ホーム思考と行動の問題点



部屋の散らかり方と分離不安
  Ver 1.0 1999/10/09


 皆さんの中には、普段から部屋をきれいにしている人もいるかもしれませんが、境界例の人の中には、部屋がいつも散らかっているようなタイプの人がいます。部屋が散らかる原因としては、いままで育ってきた環境や躾けなどによるもの、精神的な混乱状態によるもの、分裂病から来る身の回りに対する無関心さ、あるいは疲れているとか、仕事が忙しくて部屋を片付けている暇がないなどというようなことを考慮しなければなりませんが、ここでは私の体験などをもとにして、分離不安に焦点を当てて分析してみたいと思います。ですから、もし今あなたの部屋が散らかっているならば、これから説明する、分離不安とはどういうものなのかとか、しがみつきの心理とか、自分をごまかすための心のメカニズム(防衛機制)とはどういうものなのかなどについて、ある程度実感として理解できるのではないかと思います。

 では、なぜ部屋が散らかったままになってしまうのかと言いますと、一言で言えば寂しいからです。たとえゴミであっても自分のそばに居てもらいたいのです。ですから、逆にきれいに片づいた部屋や整理整頓された部屋にいると、妙に落ち着かないと言いますか、心の座りが悪いような、あるいは自分の部屋ではないような感じや、見捨てられたような寂しさと言ったようなものを感じてしまいます。自分の部屋が自分の部屋らしくあるためには、ある程度散らかっている必要があるのです。脱ぎっぱなしのまま置いてある服や靴下、読んだまま放り出してある新聞や雑誌、食べ終わったコンビニ弁当やカップヌードル、ジュースの空き缶、空になったペットボトル、吸い殻で一杯になった灰皿、ゴミ箱に向かって放り投げたけれども命中しなかったゴミ、そういったさまざまな物が存在していた方が、孤独感や寂しさが少しは和らぐのです。空き缶や脱ぎ捨てたままの服が擬人化されて、ちょうど友達と一緒にいるような安心感を与えてくれるのです。友達はたくさんいた方がいいですから、周囲に出しっぱなしになっている物がたくさんあった方がいいのです。ゴミも収集日に出さずに、部屋に溜めておいた方がいいのです。

 このような心理状態が極端にひどくなると、いわゆるゴミ御殿と言われるような状態になることがあります。ゴミという友達がどんどん増えていって、部屋の中にあふれてしまいます。それだけではまだ足りずに、ゴミの集積場所に捨てられているゴミ、つまり誰かに見捨てられてしまった可哀想な友達(ゴミ)を一緒に家に連れて来たりします。テレビのワイドショーで放送していたのですが、家の敷地の中にゴミの山が出来、家の中もゴミで埋まっていて、ものすごい状態になっているケースがありました。悪臭もひどくて、近所から苦情が出ているのですが、そこに住んでいるお婆ちゃんは、まるでお構いなしです。そのお婆ちゃんは変な人?ではなくて、英字新聞を読んだりするようなインテリなんだそうです。しかし、最終的には役所の説得に応じて、ゴミを撤去することに同意したのですが、あまりにも大量にゴミがあったため、役所の用意したトラックが何台も行ったり来たりしていました。

 このようなことは、きれい好きの人にも当てはまります。いつもきれいに整理整頓されているのですが、部屋の中には小さな人形やこけしなどが大量にならんでいたり、旅行に行ったときに買った土産物、さまざまな細々とした装飾品や置物、あるいは額に入った写真や絵などといったものが驚くほどたくさんあったりします。そして、それらの品々は大量にあるにもかかわらず、きちんと整理され、分類され、掃除も行き届いていたりします。こういう人たちは、逆に何もないような殺風景な部屋というものは、耐え難いものに思えるでしょう。そういうときは、少しずついろんな品物を集めてきては部屋の中に飾り、やがて集めてきた無言の友達で部屋の中を一杯にするのです。

 さて、部屋を散らかしたり汚したりしたままにしておくという、その心理状態の背景には、おなじみの見捨てられ感や分離不安などが潜んでいるのですが、このような感情は直接表面には出て来ないで、形を変えて意識レベルに登ってきます。たとえば、散らかっていた方がなんとなく居心地がいいとか、自分の部屋らしいとか言うように意識されるのです。そして、本来の不安や寂しさといった、都合の悪い感情は背後に隠されてしまい、散らかった状態を正当化しようとする考えだけが表面に出てくるのです。たとえば、たいして疲れてもいないのに、疲れて掃除する気にならないとか、後で掃除するから今はいいのだとか、さまざまな理由付けがなされます。これが自分で自分をごまかす心のメカニズム、つまり防衛機制と呼ばれるものなのです。

 人によっては散らかった状態を正当化するのに、一見もっともらしいような理由をつけることもあります。たとえば「部屋を散らかすのは、動物の匂い付けと同じような縄張り行動の一種である」とか、「物が出しっぱなしになっていた方が、使うときにすぐ使えるから便利だ」とかいうふうに、散らかった状態を理屈でもって正当化するのです。これは、防衛機制の中でも「合理化」と呼ばれているものです。一見もっともらしく思えたり、あるいは一面の真理を含んでいるように見えたりします。たしかに散らかしておくのは匂い付けと言う面もあるかもしれません。しかし、部屋を散らかすにも限度というものがあるのではないかと思います。それに、たしかに出しっぱなしの方が使うときには便利でありますが、その便利さと引き換えに、なにがどこにあるのか分からなくなってしまうというような、犠牲になっている部分も多いのではないかと思います。このような歪んだ理由付けというのは、簡単に言えば屁理屈でしかありません。そして、この屁理屈こそが、合理化という防衛機制であり、自分の抱えている不安や寂しさをごまかす手段となっているのです。そして、正当化してごまかしている限り、寂しさや不安に直面せずに済むのです。

 部屋が散らかっていると、部屋の中を歩くのに邪魔になる物があちこちに散らばっていたりします。買ってきた品物を梱包していたダンボール箱がそのまま放置してあるとか、何ヶ月か前に掃除しようとして出した掃除機がずっとそのまま出しっぱなしになっていたりとかします。そして、部屋の中を歩くときは、ダンボール箱や掃除機をいちいちまたいで行かなければなりません。邪魔になるのだから片付ければいいようなものなのですが、いつまでたってもそのまま放置しておいて、そこを通るたびにまたいで行くのです。ここで重要な意味を持っているのは、「邪魔になる」ということなのです。自分の行く手に何もないよりは、邪魔してくれる「存在」があるということに意味があるのです。つまり、自分は一人ではないのです。自分の邪魔をしてくれる物が部屋に存在しているのです。物をまたぐとか、床に散らかっているゴミをよけるとかいう行動を取ることによって、自分以外の存在をその都度確認できるのです。そして、このような面倒な行動を取らざるを得ないような散らかり方をしていれば、心の底にある不安や寂しさをあまり意識しなくて済むのです。

 このような、自分の行動を邪魔をしてくれる物体を必要とする心理が、人間関係の中で表現されると、自分がやろうとしていることを邪魔してくれる人を求めたりします。なぜ邪魔者を必要とするかというと、たとえ嫌な奴であっても誰も相手をしてくれる人がいないよりは、相手をしてくれる人がいた方がいいからです。少し自虐的ではありますが、この自虐性が病的なレベルにある人では「誘惑する被害者」と呼ばれる状態になったりします。周りの人を無意識的に誘惑したり挑発したりして犯罪行為に駆り立てて、自分自身が被害者になるように仕組むのです。そして、レイプや虐待の哀れな被害者になることで、自分が自分であることを確認するのです。ここまで極端になりますと、ダンボール箱や掃除機を出しっぱなしにするのとは、形態もレベルもまったく違いますが、そこにはある種の共通点があるように思います。

 部屋が散らかっていると、たまには掃除しようと思うこともあります。しかし、これがなかなか実行できなくて、ズルズルと先延ばしになったりします。今日こそはと思って、予定表にメモしておいても、どういうわけか何か他の用事ができたり、なんとなく明日にしようということになったりします。これは、防衛機制で言うと「不成功防衛」や「回避」と言うことになります。掃除をして、部屋がきれいになってしまうと、その後で心理的な居心地の悪さや、寂しさという物を感じるであろうことを予感して、その居心地の悪さや寂しさを意識しなくて済むように、掃除を回避するのです。そして、掃除の実行を不成功に終わらせることで、見捨てられ感などを意識しなくて済むようにしているのです。このようなパターンは、人生においても見られます。分離不安や見捨てられ感に直面しそうになると、回避行動を取ったり、あるいはなぜか失敗を繰り返したりして、分離不安を避けようとするのです。

 部屋が散らかっているのに、散らかっていることをあまり意識しない場合もあります。これは、防衛機制の「否認」です。つまり、散らかっていることによって、自分自身が不便な思いをしなければならないという事実を無視するのです。ですから散らかっていても、何とかしようなどという発想は最初からありません。散らかっているのに、散らかっていること自体を心理的に認めようとしないのですから、散らかっているということが意識に登ることがありません。あるいは、知識としては散らかっていることを知っていも、そのことをなるべく考えないようにしてしまいます。散らかり方があまりにひどくなってしまい、その事実を否定しきれなくなってから、やっと散らかっていると言う事実が思考の中に登場するのです。

 その他にも「分裂機制」というのもあります。これはあまり見られない少ないケースかもしれませんが、家の中にきれいな部分と散らかっている部分が分裂したまま同時に存在するのです。マンガなどで良く見かける場面だと思いますが、部屋はきれいに片付いているのに、押し入れの戸をほんの少し開けたとたんに、中に詰め込まれていたガラクタ類が雪崩のように崩れてきて、自分が生き埋めになってしまうというものです。これはマンガとして誇張されていますが、これと似たようなことがあるのです。部屋を片付けたりするときに、ついでに押し入れも整理して収納すればいいのですが、どういうわけか目に見えない部分は整理する気にならないようで、ゴチャゴチャのまま放り込んでしまいます。そして、表面的にはきれいに見える部屋であっても、どこかに正反対の汚れた部分が残っていて、その汚れた部分があることによって、本人はなんとなく精神的に安心するのです。

 ここまで、部屋が散らかる事の心理的な背景などについて書いてきましたが、自分自身の心理状態というのは常に一定というわけではありません。散らかっているのになんとも思わない時もあれば、心機一転して突然大掃除をはじめたりすることもあります。突然大掃除をはじめる時というのは、今までなんとも思わなかったのに、急に散らかっている部屋をひどいと感じたり、何とかしなければと感じたりします。こういう時というのは、おそらく分離不安が低減しているのではないかと思われます。そして、こういう心理状態のときというのは、掃除をして部屋がきれいになっても不安も感じませんし、寂しさも感じません。それどころか、逆に晴れ晴れとした気持ちになります。しかし、こういう状態というのは長続きしないのですね。ですから、いつの間にか散らかった状態に戻ってしまいます。そして、先に書いたような防衛機制が働いて、なかなか掃除をする気になれず、散らかった状態が長引いたりします。

 では、どうしたらいいのかと言いますと、まず自分の心の中で作用している各種の防衛機制を分析して、それを自覚することではないでしょうか。今、あなたの部屋が散らかっているなら、なぜ片付けないのか、なぜ掃除しないのか、なぜ先延ばしにするのか、なぜ部屋が汚いと感じないのか……と、自分自身に問いかけてみるのです。そして、掃除しないでいる理由を各種の防衛機制に照らし合わせながら洗い出し、自分のごまかし方を意識することが必要です。次に、自分の防衛機制のパターンが自覚できたら、その防衛機制を遮断してみることです。つまり、部屋をある程度片付けてみるのです。そして、その時に感じる不安感や寂しさに身をさらしてみるのです。今まで無言の友達として存在していたゴミが、視界から消えることで、その時自分が何を感じるのかと言うことに注意を集中してみるのです。焼酎の空き瓶や、飲み終えた牛乳の紙パック、あふれて山が出来てしまったゴミ箱、それらものをまず見つめるのです。その時、そういう物に対して、しがみつきのような気持ちを持っていないか、自分の心の中を点検してみるのです。次に、それらの物をひとつずつ片付けて、その後で、視界から消えてしまったことで、自分の心にどんな変化が起こったのか見つめてみるのです。ゴミと別れることの寂しさを見つめてみるのです。この時大切なことは、分離すること、つまりゴミなどと別れるということと、自分が見捨てられるということとは、まったく別のことなんだということを感覚的に、あるいは感情的に理解することです。ゴミやガラクタが無くなっても、それらを失う悲しみはあるかもしれませんが、それは自分が見捨てられることを意味するのではないということを自分自身で確認するのです。そして、分離することと、見捨てられることの区別がつくようになれば、片づいた部屋であっても、以前ほどには居心地の悪さや物足りなさのようなものを感じなくなると思います。これは急には出来ないかもしれません。少しずつ分離不安を見つめることで、分離することが、見捨てられる事にはならないんだということを理解してゆくのです。ただ、あまり神経質になって、完璧にきれいにする必要はありません。我々は時には、非常に不安な精神状態になる時もありますから、そういう時には、部屋がある程度散らかった状態になるのは仕方のないことではないかと思います。

 私の場合で言えば、以前はかなりひどい状態だったのですが、今は「それなりに」片付いたレベルを維持しています。しかし、分離不安の問題がまだ根本的に解決ていませんので、それらの未解決の部分がいまだに部屋の散らかり方として表現されているのかなあ、などと思っています。そして、この文章を書いたついでに、私も、もう一度自分を見つめ直してみることにします。

 部屋の散らかり方を分離不安だけで説明するには無理がありますが、境界例の人の場合には、分離不安の存在が非常に大きな意味を持っているのではないかと思います。なお、各種の防衛機制の詳細については、下記の関連ページを参照してください。


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 ( 回復のための方法論 − 防衛機制のパターン )
 合理化 
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 分裂機制


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