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皇室全般画像掲示板
これ、雅子、やれるかなぁ〜?
この程度ですよ。
この婆さんもいい加減清らかなとこに近づけないんじゃないかね?昭和帝の墓参りには死んでも行きたくない様だしねぇ。
ひどい女が来たもんだ。
皇室を潰すのが目的なんですか、それとも乗っ取らせるつもりなんでしょうか。
現在の皇室潰しと乗っ取り両方でしょう。しかしナルヒトは本当に陛下のお子?
>これ、雅子、やれるかなぁ〜?しませんよ。創価ですから・・・しんどい儀式はみんなはぶいて皇后の地位だけゲット
なる「大丈夫です。僕たちに負担のないよう、母が今いろいろ工作してくれています」
皇太子が、そう言ってますよ〜お噂スレの皇后叩き、馬鹿雅子擁護たち〜
女狐が白い着物着て、老女に化けたみたい。
オランダにも行かせるし、祭祀なんか自分らもやってないし次代で潰す気満々なのか、後の事などしーらない!なのか。どっちにしろ無責任極まりないですね。
この人は国民を舐めきってます。あんな皇太子にあんな皇太子妃で構わないと思ってるんですからね。
だから日本人じゃない説が出てくるのですよ。怪しい情報も大量にありますし。
美智子の韓国人脈についてちょっとみてたんだけど 面白いことに気づいたので忘れないうちに書いておく。 例の銃撃事件のときに 宝島30の編集長が 下朝鮮やくざ 町山だ。 美智子と下朝鮮が下世話な部分で交差したのはこのときが最初ではないか? (最近は腐るほどあるが) で、宝島30って 2回も銃撃されてるけど、記事載せたの1度だけなんだよね。 例の怪しい大内糾の書いた 中身がインチキだ、、という 例の手記だけ。 で、この記事を載せたときの編集長が 朝鮮やくざ町山。 本人のツイートでも確認。 >宝島社(当時JICC)新卒入社が85年で88年いっぱいまで宝島編集部、89年から別冊宝島で、93年だけ宝島30編集部で94年には洋泉社に出向し たった一年だけですぐに別会社に移動している。 町山は元々週刊文春とは犬猿の仲で ほもかつとも敵同士らしいけどw
朝まで名無しさん [sage] 2012/09/19(水) 12:52:42.89 ID:xEEjnD0F で、 宝島が掲載した手記は中身はめちゃくちゃで 書いてる人間は絶対に中の人間じゃない、と言われているのに その記事をたった一度乗せた宝島社が2度も襲われている。 文春と一緒になってタタキ記事を書いてた新潮が襲われていない。 代わりに美智子失声症で倒れた後、 曽野綾子のヌルイ、突っ込みだらけの擁護記事を載せている。 文春は宝島から遅れること半月で社長宅が銃撃。 宝島は町山智浩をつかった美智子のマッチポンプで 新潮とは温い擁護記事を乗せることで手打ち。 手打ちをしなかった文春は銃撃。 → このときの記事は自分自身は未読。 読もうとおもってマコオタいったがなぜかなぜか本文はない。 目次のみ。
銃撃事件の流れをざっと書いておく 94年(平成5年)4月15日号(事実上の発売日は4/8日) 週刊文春の 新御所建築について言及した記事から始まった。 4/22 ナルマサ 納采の儀 5/18 新御所落成 6/10 皇太子御成婚になぜ君が代がない? という記事が掲載。(実発売日 6/3日) この記事は全国民に反響を呼び、国会の質問をへて、 饗宴の儀で君が代が演奏されることに決定したのは周知のとおり。当 時ある皇族などは「文春」はよくやった」とお褒めの言葉を賜ったらしい。 (ある皇族ってのはまあトモさんだろう) 文春の記事は確実に当時の世論を動かしていたという証拠でもある。
そしてそれに鋭敏に(当時の)国会は反応した。 国会議員と宮内庁、文春のあわせ技だとおもう。 6/9 ナルマサ挙式 宝島30 8月号(事実上の発売日は6月末)に 大内糾の 手記が掲載。 この大内という謎の人物は 内裏からの告発として 怪文書をあちこちの雑誌社におくりつけていた。 宝島30 だけが記事にした。 これを書かせたのは小和田で、記事の内容は雅子の行動のスライドという言い訳はチョット苦しい。 なぜなら 皇太子の挙式は6/9日で 大内の怪文書が流れていたのも同時期なはず。 宝島30が発売されたのが6月末なら 原稿として上がるのもせいぜい6月の20日ごろになるはずだし。 さすがの雅子も新婚早々 そうすき放題な生活(夜中までカラオケ)をしていたとも思えないし 入内からたった1週間で職員が部千切れ、たった3日で怪文書を仕立て上げるとも思えないのだ。
その宝島30の記事をについて 文春と新潮が記事にする。 この後 10/20 の失声症事件まで両誌で毎月のように美智子タタキ記事がでる。 10/20 野村臭介 「スメラミコトイヤサカ」と自殺 11/11日号(実発売日 11/4日)週刊新潮に 曽野綾子の擁護記事が掲載。 同時発売日の文春が 「皇室報道 小誌はこう考える」を掲載 そして同日、最初の銃撃事件がおきる。 (11/4 11/12 宝島社長実家(埼玉)と本社が入居していたビル(麹町の第二ヤマトビル) 11/29(火)文芸春秋社長宅) 12月8日に 新御所に引越し 文春への襲撃がなければ 12/1(木)発売の文春でさらになにか 書くつもりだったのではないだろか? 差し替えの利くギリギリが11/29だったんだろうな、と。
大内糺記事は皇后批判記事をデタラメだと思わせる為にマスコミ各社に送りつけられたんですか?
デタラメと言われる理由は東宮アゲの記述があったからでしょう。でも反対されていた結婚だとはいえ当時はここまで酷くなるとは誰も思わなかっただろうし、(妃も含めて)皇太子だけは守ろうっていう人たちは多かったんじゃないのかな?自分はあれはデタラメだとは思わない。
週刊文春、平成5年4月15日号「吹上新御所建設ではらはらした美智子皇后『積年の思い』」 週刊文春、平成5年6月10日号「宮内庁に敢えて問う 皇太子御成婚『君が代』は何故消えたのか」 週刊文春、平成5年6月17日号「宮内庁記者が絶対書けない平成皇室『女の闘い』」 宝島30、8月号「皇室の危機『菊のカーテン』の内側からの証言」 週刊文春、平成5年7月22日号「『宝島30』の問題手記『皇室の危機』で 宮内庁職員が初めて明かした皇室の『嘆かわしい状況』」 週刊新潮、平成5年7月22日号「美智子皇后を『女帝』と告発した宮内庁職員」 週刊新潮、平成5年9月9日号「天皇訪欧費用『2億円』の中身」 週刊文春、平成5年9月16日号「美智子皇后が訪欧直前の記者会見で『ムッ』としたある質問」
週刊文春、平成5年9月23日号「美智子皇后のご希望で昭和天皇の愛した皇居自然林が丸坊主」 週刊文春、平成5年9月30日号「宮内庁VS防衛庁に発展か 天皇・皇后両陛下は『自衛官の制服』お嫌い」 朝まで名無しさん [sage] 2012/09/24(月) 16:50:46.24 ID:/2eslqIJ 従わずに抵抗した人は、ヒステリーの返り討ちに会って全面降伏。 美智子さんを支持したのは、王様の裸を見抜けない国民。 以後美智子さんの天下で、女性宮家まで。
週刊女性4月28日号 短期集中連載美智子さま3大危機 その2 バッシング?宮中戦争? '93/10/20「失われた声」の真相 「・・・(略)・・・しかし事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。 批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が繰り返し 許される社会であって欲しくはありません」 '93年10月20日、59歳の誕生日に発表された美智子さまの所感(宮内記者会の質問への 文書回答)である。 (中略) 美智子さまはご成婚5年目('63年)の約半年の静養生活のときにも、一時”失声症に ちかい状態”だったといわれる。59歳誕生日にふたたび美智子さまを襲った失声症・ その原因となった”強い悲しみ(金沢医師)とは一体何だったのだろうか? 当時、皇室の内外では皇后美智子さまの"女帝ぶり”へのさまざまな非難の嵐が 吹き荒れ、それが一部の雑誌メディアで報道されてもいた。
カメラの前では必ずニッコリ微笑んで重要式典と集合写真には必ず入れとでも言ったの?豚嫁に。あんたの考えそうな事よね。そういう目立つ場にさえいれば、写真という事実を残せば次代は盆暗夫妻二人だと言い切れると思ってるの?自分が自分が 前へ前へ 我が我が の糞婆の考えそうなこった。帰ってからの批判も黙殺する気満々みたいだしね。所詮「心無い雑音」らしいし。また嬉っそうに「イタイイタイ」って公務休むならず〜っとすっこんでてね。出てこなくていいよ。
週刊女性記事つづき皇太子時代、美智子さまについての報道は、そのほとんどが"礼賛”記事だったと いっていい。それが皇室内で孤立状態だった美智子様にはある意味で大きな支えに なっていたのも事実である。 「新聞、テレビはもちろん、雑誌の記事もすべて目を通されていた。なかには事実と 違ったり、批判的なものもあって、それをたいへん気になさる。あるとき”そういう チェックはおやめになったほうが”と申し上げたんです。あとで陛下から”浜尾君、 いってくれたそうだね”といわれたこともありました」 元・東宮侍従の浜尾実さんは、のちにそう語っている。
だが、皇后になられてからも、 この”チェック”は変わりなく続いていたようだ。 それだけに”美智子バッシング”といわれる一部の雑誌報道は美智子さまには 大きなショックだったのである。 (中略) じつは両陛下の平成流への不満を決定的にしたのは、失声症事件の前年の、両陛下の 中国訪問だったといわれる。 問題になったのは中国での陛下の”お言葉”だった。 当初、用意されたお言葉の草案は昭和天皇訪米時のものを踏襲した《永きにわたる歴史において 不幸な時期がありました》というものだったが、これに陛下の手が加わり、最終的に《わが国が 中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました》という一歩踏み込んだ表現に なったといわれる。
こうしたことから、本来は皇室崇拝の念が強いはずの右翼・保守勢力の一部に両陛下への 強い不満が鬱積していた。そして、その不満が美智子さま非難という形で爆発する契機になったのが、 じつは皇太子ご夫妻の婚約後の一連の経緯であった。 ’93年1月、皇太子ご夫妻の婚約が皇室会議で正式決定した。この夜、赤坂御所では雅子さまの 家族のほか、秋篠宮ご夫妻、常陸宮後夫妻、陛下の姉妹である池田厚子さん夫妻、島津貴子さん夫妻、 美智子さまの実家・正田家、紀子さまの実家・川嶋家の人たちを招いて、お祝いの夕食会が ひらかれた。だが、なぜか高松宮、三笠宮家などの皇族は招かれなかったのである。 婚約についてもそうだったが、招かれなかった皇族は3月17日の納采の儀の日取りもマスコミ報道で 初めて知るというような事態だったという。
これにはさすがに陛下の叔父・三笠宮崇仁さまが代表して宮内庁に抗議し、納采の儀は翌月に 変更になった。 「昭和の時代、高松宮妃などは”美智子妃いじめ”の中心ともいわれ、その仕返し?なんて声さえあった。 また寛仁殿下は、たいへんな怒りようだったそうです。ただ、やはり皇族をないがしろにした ようなやり方はよくなかったと思いますね」(前同・旧宮家関係者) (中略) そんなことから皇后になられてからの美智子さまの格式主義に疑問の声も少なくなかったのである。 両陛下は平成皇室のあり方のひとつとして、外国王室とのプライベートな交流を考えられていたと いう。これはヨーロッパ訪問などの際、公式日程外に王室の離宮(別荘)などで過ごされた体験 からの発想だったといわれる。 この年12月、両陛下は赤坂御所から皇居新御所に引越しされたが、この新御所には外国の賓客を もてなす宿泊施設(迎賓棟)も造られていた。総工費56億円で「ふつうなら、その2〜3倍は かかる」(建築関係者)という豪華なものだった。
当時はバブル崩壊後の不況期でもあり、『ちょっと贅沢すぎないか』『外国賓客の接遇には宮殿や 迎賓館がある。プライベートなもてなしのためというなら、新御所に招かれない国や相手はどうなるのか。 ”一視同仁”の皇室の伝統に反しはしないか』といった”厳しい批判の声もあったのである(もっとも、 のちに宮内庁は「迎賓棟という施設はない」と否定している)。 59歳の誕生日の年、さまざまな非難や批判の嵐は、美智子さまの失声症を招く深刻な危機でも あったのである。
真偽はわからんけどさー。この「皇室関係者」ってのがクセモノだよね。長谷川豊のブログ読んでたからかもしれんけど、いつも決まった奴が週刊誌に情報売ってんだろうね。誰だかわからない身近かもしれない人間が裏ではこき下ろして、批判記事売ってると思うと、皇室や宮内庁も伏魔殿じゃのう。
一番リークしてるのは美智子さんだけどね。なんでも美智子サロンとやらの専用の部屋が何部屋もあってそこに来客(記者?)を待たせてご本人が部屋を行き来してるとか。