが、ここへきてきちんとやろうという機運になってくれています。今後の2、3カ月が正念場です。そこを乗り越えれば、あとは事務的にできるはずです。文化庁にきちんとお話できるような意気込みでやっていかないといけないし、個人的にもそこがポイントだと思っています」
「最初の暫定リストに入っていたわけだから、平泉や石見銀山などよりも前に登録されていてもおかしくなかったはずです。他人のせいにするわけではなくて、鎌倉市も実際の動きは鈍かったと言わざるを得ません。とくに鎌倉が時間がかかってしまったのは、遺跡などの調査や史跡指定などを進めていくこととともに、やはり町づくりとの関連もありました。若宮大路周辺を中心とする景観については20年以上も前から課題だと言われてきましたが、景観法の施行もあって、世界遺産登録への取り組みを契機にようやく景観地区の指定を若宮大路周辺地区と北鎌倉周辺の地区で行うことができました。併せて全市的な建築物の高さ規定の整備を進めることもできました。史跡としての保護やバッファゾーンの確保などという地元としての準備は時間がかかりましたがようやく整ったものと思っています」
町づくりの思いがからんでくると市民の思惑の違いが正面化しかねず、世界遺産運動はますます混迷を深めることになりかねません。推進委員会の仕事も一掃複雑多岐なものになってくるでしょう。でも急いでレールに乗るよりか、町づくりという鎌倉の特性をじっくりと見極めていくことが必要なのではないでしょうか。
神奈川県、横浜市、逗子市を含む4県市で鎌倉世界遺産登録を進めているという現状が目に見えません。現在、どのような仕事が進められているのか、4県市で構成する「神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会」(市民組織「鎌倉世界遺産登録推進協議会」とは別組織)の会長である鎌倉市の兵藤芳朗・副市長に聞きました。
「推進委員会」は登録に向けて4県市が協力連携して推進していくことを目的に、「記載推薦書案及び包括的保存管理計画案の作成」などを進めていくために設置された組織です。
「四年前に立ち上げました。現在、神奈川県教育局(文化財課世界遺産担当)と、鎌倉市の世界遺産登録推進担当が事務局としてが学識者で構成される『武家の古都・鎌倉』世界遺産一覧表記載推薦書原案作成委員会や文化庁との詰めの作業などを進めてくれています。4県市の首長(県知事・各市長)は、推進委員会を設置するとき推進会議を開いて、協力連携していくことに合意し協定を締結しています。推進委員会は、その協定に基づいて実務的に進めていくための組織として設置したものです。推進委員会はこれまでに7回開催し、その都度方針等を協議して進めていますが、緊急を要する案件などは会長と副会長(県教育局長)とで協議して進めていくこともあります。この推進委員会は、行政の実働部隊となるものですから、4県市の職員で構成されており、市民の方が加わっている組織ではありません」
市民不在の実働部隊というのが引っかかりました。世界遺産登録の主役は誰なのでしょうか。オブザーバーでもいいから市民代表を加えるべきなのではないでしょうか。
4県市で計画していた推薦書(暫定版)の(2010年)9月の文化庁への提出ができなくなり、世界遺産登録のメドが大幅に順延状態となったことが現在の混迷の最大原因の一つになっています。推進委員会は推薦書原案の早期提出のために作業を急いでいます。
「2010年度中にはきちんとした形で、推薦書(暫定版)の作成を進めていきたいということで努力しています。具体的にはこれまでの国際専門家会議などで提言として出された宿題事項などを詰めています。推薦書(暫定版)案の作成は、作成委員会で検討しまとめられたものを4県市の推進委員会が決定していくということになりますが、実質的にはイコモス関連の作成委員と文化庁の調査官からなるプロジェクトチームと4県市の事務局とが十分に練って案を作成していくということで進められています。特に文化庁と十分な協議を重ねていくことを重視しています」
兵藤副市長の話を聞いていると、時間とのにらみ合いの状態が続いているように見受けられました。
「世界遺産登録はユネスコ世界遺産委員会による年間のスケジュールが決まっており、これを踏まえて準備を進めなければすぐに翌年回しにされかねませんので、時間にせかれています。具体的には推薦書(暫定版)案の作成を年度末までに終わらせるということです。全体的なスケジュールとしては、9月に推薦書(暫定版)が国からユネスコに提出され、書類の形式審査が行われた後、翌年の1月に本申請を行っていくことが予定されています。このスケジュールに合わせて作業を進めている訳です」
「登録推薦は最終的には国が行うものですから、4県市で決めても文化庁との協議が整わないとユネスコへの推薦は行われません。国は国で文化庁から外務省へ持っていくという段取りなどもあるので、やはりその国内的なスケジュールに遅れてしまうと、日本全体で考えていたスケジュールにも影響を及ぼすため、そういう面でのスケジュールをきちんと踏まえてやっていかないといけません。文化庁と四県市が一体となって、進めていくことが大事です」
暫定リストに記載されて20年登録に至らないまま、あいかわらず空転を続ける鎌倉の世界遺産の重責を推進委員会が一身に担っているような印象を受けました。次のブログでは兵藤副市長ご自身の悩みなどをお聞きします。
鎌倉世界遺産登録推進に向けての中学生作文コンクールの入賞 作品表彰式と発表会が(2011年)1月15日、市議会本会議場で行われました(写真は青少年指導員連絡協議会提供)。鎌倉市青少年指導員連絡協議会と世界遺産登録推進協議会主催でコンクールは4回目です。世界遺産の理念を伝えていくには、願ってもない媒体でそれなりに定着してきたかに見えますが、市民の認識を確立していくには実績と内容をさらに深めていく必要があると思いました。
今回は市内の中学校から531人の応募がありました。1次審査通過者18人の中から11人の入賞者(最優秀賞1人、優秀賞3人、佳作7人)が決まりました。選考委員長の元鎌倉ペンクラブ会長三木卓さんが挨拶し、「鎌倉は身近に歴史の時間を感ずることができる恵まれた場所です」と参加した中学生たちを激励しました。
発表会では最優秀賞になった安部萌さん(横浜国大付属鎌倉中学3年)は、「心躍る思いで通学している」「日本の歴史が息づく街」「芸術文化を盛り上げる魅力のある街」として鎌倉の魅力に触れ、「(再生に向けて成長する)鶴岡八幡宮の大銀杏のように(世界遺産登録の)第一歩を踏み出すべきではないだろうか」と思いを伝えています。
日ごろ考えていることでも子供たちの感性に触れると異なる新鮮な意味を持つことがあります。大勢の観光客に囲まれて通学路の若宮大路を通学するとき、なぜ「心躍る」のでしょうか。豊かな歴史文化、平和な地域社会の存在を知って充実感を感ずるのかも知れません。こうした日常の心の高まりが世界遺産の町づくりにつながっていくのかも知れません。
鎌倉の世界遺産登録のペースを遅らせているのは、鎌倉市民の支持基盤が薄いことだと思います。市民の間に少しでも基盤を広げていく努力は最優先課題として欠かせません。大船、玉縄、深沢そして腰越など周辺地域との世界遺産をめぐる意見交換会の開催などもその一環だと思います。青少年作文コンクールには基盤整備の強力な媒体になるはずです。
選考委員長の三木さんは「文章を書くには態度を決めなければなりません。そのためには考えなければなりません。心の成長を高めていくことにもなります」と言っておられました。登録を実現することに直結できなくても、世界遺産とは何であるのかを一人一人がじっくり考える時だと思います。作文コンクールの行方をじっくりと見守っていきたいと思います。
若者たちが鎌倉の世界遺産運動をどのように見て、関わろうとしているのかを問うシンポジウムが(2010年)11月20日、建長寺で開かれました。テーマは「鎌倉の若者たちと世界遺産」。市民を巻き込んで運動を推進しようとブログ発信を続けている私にとっては、願ってもない新鮮な切り口でさっそくかけつけました。でもいつまでたっても世界遺産のかけらも話に出てきません。若者代表の一人として参加していた松尾崇市長が、「今日のテーマは世界遺産のはず」と声をかけてくれたおかげでやっと本論に戻ったのですが、「市民不在」の運動の現状を否応なく認識させられた秋の午後でした。
若者たちの世界遺産で発言する松尾市長(左から二人目)(高木治恵撮影2010.11.20)
ステージ①「鎌倉の若者たちの新鮮な視点」のパネリストは「鎌倉てらこや事務局長」上江洲慎さん、作家里見弴邸保全活動の「西御門サローネ」スタッフ島岡朋子さん、フリーペーパーの「カメレオン」代表宮部誠二郎さん、コーディネーターが映画「幻風景」製作委員会の松尾子水樹(こなぎ)さん、ステージ②「若者たちとともに鎌倉の明日を」はパネリストに松尾市長が加わり建築設計士波多周さんがコーディネーターになりました。いずれも20、30代の「若者」ですが、それぞれの活動分野で発言の機会に恵まれたプロ集団です。
ステージ②が半分ほど進んだ時に市長の「待った」が入りました。「世界遺産活動がはじまってから10数年になるのに今もってきっかけにこだわるのは、おかしいではないですか。大きなグランドビジョンも見えません」と島岡さんが本題について口火を切りました。宮部さん「共有できるものがあれば、とっくに世界遺産になっているはず」、沖縄出身の上江洲さん「あと10年は運動が続いた方がいいと思います。その間きっかけを作ってアクションを起こす。何が生まれるか検証していきたい」、松尾さん「世界遺産運動に先立つ古都保存法がらみの住民運動など鎌倉文化の歴史に注目しています」と発言が続きました。
でも文化庁の推薦延期などで、悩み多き鎌倉の世界遺産運動の本質にかかわる議論への展開は見られませんでした。登録に賛成するにせよ、反対にせよ、若者ならではの問題提起に胸躍らせていただけに足下をすくわれたかのような印象でした。またパネラーの構成にも一工夫必要だったと思います。「若者」を表面にする以上、商業や農業、サラリーマン、学生など幅の広い層への働きかけも必要だったでしょう。「世代間の交流」や「情報発信の充実」「ワールドカフェ型討論の展開」など二義的なテーマについては、確かにユニークな発言もあったのですが、世界遺産に関しては物足りなさを残す議論でした。
30数年慣れ親しんできた街・鎌倉が世界遺産の登録をめざしていると初めて聞いたとき、ためらいを感じました。奈良や京都が世界遺産といっても何の抵抗もなく受け入れらますが、寺社や史跡など鎌倉の史跡のどこが歴史のたたずまいを残しているのでしょうか。事の始まりは暫定リスト記載でした。それから20年、登録されないまま鎌倉のトラウマが続いています。
日本が1992年に世界遺産条約を批准したあと、最初に暫定リストに載った10か所のうち8か所が世界遺産に登録され、「古都鎌倉の寺院・神社」で記載された鎌倉と「彦根城」の2か所は先送りされてきました。暫定リストに登録されていないと、世界遺産委員会へ推薦できません。いわば世界遺産に至る道の第一関門です。
ところで鎌倉はなぜ暫定リストに記載されたのでしょうか。文化庁主任文化財調査官だった伊藤正義さんは、当時を振り返って言っています。
「鎌倉の世界遺産にするために必要な史跡が十分に指定されているのかとか、これからの史跡を広げていく体制がしっかりしているとかをいっさい考えないで、俗にいう三古都ということで名前を出しただけでした。当時は建造物が残っているものを優先してやっていたので、建造物重視の観点からは『中世のものがないので駄目なのではないか』といわれてきました。こうした背景の下で鎌倉は思うように突き進めなかったのでは・・」
鎌倉市民も世界遺産が一体何なのかも知らないうちに文化庁主導の渦に巻き込まれました。暫定リストに入った時にも市民レベルの議論が必要だったにもかかわらず、結局何も行われなかったのです。永福寺の発掘に初期に段階から深くかかわり、鎌倉の暫定リスト入りに奔走した坪井清足さん(現元興寺文化財研究所所長)から2008年末に直接聞いた「鎌倉は何回言ってもわからないのでもう救いようがないね」という怒りの言葉を忘れることができないと、「古都フォーラム鎌倉」代表の卯月文さんは言っておられます。
佐渡鉱山と仁徳天皇陵が2010年10月に新たに加えられ、鎌倉を筆頭に13件が暫定リストに記載されて世界遺産登録をめざしています。でもユネスコの評価は一段と厳しくなり、国内でも目白押しの状態で、鎌倉は京都、奈良とは異なる「古都」の持ち味を迫られている状況です。「登録されずに価値がないとして烙印を押されたときのリバウンドが大きく、鎌倉は東京砂漠になりかねない」と元文化庁調査官がふと漏らした言葉が胸に引っかかっています。
ブログ半年の中間報告書としてまとめた原稿です。(1-1)は第一部第一章です。(1-2)、(1-3)と順次続きます。みなさんのコメントを参考にさせていただいて、刊行予定の小冊子を少しでも内容のあるものにしていきたいと思います。
文化庁の決断(1-1)
文化庁が神奈川県・横浜・逗子・鎌倉の4県市とともに進めていた世界遺産登録のための書式審査などにあたる仮推薦が予定されていた2010年9月には行われないことになりました。スタートのつまづきで2012年の登録目標は大幅に遅れます。突然の文化庁の判断で1992年に暫定リストに記載されて以来20年近くにわたって続いていた鎌倉のトラウマは、一段と深まることになりかねません。
4県市は仕上がった推薦書をユネスコに提出、審査機関イコモスの現地調査などを経て2012年に登録という行程で、準備が進められてきました。目標の登録年については鎌倉市議会でも報告されています。今回の文化庁の判断は市民の世界遺産登録に対する熱意をさらに冷やしかねません。同時に鎌倉に限らず日本全土で登録を目指す他の暫定リストに記載された地域にも、世界遺産を目指す戦略の根本的な立て直しを迫ることになるかも知れません。
仮推薦見送りの背景には3回目の開催となった国際専門家会議の影響が濃厚にうかがえます。2010年6月開催の会議では「武士が作った初めての都」や「武家文化」の歴史的意義について「鎌倉を知らない外国人にも分かるのか」という疑問が出たようです。また「審査が厳密化しており、確実な登録を期すのであれば、さらに時間をかけ、推薦書を充実させる必要がある」との評価で、鎌倉幕府成立前後の社会比較などを推薦書に盛り込むよう求められたともいわれます。
ブログの呼び掛けに応じて、批判的な反響もあいつぎました。一例です。
「このもたつきは登録失敗が重なったときに生ずるであろう批判をおそれ、文化庁が責任回避の安全策を取っている結果ではないかと個人的には感じています。しかも、その結果として国際会議と称するものを何度も開き、あげくの果てに登録できない理由を並べ立てるなどというのは、悪質な詐欺行為以外の何物でもないでしょう」
文化庁が年度内の推薦を見送ったのは、記憶に残るところでも2度目です。しかも最終的に登録の是非を判断する世界遺産委員会の評価が一段と厳しくなるなど、登録をめぐる環境も壁が一段と高くなっているのです。このままではトラウマが続いた揚句に鎌倉の世界遺産は真夏の夜の夢となって、はかなく消えかねません。報告書の第一部では暫定リスト記載後、文化庁の仮推薦引き延ばしに至るほぼ20年間の鎌倉の暗中模索のあとを追います。