フランス人権宣言==⇒ フランス革命年表
前文と17条からなる人権宣言(画像) アメリカ独立宣言を参考に、アメリカ合衆国で自由主義の精神の洗礼を受けたラ=ファイエット(〔1757〜1834〕アメリカ独立戦争に単身参加したフランスの政治家・軍人)によって起草された、自由・平等・博愛(すべての人を等しく愛すること)の精神を明白にし、国民主権・基本的人権の尊重・所有権の確立などが盛り込まれた近代市民社会の基本原理を確立したこの宣言は、直ちに各国で翻訳され、瞬く間にヨーロッパ全土に広がり、フランスでは、翌日から憲法本文の審議に入った。 もとより宣言は、各国憲法や資本主義経済の発展および市民階級の興隆に大きく寄与した。日本でも100年後の明治初年の自由民権運動勃興(ぼっこう=急激に勢力を増して栄えること)の原動力となった。 |
フランス革命当初の1789年8月26日に憲法制定のフランスの国民議会が議決した「人と市民の権利の宣言(Déclaration des droits
de l'homme et du citoyen)」のこと。前文と全17条から成り、第1条で「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」とうたい、主権在民、法の前の平等、所有権の不可侵などを宣言する。
革命当時のフランスは人口約2,300万人で、第一身分が僧侶(聖職者)、第二身分が貴族(合わせて当時のフランスの人口のわずか2%)、第三身分が平民であった。貴族は世襲で、僧侶のうちの上位にある者は殆どが貴族であり、この貴族が特権階級として第三身分の平民、即ちそのほとんどの農民を搾取していたのである。
フランスの絶対王政は、17世紀後半のルイ14世に時代に最も強固になった。すなわちこの時代にカナダやインドを植民地にし、あのヴェルサイユ宮殿も造られた。僧侶や貴族は税が免除され、栄華を誇ったが、平民は重税にあえいでいた。1789年のルイ16世の時代には財政は逼迫(ひっぱく)、その改善が急務の課題となり、僧侶、貴族、平民の代表による身分別会議(3部会)を招集したが、当然のことながら平民の意見は無視された。そこで平民は、国民会議を作ったが、国王はこれを武力で弾圧した。この弾圧に抗して民衆が武器を取って立ち上がったのである。フランス革命の始まりである(政治犯が収容されていたパリのバスチーユ牢獄を民衆が襲撃した1789年7月14日はフランス革命の記念日とされている。なお、バスチーユ牢獄の7人の政治犯開放の為に市民側からは100人の死者と70人の負傷者を出した。また、当時貧しい人にとって入獄は病死を意味した)。
その結果として獲得されたのが人権宣言であったが、その実現には多大な犠牲を伴った。革命の影響を危惧したイギリスなどのフランス周辺の国は、フランスに侵攻した。フランス革命政府の民衆は、これを撃退し共和政治を確立、国王ルイ16世は断頭台(ギロチン)で処刑され、王妃マリー・アントワネット(母は女帝マリア・テレジア。父は神聖ローマ皇帝フランツ1世。大勢の兄姉に囲まれ幸せな子供時代を過ごし、14歳でフランス王室に嫁ぐ)も当時の革命広場(現在のパリ・コンコルド広場)で、以下の有名な遺書を残し1793年10月16日ギロチンの露と消えた。
「あなたにです、わたくしの妹。わたくしが最後に書き送るのは。わたくしは判決を受けました。恥ずべき死ではなく、(それは犯罪人にとってだけのです。)あなたの兄上と一緒になるための。あのかたと同じように潔白で、わたくしはあの方と同じ強さをこの最後のときに示せたら、と思います。わたくしは平静です、良心が何ひとつ咎(とが)めることがないのですから。」(オリヴィエ・ブラン著(小宮雅弘訳)『150通の最後の手紙〜フランス革命の断頭台から〜』−朝日新聞社・朝日選書・1989年9月20日初版−より引用) |
さらにフランス革命の中心人物の1人であったロベスピエールも「テルミドール反乱」によって逮捕、処刑された。さらに「9月の虐殺」と呼ばれる事件では、1,000人以上の反革命容疑者が獄中、あるいは即席の人民裁判で殺された。つまり何千、何万という人々の血が流された成果が人権宣言なのである。
外国軍との戦いに大活躍したのがナポレオンであった。政権の座に着いたナポレオンは、1804年3月21日、フランス革命の成果(人身の自由・法の前の平等〔ただし「妻は夫に従うべき」とされた〕・私的所有権の絶対性)をはじめて法的に確認し、近代国家の法典の模範となる民法(1807年に「ナポレオン民法)と改称される)を制定する一方、1804年12月2日、35歳で皇帝に即位(在位
1804〜1815)、イギリスを除くヨーロッパ諸国を武力で支配した。だが、ロシア(モスクワ)侵攻に失敗、1814年に退位、エルバ島に流され(1815年復位して「百日天下」を実現したが、ワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナ島に幽閉され1821年に没する)、フランスに王政が復活する。
ところで人権宣言で宣言されている権利は、ほぼ男性の権利であり、女性は、政治活動より、家庭内の仕事をすべきであるとの、いわゆる役割分担論が根強くあった。そのため、フランス革命期に先駆的フェミニスト(女性解放論者。男女同権を実現し、性差別のない社会をめざして、女性の社会的・政治的・経済的地位の向上と性差別の払拭〔ふっしょく〕を主張する人)として重要な役割を果たしたオランプ・ド・グージュという女性が、1791年にジェンダー(生物上の雌雄を示すセックスに対し、歴史的・文化的・社会的に形成される男女の差異)の観点から人権宣言を痛烈に批判した「女性の権利宣言(女権宣言)」を発表して、男女平等を訴えたが、受け入れられなかった(例えば、普通選挙権に関して男性は1848〔寛永1〕年に認められたが、女性はそれから約100年後の1944〔昭和19〕年のことであった)。
なお、この権利宣言は、フランス初の憲法である1791年憲法の冒頭に掲載されている。
前文
国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会全体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。立法権および執行権の行為が、すべての政治制度の目的とつねに比較されうることで一層尊重されるように。市民の要求が、以後、簡潔で争いの余地のない原理に基づくことによって、つねに憲法の維持と万人の幸福に向かうように。こうして、国民議会は、最高存在の前に、かつ、その庇護のもとに、人および市民の以下の諸権利を承認し、宣言する。
人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。
すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。
すべての主権の淵源(えんげん=みなもと)は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。
自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。
第5条(法律による禁止)
法律は、社会に有害な行為しか禁止する権利をもたない。法律によって禁止されていないすべての行為は妨げられず、また、何人も、法律が命じていないことを行うように強制されない。
法律は、一般意思の表明である。すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、その形成に参与する権利をもつ。法律は、保護を与える場合にも、処罰を加える場合にも、すべての者に対して同一でなければならない。すべての市民は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、かつ、その徳行と才能以外の差別なしに、等しく、すべての位階、地位および公職に就くことができる。
何人も、法律が定めた場合で、かつ、法律が定めた形式によらなければ、訴追され、逮捕され、または拘禁されない。恣意的(しいてき)な命令を要請し、発令し、執行し、または執行させた者は、処罰されなければならない。ただし、法律によって召喚され、または逮捕されたすべての市民は、直ちに服従しなければならない。その者は、抵抗によって有罪となる。
法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰でなければ定めてはならない。何人も、犯行に先立って設定され、公布され、かつ、適法に適用された法律によらなければ処罰されない。
何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によって厳重に抑止されなければならない。
何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の株序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない。
思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、すべての市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる。
人および市民の権利の保障は、公の武力を必要とする。したがって、この武力は、すべての者の利益のために設けられるのであり、それが委託される者の特定の利益のために設けられるのではない。
公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない。
すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ。
社会は、すべての官吏に対して、その行政について報告を求める権利をもつ。
権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。
第17条(所有の不可侵、正当かつ事前の補償)
所有は、神聖かつ不可侵の権利であり、何人も、適法に確認された公の必要が明白にそれを要求する場合で、かつ、正当かつ事前の補償のもとでなければ、それを奪われない。
(条文は、樋口陽一・吉田善明編『改定版 解説世界憲法集』−三省堂−より引用)
現在のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」は、1792年4月、フランス革命の影響力を怖れた隣国のオーストリアが、フランスの国王を援助するために差し向けた軍とオーストリアの同盟国プロイセンの軍隊を、フランス革命政府(革命軍)が迎え撃った時に、一人の兵士(工兵大尉)によって作られた(原題は「ライン行進歌」)。
この勇壮(ゆうそう=勇ましく意気さかんなさま)な歌の下に、フランス革命によって獲得された自由と平等を守り抜くため、フランス各地から若者がはせ参じ、革命軍に参加した。彼らは、職業軍人で組織されたオーストリア・プロイセン軍を撃破して、フランス革命を外国の侵略軍から死守したのである。
なお、「ラ・マルセイエーズ」と呼ばれるのは、特にマルセイユ(紀元前600年頃、ギリシャ人の植民によって建設されたフランス南部、地中海に面するフランス最大の貿易都市。化学・石油精製・アルミニウム・造船などの工業が発達している。またぶどう酒やオリーブ油などの輸出も盛ん)から集まった義勇軍兵士の愛唱歌であったためといわれている。
第1節 画像 いざ 祖国の子らよ 栄光の日はやってきた! 我らに向かって暴君の血に染められた 軍旗(ぐんき)は掲げられた! 暴虐な兵士たちの叫び声が、荒野にとどろくのを聞け 彼らは迫っているのだ 我らの子や妻を殺そうと [ ルフラン ] 武器を取れ、市民よ! 隊を組め! 進め! 進め! 我らの畑を けがれた血でみたすみまで! |