ー秘話ー
「終戦御前会議の模様を聞く」
〔解説 終戦詔書のできるまで(資料参照) 水谷 弘(経第37期)〕
経理学校第三十七期の水谷です。私は終戦の詔書が作成された経緯について整理をしてみました。お手元に差し上げた資料はこの詔書の第一案と最後に公布されたものとを比較対照できるように整理したものです。「日本でいちばん長い日」といわれる日のことですから、順を追って詳細に御説明するとまる一日かかりますが、時間が極めて制約されていますから、最初と最後だけで要約しました。
私が資料を第一案と最後に公布されたものとの比較の形として整理したのは、第一案は迫水内閣書記官長が御前会議における天皇陛下のお言葉をそのまま詔書の形に表現したといわれるもので、その時の天皇陛下のお言葉のニュアンスがもっとも忠実に伝えられていると考えたからです。
ところが実は第一案のあと、第二案、第三案、第三案修正案とさらに第四案があって、その次が閣議で決定する政府案となりました。普通の詔書の場合はこの閣議請議案で最終決定されるのですが、ご承知のようにこの時の閣議で色々な意見があって、さらに四か所の訂正がありました。その後に正本といって御名御璽の入った後世に残すためのいわば原本が作成されました。それができ上がってからまた訂正が入りましたから、合計六段階の修正があったことになります。詔書の中でこのような例は他にまったくありません。日本の運命を変えた歴史的な大事件でしたから、その裏面にはこのように苦渋に満ちた経緯があったのです。
第一案から最終案までの間に書き加えられたり、書き加えられたものが削除されたり、さらに修正されたり、また順序が前後に大幅に入れ替えられたりなどが何度も行われていますから、全体を整理すると相当の分量になります。これらの過程の中で、ひたすら戦争を遂行してきた全軍の、また国民の士気と統制の立場から、また一方で戦後処理の円滑という見地から、非常に微妙な文言の推敲が行われたことが伺えます。前者の例として、原子爆弾に関係したところで「新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ・・」という件りは「人道ヲ無視シテ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ目的ノ為ニハ手段ヲ擇ハス今後尚交戰ヲ継続セムカ激烈ナル破壞ト残酷ナル殺戮ト・・」と続いていた段階があります。また「萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」の文言が入ったのは第三案ですが、この部分の直前の「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ・・」のところは、第一案では「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ臥薪嘗膽成ス有ルノ日ヲ將来ニ期シ・・」となっていました。後者の例の一端を挙げますと、まず最初のところです。第一案では「帝國政府ヲシテ米英重慶並ソビエト政府ニ対シテ各國ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」となっていました。申すまでもなく当時の中国にはいずれも正統性を主張する政府が三つありましたから、外交上は明らかに重慶と特定せねばなりません。しかしポツタム宣言はあくまでも四国共同のものとして「米英支蘇・・・」とすることになりました。また先ほどの「人道ヲ無視シテ・・」とか「目的ノ為ニハ
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手段ヲ擇ハス・・」とかの言葉は、この際敵国を無用に刺激するとして削除されています。また第一案で「東亞新秩序ノ建設」とあるのを、それでは枢軸側のイデオロギーが強く出すぎるとして「東亞の開放」と修正されました。これらは外務省担当官のメモとして残っているものを、辛うじてようやく判読することから判ったものです。
この外に修正途中で起案に関与されたどの方がどのような立場から、どのような意見を述べられたか、それがどう反映されたかについてはすべて省略いたしますが、ここで最後の正本についてお話しをしておきます。詔書の正本というのは片面十行の内閣罫紙に墨で清書したものです。天皇の御名御璽のあるところは御璽の一辺が九十一ミリですから十行のうち七行を占めます。したがって詔書の最後のページはこのために七行を残して三行で本文が終わるように字づもりをしながら書いて行くものです。ところがこの時は清書をしている間にも案がどんどん変わっておりましたから字づもりができません。結局最後のページは四行目以下にかかってしまいました。時間がないから天皇御璽は本文にかかったまま押されています。これも詔書としてはまったく異例のことです。しかもその本文自体が書き直されています。「戰局必スシモ好轉セス」という言葉は、最初の第一案ではここに示したように「戰争ノ局ヲ結フニ至ラス」となっていました。後で「戰局次第ニ不利ニ陥リ」と修正されて、閣議にかかった時は「戰局日ニ非ニシテ」となっていたのです。ところがこれには陸軍大臣の強硬な意見があったといわれています。「戰局日ニ非ニシテ」のところを剃刀で削って「必スシモ好轉セス」と書き込まれた跡が歴然としています。それから「新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ」の次に「頻ニ無辜ヲ殺傷シ」の字句が行間に挿入されています。このようにきちんとした正本がいかにも添削されたようになっていますが、一刻も猶予もならなかったさ中での、苦心の跡をありありと伺うことができます。
資料の説明だけに終わりましたが、これらを整理するに当たって、詔書の起草に参画された方々が、いずれも困難な状況のもと、それぞれ絶対に譲ることのできないギリギリの立場を持ち、主張されながらも、国家のため日本の将来のため、大局的に精根を盡くして歴史に残る詔書を練り上げられた努力の跡が感じられました。簡単ですが以上で説明を終わります。
以上
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〔解説 参考事項 宇佐見 寛 (兵第76期)〕
宇佐見です。この録音盤について若干の説明をさせていただきます。私がこの録音盤を手に入れたのは昭和四十五年ごろのことですが、その後は長く仕舞ったままの状態でした。この録音盤はその当時の東芝音楽工業鰍ェ限定三○○○部を作成したもので、一般にも市販されていましたから、実はお持ちの方が多いと思っておりました。六月二十二日は御前会議が開かれて最初に終戦の方向が示された日ですが、実は今年になって先輩の方々にこの録音盤のお話しをしたところ、皆さま方は全くご存じがなくて「是非その録音盤を聞かせてくれ」とのことでした。皆さんはこれを聞かれて非常に感激されました。そこで今日は、この勉強会でも取り上げていただくことになった次第です。
この録音を聞く前に参考として、その当時の重要事項を時系列的に並べてみると次のようになります。
昭和十九年
八月 五日 「大本営政府連絡会議」を廃止、「最高戦争指導会議」を設置
(十月 九日 第七十六期海軍兵学校へ入校)
(十月二五日 関行雄大尉が最初の特別攻撃隊として出撃)
昭和二十年
二月十四日 近衛文麿公が終戦を訴える文書を天皇へ上奏
六月 九日 木戸内大臣が時局収拾案を天皇へ上奏
〃 十二日 侍従武官の長谷川清海軍大将が天皇の勅使として内地の各基地を視察、その実情を率直に天皇へ報告
〃 二二日 天皇陛下が最高戦争指導会議の構成員を召集して戦争終結の希望を述べられた
八月 六日 原子爆弾が広島へ投下された
〃 七日 原爆に関するトルーマン声明が発表された その内容は
「日本が降伏に応じないかぎり他の場所にも原爆を投下する」
であった
〃 八日 東郷外相が「ポツダム宣言受諾」について鈴木首相と会談して天皇陛下へ上奏、天皇は戦争終結への努力を希望された
〃 八日夜半 ソビエトが突如対日宣戦を通告して関東軍へ攻撃を開始
〃 九日 長崎へ原子爆弾が投下された
〃 九日午前十時 「ポツタム宣言受諾」を議題として最高戦争指導会議が開かれた
午後二時半 閣議が開かれたが意見の一致をみないで散会
〃 九日午後十一時十五分 最高戦争指導会議構成員と平沼枢密院議長が加わって御前会議が開かれた 夜を明かす
〃 十日午前二時半 鈴木総理大臣が天皇の御聖断を仰いで終戦の断が下った
〃 十三日午前九時 最高戦争指導会議が開催されたが議論が対立したために
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午後三時中止、午後四時 閣議が開かれたが結論が出ず
〃 十四日午前十時半 天皇の召集による特別御前会議を開催、全閣僚出席
正午 「ポツダム宣言受諾」の御聖断が下った
午後一時 閣議開催、ポツタム宣言受諾を確認、終戦詔書の作成開始
午後八時半 詔書の草案が作成された
午後十一時半 玉音が録音された
以上のような状況でした。この録音盤では最初に当時の鈴木内閣書記官長の迫水さんの「終戦までの御前会議の模様」についてお話しがあります。この迫水さんのお話しが終わってから、天皇陛下の八月十五日の玉音放送があって、続いて当時の鈴木貫太郎総理大臣の告諭があります。この告諭の終わりに官吏が率先して戦後の復興に当たるようにと申されています。
なお参考までに、鈴木大将は海軍兵学校の第十四期の大先輩で、明治二十年七月に卒業されています。(兵学校が江田島に移転したのは明治二十一年八月)
以上
〔参考 天皇と鈴木大将 (録音盤付属解説書より)〕
四月一日、より大規模で、より恐るべき破壊と殺戮が、沖縄において始められた。侵攻する連合軍の艦船一三一七隻、艦載機一七二七機、上陸部隊は精鋭一八万人、これを迎え撃つ沖縄日本軍は、牛島満中将の第三二軍六万九○○○、太田実少将の海軍陸戦隊八○○○の計七万七○○○人である。ほかに満十七才から四十五才までの沖縄県民男子二万五○○○人を動員し、その中には男子中学生一六○○人、女子中学生六○○人がふくまれている。
アメリカ上陸軍は、県民補充兵を入れても日本軍の一・八倍であり、そのもてる銃火力にいたっては十倍以上の強力さだった。太平洋戦争最後の地上戦となったこの島の戦いは、つまり戦闘の始まる前に終わっていたといえるのである。日本軍にとって勝機はまったくといっていいほどなかったのだが、戦闘そのものは苛酷をきわめた。野蛮な殺しあいが島のいたるところにつづけられた。
日本海軍も全力をふりしぼった。連日のように特攻機を発進させ、連合艦隊最後の水上部隊である戦艦「大和」を中心とするわずか一○隻の部隊にも出撃を命じる。これら残存艦艇を沖縄海岸に乗り上げさせ、大要塞と化して敵撃滅に当たろうというのであった。命令が発せられたのは四月五日の午後、前日まで特攻出撃の話しなどまったくなく、それは突然に下された命令なのだ。準備期間どころか充分に作戦計画をねる暇もない。しかし、艦隊は黙々と、そして蒼惶として出撃準備にかかった。
四月五日という日は、ひとり大和隊だけではなく、日本国民にとっても慌ただしい日であった。この日の午後、大和隊の命令受領と同じころ、小磯国昭内閣があっさりと総辞職する。それに追い打ちをかけるように、遠くモスクワからきびしい通告がもたらされてくる。ソ連外相モロトフが、日本の駐ソ大使、佐藤尚武を通じて、ソ連政府は日ソ中立条約をこれ以上延長しないこと、つまり廃棄通告をなしたことが発表されたのである。日本国民の心あるものは、日ソ関係がこの通告によって破局の一歩手前まできたことを、いわば本能的に察知し、深い憂えに沈むのだった。
注 日ソ中立条約は昭和十六年四月に締結
有効期間五年(昭和二十一年四月まで有効)
期間終了の一年前に廃棄の意思を伝えなければ自動的に五年延長
ともあれ、この危機迫るとき、分秒を争ってもつぎの内閣を決めることが先決であろう。ただちに重臣会議がひらかれ、甲論乙駁のはてに、やっと後継首相に海軍大将・鈴木貫太郎が推挙されたのは、その日の夜も九時近くになってからだった。十時すぎ、深夜にもかかわらず天皇は鈴木大将を宮中によばれた。この日はただの一機のB29の来襲もなく、奇妙な平穏さが保たれたが、それだけにますます不気味な静けさと暗さとが、東京の夜を深々と蔽っていた。
天皇は、七十九才の、丸い背をさらに丸くして立つ老臣にいわれる。
「卿に内閣の組閣を命ずる。」
沈黙があたりを支配した。慣例によれば、天皇はこのあと「憲法を守るよう、また外交のことは慎重にするよう・・・」と決まりきった首班任命の言葉をつづけることになって
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いたが、このときは、沈黙したまま、じっと老提督に視線をそそがれるのみであった。
しばらく沈黙がつづいたあと、これも異例のことになるのだが、鈴木大将は天皇の命令に対して辞退したい意を表明した。一介の武弁には政治はわからぬこと、老齢にすぎること、また軍人は政治に関与すべからずの明治天皇の訓えを守りたいことなどを理由として述べ、「何とぞこの一事だけは拝辞のお許しを願い奉ります」といった。
それを予想していたかのように、鈴木大将の言葉が終ると、天皇ははじめて口もとに笑みを浮かべられた。
「鈴木の心境はよくわかる。しかしこの重大な時に当って、もうほかに人はいない。」
天皇は、ここで一度言葉をきって、再び沈黙に戻られた。老提督も答えない。人々を深淵にひきこむような閑寂が再び部屋を包みこむ。大将はやがて顔をあげて天皇を見上げた。天皇も愛すべき老臣をじっとみつめられる。そしておもむろに、
「頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい。」
といわれた。もともと後継内閣の組織は天皇が命ずるものなのである。それが憲法の示すところであった。にもかかわらず、天皇は「頼む」といわれるのである。老提督は、このとき、ただ深く頭を垂れるほかはなかった。
鈴木内閣は四月七日に成立した。その成立を祝うかのように、内閣の親任式の行われているさなか、B29九○機とP51三○機が銀色さんぜんと輝かして東京上空を乱舞し、日本機も少数がこれを迎え撃った。春靄のかかる奥に、はじけるような、両軍の射ちあう機銃音が長い間ひびいていた。そしてこの日、死出の旅路に出撃した最後の艦隊は、九州南端の坊岬沖で、その最後を飾るに足る勇戦の後に潰滅した。巨大戦艦「大和」は二○本の魚雷と無数の爆弾をうけて沈んだ。日本の無敵海軍は、黄海の海戦、日本海海戦いらいの長い勝利の伝統の幕を、全滅をもって閉じたのであった。
以上
ー参考ー
鈴木 一 編 「鈴木貫太郎自伝」 時事通信社
小堀 桂一郎 著 「宰相 鈴木貫太郎」 文芸春秋社
鈴木貫太郎記念館 千葉県東葛飾郡関宿町関宿一二七三
○四七一ー九六ー○一○二
〔録音 終戦御前会議の模様 故 迫水 常久 (鈴木内閣書記官長)〕
私が今日お話しをしようと思ったことは、戦争を終結することができたのはまったく天皇陛下のお陰であることを申し上げたいからです。鈴木貫太郎内閣ができ上がったのは昭和二十年の四月七日のことでした。その当時の慣行によって、総理大臣の歴任者、いわゆる重臣と称する方々が集まって、小磯内閣の後継総理大臣候補者として鈴木貫太郎海軍大将を推薦されたのを、天皇陛下が御嘉納遊ばされて大命降下となったのです。
組閣直後、鈴木総理大臣は非常に慎重でした。戦争を止めるなどとは決して仰せられませんでした。東郷外務大臣の入閣が一日おくれましたが、それは東郷外務大臣が鈴木総理大臣に「貴方に戦争を止める気持ちがあるなら外務大臣になってもよい」と言っていたためです。しかし鈴木さんはどうしても戦争を止めるとは口にされませんでした。「だから入閣はしないのだ」と、東郷大臣はずいぶん頑張っておられたのです。ですから私は東郷さんのお宅に何回も伺って「鈴木さんの顔をご覧になってください。あの勇気を持っておられる方ですから、戦争を続けるにせよ、止めるにせよ、鈴木総理大臣をご信任になって入閣して下さい」とお願いに上がったことをはっきりと覚えています。
総理大臣は組閣の直後ただちに「日本の国力の真相を究めるように」と下命されました。このために陸軍、海軍、企画院その他の関係部署が、本当の材料を持ち寄って検討をした結果「日本が組織的に経済を運営し、また行政を全国統一的立場でできるのは、昭和二十年の九月一杯である」という判定がなされたのです。九月以降の日本の経済は断片的になり、行政も断片的になるという見通しでした。そのために鈴木内閣は各地方に統監府というものを設置することを決めました。したがって、戦争も組織的にできなくなって、ゲリラ的になってしまうだろうという判定を下したのが四月の末のことでありました。
国際情勢の判断においては、ソ連がソ満国境に兵力を集中しているが、ドイツとの戦争が終った後、ソビエトが兵力をソ満国境へ集中し始めまして、その態勢が整うのは概ね九月であろうと陸軍が判断していましたから、何としてでも九月末までに戦争を終結しようとご決意になったのが四月の末のことだったと思います。
鈴木総理はそれ以来、色々とご腐心になりました。胸の中には二つの条件を考えておられたようです。その一つは国体の護持です。天皇制は絶対に確保することでした。もう一つは民族一本の姿で戦争を終結しなければならないとお考えになっておられたのです。陸軍がどうしても戦争を止めないと頑張っている以上は、あるいは戦争を止めることができたとしても、軍と民との間が内乱的な状態になったり、軟派と硬派の分裂が起きたりすることがないように、民族が一本となった姿で戦争を終結することができるようにしたい、この二つが戦争終結の条件であるとお考えになっていましたから、どうしてもそのきっかけを探さざるを得なかったのです。
六月二十二日という日は我々は忘れることのできない日です。その日は天皇陛下が総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、軍令部総長、参謀総長の六巨頭をお呼びになりました。この六巨頭は最高戦争指導会議を構成していて、日本の最高の意思を決める機関でした。またこの会議に内閣書記官長、陸軍省軍務局長、海軍省軍務局長および内閣総合企画局長官の四名が幹事という立場で出席していたのです。この時は陛下の御前で本土決戦
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についてのお話しがありました。みな色々な構想を申し上げたのですが、最後に天皇陛下から「これは命令としてではなくて、懇談の立場で言うのであるが、自分の希望としては戦争を一日も早く止めるように工作してもらいたいと希望しでいる」とのお言葉を、この六月二十二日の最高戦争指導会議構成員の会議の席上でお述べになったのであります。このお言葉によつて日本の方向が決まりました。
しかし、阿南陸軍大臣は「もしそのお言葉が下の方に洩れてしまうと、あるいは非常の事態が発生しないとも限らない。クーデターが起きるおそれがある。二・二六事件を上回るクーデターが起こって、天皇陛下ご自身を秩父の宮様にでも代わっていただこうとする者が出てこないとも限らない。だからこのことは厳重に極秘にしておいて、六人だけで工作を進めて行くことにしたい」と、述べましたから、その後はそのように進んで行ったのです。
それ以後、この六人はしばしば会合されました。そうしてついにソ連に仲裁を頼むということを決めたのです。私は東郷外務大臣が、これには非常に反対されたことを覚えています。東郷外務大臣は「どうしても仲介が必要と考えるなら、むしろ蒋介石に頼んだ方がよいのではないか」と言われたのです。しかし陸軍は、おそらくソ満国境の状態が緊迫していたために、むしろこの際、ソ連に仲介を求めた方が、ソ満国境からの侵入を未然に防ぐ一つの手段になると考えただろうと私は判断します。とにかく陸軍は非常にソ連に仲裁を依頼することを主張していましたから、近衛文麿公をソ連に特派して、ソ連に仲裁を頼むことを決めたのです。ソ連からそのことについて色々なことをサウンドしてきたことは事実です。ところが七月十五日になって「モロトフおよびスターリンはポツダムの会議へ出席するからベルリンへ行く、日本からの要請はポツダムから帰ってきてから答えることにする」と言い残してモスクワを後にしてしまいました。政府は非常に焦慮して佐藤尚武ソビエト大使に「できることならポツタムまで追いかけて返事をとれ」とまで指令を出したのですが、ついに実現することはできませんでした。
ポツダム宣言が出たのはその直後、七月二十六日のことでした。全く突如としてポツタム宣言が出てまいりました。英国、米国、中華民国の三国の署名でした。東郷外務大臣はその次の閣議において「これは今までのアメリカの言っていることとはまったく違っている。今までアメリカは国家としての無条件降伏を要求していたが、今度は八カ条の条件を掲げている。そしてその八つの条件を日本国政府が呑むならば戦争を終結しようという条件つきの戦争終結の提案の形になっている。これを受諾することによって日本の国の存在がなくなることはない。日本国は厳重に主権を保持しながら戦争を終結することができるから、ポツダム宣言を受諾することにしよう」と言われたのです。無条件降伏という言葉は八番目の条項に「日本国政府はあらゆる日本の軍隊が無条件に降伏するように措置をせよ」という表現で、アンコンディショナル・サレンダー(無条件降伏)という言葉が出てきたのです。即ち軍隊の無条件降伏は一つの条件ですが、国家として無条件降伏が要求されているのではないからとして、東郷外務大臣はこれを受諾することを強く主張されたのです。しかし閣議では「ソ連に仲裁を頼んでいるのだから、ソ連からの返事を待とうではないか、しばらく様子をみよう」ということで様子をみることに決定されたのです。
八月六日に広島へ原子爆弾が投下されました。これが原子爆弾であることが確定したのは八月八日です。この日、総理大臣は「明日(九日)の朝から閣議を開いて正式に終戦のことを論議する。原子爆弾が投下された以上、原子爆弾を持つ国と持たない国との間では、戦争が成り立たないことは陸軍も認めるだろうし、国民はかならず皆が承認するであろうから、もう公式に終戦のことを論議してもよいのではないか」というお考えでした。
私がその準備をしていた九日の午前二時、突如としてソ連の宣戦布告を聞いたのです。私はその時のことを今考えても、全身の血が逆流するような憤激を感じます。日ソの間には日ソ中立条約というものが厳として存在していたにもかかわらず、ソ連は日本からの仲裁の申入れに対して一言の返事をすることもなく、いきなり戦争を仕かけてきたのです。当時、スターリンは、これは後から判ったことですが、モスクワにおいて「この日本に対する宣戦布告は日露戦争に対する報復である」と演説していたことは、皆さまご承知の通りであります。
八月九日の午前十時から閣議が開かれました。原子爆弾の投下とソ連の宣戦布告という致命的な二つの事実を前にしての閣議でしたから、閣議の方向はおのずから決まって「ポツタム宣言を受諾することによって戦争を終結すべし」という議論になりました。しかし阿南陸軍大臣は「陸軍としてはこれに同意することはできない。このまま戦争を終結したならば、国体を護持することについて我々は確信が持てない。どこかでアメリカ軍を一度敗北させた機会において、戦争を終結することには反対しないけれども、このまま戦争を終結することには同意できない、というのが陸軍の意思である」と、非常に強調されました。そしてとうとう夜の八時になりました。
閣議不統一ということは、内閣が総辞職をしなければならない一つの理由であります。夜の八時ごろ、閣議を休憩して鈴木総理大臣は総理大臣室へ帰られました。私は総理大臣室で「どうされますか」と伺いますと「自分は総辞職をしない、終戦は自分の手で片づけたいと思う」「それでは総理、どうされますか」と伺いますと「君はどのようにしたらよいと考えるか」と聞かれましたから「私はまことにおそれ多いことですが、御聖断を拝する以外に方法はないと思います」と申し上げました。鈴木総理大臣は「自分もそう思ったから、今朝、陛下にお目にかかった時に、そのことはお願いしてきてあるから、その段取りをとるように」とのお言葉があったのです。それではどのような方法で御聖断を仰ぐ機会をつくるかについて、私は色々と考えた末に、最高戦争指導会議を開いてその席に天皇陛下の御親臨を仰いで、その席上で天皇陛下の御聖断を賜るという措置をとることに決めたのです。
私がその時に非常に考えたのは、ポツタム宣言を受諾するということは、条件つきの向こうの提案を呑むことになりますから、一種の条約になります。条約ということになれば、当時の制度の上では枢密院の批准を経なければならないという議論が起こってくることは必至でしたから、鈴木総理大臣に「この御前会議、最高戦争指導会議には、特に思し召しをもって枢密院議長の平沼男爵を参加していただくことにしたらどうでしょうか」と申し上げました。鈴木総理大臣は「それならば」と太田耕造先生が使いとなって、平沼男爵に最高指導会議に参加をしていただいたのです。
これが八月九日の御前会議と称する第一回の御前会議であります。この御前会議が開かれたのは昭和二十年八月九日の夜十一時のことでした。鈴木総理大臣が議長、私がいわば
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進行係のような形で会議は進行いたしました。鈴木総理から構成員の一人ずつを指名して発言を求めました。最初に東郷外務大臣が理路整然と「ポツタム宣言を受諾することによって戦争を終結すべきである」という議論をされました。次に阿南陸軍大臣が冒頭に「私は東郷外務大臣の説には反対である」と前置きをされて「このままで戦争を終結することについては、国体の護持が覚束ない。止むを得ないが本土で敵を迎え撃って、必ず勝利を得なければならない。本土決戦をするならば、私は必勝とは思っていないが必敗ではない。人の和があり、地の利があるのだから、かならずやアメリカ軍を撃退することができると思う」と申されました。「声涙共に下る」という言葉はあのようなことを言ったのだと思います。両方の頬に涙を流しながらこのように申されたのです。その次に米内海軍大臣は極めて簡単に、本当に一言で「自分は東郷外務大臣に同意であります」と言われただけでした。平沼男爵は色々な質問を軍部の大臣、外務大臣などにされてから、結局、東郷外務大臣の説を支持する立場をお示しになったのです。梅津参謀総長と豊田海軍軍令部総長は、阿南陸軍大臣に同調する意見を申されまして、三対三という立場になったのが八月十日の午前二時ごろです。そこで鈴木総理大臣が立ちまして「これだけ議論をしたが結論が得られていない、事態は極めて緊急であって一刻も猶予を許さない状態だから、先例もなく、はなはだ畏れ多いことではあるが、ここで陛下の思し召しをお伺いすることによって我々の決心を決めたいと思う」と宣言をされてから、天皇陛下の御前に進んで丁重にお辞儀をされて、このことを陛下にお願いを申し上げたのです。
天皇陛下は左手をお出しになり、自分の席に帰れとお示しになりました後、身体を前に乗り出すようにして次のようなお言葉がありました。「私の考えは、先ほど東郷外務大臣の申したことに賛成である」と仰せられたのです。その瞬間、私は胸が詰まって涙が眼から迸り出て、机の上の置いてあった書類に涙の跡が残ったことを覚えております。たちまちすすり泣きの声から、やがてみなが声をあげて泣きました。天皇陛下は白い手袋の拇指を眼鏡の裏にお入れになって、何回か眼鏡の曇りをお拭い遊ばされました。陛下もお泣きになっておられることを私達は拝したのであります。思いがけなく天皇陛下のお言葉が続きました。「念のために理由を言う」と仰せられました。「自分としては先祖から受け継いできたこの日本の国を子孫に伝えて行かなければならないが、本土で決戦をすれば日本国民のほとんど全部の者が死に絶えてしまって、そのことを実現することができなくなると思う、はなはだ耐え難いことであり、また忍び難いことではあるが、ここで戦争を終結して一人でも多くの日本の国民を救いたい。その場合、自分はどうなっても差し支えない」と、たどたどしく途切れ途切れに仰せられたのであります。私たちは本当に泣きながら陛下のお言葉を拝しました。「大勢の戦死者が出ているが、その人たちのことを考えると自分の胸がまったく痛む」というお言葉もありました。やがて陛下のお言葉が終わりまして、鈴木総理大臣から天皇陛下に入御、ご退席をお願いしました。私どもはその後に残って会議を続けたのです。陛下のご退席の時のお姿を、私は今でも眼の前にはっきりと思い出すことができますが、後ろから身体を支えてさし上げなければと思うほどお疲れのご様子で、たどたどしい歩き方でお席をお立ちになったことを覚えております。
後に残った者の会議では「日本国天皇の命によって、日本国政府はポツダム宣言を受諾する。ただし、ポツダム宣言の要求事項が告げられているが、このポツタム宣言の要求事項の中には天皇の国家統治の大権を変更する要求は、これを含まれないものと了解する」即ち「天皇制の護持ということを条件として出す」と言って「あなた方は当然、天皇制を廃止するということなどは要求してはいませんね、この了解を確認願いたい」と言う条件を返電したのです。
これに対する返事がきました。正面からどうこうという返事はしてきませんでしたけれども「日本国の最終の政治形態は、日本国国民の自由に表現された意思によって決定されるものとする」という回答がきたのです。ところがこの返事を受け取った日本は大騒ぎになりました。まず平沼男爵は「この回答は不満である」と言われたのです。「日本の天皇の御位置は神ながらの御位置であって、日本国民の意思以前の問題である。しかるに先方の回答はそのことを理解しないで、日本国民の意思によって天皇制を護持するかどうかを決めようとしているが、それは明らかに日本国体の本質と違っている。この際、もう一度アメリカに対して日本の国体の本義について説明をして、納得の行く説明をとらなければ自分は同意できない」と言われたのです。
鈴木総理大臣は非常に困りました。そしてついに十三日は閣議を終結しないことにして、明日まで持ち越すことにしたのです。そして陛下のお力にもう一度お縋りすることになったのです。八月九日の御前会議は制度としての会議でした。天皇陛下の御臨席を仰いだ最高戦争指導会議でした。十四日の御前会議、この御前会議は陛下の思し召しによって、陛下の方から最高戦争指導者会議の構成員と全閣僚をお召しになるという形の、陛下のイニシァティブによる会議の形式でありました。
会議は人数が多くでございますので椅子だけが三列に並べられておりました。ここに一同が集まって、そこに陛下のお出ましをいただいたのです。鈴木総理大臣から今日までの経過についてご報告申し上げました。即ちポツタム宣言を受諾するという返事をしたことと、天皇の国家統治の大権を変更する条項は入っていないことを確認したいという条件をつけたこと、これに対して先方からこのような返事がきたことをご報告しました。これについて異論のある者もございますので、異論のある者から陛下にその意見を申し上げることをお許し願いますと申し出て、阿南陸軍大臣、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令部総長の三人がこの席上で発言をされたのです。私はその時の阿南陸軍大臣のお話しに感激をしました。本当に本土決戦の覚悟を披瀝されて、「もし本土決戦にならざれば、大和民族は全滅して青史、歴史にその名を止めることこそ民族の本懐であると思う」という言葉も阿南陸軍大臣の言葉の中にありました。鈴木総理は三名の他に誰も発言させませんでした。豊田海軍軍令部総長の発言が終わると、鈴木総理は「もう発言はございません。陛下の思し召しをお願い申し上げます」と申し上げたのです。
天皇陛下は非常にたどたどしいお言葉でしたが、もちろん原稿などはお持ちになっておりません、その場所で本当に絞り出すように仰せられました。「先方の回答は、あれで満足してよろしいから、速やかに戦争を終結するように」というお諭しがあったのです。陛下は白い手袋をはめられた御手で何回も両方の頬をお拭いになりました。陛下ご自身もお泣きになっておられたのです。岡田厚生大臣などは椅子に座っているのが耐えられないほど泣いていたのを私は覚えております。誰も泣かない者はありませんでした。陛下は「陸海軍でもし必要ならば、私はどこにでも行って説き諭す。軍隊は大変な衝撃を受けるだろ
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うから、どこへでも行って説き諭す」と仰せられました。また「必要ならばマイクの前に立って直接に国民に諭してもよい」というお言葉もこの時にあったのです。陛下のお言葉が終わりまして、鈴木総理大臣が立ち上がって、陛下の思し召しを承ったことを申し上げ、陛下はご退席になりました。
そうして閣僚は総理大臣官邸に帰って閣議を継続して、ポツダム宣言の受諾を正式に決定して、その日の午後の閣議で終戦の御詔勅の審議に入ったのです。終戦の御詔勅の審議につきましてもお話しをしたいことは数々ございますが「万世のために太平を開く」というお言葉がその中心でした。また天皇陛下のお言葉の中に、これから先の再建は非常に困難であるが、自分も国民と一緒に努力をするというお言葉があったことを表現するために、「朕ハ茲ニ國体ヲ護持シ得テ 常ニ爾臣民ト共ニ在ル」というお言葉が、あの御詔勅の中にあるのです。本当に陛下が国民の中に帰っていらしたような感じがしました。
終戦後二十五年、日本は今日の繁栄を迎えることができました。これは経済学的には自由貿易であるとか、アメリカの恩恵であるとか、蒋介石の恩恵であるとか、色々なことが言われておりますが、私はただ一つ、終戦後も厳として天皇陛下が存在しておられるから、今日の日本の繁栄があるのだといういうことを、私は確信いたしている次第でございます。
以上
君が代吹奏
玉音放送
詔 書
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セ
ムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民に告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告
セシメタリ
抑E帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニ
シテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦實ニ帝國ノ自
存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キ
ハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰
朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各E最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局
必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈
ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而
モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人
類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇
祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕ガ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムル
ニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セ
サルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其
ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタ
ル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘ
キ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕
ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開
カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信椅シ常ニ爾臣民ト
共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局
ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失ウカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク
舉國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力
ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ
世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
各国務大臣副署
君が代吹奏
謹んで天皇陛下の玉音放送を終わります。
畏くも天皇陛下におかせられましては、万世の為に太平を開かんと思し召され、
昨日政府をして、米、英、支、ソ、四国に対してポツダム宣言を受諾する旨通告せ
しめられました。畏くも天皇陛下におかせられましては、同時に詔書を渙発あらせ
られ、帝国が四か国の共同宣言を受諾するの止むなきに至った所以を御宣示あらせ
られ、今日正午、畏き大御心より詔書を御放送あらせられました。この未曾有の御
ことは拝察するだに畏き極みであり、一億ひとしく感泣いたしました。我々臣民は
ただただ詔書の御旨を必謹、誓って国体の護持と民族の名誉保持のため、滅私の奉
公を誓い奉る次第でございます。
謹んで詔書を奉読いたします。
詔書再読
謹んで詔書の奉読を終わります。
内閣告諭代読(添付資料参照)
内閣告諭
本日畏クモ大詔ヲ拝ス帝国ハ大東亞戰争ニ従フコト實ニ四年ニ近ク而モ
遂ニ 聖慮ヲ以テ非常ノ措置ニ依リ其ノ局ヲ結ブノ他途ナキニ至ル臣子
トシテ恐懼謂フベキ所ヲ知ラザルナリ
顧ルニ開戰以降遠ク骨ヲ異域ニ暴セルノ將兵其ノ数ヲ知ラズ本土ノ被害
無辜ノ犠牲亦茲ニ窮マル思フテ此レニ至レバ痛憤限リナシ然ルニ戰争ノ
目的ヲ実現スルニ由ナク戰勢亦必ズシモ利アラズ遂ニ科學史上未曾有ノ
破壊力ヲ有スル新爆彈ノ用ヒラルルニ至リテ戰争ノ仕法ヲ一變セシメ次
イデ「ソ」聯邦ハ去ル九日帝國ニ宣戰ヲ布告シ帝國ハ正ニ未曾有ノ難ニ
逢着シタリ 聖徳ノ廣大無邉ナル世界ノ和平ト臣民ノ康寧トヲ冀ハセ給
ヒ茲ニ畏クモ大詔ヲ渙発セラル 聖斷既ニ下ル赤子ノ率由スベキ方途ハ
自ラ明ラカナリ
固ヨリ帝國ノ前途ハ之ニ依リ一層ノ困難ヲ加ヘ更ニ國民ノ忍苦ヲ求ムル
ニ至ルベシ然レドモ帝國ハ此ノ忍苦ノ結實ニ依リテ國家ノ運命ヲ將來ニ
開拓セザルヘカラズ本大臣ハ茲ニ萬斛ノ涙ヲ呑ミ敢テ此ノ難キヲ同胞ニ
求メムト欲ス
今ヤ国民ノ齊シク嚮フベキ所ハ國體ノ護持ニアリ而シテ苟クモ既往ニ拘
泥シテ同胞相猜シ内争以テ他ノ乗ズル所トナリ或ハ情ニ激シテ軽擧妄動
シ信義ヲ世界ニ失フガ如キコトアルベカラズ又特ニ戰死者戰災者ノ遺族
及傷痍軍人ノ援護ニ付テハ國民悉ク力ヲ效スベシ
政府ハ國民ト共ニ承詔必謹刻苦奮励常ニ大御心ニ歸一シ奉リ必ズ國威ヲ
恢弘シ父祖ノ遺託ニ應ヘムコトヲ期ス
尚此ノ際特ニ一言スベキハ此ノ難局ニ處スベキ官吏ノ任務ナリ畏クモ
至尊ハ爾臣民ノ衷情ハ朕善ク之ヲ知ルト宣ハセ給フ官吏ハ宜シク陛下ノ
有司トシテ此ノ御仁慈ノ 聖旨ヲ奉行シ以テ堅確ナル復興精神喚起ノ先
達トナラムコトヲ期スベシ
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 男爵 鈴木貫太郎
以上
(文責 岩城)
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詔 書
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セ
ムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民に告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告
セシメタリ
抑E帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニ
シテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦實ニ帝國ノ自
存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キ
ハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰
朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各E最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局
必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈
ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而
モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人
類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇
祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕ガ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムル
ニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セ
サルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其
ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタ
ル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘ
キ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕
ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開
カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信椅シ常ニ爾臣民ト
共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局
ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失ウカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク
舉國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力
ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ
世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
各国務大臣副署
内閣告諭
本日畏クモ大詔ヲ拝ス帝国ハ大東亞戰争ニ従フコト實ニ四年ニ近ク而モ
遂ニ 聖慮ヲ以テ非常ノ措置ニ依リ其ノ局ヲ結ブノ他途ナキニ至ル臣子
トシテ恐懼謂フベキ所ヲ知ラザルナリ
顧ルニ開戰以降遠ク骨ヲ異域ニ暴セルノ將兵其ノ数ヲ知ラズ本土ノ被害
無辜ノ犠牲亦茲ニ窮マル思フテ此レニ至レバ痛憤限リナシ然ルニ戰争ノ
目的ヲ実現スルニ由ナク戰勢亦必ズシモ利アラズ遂ニ科學史上未曾有ノ
破壊力ヲ有スル新爆彈ノ用ヒラルルニ至リテ戰争ノ仕法ヲ一變セシメ次
イデ「ソ」聯邦ハ去ル九日帝國ニ宣戰ヲ布告シ帝國ハ正ニ未曾有ノ難ニ
逢着シタリ 聖徳ノ廣大無邉ナル世界ノ和平ト臣民ノ康寧トヲ冀ハセ給
ヒ茲ニ畏クモ大詔ヲ渙発セラル 聖斷既ニ下ル赤子ノ率由スベキ方途ハ
自ラ明ラカナリ
固ヨリ帝國ノ前途ハ之ニ依リ一層ノ困難ヲ加ヘ更ニ國民ノ忍苦ヲ求ムル
ニ至ルベシ然レドモ帝國ハ此ノ忍苦ノ結實ニ依リテ國家ノ運命ヲ將來ニ
開拓セザルヘカラズ本大臣ハ茲ニ萬斛ノ涙ヲ呑ミ敢テ此ノ難キヲ同胞ニ
求メムト欲ス
今ヤ国民ノ齊シク嚮フベキ所ハ國體ノ護持ニアリ而シテ苟クモ既往ニ拘
泥シテ同胞相猜シ内争以テ他ノ乗ズル所トナリ或ハ情ニ激シテ軽擧妄動
シ信義ヲ世界ニ失フガ如キコトアルベカラズ又特ニ戰死者戰災者ノ遺族
及傷痍軍人ノ援護ニ付テハ國民悉ク力ヲ效スベシ
政府ハ國民ト共ニ承詔必謹刻苦奮励常ニ大御心ニ歸一シ奉リ必ズ國威ヲ
恢弘シ父祖ノ遺託ニ應ヘムコトヲ期ス
尚此ノ際特ニ一言スベキハ此ノ難局ニ處スベキ官吏ノ任務ナリ畏クモ
至尊ハ爾臣民ノ衷情ハ朕善ク之ヲ知ルト宣ハセ給フ官吏ハ宜シク陛下ノ
有司トシテ此ノ御仁慈ノ 聖旨ヲ奉行シ以テ堅確ナル復興精神喚起ノ先
達トナラムコトヲ期スベシ
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 男爵 鈴木貫太郎
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