眠い人の植民地日記

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<<   作成日時 : 2010/12/04 22:06   >>

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そう言えば、もう師走なんですねぇ。
ドタバタしていてすっかり忘れていました。
今日カレンダーが届いて漸く意識した始末。
で、今日は、体調も回復したので久々に神保町へ。
面白い本を結構買ってしまいました。
また、積ん読が増えるな、こりゃ。

で、長らく沖縄話を続けていましたが、ちょっと飽きてきたのと、時代的に丁度きりが良いので、一旦脇に置いておいて、再び廃仏毀釈話を始めて見る。
龍馬伝も終わった事ですし(ぉ。

○○宮と言う言葉があります。
「宮」と言うと、現在では伊勢神宮や熱田神宮など神社を思い浮かべる事が多いのですが、元を辿れば「宮」とは仏典や漢籍に基づくもので、経典では仏界の楼閣を表現する場合、宮殿とか楼観等と言います。
また、「八幡」と言うのは「やはた」と言う意味で、8本の旗を表わします。
この8本の旗、即ち「八幡」とは、阿弥陀仏の三昧耶の示現する姿を象徴的に示すもので、東方が白色、東南方が紅色、南方が黒色、西南方が灰色、西方が赤色、西北方が青色、北方が黄色、北東方が赤白と言う色彩の8つの旗によって表わされるのです。

源平合戦の際、平氏が赤色を使ったのは西を指すからであり、源氏が白色を使ったのは東を指す訳です。

この八幡信仰が生まれたのは、既に奈良時代にまで遡る事が出来ます。
『大日本史』によれば、724年に聖武天皇が使いを派遣し、小倉山を開いて宮殿を作り、725年その護持尊崇の為に弥勒寺及び鐘楼を建てて、盛大な開眼供養を営んでいます。
これが大分県にある宇佐八幡の創建です。
つまり、宇佐八幡の創建当初は弥勒寺であり、しかも天皇の勅願寺だった訳です。
『続日本紀』では、741年に同八幡宮に金字最勝王経、法華経各1部、僧侶18名を奉り、三重塔を造営して供養を行っていますし、741年までは宇佐八幡以外八幡宮は有りませんでした。

因みに、元興寺は588年、四天王寺は593年、607年に法隆寺、642年に大安寺、699年に興福寺、そして、680年には薬師寺の造営が始まり、この年に官寺の制が定められ、685年には諸国に仏舎を造り、仏像経巻を置いて供養し、ここで始めて伊勢宮を造営して20年ごとの遷宮制を定めました。
741年3月になると、全国に国分寺建立の詔が発せられ、743年10月に大仏建立の詔が発せられていますが、この間、神社と言うものは全く史書に記載が無く、全く神社の存在すら無かったと言う形です。

そして、宇佐八幡こそ、日本最古の阿弥陀仏徳の示現としての勅願寺院であり、奈良朝に於ける仏教興隆の詔によって造営された地方唯一の寺院だったのです。

ところが、廃仏毀釈によって、伽藍群は全て破壊され、焼却されてしまいました。
仏具類や法具類は悉く打ち壊されて売り払い、鐘楼、経蔵、楼門、鎮守の祇園社も全て打ち壊され、直径4尺余りの大梵鐘は鍋商人に二束三文で売られて鍋釜にされ、経蔵の一切経は紙屑屋の手に渡って座敷用の渋紙にされ、本尊の弥勒菩薩は金10両で売り払われてしまいました。
境内の地蔵菩薩の大石像は運ぶ事が出来ず、路傍にうち捨てられてしまいました。
唐獅子は引き倒し、石灯籠の擬宝珠は取り外し、蓮の花の文様があるものは片っ端から全て削り取ると言う始末。

別当だった僧達は全て還俗させられ、中には精神に異常を来した人もいたと言います。
そして、勅願寺宇佐八幡弥勒寺は神社となってしまいました。
今の宇佐神宮の出来上がりです。
このため、他地域の八幡大菩薩も一朝にして八幡神になってしまいました。

京都にある石清水八幡も例外ではありません。

こちらは860年に武内宿祢の後裔とされる僧行教が、阿弥陀三尊の示現によって、清和天皇の勅を奉じて創建したものです。
記録に依れば、ここにも神主は創建以来17年間置かれていません。
そして、神主が置かれても、主役は僧侶で、神主は脇役としての地位に甘んじていました。
ここも、僧侶は還俗させられて俗人となり、法施や読経を禁じられ、仏像・仏具は全て売り払われました。
8売り払われたのは、宋国版一切経、大塔・八角堂・愛染堂・鐘楼は全て売り払われ、神職の手当に化け、開山行教筆の紺紙金泥の法華経8巻、無量義経1巻、観普賢経1巻は金60両で落札されました。
下殿の仏具も11両2分で落札され、跡形も無くなりました。
これらも、神職の手当に充てられたと言います。

その上、1869年2月には石清水八幡の開山である行教上人の還俗復飾の儀式まで執り行われました。
1,000年以上前の開山を神職に変更し、開山堂は神殿に造り替え、開基住職である行教上人の木像の頭には、烏帽子が釘付けされるという、木像を磔にした石田三成ばりの事をやらかしたりしています。
そして、八幡領だった寺領8,600石は全て国に取り上げられました。

こうしてでっち上げられたのが、今や京都の初詣に欠かせない石清水八幡神社な訳です。

鎌倉にも有名な鶴岡八幡宮があります。

これは1063年8月に源頼義が石清水八幡を鎌倉郡由比郷に勧請したのが始まりで、1180年に頼朝が現在地に遷してから明治維新まで、真言宗の僧侶によって奉仕されてきました。
中央には阿弥陀如来の化身として応神天皇が、右には観世音菩薩の化身として神功皇后が、左には勢至菩薩の化身として応神天皇の姉君姫大神が祀られていました。
これも、本尊を始めとして全て真言密教によって奉仕が為され、祭事は全て供奉僧が中心になって奉仕し、神主等はその手伝いに過ぎませんでした。

機構としては、一山の寺務に専念し、全坊を支配するのを別当と言います。
これは752年5月に華厳宗の第二開祖と言われる良弁が東大寺の別当になったのが始めで、『延喜式』第21玄蕃寮には別当補任の職制を掲げて、「凡そ諸寺は別当を以て長官と為し、三綱を以て任用と為す」とあり、任期は4年でした。
鶴岡八幡の場合は、当初は任命制でしたが、供奉僧25坊(後に12坊)の中から合議してその中の1名を別当に任じ、その下に、小別当、社僧、神主、社人となっていました。
しかし、廃仏毀釈の結果、奉仕は神主と社人だけとなります。
但し、鶴岡八幡宮は、宇佐八幡宮や石清水八幡宮の様に、還俗した僧侶が神主や社人と抗争する事はなく、還俗した僧侶の中から旧別当の僧侶が宮司に選ばれました。

とは言え、その破壊の様は、他と同じで、境内は悉く破壊され、仏像・仏具・経典は全て灰燼に帰してしまいました。
その中には源実朝が宋から取り寄せた宋版一切経もあったと言います。
法華経だけは焼かれる寸前に、偶々浅草寺の僧侶が通りかかってそれを買い求めた為に、難を免れました。

因みに、飫肥藩士の平部嶠南と言う人が、1871年10月13日の鶴岡八幡宮の様子を日記に残しています。
それにはこう書かれていました。
「此ヨリ源ノ頼朝、大江ノ広元ノ墳墓、北条九代ノ宅墟ナド巡覧シ、鶴ヶ岡八幡ニ参拝ス、八幡ノ境内ニアル禅堂、仏宇ハ悉皆取毀シノ最中ナレバ光景寂寥タリ云々」

こうして、鶴岡八幡は、寺から鶴岡八幡神社となって、今や関東の初詣に於ける一大スポットと化しています。

主な八幡様が全部神社となった為、、他の八幡でも同じように八幡神に衣替えさせられました。
例えば、筥崎八幡は、筥崎町大字鯨須磨で仏教関係のものは薬師如来も含めて全て焼き捨て、石灯籠は放生池や境内に埋め、神宮寺の地蔵や本尊は、罪人だとして荒縄で縛って町中を引き回して打毀し、石像、木像の類は全て首を打ち落としたりしています。

全く、今残っていれば十分に国宝級の文物がこの僅か数年間で消滅してしまった訳で、また、この時代に海外に流出した文物も多数有ります。
そう言う意味では我が国も、隣の国の文化大革命や、タリバンの仏像爆破を余り悪くは言えません。



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