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2013年5月1日(水) 東奥日報 ニュース



■ 雪中行軍大尉の手記、弘前に

写真
対ロシア戦の戦略を書いた福島大尉の論文のコピー
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 1902(明治35)年1月の「八甲田雪中行軍遭難事件」で、青森歩兵第5連隊と別ルートを進み、全37人が生還した弘前歩兵第31連隊の一人、間山仁助伍長の孫・間山元喜さん(63)=弘前市=の元に、同隊の福島泰蔵大尉の孫・倉永幸泰さん(86)=長崎県諫早市=からこのほど、大尉の手記や報告書などの遺品250点のコピー約3千枚が届いた。間山さんは「青森隊の悲劇の陰に隠されていた弘前隊の当時の様子を伝える貴重な資料」として、弘前市に寄贈する意向だ。

 弘前隊を率いた福島大尉の遺品は、群馬県伊勢崎市の生家に長年保管されていた。間山伍長の手記なども見つかっている。軍の意向を受け門外不出を守ってきたが、孫の倉永さんが3年がかりで整理と解読を進め、昨年4月、福岡県久留米市の陸自幹部候補生学校に寄贈した。

 間山さんと倉永さんは、弘前隊の孫同士として互いに連絡を取り合い、親交を深めてきた。今回間山さんの元に届いたのは、同学校に寄贈された手記などのコピー。

 福島大尉の手記は弘前隊の雪中行軍について「第九日 一月二十八日 午前七時 田代露営地発。午後一時五分 鳴澤着 行程二里 休止六分 晝食(ちゅうしょく)」「第十日 一月二十九日 午前零時 小峠出発。同二時十四分 田茂木野着 休止三時間 間食」などと記されている。

 時刻を問わず厳冬の山を歩く厳しい訓練だった半面、休憩や食事などに気を配っていたことがうかがえる。

 間山さんは、福島大尉の手記について「現代の危機管理にも通じる資料」とした上で「今まであまり日が当たらなかった弘前隊のことを研究することで、青森隊の遭難が(判断ミスによる)人災だったのか、未曽有の悪天候による天災だったのかが分かるかもしれない」と指摘した。

 一方、倉永さんは本紙取材に「祖父(福島大尉)は戦争と気候の関連を考えるなど先見性があった。ロシアが冬季戦を得意としていることを把握していた」と語った。

 また、福島大尉の妻きえさんは弘前市出身で、倉永さん自身も同市をたびたび訪れている。「心の故郷である弘前の皆さんに、もっと雪中行軍のことを知ってほしい」と願っている。

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