直線上に配置
海軍カレー
戦理・戦略  トップページ 戻る





流し読み推奨
あんまり深入りすると、精神汚染の恐れがあります(笑)





軍事

 誰であり、それは人間にもなっていない猿であったのであろうか、落ちている棒で叩いた方が威力を増すことに気づいたのは・・・・
 そのうち誰かが穂先を尖らした方が殺傷力が増すことに気づいた。
 狩りのときは複数の方が有利であることを学んだ。
 女性や子供などを過酷な自然環境からまもるには、集団生活が有利であることに気づいた。このような集団での狩りはすでに本能で行っていたかもしれません。
 なぜなら、自然界では、動物間の生存競争で適者生存の厳しい掟の中で、過酷な本能的闘争が繰り広げられているからです。その中では人間のような道具を生み出して活用する能力はありませんが、さまざまな知的作為をみることができます。ねらった獲物に近づくときには風下から近づきます。複数の連携でもっとも効果的な狩りを行うための配置と距離の選定。陽動と待ち伏せの動作。このことはいずれも戦略や戦術などの「軍事」の原型になったはずです。
 こうしたことから、集団が生まれるにつれ、狩り場や水場などのなわばりを巡って、人間の闘争が集団同士であったことは疑いようがありません。そういった戦いのなかで、狩りの中での経験則からか、「戦場において敵よりも人数が多い方が有利」であるということに気づいたはずです。戦場において数で勝つために、また戦場での組織戦闘を可能とするために、各個人の都合より集団の指揮統制が強められ、集団を代表する指揮者の権限も強まっていきました。現代風にいえば、動員速度があがり、戦士から兵士になることによって、例え同数であってもこれが実現できていない敵集団に対しては、数と戦闘力で圧倒できるようになりました。
 各集団は戦時での絶対数からの有利を実現するために、より規模を大きくするために、より小さな集団の併合を始めます。集落が大きくなれば、そうした同種からの襲撃に備えるために、どの集団も本来の自然環境から身を守るための集落は、以後は周りに堀を巡らし、さらに堀には川から水を引き入れ、農作業や立てこもったさいの飲み水としたかもしれません。また堀からの土で塁を作り、柵を備え、見張り塔を備えていきました。雨などで斜面から土が流れ込み堀が浅くなったり土塁が崩れるのを防ぐために、斜面に石を敷き詰めるようになっていきました。もし石を集める労力に余力があれば、敷き詰める石は広く使わずに狭く牛蒡のように刺していけば斜面の保護力は強くなり、雨などの水分を含んだ土の膨張から斜面を防ぐために表の石と中の土の間に小石をいれるようになりました。そうしたなかで古代国家も生まれてきたことでしょう。
 規模や人口が飛躍的に大きくなった古代国家の誕生は、そのまま国家間の戦争を生み出し、戦争は規模が大きく長期化の様相を見せ始めていました。長期化する戦争は広い領土内に点在する城・砦の維持の負担(苦労して土を押し固めても、雨が降れば崩れ、草木も生える。壁を築き直し、堀を堀直し深さ維持するには、機械が無い以上、人手に頼るしかない。)となり、国防上の理由から廃止することが考えにくい重要な拠点には、石垣や土塁などではなく、石(一般的な石垣のように中に土が入っていない。これにより雨が降っても内部の土が膨張して崩れることもなく、草木も生えにくい。)や高温で焼き固めた土だけで城を作るようになりました。このような手間のかかる防御施設はよほど国力と相当な意思がなければ作れず、日本では水城の一部や元寇の襲来に備えて作られた防塁の一部(手入れをしていない戦国時代の石垣はみな崩れているのに対して、こういった用途の石垣はいまだ遺構を残しています。)ぐらいしか見受けられません。
 こういった時代には、軍事自体は分離した学問ではなく、鉄・土木・文字も重要な戦略技術でした。過酷な自然環境から生き残るための技術、農業技術、狩りの技術、そして戦場での戦闘技術や掟とよばれるような統率からやがて法となっていく集団の統制技術。みなみな戦争に勝つための必要な技術であり知識でした。今日でこそ、科学技術の発達や軍事自体の高度な発達により日常からかけ離れた感じがすることでしょう。しかし、決して日常からかけ離れたものではないのです。





定義

 戦争は人類同士の国家間での規模の大きな戦いに使われていますが、規模が小さいと紛争となったりします。国内であれば、一人の人間が国家転覆を試みても、テロ事件や無差別大量殺人事件としてあつかわれますが、ある一定規模を越えた集団であれば、反政府ゲリラとなり、政府軍と比べ戦力が拮抗してくれば、内戦となります。基本的にすべての戦いは1対1の戦いを表す闘争から始まり、規模や殺傷力に応じて乱闘・騒擾・殺人・テロ・蜂起・反乱・内戦・紛争・戦争などなど様々な用語に置き換わりました。よって戦いの種類・規模をあらわす各用語には、例えば戦争と紛争を区分けするように、厳密な境界線は存在しないのです。戦争でなく、紛争であっても人は死ぬのですから・・・・
 このため優れた兵書こそ古今東西を問わず闘争から出発して考察を進めている傾向にあります。
 だが、多くの兵書は、そこで使われている”戦術や”戦略”など”戦争・紛争・テロ・ゲリラ・戦理・国家戦略・軍事戦略・外交戦略・陸軍戦略・海軍戦略・空軍戦略”などなど、その考察のなかで使われる用語について緻密な定義付けを行っています。しかし、たとえば”戦争”自体が厳密には定義付けできるはず無いところに軍事上の意味をもつ以上、このような軍事用語自体に厳密な定義付けを行うことは、それ自体が、将来予想もされない事象が起こった際に、思わぬ混乱をきたすことになるのではないでしょうか。
 特に我が国では”機関銃”と”機関砲”を分けて定義付けを行い、しかも組織ごとでまったく内容が違います。”軍政”と”軍令”や”戦略”と”戦術”に関し、一般的な定義付けを行うのは簡単です。実際に厳密な定義付けを行うとなると話は難しくなります。人事・装備・編成に関し軍政と軍令、つまるところ軍政機関と参謀本部に代表されるような軍令機関との間で権限や所掌を分け合うのはいずれももめることでしょう。戦術と戦略も、明白に戦術行動である”段列”から戦略規模の”戦域軍レベル間の物資移動”の補給行動。どこで線引きするのでしょうか。実際に諸説は入り乱れていますが、厳密な定義付けとなると境界線を引くのがいかに難しいのかがおわかりでしょう。
 戦理を考える上で、厳密な定義付けが逆に用語数を増やし、さらなる定義付けを行い、複雑化させ、一般人にとっつきにくくし、わかりにくくしているのではないでしょうか。
 軍事というのは全世界的にみてもマイナーなジャンルだと思います。ですが難しくすることで権威化を図ろうとしているとしたらそれは間違いです。専門化によって日常から乖離することなく、日常から考えることが、とくに戦理においては一番大切なことではないかと思います。
 あくまでの個人的な解釈ですが、
、”規模の大小や性質の度合いによって、用語が使い分けられることがある”
というのが正解ではないかと思っていますが、どうでしょうか?
この定義から、戦理・戦略・戦術を定義付けを行うと
例えば、このようになります。
戦理:時代・科学技術の進歩に関係なく、普遍的な原則
戦略・戦術:闘争技術を表す用語で規模によって使い分けられる。

 こんな字がいっぱいの、こんなところまで読んでくれている人で、しかも軍事に詳しい人であればあるほど、たぶん戦術と戦略が同じ区分されていることに眉をひそめるかもしれません。しかしこの定義は”戦理”研究のための必要な定義付けでありますので、一般的な戦術と戦略の分けた定義付けを否定するものではありません。
(戦術と戦略の使い分けとしては、紀元前50年頃のギリシャのクノセフォンによって、Strategos(戦略)とTacticos(戦術)として使い分けられ、このギリシャ時代のStrategosは「指揮官」の単語から生まれたとされている。しかし、クラウゼヴィツは詭計に由来しているとしている。それに対し、孫子も「兵者、詭道也」としている点が注目されている。)
註:クラウゼヴィツ著 「戦争論」 淡徳三郎訳 徳間書店 P178
(1771年にフランスのメズロアがStrategieの言葉を書物に書き記しているとされているが、英語の辞書に載ったのが18世紀。その後1805年にジョミニがこの言葉を使用してから世界中に広がった。)
(一般的には、戦略系列として、全体戦略があり、政治戦略・経済戦略・軍事戦略があり、その下位に部分(作戦)戦略が、そしてその下位レベル活動技術として戦術があるとしています。また、戦略の構成要素として、戦略理論・戦略構想・戦略計画・戦略行動をあげているようです。)
 



報復

 はじめに、報復について述べるなかで用いられる「攻撃」は、空爆・弾道ミサイルだけにとどまらず、諜報活動での暗殺や犯罪組織における抗争事件も含まれる。他者・他組織に打撃を与える、あらゆる行為として用いています。
 報復とは、甲が乙に攻撃された場合、その攻撃行為を理由として、甲が乙に対して攻撃を行なうこと。報復能力のあることを示すことによって、乙の甲に対する攻撃を躊躇わせることができる。これが抑止力の基本でとなる。甲が乙によって攻撃されても、甲が報復攻撃を行なわない場合、理由の如何を問わず、甲の抑止力は低下する。これは乙から見た場合、次攻撃しても甲は報復しないのではと期待感を抱かせてしまうからである。
 報復は、抑止力の根幹を支えている軍事上の普遍的な概念となります。上手く活用すれば戦争の早期終結や未来の戦争抑止に繋がり、軍事力の配分に失敗すれば、戦争拡大にもつながります。
2006.1.3更新



組織

 日本では、大多数は土着の農耕民族であり、農耕民族は土地への密着の度合いが大きい。海岸近くまで山がせり出すような地形が多く、耕作に適する平地はいずれも狭く、生き残るためには困難な長年にわたる土木作業(必然的に集団での統一された指揮の元の行動が要求される)によって斜面にも耕作地を切り開き、治水を整え僅かな耕作地を守った。地域に密着した生活は、そこで生活している人々のつながりを大切にして、限られた人との「輪」のなかで、その安定と発展をどこまでも求めて続けていくことになる。このため日本では、古来よりあらゆる階層・組織において「和」が求められた。(註)
 組織の団結力を維持するためには「和」はもっとも基本的なものである。外に対しては、組織の人間はこころを一つにあたらせ、内に対してはなごやかな雰囲気を生み出す。
 しかし、この「和」が組織を腐らせ制度疲労をおこさせる。組織が長期間の安定・平和が続くと、次第に組織の中にいる人間は日常の安定を第一とし、組織の安全と繁栄が優先なる。この組織の創立時の理念は忘れられ、このような考え方が構成員の行動規範となっていく。末期には、それぞれの所属部署ごとに、部署の安全と繁栄が優先され、悪しきセクト主義が蔓延るようになる。
 このような考え方から、「組織の為の行動=自分の行動」がすべて正義と思いこむ錯覚がおきる。このような規範に己の欲が結びつけば、目も当てられない醜聞となって表沙汰になって世間にあらわれる。
 戦史から導き出された旧軍時代の反省からか、このような組織内リスクを防ぐための方策として二つがあげられる。一つは組織存在の目的を常に忘れずに行動することと、二つめは狭い組織のなかだけでなく広い視野を持つことである。
 一つ目はまさしく事象におわれても、なんのための組織か、そのなかで自分の役割はなんなのか、戦場において決して忘れてはならないこと。目的からくる地位役割を常に念頭において思索し行動を律すること。そして自分の立場から一つから二つ上の立場に立ってものを考えることです。
 二つ目は、考える範囲を自らの属する組織に限定するのではなく、幅広く世の中の事象に目を向けることことの大切さです。そもそも人は、生まれたときから接した環境(教育・友人・テレビや新聞など・・・)によって得られた情報によってかたちづけられていきます。組織内での自分の地位役割に応じてがむしゃらに仕事に没頭するのは大事なことであるが、そうしたなかで外部からの情報が途絶えていくと、世の中と組織内の常識にずれを生じ、しいては物事の善悪までずれることになります。こうした事態は古来より正確な判断が大切な情報関係の部署でもっともおそれられ、”正心”を失って外道に堕ちないこと、謀略は”誠”である、などの表現で、律していました。
(幕末の京都で治安維持にあたった部隊も”誠”の字を掲げているのが興味深い。)

 組織リスクの第一歩は、最高権力者の側近の権限肥大です。側近達は権力者の為に仕事に励み組織統制を強め、権力者の権限をさらに強める傍ら、自分たちの権限を着実に高めていきます。最高権力者が突如無くなると、幼い後継者や自分たちの言いなりになる後継者をたてて、最高権力者の名のもとに、自分たちが事実上の実権を得るのはなにも日本に限った話ではありません。古くは”陳勝・呉広の乱”までさかのぼれます。鎌倉幕府も後に北条が執権という将軍の次の位でありながら実権を握り、後にその外威の安達氏などの側近の御家人が権力を得ると、さらに安達氏の後ろ盾で出世した得宗被官達が権力を得はじめるなど、留まるところがありません。
 闘争に勝利するための組織統制強化の結果、制度疲労による組織弱体化を防ぐためにも、指揮官からの命令系統に連なる実戦部門と指揮官の補佐部門に指揮官の目となる組織内監察部門のいずれも偏ることなく、3部門の調和のとれた理想の組織は人の心は変化する以上、永遠の課題となっています。
 また日本古来からの共通の問題点として和の思想から、トップの個人に権力(ここでは指揮権・統制権)が集中することを嫌う風潮がありますが、危機管理の観点からは、みんなで相談した方がよう結果がうまれることはまれで、おおくは決断の遅れから悲惨な状況が生まれています。

 軍隊の命令書は通常、第一項で敵の情勢を説明してから作戦指示の内容を記していきます。これにより指揮官の情報認識を指揮官と部下が共有することが出来るわけです。さらに予想と異なる情勢となった際に部下の独断を可能にする。この独断を可能とするために軍隊において”階級”があるわけです。

 だが大本営命令は第一項に敵情を書かずに、ずばり天皇の決心を書く書式でありました。部内では大本営命令の書式を知らない新人参謀に対して
「天皇は敵情などで決心を左右されない」
と指導していました。
 今日でも、命令書の書き出しも欧米が”I will”(私は)と指揮官名で書き出しているのに対して、戦前・戦後を問わず、日本だけが「**師団は・・・」と組織が命令を出す書式であるのも、自分が表にでずに組織の力から権威付けを行う悪習の名残といっても過言ではないはずです。

註:白川郷の”結”などの結びつき



人的資源

 組織内の年齢構成から戦力として判定されるのが、18歳から45歳までの男子であり、総人口に対する年齢層がピラミッド状の国家組織であれば、先進国や途上国の違いはありますが平均の人口比率は20%となります。
 しかし、この20%すべてを軍事要員として動員することは、国家経済に多大な負担を招き現実的ではありません。平時であれば、経済に負担がかかならにつつ、適切な軍事力を構築するために各国とも努力しています。70年代の資料からでは各国とも総人口に対して平均で2.34%程度の軍事要員(予備・後備・事務官等含む)を確保しています。傾向としては人件費が高くなる先進国や志願制制度を採用している国では比率は低くなるようです。
 これが総力戦下になりますと・・・
WW2
    日 米 ソ 英 独 平均  各%
軍事要員11 15 24 19 31 20
(現役のみ、対空監視など選任の補助任務含む)
生産要員71 60 60 66 53 62
(軍需・民需・農業等)
家庭残置18 25 15 15 16 18
(主婦・老人等)

 軍事要員動員率が平均20%と各国とも軍事適齢男子がおおむね動員されつくしている樣子がうかがえます。20%を超えている国は、女性や老少年も軍務に投入されたことを表しています。

 この中で、機械化がまったく進んでいなかった日本と最後まで動員しつくした独、そして米国から膨大な援助を受けていたソ連を除いて、良好な生産基盤を維持し続けた戦勝国の米・英の軍事要員一人あたりの生産要員は、
米 1:4
英 1:3.47

 WW2大戦においての軍事要員内の最前線兵力と補助兵力の割合は、1:2.8ですので、
この三ヶ国の軍事要員3.8人に対する生産要員は
15.2人 13.2人 ですので、
 だいたい軍事要員3.8人に対して生産要員15〜13人が戦時生産体制を良好に維持するために必要な人数とします。
 家庭残置が平均20%とすると

最前線兵力1人→比率1/17.8=0.056 →総人口比0.8×0.056=0.045
補助兵力2.8人→比率2.8/17.8=0.157→総人口比0.8×0.157=0.126
生産要員 14人→比率14/17.8=0.787 →総人口比0.8×0.787=0.627

よって、WW2からみる総力戦では
総人口に対する最前線兵力の比率が、    4〜5% イ
総人口に対する補助へ威力の比率が、  12〜13% ロ
よって、総人口に対する全軍事要員の比率は、約17% ハ
総人口に対する生産要員の比率は、      63% ニ
となります。
       
 今日では総力戦は核兵器の登場や人件費の高騰などよって、総力戦の可能性は遠のいています。もしSFチックな化け物達が大量発生して人間を襲うとか、異星人が攻めてきたなど、なんなかの理由で再び総力戦に人類が見舞われるとしたら、主義思想による統制力減少や科学技術の発達と兵器の複雑化に伴い、ロのイに対する比率が大きくなり、ニのハに対する比率がどちらかに大きく変動することもあるかと思われます。また、科学技術の発達に伴い医学が進歩して、従来の家庭残置から離れる層が発生して家庭残置比の減少があっても、同時に銃後での死からも遠ざかり、平均寿命も高まることも考えられ、その場合の家庭残置比の上昇も考えると、今後の家庭残置率は出生率に大きく左右されることになります。このことからも、倫理観を度外視して、人工的に出生率を強制的に高めた場合、人類の人的戦力は直接上昇するだけでなく、家庭残置比も低下することになるのではと思われます。

 こういった戦後の研究から20%の法則、30%の法則などが生まれています。


地球外知的生命体に対する戦理
 地球上の人類が繁栄している以上、宇宙のどこかには人類のような知的生命体が存在している可能性が高い。以後、その存在を「宇宙人」とする。
 遠い将来、宇宙人と接触した場合、人類間の文化的差違から生じる対立と同じように、人類と宇宙人との間にも対立を生み、軍事的な衝突となる可能性は十分に考えられる。
 この場合、地球内での人類間闘争で導き出された「戦理」は、宇宙人との闘争において大きく外れることはない。

 簡単に予想つく点としては、そのころ人類の生存圏(太陽系内か、それ以上なのか)が宇宙でどこまで広がっているかは不明だが

・人類の生存圏に対して、宇宙人が自由にアクセスできるのに対して、人類側は宇宙人の生存圏にアクセスできない場合。
 この場合、人類側は宇宙人側からの攻撃に対して一切の聖域を有することができないのに対して、宇宙人側は人類側からの攻撃に対して聖域を有しています。人類側は宇宙人殲滅が理論上不可能となり、宇宙人側は人類殲滅が理論上可能となります。人類側が絶対的に不利な立場となっています。

・人類の生存圏に対して、宇宙人はアクセスでき、宇宙人の生存圏に対して、人類もアクセスできる場合。
 五分の条件となっています。

・人類の生存圏に対して、宇宙人はアクセスできず、宇宙人の生存圏に対して、人類がアクセスできる場合。
 最初の例の反対の条件となっています。宇宙人側が極めて劣勢な立場となっています。

 宇宙人と人類が最初に接触(ファーストコンタクト)時点での、人類と宇宙人との間で宇宙空間で移動する手段(技術格差)がどれだけあるのかが、そのまま宇宙人側と人類側とのミリタリーバランスを確定させ、そのミリタリーバランスによって人類側と宇宙人側との優位さも決まってきます。
 宇宙人が存在した場合、人類と接触した宇宙人とは別の第3の知的生命体たる宇宙人が存在する可能性もでてきます。宇宙人が複数種確認される状況下であれば、現在の国家間の外交と同じような交渉を早期に行ない、宇宙空間で人類が孤立に追い込まれる状況はさけるべきでしょう。
 よって、宇宙空間の商業利用が行なわれる時代では、宇宙人と人類とのファーストコンタクトからの対宙防衛力強化するのは愚策であり、ファーストコンタクト以前からの人類全体の安全保障を考慮した対宙防衛力の整備を行なっていく必要が生じることでしょう。
 さらにいえば、人類側が先に宇宙人側の存在を探知し、宇宙人側に人類の存在を秘匿することが一定期間可能ならば、その間に戦力を拡充と宇宙人側との戦争準備を整える時間的猶予ができる。
2006.1.3更新



核兵器の戦略使用


 大陸間全面核戦争において、戦略目的として敵国の産業破壊に必要な核弾頭数を見てみます。

 なおここでは、弾着する核弾頭はすべて1メガトン相当とし、人口・死者はすべて1万人単位とします。

 モデルに使う国は、1973年当時のソ連とし、人口を24700、都市人口を11600とします。

 核攻撃は作戦目的でなく、すべて戦略目的に使用したこととします。


同時弾着する弾頭数      死者  死者の総人口比(%)  工業力破壊率(%)
      100    3700         15         59
      200    5200         21         72
      400    7400         30         76
      800    9600         39         77
     1200   10900         44         77
     1600   11600         47         77


 ここまで読んでいる人で、まだ核兵器をTNT換算で、人類を何回絶滅できるなんで妄想を信じ込んでいる人はいないと思いますが、それはこの表をみてもあきらかなはずです。全面核戦争のさいには、雨のように核弾頭が降り注ぐのでしょうか。いくら冷戦の激しいころとはいえ、あたえられて軍事費には各国とも限りがあります。少ない予算で最大の効果をあげなければなりません。そのうえ核兵器には周辺施設など含めて維持費もかかります。この表からは一定の量を越えた戦略攻撃では効率が大幅に低下し始めるのがわかります。例えば、400発と800発の差には、死者数は9%であり、工業力破壊率は1%しか増加しません。
 400発の場合の被害としては、30%の被害の多くは国内生産に従事するものであるといえます。ソ連がすでに総動員体制に突入していたとしても、15〜17・46〜59歳の男子と、15〜59歳の女子のほとんどが国内生産層と推定されます。全人口の30%ということは、この年齢層の生産要員の48%、軍事生産部門(総人口比82%)でみれば、約37%が死亡することになります。この3倍が負傷など加害されることを考えると、この層の多くが被害をうけることを意味します。この規模の被害となった場合、国家システムの維持が非常に困難なものになると考えられます。



(読んでいて嫌っていただいて結構 でも政治学や核軍縮などのきれい事の世界ではなく、実際に核兵器を戦略目的に使用する計画はこのような考え方から立案されていくのです)








 昼間人口13万人の都市の場合

 状況:上空600メートルで20キロトンの核爆弾が爆発

 奇襲攻撃されたとき
  死亡者 45500人
  負傷者 39000人
  必要な医療物資
   血漿 3万リットル
   食塩とブトウ糖液 20万リットル
   モルヒネアンプル 10万本
   包帯 20万メートル

 事前に警報があったとき
  死亡者 30000人
  負傷者 22000人
  必要な医療物資
   血漿 2万リットル
   食塩とブトウ糖液 8万リットル
   モルヒネアンプル 7千本
   包帯 13万メートル

 全員が防空壕に待避しているとき
   死亡者 10400人
   負傷者  2600人
   必要な医療物資
    血漿 2千リットル
    食塩とブトウ糖液 1万リットル
    モルヒネアンプル 1千本
    包帯 2万メートル

注:スイスの民間防衛を参考にしているので、民間防衛訓練が不十分な国では上記よりも被害が拡大すると考えられる。










占拠率

2者間占拠率
独占占拠率73.88
安定占拠率41.4
橋頭堡占拠率(参入ミニマム占拠率)26.12

多数間占拠率
 独占占拠率
  2:74
  3:59
  4:49
  5:42
  6:36
  7:32
  8:29
  9:26
  10:24
 多数間安定占拠率
  2:63
  3:45
  4:36
  5:29
  6:25
  7:22
  8:19
  9:17
  10:16
 多数間最低占拠率
  2:26
  3:15
  4:10
  5:8
  6:6
  7:5
  8:4.8
  9:4.2
  10:3.8


Lanchester理論による勝利確率 (確率論的理論による2次法則モデル)
戦力比/確率 多数側の勝利 少数側勝利
10:3   99.8    0.2
10:4   99.75   0.25
10:5   98.80   1.20
10:6   95.84   4.16
10:7   89.52  10.48
10:8   79.15  20.85
10:9   65.34  34.66
10:10  50.00  50.00












書籍

漢字がテキスト表示できない場合は ひらがな となっています(;^_^A
老子なり孫子なりの”子”は先生を意味し、
孫子であれば、孫先生といった意味
テキスト表示できない漢字は*になってます

孫子注釈について

『魏武帝注孫子』曹操のアレ
孟子が第2の注
李筌・杜牧・陳こう・賈林が唐の時代
梅尭臣・王哲・何延錫・張預
以上で「十家注孫子」
『通典』杜佑
通典のなかの兵典を加えて「十一家注」


武経七書について

『西山遺聞』徳川光圀 「一、軍学の根本は、七書より外は無之候」


1『孫子』 2『呉子』 3『司馬法』 4『尉繚子』(ウツリョウシ) 5『三略』 6『六韜』(リクトウ) 7『太宗李衛公問対』(タイソウリエイコウモンタイ)

武経七書は上記の書物を表し、
江戸時代よりこの順番でいい表すのが今日まで続く習い。






『孫子』紀元前480年頃
中国春秋戦国時代に生まれた書。
始計・作戦・謀攻・軍形・兵勢・虚実・軍争・九変・行軍・地形・九地・火攻・用間の13篇にわかれている。
氏族制度の遺制をもとに、「戦争」は氏族の生存に関わる重大事であり、戦争の発動より「不戦不屈」こそ最前の戦略とする。このため「謀計」を重視し、近代の「間接戦略」への道を開いた。
 また、謀攻編の敵に10倍の兵力で優るときは囲め、5倍なら攻め、2倍なら分かち、同じならよく戦い、小なら初めから戦いを避けよ、と現代のランチェスター理論を彷彿させる物もみることができる。

始計
「孫子曰、兵者国之大事」という言葉から始まるように、
戦争は国家の存亡、人の生き死にに関わる重大事であり、戦争を始めるにあたっては慎重であるべきことをうたっています。
このなかで、5つの条件を道(為政者と人民の意思の統一)・天(天候・季節など)・地(地形的条件)・将(将軍の資質)・法(軍の編成・規律・装備)の五つを例に挙げています。
湾岸戦争での重要な役割を果たしたワインバーガードクトリン「軍事介入には明白な戦略的目標と圧倒的に優位な軍事力、国民の支持が必要」と通じるところがあります。

「兵は詭道なり」
どの解説書も
「敵を欺く」
とされていますが、どうも・・・・
”始計”であることから、もっと本質的なことを示していると私的に解釈しています。
それはまさにその他の学問に対して、”軍事”自体の特質を表したものではないでしょうか?
うまく説明できませんが、
まあ、ミリタリーマニアが10人あつまれば、10通りの解釈が生まれるのがこの世界ですから、あんまり気にせず、眉をひそめないでくださいな(笑)
”謀攻”では帷幄統帥について短く的確に本質をついている。
だがそれができないのが感情をもつ人間なのであろう。(司馬法参照)

短く的確に本質を書き記した”孫子”は、まさに”戦理”という原則を示した書といえるであろう。

 1972年に発掘された竹簡の研究によって
従来の『孫子』が孫武の著であり
『孫ぴん兵法』のほうが孫ぴんの著作であることが有力となってきました。
孫ぴん兵法の特徴として
「攻撃」の重視がよくいわれているが、これをもってこの兵法書が異質であるとはいえません。
パットン将軍も
「まずは攻撃だ! すべてはそれからだ」
なんていっていたような気がしますが(;^_^A
孫子のような政略レベルと戦場での戦術レベルを同列に比べるほうがおかしなことだと個人的に思っています。







『荀子』紀元前230年ごろ
戦国時代の思想家、荀きょう の著書で『孫卿子』という書名でよばれた時期もあった。勧学篇
どのようなところで生まれても産まれた子供に違いはない。
育つにつれ異なった風俗と教育によって変わるのである。
性悪篇
人間の天性は悪であり、人間には生まれつき利益によって左右される一面がある。善なる性質は「人為」にすぎないと
議兵篇
真の戦略は軍事的観点ではなく、君主の徳であると、
今日の政治の優位に通じるところがある
・全篇を通して天下の安定と秩序確立のための統治について書かれている



『老子』
著者は春秋時代末期の賢者 老たん ともされているがよくわかっていない。
誤解されがちであるが、まず老子は強きに媚びよとする卑屈な奴隷精神の書ではない。強風で倒れる大木のなか、柳の木は倒れることはない。このように自然の法則を利用して、穏やかな治世を目指した書ともいえるが、人々皆が老成した人生などはありえず、また競争がなければ・・・・
まさに”道”なのであろう。
力を使わずに勝利を目指す思想は「孫子」とつながるところがある



『三国志』紀元前290年ごろ
撰者、陳寿ははじめ蜀に仕えた後、蜀滅亡後、晋に仕えて『三国志』65巻を完成させた
後漢滅亡による三国鼎立から晋の統一までを記した歴史書



『管子』紀元前600年ごろ
 春秋時代、斉の宰相であった管仲とその系列の学者の言葉をまとめた書
 豊かな国にはどんな遠くからも人が集まってくるし、逃げ出す人民は一人もいない。
貧しい国では、日々の暮らしが精一杯のなかでいくら礼や徳を説いたところで付いていく人は誰もいない。
 正当な報酬は浪費ではない。正当な刑罰は暴虐ではない。信賞必罰こそ最高の徳である。



『呉子』紀元前380年ごろ
 楚の宰相、呉起が文候とその子、武候に兵法を説いた問答を記録したもの
 多勢に無勢の不利な戦いには地形を利用せよ。
 不利な地形で大軍に遭遇したら退却せよ。もし避けるいとまがない場合には、まず鳴り物をならして相手を驚かし、これに乗じて攻撃せよ。
 兵法書というよりは王族や将軍のあるべき姿を記した教養書

「君主たるもの、民の力量を計り、これを活用しなければなりません。
そのためにはどうするのか、まず、
勇気のある猛者を集めて1隊とします
生来いくさ好きで、全力を尽くして勲功をあげようとする者をあつめて1隊
高い障壁をこえ、長い行軍に耐え、動作が俊敏でよく走るものを集めて1隊
家柄はいいのに境遇に恵まれず、失意にあるものを集めて1隊。かれらは武功を争って必死に戦います。
城や陣を捨てて敗走したこのあるものを集めて1隊とします。かれらは恥をそそごうとして、よろこんで死地におもむきます。
この5つの戦闘集団こそ軍における精鋭であります。」

 あるとき君主は臣下達と会議を開いた。誰一人君主よりすぐれた意見はでず、君主は得意満面で退出した。
 すると呉起はすすみでて言った。
 「むかし、ある君主が臣下たちと会議を行い、君主の自分より優れた意見がだなかったとき、君主は憂慮の色をたたえていました。
臣下がたずねます
「なぜ心配顔をなさっているのですか?」
どのような時代にも、どのような国にも聖人・賢者は存在する。聖人を見いだして師とあおぐものは王となり、賢者をみいだして友とするものは覇者となるといわれている。
いま私には自分より優れた臣下がいないではないかと嘆いたそうです」
 それなのに、あなたはそれを喜んでいる。わたくしは危惧の念をいだかざるを得ません。

占領地の心得として、まもるべき道があります。町や村を占領したのならば、各部隊は整然と行動し宿営します。敵の役人を手なずけ、敵の武器をすべて回収します。進軍中はむやみに木を切らず、建物を荒らしたり、穀物を略奪し、家畜を殺し、財貨を奪うようなことは決してせず、危害を加える意思がないこと住民に示します。投降するものがあれば、これを許し、民心を安定させることが重要です。





『六韜』著書不明
 3世紀以降の書と思われていたが、近年竹簡が発掘されたことにより定説がかわるかも
 太公望秘伝の兵法書ともいわれ、”虎の巻”の語源にもなった書
”韜”は”秘訣”を意味している
藤原鎌足にも影響をあたえた謀略系の実用書

人の内心を見破る法
一、質問してみて、どの程度理解しているのか観察する
二、追及してみて、とっさの反応を観察する
三、間者をさしむけて内通を誘い、その誠実さを観察する
四、秘密を打ち明けて、その人徳を観察する
五、財政を扱わせて、正直かどうか観察する
六、女を近づけて、人物の堅さを観察する
七、困難な仕事を与えてみて、勇気があるかどうかを観察する
八、酒に酔わせてみて、その態度を観察する

武力によらず敵を伐つ
 一、相手の歓心を買い、さからったりしないこと。こうすれば、敵は慢心し、必ず失策を犯すであろう。それに乗ずれば、相手を滅亡に追い込むことができる
 二、敵国の君主の信頼する臣下に近づき、君主と対立させる。臣下が二心を抱くようになれば敵国は衰える。忠臣がいなければ国家は危機におちいるものだ。
 三、買収工作によって敵国の側近を掌握する。側近とは名ばかりで心はすでに離反している。こうなれば、敵国にはきっと混乱する。
 四、敵国の君主を遊興にふけらせること。宝物や美女を贈ったうえで、こちらが下手に出れば、戦うまでもなく、敵はゆきつくところにゆくであろう
 五、敵の忠臣を君主から引き離すこと。まず、この臣下と君主の双方に贈り物をする。このとき臣下のほうに君主より高価な贈り物をするのである。そして、もしこの臣下が使者として來たときには、わざと交渉を長引かせて、交代の使者をさしむけるようにさせる。交代の使者が來たら、友好的な態度をとって交渉を成立させる。敵の君主は、前の使者よりもこの使者の方を信頼するようになるであろう。こうして敵国を謀略にかけることができる。
 六、敵国の臣下を懐柔して利用すること。有能な臣下が外国と協力し、内乱が起きるようであれば、ほとんどの国は滅亡するであろう。
 七、敵の君主に情報が入らないようにすること。賄賂を贈って側近の心を収攬し、農業生産力を低下させ、穀物の貯えをからにするのである。
 八、相手を信頼させること。まず贈り物をし、相談を持ちかけ、その結果が相手の利益になるようにする。そうなれば相手はきっと信頼する。この友好関係がつみ重なれば、いつか利用できる。一国の君主でありながら、他国に利用されるような相手は、必ず国を失うであろう。
 九、おせじをいっておだてること。相手を強いと言って怖がってみせれば、相手はその気になるであろう。こうしておいて、相手の君主に、あなたは聖人だとほのめかせば、きっと増長して政治をおそろかにするであろう。
 十、誠意を持って相手につかえること。相手の気に入るようにして、何から何まで相手のいうままになり、一心同体と思わせる。こうしておいて、十分信頼を得たら、密かに準備をすすめ、好機を待って攻撃する。相手はいともたやすく滅びるであろう。
十一、敵の君主を孤立させること。それには敵国内に徒党をつくらせることだ。すなわち、臣下というものは、富貴を願い、失敗をおそれる。これを利用し、高位を約束し、高価な贈り物をし、有能な臣下を懐柔する。また、我が方は国内に十分な物資を貯え、相手には貧乏国と思わせる。そして、敵国内に策士、勇士をおくりこみ、内部からこちらを軽視する気持ちをおこさせる。ねらいをつけた敵臣の富貴への欲求がみたされ、ふところもあたたかいとなれば、徒党づくりは成功である。君主がこの孤立状態のなかで、国を維持できるはずはない。
十二、あらゆる方法で敵の君主を惑わすこと。敵臣が君主にそむくようにしむけるのもよい。美女や軽薄な音楽をすすめるのもよい。名犬や良馬を贈って狩猟に熱中させるのもよい。こうして機会があれば情勢有利と見せかけて挑発し、天の時を洞察して孤立化に追い込む。






『三略』上略・中略・下略からなる
漢の張良が橋のほとりで老人から授かったという伝説があるが、
実際の成立は6世紀ごろか 著者は不明
『軍識』という古代の兵法書にこう記してある
「柔よく剛を制し、弱よく強を制す」
しかし、これは柔が剛にうち勝ち、弱のみを金科玉条としろといった意味合いでない
柔と剛、弱と強、四つを兼備したうえで、自由自在に使いこなすことが肝要である。
『軍勢』という古代の兵法書にこう記してある。
「人には知謀にすぐれた者もいるし、勇気のある者もいる。また、貧欲な者もいるし、
愚鈍な者もいる。知謀にすぐれた者は功業を立てたいと願い、勇気ある者は志を達成し
ようと望む。また、貧欲な者は利益をあげることを望み、愚鈍な者は死ぬことを恐れな
い。それぞれの性質に応じて使いこなすことが、軍を統率する秘訣である」
『軍勢』には、こう記されている。
弁舌のたくみな男に勝手にしゃべらせてはならぬ。敵国の美点を宣伝し、多くの人が惑わされてしまう。仁者に国家財産をまかせてはならぬ。民に恩恵を施し、人望がかれ一個人に集中するからである。





『尉繚子』紀元前230年頃 秦の始皇帝に仕えた尉繚の論文集
 国が侵略の危機にさらされたさいに、他国の援助を求めるために、貢ぎ物をし、人質をさしだし、あるいは領土を割譲したりする。こうまでしても、援助の実態はどうか。名目は援軍10万人といっても、実は数万人でしかないようなことが多い。しかも、その援軍たるや、「先陣は引き受けましたぞ」などと大言壮語するだけで、本気で戦おうとはしないのである。
 それよりも、自国の国力をみてみおう。国力が十分に発揮できるだけの政治が行われているか。戦って勝てず、守って支えきれないのは、君主の責任である。
 勝敗の要因は自分自身にある。軍需、法制、統帥、賞罰をととのえ、耕作に、戦闘に、全力をあげさせるならば、天下に敵するものはいないであろう。
戦争の心構え
政治によって勝つのが君主たるものの勝ち方である。交戦してかつのは将帥の勝ち方である。戦争は国家の大事であるから、一時の感情にまかせてこれをおこしてはならない。冷静に状況を分析して、勝算があれば起ち、利がないと判断したらすみやかに退くことが大切である。またいたずらに戦を長引かすのもさけるべきだ。除かなければならない禍根が百里の近くにあるときは、疾風のように速やかに平定し、一日以上の日時をかけてはならない。禍根が千里の遠方にあるときは、戦争は一ヶ月以上かけてはならない。はるかな辺境のときでも1年以上はかけてはならないのである。

将帥の必要な資格は、つねに主体性をもち、天文気象に左右されず、地形の不利にも動ぜず、他人の意見に盲従せず、しかも寛大で感情にはしることがなく、清廉で欲に目がくれない人物である。

法制の整備こそ、軍備の第一要件である。法制が確立すれば、軍紀は厳正に保たれる。軍紀が厳正であれば、違反者に対する処罰も徹底する。命令の下、百人の士卒が一体となって戦い、千人の士卒が一体となって敵の隊列を乱し敵陣を陥れ、万人の士卒が一体となって敵軍を覆滅し敵将を殺す。このような天下無敵の軍隊は、法制の整備確立をもってはじめて生まれるのである。

良馬もよき騎手を得てこそ
 太公望は70歳に及んでも志を得ず、朝歌では牛を殺して渡世とし、盟津では一膳飯屋を営んで生計を立てていた。こうして70歳を過ぎてもまだ用いようとする君主はなく、人々からは変人あつかいされたものである。
 だが、ひとたび文王にめぐりあうや、三万の軍勢を率い、一挙に天下を平定した。太公望が軍事に通暁していた賜物といわないで何といおう。「良馬もよき騎手を得てこそ遠路を走り、賢士もしかるべき君主を得てこそ才能を発揮する」と言われているではないか。
敵に乗ぜられる十二の欠陥
 一 確信に基づかぬ行動。後悔を生む。
 二 無辜の民衆の殺戮。妖異が起こるもとである。
 三 上官のえこひいき。部下の不平の原因となる。
 四 指揮官が自分の失策を認めまいとすること。不祥事の原因となる。
 五 人民を収奪しつくすこと。不測の事態の原因となる。
 六 敵側の離間工作に乗せられること。指導者の明察が失われる。
 七 命令を安易に下すこと。部下は無責任な行動をとる。
 八 賢人を退けて用いないこと。指導者は固陋におちいる。
 九 利欲に目がくらむこと。災厄のもとである。
 十 小人を重用すること。害毒を流すもとである。
十一 防衛を怠ること。国家は滅亡する。
十二 指揮官の命令がないこと。軍が混乱するもとである。







『太宗李衛公問対』600年頃
内容は、唐の太宗の問い対して李靖が政治・兵法の要諦を進言したもの
実際の著者は不明
太宗
「管理体制を厳しくすれば、兵士達は君主を恐れて命令に従い、敵を恐れずに戦うという。しかし、漢の光武帝は、援軍もなく孤立した状態で王奔ひきいる100万を打ち破っている。当時は法や刑罰なども整っていないのにどういうわけなのか」
李靖
「戦いの勝敗は複雑で簡単にはいえません。秦に対して反乱を起こした陳勝と呉広が秦の軍を打ち破ったのも、かれらの法が優れていたからではありません。また光武皇帝が王奔を打ち破って後漢を創建したのは、人心が王奔から離反していた情勢に乘ったからです。孫子はこういっています。「まだ部下がなじんでいないときには、わずかな過失があっても、これを罰するなら、その部下は心服しない。心服しないものは使いにくい。逆に、すっかりなじんでいて、過失があってもこれを罰しないのなら、狎れてしまう。狎れてしまった者は役に立たない」と。思いますに、この孫子の言葉は、まず部下に対しては愛情によって人間関係を強化し、そのうえで過失があれば厳しく処罰すべきであることを示しているのです。もし愛情無く厳しく管理するだけであれば、うまくゆくはずはありません」
太宗
「だが、『尚書』には、「愛情より厳しさが勝っている場合には成果があがり、厳しさより愛情が勝っている場合は失敗する」と記されているではないか。」これはどうなのか」
李靖
「まず愛情をもって部下を信頼させ、そのうえで間違ったことをしたら厳しく罰するのです。この順序を取り違えてはなりません。先に厳しくしてから、あとで愛情を示しても、うまくはいきません。「尚書」は結果について注意しているのであって、前後の関係をいっているのではないのです。」


しばられた組織、ばらばらの組織
 兵法の元祖と言うべき太公望は
「分散しようにも分散できない軍隊は、”しばられた組織”であり、集中しようにも集中できない軍隊は”ばらばらの組織”である」
といっております。

「あの男は兵法に通じているそうだが、おの男をこのまま重用しておくべきであろうか、というのも私ならあの男を使いこなせるが、やがてわが息子の代となったときに、我が子はあの男をつかいこなせまい」
「よい考えがあります。このさい左遷なさるのです。そして将来、太子が皇位につかれたさいに、あらためて抜擢するのが最上の策です。きっと恩を感じてこれに報いようとするでしょう。」

太宗がたずねた
「昔は、出陣や将の任命にさいしては、厳粛な儀式をとり行った。すなわち、君主はまず三日間斎戒沐浴したのち、将軍に鉞を授けてこういう。『上は天に至るまで、将軍の思うとおりするがよい』。次に斧を授けてこういう。『下は地に至るまで、将軍の思うとおりするがよい』。そして、将軍が乗る車の轂を推してこういう。『軍は時宜に応じて適切な行動をとれ』。こうして出陣した以上、軍は将軍の命令に従い、君主の命令は聞かないでよいことになる。このような儀式がすたれてからすでに久しい。そこで今回、そなたと相談し、将軍を派遣するさいの儀式を定めようと思うが、どうか」
李靖はこたえた
「おそれながら申し上げます。昔、聖人が儀式を定めたことについては、それぞれに意味があったと思われます。つまり、宗廟で斎戒するのは、神威をかりて士気を高揚しようとしたものです。鉞と斧を授け、車の轂を推すのは、統率の権限を将軍に委譲することを意味したものです。
 今日、陛下は、出陣のたびに必ず重臣達と協議し、宗廟に報告したのちに派遣しておられる。これはまさに神威をかりて士気を高揚しているのです。また、将軍を任命した場合は、将軍に適宜の処置をとらせておられる。これは、まさに、統率の権限を委譲しているのです。
 つまり、斎戒沐浴したり、車で轂を推したりなさるのと変わらないのではありませんか。すべて昔の儀式の精神にかなっており、意味は同じです。あらためて儀式を制定するまでもありません。」
「なるほど、そうであったな」
太宗は側近に命じて以上の顛末を記録させ、後世の参考とした。


古典の読み方
 太宗がたずねた。
「孫子は、敵軍の士気をくじく法について論じ、『人間の気持ちは、朝は元気よく、昼はだれ気味となり、夕方は休息をもとめるというように、状況によって変化する。戦上手は、この変化を見定め、敵の元気なときは避け、だらけているときをねらって撃つのである』といっている。この説をどう思うか」
 李衛公は答えた。
「生きており、血が流れているからには、人間は、気というものに左右されます。例えば、奮起すると死をも恐れず戦うでしょう。これも、気がそうさせるのであります。孫子はこれを兵法に活用せよといっているのでありまして、敵ばかりでなく、部下の士気をよく見定め、これを奮起させて戦いに臨むことが肝要と存じます。孫子のいう、朝、昼、夕うんぬんは、必ずしも時刻のことではなく、一日の状態に例えているのであります。この点を理解せずに、書物の文章を表面的に解釈しても、なんの意味もありません」







『諸葛孔明の兵法』
『三国志』では孔明の著作として『諸葛氏集』24篇と記録されているが、その後散逸し今日には伝わっていない。
 その後、明から清にかけて孔明の著作や記録を編集した『諸葛亮集』がたびたび編纂された。今日『諸葛亮集』とされているのは、清代の『諸葛忠武候文集』である
用兵の極意
 作戦計画はあくまでも秘密にしなければならない。敵を攻撃するときは疾風のごとく、補足殲滅するときは鷹が獲物をねらうように迅速であらねばならない。そして、戦いはすべからず奔流する河川のように一気に決着をつけなければならない。こうあってこそ、味方を損耗することなく敵を撃ち破ることができるのだ。
 戦上手は感情に左右されない。万全の作戦計画を練りあげた者は敵を恐れない。そもそも智者は戦をしかけるまえに万全の作戦計画を立てて勝利を不動のものとする。これに対して愚者は、勝利の見通しも立たないまま、やみくもに戦をしかけ、そのあとで活路を見いだそうとする。
 勝者は道なりに進もうとするが、敗者は近道を選んで結局は道に迷う。やることが、あべこべなのである。
 将たる者があるべき威厳を保ち、兵卒はそれぞれの持ち場で死力を尽くす。こうあってこそ、軍は本来の力を発揮することができる。それはちょうど丸い石を坂の上から転がすようなもので、どこにも無理がなく、立ちふさがるものすべてをなぎ倒すことができる。かくて軍は無敵の強さを発揮するのだ。
 これが用兵の極意である。
 




『三十六計』成立時代も著者も不明 
「三十六計逃げるに如かず」の諺にもなった兵法書
一番ふるい出典は、今から1500年ほど前の『南斉書』のなかの
「檀公の三十六策、走ぐるをこれ上計となす」





『墨子』紀元前390年頃
儒家に対抗した墨家の思想をまとめた書
激しい乱世のなか、兼愛・非攻を唱えるだけでなく、大国の侵略阻止のために門弟を引き連れて高度な攻城戦技術から各地の城を守るなど行動的な平和主義者であった。



『司馬法』
 春秋時代以前の古代中国では、軍を管掌する最高の官職を「司馬」と呼びました。
よって『司馬法』は司馬の兵法といった意味合いを持ちます。姓の司馬はこの名残になります。
 周王朝の大司馬が残したとも、前6世紀の斉の大司馬であった田穰しょ の兵法ともされるが、ただ書名のみで内容は伝えられていない。現存の司馬法は、史実に仮託して5〜6世紀頃に作られたものとされている。
「敵を見ては謀ることなかれ」
(敵にぶつかったらあれこれ考えるな)
などの名言があり

勝心と畏心
 敵に勝とうという気持ちが強いときは、相手のことしか目に入らず、冷静さを失う。敵をおそれる気持ちが強いときは、警戒心ばかり先に立ち、かんじんの相手のことが目に入らない。
 この二つの気持ちを適当に調整するならば、それぞれの利点を兼ね備え、それぞれ使い分けることができる。つりあいをとることだ。

将の資質
 将に主体性がなければ目的は達成できず、独断的であれば犠牲は大きい。将が生に執着すればためらいを生じ、必死になりすぎれば勝ち目はない。

 戦争の難しさは、戦いそのものにあるのではない。部下を戦う体制におくことがむずかしいのだ。だが、これはまだやさしい。部下がその体制に応じて戦う気持ちになる、そういう意欲をおこさせることがむずかしいのだ。
 というものの、こういう理屈を知ることはまだやさしい。一番むずかしいのは、それを実行に移すことだ。





『韓非子』紀元前230年頃 日本における有事法制の”有事”の語源にもなった書
著者、韓非 は荀子のもとで学んだ後、祖国、韓の興隆を願ってこの書物を記し法家思想を大成した。
秦の始皇帝は韓非を高く評価し、登用することは出来なかったものの、その後、始皇帝の政策は韓非の思想に沿っているともいわれる。
軍事的な側面に限定すると、法術の面から、将軍達から君主の統帥権・権限を守りつつ、将軍達の帷幄統帥権を保護した。





『鬼谷子』蘇秦著者説が有力です。
外交・謀略・心理戦の書の先駆けともいえる存在





『戦国策』紀元前6年ごろ 著者不明
書名が春秋戦国時代の時代名称の語源にもなった書
戦国時代の外交・権謀術数を国ごとに書き記した歴史物語



『百戦奇略』又は『百戦奇法』 劉基説が有力であるが、異論もある。
北宋末期には存在していたことは間違いない。
各兵法書から引用しながら、戦例もまじえてわかりやすく解説している。





『続日本紀』           管野直道
 吉備真備が唐から「孫子」を日本にもたらしたことが記されている。


『五輪の書』           宮本武蔵
一対一という個人戦から出発し、個人対多数に勝利するための戦術など自分の実体験からの書き記した兵法書。とくに
「一人と一人との戦ひも、万と万とのたたかいも同じ道なり。」
という着目は、個人戦から出発して、軍事の根本原理たる”戦理”にたどりついたことを意味する。


黒田如水
 晩年人が変わったように家来に当たり散らし、人々は寄りつかないようになってしまった。子の長政が諫めると、如水は「耳をかせ」といい、こうささやいた。「これは汝がためなり。乱心にあらず」こうしてわが子に人望が集まるようにした。
李衛公問対に通じる逸話。






『雑兵物語』       松平輝綱? または  松平信興?   17世紀頃?
 鉄砲足軽、弓足軽、荷運び等の雑兵達が自分たちの実戦体験を語るといった体裁(実際に足軽として戦場を体験したことのある老人からの聞き取りもしているのかもしれない)をとっている。太平の世が続き、実際に戦場を体験した者も少なくなり、戦場での常識とも言える心得や知識・技術が失われていくことに危機感をおぼえたからこそ、この著者はむずかしい兵法書ではなく、このようなわかりやすい体裁で書いたのであろう。

以下、ニュートンプレス社 原本現代訳22 『雑兵物語他』 吉田豊 訳  より抜粋

「敵が見えねえからといって、空鉄砲をかついではならねえ。必ず弾丸をこめてからかつぎなされよ。」
「騎馬の敵を撃つときは、まず馬を撃ってのちに人を撃つのがいい。もっとも、ときによっては、まずは人を撃ち落とし、馬を放れ馬にして敵陣をひっかき回すこともあるべえ。」
「とおがらしを磨りつぶして、尻から足の爪先にまで塗っておけば、凍えねえもんだ。手に塗るのもいいが、うっかりしてその手で目でもこすったら、ひどく痛むもんだぞ。」
   鉄砲足軽小頭     朝日右衛門


「槍を突くもんだとばかり思っちゃならねえ。一同、心を一つにして穂先がそろうように拍子を合わせ、上から敵を叩き伏せなされ。決して突くべえとは思いなさるな。一人、二人での出会いがしらの戦いなら突くのもいいが、槍数のそろった合戦とあれば、拍子をそろえて叩くのがなによりだ。」
   槍担ぎ小頭       長柄源内左衛門


「敵地の井戸の水は決して飲まねえもんだ。底にたいてい糞を沈めてあるから中毒するぞ。川の水を飲むんだぞ。それも、よその国の水にはあたるもんだ。」
   荷宰料(兵糧運び)   八木五蔵


「水はなによりも大切なもんで、一人一日、一升ずついるもんと聞きやした。また食物にも計算があり、米は一人に六合、塩は十人に二合と申しやす。もしも夜合戦でもあれば、米の分量が増えますべえ。」
   夫丸(人足)       馬蔵










渡辺崋山
漂流民を送り届けにきた外国船をむやみにうち払えば、日本近海に基地を有する彼らのこと。江戸を海上封鎖され、たちまち江戸は飢餓におそわれる恐れがあると指摘した。


佐藤信淵
江戸は食料を米の廻船搬入に依存している。もし外冦に海岸封鎖された場合は、飢餓は府民に迫り、内乱状態になること。都市人口の郊外農地で食料自給が可能な程度に抑制することと、廻船米のルートを銚子ルートを復活させることと、それには江戸湾から利根川に抜ける運河を印旛沼にもうけることを指摘した。




『李朝実録』1392〜1910年間にわたる政史日誌。政治・経済・軍事・外交・文化・気象・天文・農業・地理・医学・科学技術など幅広く記されている。



佐久間象山
「下田は遠州灘を制圧できる要衝で、例えるならアフリカの喜望峰のような地勢にあり、ここを外国軍の拠点とされたら江戸への食料搬入を扼される」
「しかも下田の北方には天城山があって内陸から大砲や兵隊は送り込めない。船がないから海上から減圧することも不可能で、面白くない」
「むしろ横浜村を開港した方がいつでも攻囲し易いし、江戸居住者が敵から長所を学べるだろう」
 天保13(1842)年松代藩主真田幸貫が海防掛老中になると、海外事情・海防の研究を命ぜられる。
 嘉永3(1850)年、深川の松代藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助ら、多く人材を門下に集めた。



『葉隠』
武士の心構えに関する教えを書き記した書
秘書であったことと、非常に強い佐賀なまりのために、標準語で印刷され注目され始めたのは明治時代になってからである。
隠遁した佐賀鍋島藩士・山本常朝(1659〜1719)の7年間の談話を同藩の後輩・田代陣基(1678〜1748)が筆録し、これを編集したものである。
 主君の末の子を出家させておく、そして家臣の人々も跡継ぎ以外は百姓や出家にさせておく、もし鍋島家が取りつぶしにあったさいには、出家や百姓になった者達が力を合わせ、新しい領主を失敗させ、それを世間の評判にして、国を失わせる。次々と領主を破綻させた上で、出家、百姓が幕府に対し「肥前は代々鍋島家の領地でありましたから、もとの藩主を慕い、どうしても新しい領主を受け入れられないのです。これから先も国内は乱れ、平穏にならないに違いありません。そこで、旧藩主のご子孫で出家しているものがありますので、これに還俗をおおせつけられ、肥前の国を治めさせるようにすれば、必ず国内はよく治まるでありましょう」と申し上げるのである。そうすればお家を再興することができる。
お家取りつぶし後も備えた考え方はもっと評価されてもいいだろう。




『将帥論』"Ststegicos(The General)" 1世紀頃 オナサンデル著
 指揮官・幕僚の選抜、統率、行軍、戦闘隊形、衛生など軍事全般に言及した。




『兵術概要』"De re militari" 4世紀頃 ヴェゲチウス 
 「戦術概要」 または 「古代ローマ人の軍事制度」ともよばれる。
 衰退に向かいローマ帝国に救うべく様々な改革案を提示した。この書から「平和を欲するのなら戦争を学べ」、「生まれつきの勇者などはいない。多くは訓練と軍紀による。」などの名言も生まれた。


『Strategicon』 578年  マウリキウス
 ビザンチン帝国の軍制改革。戦場での負傷者を助ける組織的な制度や正面決戦をさけた遊撃戦などを指摘。

『Tactica』 900年代頃 
 ビザンチン帝国の軍制改革。対イスラム教徒への軍事研究。
 「国家にとって大切なのは農民を守る軍隊と軍隊を養う農民である」

『戦術論』『君主論』『政略論』『ローマ史論』『マンドゴラ』(ニツコロ・マキャベリー)
マキャベリーが存在した1469-1527年のイタリアは、ミラノ、ベネチア、フローレンス、法王領などの都市国家にわかれ、政治的混乱と社会的腐敗の状況の中で、「野心満々の列強の間にあっては、没利的態度をとる国家は結局滅亡の他にない」とし、『君主論』などを書き記した。
戦術論6章 第10項 において戦略こそ肝要と述べ
戦略の内容は「欺瞞」「謀略」「反間」であるとしている。
12章では「陽動」「分撃」を例に挙げている。
彼は「政治生活は成長した、発展する有機体内の生存競争である。従って戦争は一つの決定に終結すべきである。戦闘は、この決定をすみやかな導くための最良の手段である。このため敗戦国は、勝利者の意のままに置かれるであろう。この決定は戦闘の中心問題であるから、その結果を単なるチャンスに任せることはできない。必ずやあらん限りの努力を払って、勝利の確保するように準備しなければならない。


モンテクッコリ 1609〜1680 オーストリア
 『戦争論』、『兵術論』、『兵術金言(ハンガリーにおける対トルコ戦争史)』などの著作がある。
戦争を陸戦、海戦、外患と内戦、正義と非正義などに分類し、軍制・用兵・訓練・軍紀・兵站・情報・行軍など幅広く記述した。

フォーラル 1669〜1752年 フランス
 『Nouvelles decouvertes surla ueer』『Traite de la colonne,a maniere de la former. & de combtter dans cet order』隊形・編制について記述。
 

ピュイセギュール フランス
 軍隊における標準化を提案。戦争において最も重要なのは、学問であると主張し、組織だった理論研究が欠如すると、人々は慣習や個人的な経験に頼ることになると警告している。死後、1748年に『Art de laguerre par principes et par regles』が刊行された。





『わが幻想』サックス 仏国 1756

マイゼロア 1719〜1780年 フランス

ギベール 1743〜1790年 フランス

ヴォーバン 1633〜1707年 フランス

フリードリヒ (兵隊王) 在位1713〜1740 
・武器のない外交は楽器のない楽譜のようなもの
・君主は人民の専制的主人ではなく、第一の下僕に過ぎない

ロイド 1720〜1783 英国


スヴォーロフ 1729〜1800年 ロシア

ビューロー 1757〜1807年 ドイツ
 幾何学の応用。








『兵術観察論』ベレンホルスト プロシア 1797

『近世戦争法ノ精神』1799年 ビューロー フランス
 平時における知的な「戦略」研究の重要性を指摘。

シャルンホルスト 1756〜1813年 ドイツ

カール大公 1771〜1847年 オーストリア

ナポレオン 1796〜1821年 フランス





『戦争論』(クラウゼヴィッツ)プロシア  1832
 クラウゼヴィッツはナポレオン戦争を対象に戦略論を展開した。当時の独観念論の影響を受け、弁証法的思考体系によって、軍事における「目的行動」を体系的に捉えようとした。
 一対一の騎士同士の闘争に着目し、戦争という用語自体を考察し、軍事科学を哲学の域まで考察した。
・戦争は他の手段を伴う政治の継続にすぎない
・政治は目的を定め、戦争はこれを達成する
・政治活動は、平戦時を通じて、一貫して行われる。
・政治の干渉が戦争を妨害することはない。そう思われているのは、政治の干渉がいけないのではなく、政治そのものが悪いのである。
・武力行使を辞さない者には総てが敗れる。
・戦争は賭の要素を多分に含んだ打算である。
・人間は元来、明瞭と確実とを望むものであるが、反面、不確実さを喜ぶところもある。・戦争は本来真面目な目的を達成するための、真面目な手段である。冒険、僥倖、興奮によってなされるものではない。
・侵略者は常に平和主義者である。戦わないで侵略するほうが楽だからである。
・自己保存の意欲と実力のない国を、外部の力だけで維持することは困難である。
・二国が協同して第三国と戦う場合、必ずしも同じ程度に敵視しない。
・計画と実行の間には、大きな隙がある。計画の立案者でも、これに当面すると、不安を持ちやすい。他人の言に左右されやすいものは特にそうである。まわりにある物々しい大道具を取り去って、正体を見直す必要がある。
・いかなる名参謀も、将帥の決断力不足だけは補佐できない。
・各時代には、それぞれの時代に適応した独自の戦争理論がある
・血を流さず勝利を得ようとするものは、血を流すことを辞さない者によって必ず征服される。
・敵の戦闘力の破壊という戦争の本来の手段を、なるべく使わないですまそうとする戦略は誤りである。しかし、敵の戦闘力を直接破壊することだけが戦略ではない。
・戦争の終末を考えないで、その第一歩を踏み出すことはできない。
・戦いは、勝とうと思う者同士の抗争である。必勝の条件というものは望めない。準備において、できるだけ勝利の条件をととのえ、実行に当たっては、打算を超越して断行せよ。
・戦略の第1条件は、できるだけ強大な戦力をもって戦場に臨むことである。
・武力だけでは、戦争の目的を達成できない
・勝利を保持し、利用するには、戦力の莫大な追加支出が必要である
・防御は攻撃よりも堅固な戦闘方式である
・防御して反撃しないものは滅びる
・攻撃には限界点がある
● 戦争論以外のラウゼヴィッツの論文としては
「プロシャ敗北時の研究」
「ドイツ人とフランス人」
「将来の対仏戦争計画」
「シュレジア防衛計画」
「小戦争論」
「皇太子殿下御進講録」
「建白書」
「国民軍について」
「後備軍論」
「輪廻」
「陸大に関する覚書」
「1796年のイタリア戦役」
「1799年のイタリア・スイス戦役」
「1812年のロシア戦役」
「1813〜14年の対仏戦争」
「1815年の対仏戦争」
「諸戦役の戦略解明」
がある。






『作戦概要』『兵術要論』1838(ジョミニ)
 ジョミニは、ナポレオン戦争当時、フランス軍ネイ元帥の参謀長として参加して、その戦跡を検討しながら『作戦概要』『兵術要論』を出版した。この中で「戦争の行動には基礎的原理がある。」と述べている。彼は用兵政策と戦略を区分し、用兵政策は政治家の職務とするなど、今日の軍政と軍令の区分がみてとれる。また国民軍という膨大な兵力を効果的に運用するために、戦略は幕僚部(後の参謀本部へ発展)と戦術は野戦軍に任せる制度的分化がみられる。この分化は戦略と戦術の概念の分化を促し、後にモルトケによって明確になる。
作戦概要の中では、
「よき結果をもたらす基本的原理が存在している。この原理は武器の種類、歴史的時代的及び場所には関係ない普遍的なものである」
と述べ
兵術要論では
「戦争の行動には基本的原理がある」
とし、つまるところ戦理について触れている。


マルクス エンゲルス 
 革命家からの「組織論」「闘争技術」「大衆蜂起」などについての軍事学的な考察がはじまる。

○蜂起   マルクス エンゲルス  1848年
 蜂起というのは、戦争と同じく、一つの技術である。これは一定の行動法則にしたがい、この法則を無視すれば、無視したわがの破滅をきたすものである。

○山岳戦  エンゲルス 1857年
 アルプスはいちばん高い山脈のいただきにさえ、人の迂回できない峠は一つもない。ナポレオンは、山岳戦では、次のようなことを格言にしていた。「1匹の羚羊が通れるところは1人の人間が通れる。1人の人間が通れるところは1大隊が通れる。1大隊が通れるところは軍団が通れる。」、と。
 敵を側面から迂回攻撃できるという、この可能性がまさに不利を補ってあまりあるのに、防御陣地の兵力に対して正面攻撃をかけることは、しばしばまったくのきちがい沙汰ともなろう。
 あらゆる小路、それによって防御陣地が迂回攻撃される可能性がある、これを防衛することは、防衛戦に、ひじょうな力の分散を強い、そのためにその軍隊は、直接の敗北にさらされる危険がある。防衛戦は、せいぜいこれらの道路を監視のもとにおくことができるのであって、迂回そのものにしても、ただ予備隊の適正な使用と、各分遣隊の指揮官の判断や精力だけで撃退できるのである。


 
『戦争の理論』マクデューガル 英 1856
英国陸軍大学初代校長、ジェミニの流れ

『作戦論』ハムレー 英 1866 
ジェミニを戦例にあわせて解説

ドゥ・ピック 1821〜1870年 フランス
 戦闘における精神・士気を強調

フォッシュ 1851〜1929年 フランス
 精神・士気を重視した攻勢論者

『高等師兵の原則』モルトケ(1800-1891)
 モルトケは、ナポレオン時代から定着した師団編成の部隊を効率的に運用するために、従来から存在していた幕僚群をもって、「プロシア陸軍参謀本部」を創設した。戦略とは、大軍を運用するための帷幄における軍事(作戦)計画であり、戦術とは戦闘における兵力運用の教義とし、「戦略とは戦闘に至る最良の道程を指示し、いつ、どこで戦うべきやを教える」また「戦略は、軍隊を戦場に集中することにより、戦術に敵を攻撃して、これに打撃を与える機会を提供する」ものであると記述している。
 鉄道網と道路網を緻密に計算したことにより、今までにない規模と速度の「分進合撃」を生み出した。






青年学派(Ecole de June) 1880年代 フランス
 イギリスに同じく大艦隊を編成するのではなく、水雷艇、潜水艇、機雷を十分に整備すれば沿岸部ではイギリス艦隊に対抗できる。外洋においては高速の巡洋艦をもって通商破壊を行えばよいとする考え方
(海洋国家と違い、陸軍に資源を投入しなければならない大陸国家では現代でもこの思想が国を問わず一般的か)



ダリユ 1859〜1931年 フランス
潜水艦・水雷艇で自国海域を守り、巡洋艦で通商破壊戦を行う。主力艦艇同士での艦隊決戦は避けるべきであると主張した。『海戦史論』1907年

『国民皆兵論』ゴルツ 独 1883

ベルンハルディ 1849〜1930年 ドイツ

シュリーフェン 1833〜1913年
「シュリーフェン・プラン」は有名。

『海戦論』コロム 英 1890

J・D・フラートン イギリス陸軍少佐 1893
「海戦も制空権確立後においてのみ可能であり、航空部隊の敵首都上空への到着が戦争を終結させることになるであろう」


『海上権力史論=歴史に及ぼしたシーパワーの影響』1890『海軍戦略』1911(マハン)
 マハンは、海軍戦略として、単に戦争だけでなく、国家経済・地政学的位置とが関係し、かつ平戦時に関わる国家としての戦略としての意義をも持ち、海軍軍人は政治家的視野も必要であり、海軍の興隆は海運の興隆とともにあるとしている。
 国力の維持・発展に寄与すべき海軍の使命として、国家発展の3要素として、「生産」「海運」「植民地」があり、この要素を海上において防衛するのが海軍の使命であり、の手段が「制海」であると位置づけた。
 その一方、戦略については狭義に定義付けを行い「戦略とは敵と隔離して我が兵力を運用する兵術」とし、「戦術とは、戦闘において敵と接触して我が兵力を運用する兵術」と定義した。

コーベット 1854〜1922年 英国
制海権が海戦の主たる目的であるが唯一の目的ではないとマハンを批判。海戦は陸軍も含む全体の戦争の一部であると主張した。


ブロッホ 1836〜1902年 ポーランド
経済人の立場から技術・経済から考察し、将来の戦争は戦線が膠着して攻撃が繰り返されるたびに大量の損害が出ることを予想した。

「海軍戦術論」マカロフ 1848〜1904
制海権について、戦術レベルにおいては必ずしもそうではないと疑問を指摘


トロッキー 1879〜1940年 ロシア
 陸海軍人民委員。軍事には「不変の原則」に基づく戦争の科学が存在するという考え方を否定し、軍事理論家達を批判した。


「戦略理論」 ラウル・カステックス 1878〜1958 フランス海軍大学校長


Hans von Seeckt 1866〜1936
ゼークトの少数精兵主義

ブジョー 1784〜1849年 フランス
植民地における抵抗運動鎮圧

『海戦要務令』1901 秋山真之
 『海戦要務令』は日露戦争直前にできたものであり、日露戦争中における帝國海軍の戦闘に規範であった。その後の軍事科学の進歩に伴い幾度かの改正が実施されたが、その基本思想には変化はなく、まさに終戦に至るまで維持され続けたものであった。
基本的綱領として
・先制は戦勝の要訣なり。
・戦闘の要は優を持って劣を撃つにあり。
・戦闘は攻勢を採るのを常とす。
そのうえで戦闘の規範を
・決戦は戦闘の本領なり、常に戦闘は決戦によるべし。
・戦隊の戦闘形は単縦陣を基本とし、戦隊指揮官は縦陣の先頭にありて指揮す。
・単隊の戦闘はT字戦法を採るを可とすること多し。
・複隊の戦闘は乙字戦法によるを可とすること多し。
・夜間の水雷戦は独力実施とし、昼戦(主戦戦隊)−夜戦(水雷戦隊)−翌朝戦(主戦戦隊)とす。
としている。
 『海戦要務令』の戦略の定義としては、「戦略とは、敵と隔離して我が兵力を運用する兵術であり、戦術とは、戦闘において敵と接触して我が兵力を運用する兵術なり。」とマハンの影響が見て取れる。

『戦いの原則』フォッシュ 仏 1903
原則のリスト化




レーニン    1905年

 マルクス主義を学ぶ者は、誰でも、偉大な歴史的な衝突を解決するために、人民の諸集団や諸階級がつかう手段だと考えられる軍事知識の大きな意義、軍事技術や軍事組織の大きな意義に、断じて疑いをさしはさむことはできない。 

 部隊というものは、2〜3の人間からはじまって、どんな大きなものにもなり得る。
 
 部隊は何かでも手当たりしだいにできるもので(小銃・爆弾・刃物・棍棒・石・シャベルなど)武装しなければならない。すべては自分自身でつくりあげなければならない。

○準備活動・情報の活動について
  監獄、警察、各省等への計画の偵察。国家の諸機関および銀行等における仕事の分担と、 これらのものの武装の種類をたしかめること。利用できる連絡者(警察、銀行、裁判所、監獄、郵便局、電話局の事務員など)をつくることであり、兵器庫や都市の兵器廠の下検分などである、ここには、非常に多くな仕事がある。あらゆる人々が、すなわち市街戦にはま ったくの不向きな人々や、婦人や子供や老人などのように、まったくか弱い人々でさえもが、役に立つ仕事がある。
 活動する意志のある限り、武器をもたなくとも、あるいは個人的に闘争能力がなくても、大きな利益をもたらさない人間はいないし、またありえないからである。

○軍事行動
  革命軍の部隊は、どんな場合にも、ただ一つの準備行動をするだけでなく、できるだけはやく、次のことを目的として、軍事行動にうつらなければならない。すなわち
 一、その闘争力の訓練
 二、敵の弱点の偵察
 三、敵に部分的敗北を被らせること
 四、投獄されたもの(逮捕された者)の解放
 五、武器の奪取
 六、蜂起のための必要手段の奪取(政府公金の没収)等
である。

○蜂起 「マルクス主義と蜂起」(ロシア社会民主労働党中央委員会宛の論文より)
 蜂起は、成功するためには、一つの陰謀や、一つの党にではなくして、一つの進歩的な階級に立脚しなければならない。これが第一。蜂起は、革命的高揚に立脚しなければならない。これが第二。蜂起は、人民の先進的な隊伍の積極性が最大であり、敵の隊伍および革命の力のよわい、中途半端な、不決断な友の隊伍の動揺が、もっともつよいような、成長しつつある革命の歴史における転換点に、立脚しなければならない。これが第三。
 これら三条件のあるときに、蜂起を技術としてとりあつかうことを蜂起することは、革命にたいするうらぎりと同一である。



Lanchester 1916 英国
 闘争に関する理論を発表 一次法則と二次法則に分かれる

・決定論的第1モデル(1次法則)
 m。−m=α(n。−n)
 m :一交戦後のM軍残存兵力
 n。:N軍当初兵力
 n :一交戦後のN軍の残存兵力
一次法則は、大兵力の交戦において使われる式です。小兵力の場合は、交戦が同じ条件のもとで多数反復される場合において平均的に成立する関係を示している。

・決定論的第2モデル(第2法則)
m。の二乗−mの二乗=α(n。の二乗−nの二乗)
このモデルは、集中攻撃の場合であり、M軍の一単位に対してN軍全単位が攻撃する、またはその逆の状況を仮定したモデルである。これは「集中攻撃理論」ともよばれる。

・確率論的Lanchester理論
実際の闘争では兵力は連続的に消耗していくものなので、損耗過程を確率論てきに表現する。戦後はこの考え方をおしすすめて30%消耗の原則などが生まれている。



『8原則』フラー 1915
目的の維持・集中・攻勢動作・警戒・奇襲・協調・経済・機動。「プラン1919」は有名。

ロレンス 1888〜1935年 英国
パレスティナ・シリアなどの十字軍の城郭研究家。英国陸軍将校。独特な砂漠のゲリラ戦を生み出した。戦後は空軍理論の研究を行う。

ヤン・クリスチャン・スマッツ将軍 1918? 英国
 WW1は航空兵力が単に補助兵力ではなく、航空兵力のみ運用での大きな可能性を多くの者に感じさせた。
「現時点で予想できることは、将来、航空兵力は独立して使用され、その規模は広範囲なものになっていくだろう。そして航空作戦が、敵の大規模な産業中心地および人口の多い都市を破壊して、国土を荒廃させることによって戦争の主役を演じる日もそう遠くないだろう。これまでの古い形式の陸軍や海軍の作戦は二次的、あるいは補助的なものになり下がってしまうに違いない。」
として、新しい航空機を「遠方から、しかも陸海兵力のいずれからも独立して、広い地域にわたる作戦を遂行できる」一つの独立した戦争の手段になると予言した。

フルンゼ 1885〜1925年
ソ連の軍事ドクトリンの生みだした

トリアンダフェーロフ 1894〜1931年 ロシア
連続打撃・縦深作戦

『赤軍野外教令』1936年 トハチェフスキー ベルジン

William Mitchell 米国陸軍少将(1879-1936)
 大戦が終わってから航空機の持つ可能性は注目されはじめたが、実際に戦略爆撃を受けた国を除くと空軍を陸海軍と同等の地位に置こうとすることには、まだ抵抗感が根強く反発が大きかった。そんな中でWW1で仏国駐留米国陸軍航空隊司令官だったウイリアム・ミッチェル大佐は、1921年にWW−1の戦利品である独戦艦オストフリーズランドを標的艦として、陸軍機の爆撃によって撃沈し、航空攻撃の有意性を示すと共に、戦艦無用論や航空殲滅主義を新聞紙上に盛んに唱え、空軍の独立を訴えた。このため軍部の反発は大きく、ミッチェルは軍法会議にかけられ有罪とされ、不遇の中、世を去ってしまう。
 WW2大戦が終了後、政府は誤りを認め、ミッチェルを少将に進級させると共に、議会名誉勲章を贈った。


Julio Douhet イタリア陸軍少将(1869-1930)
1921年に航空戦略に関する理論を発表。その理論の前提として、
・航空機は比類なき潜在的可能性を持つ攻撃兵器である
・人口中心に対する攻撃によって、市民の士気は破砕される。
を述べ、従って制空権の確立と航空攻撃の主目標は戦線から隔離した産業並びに人口の中心地でなければならないし、航空機工場の破壊は必要であると述べた。
 ここにはじめて従来からの概念であった「制地(占領)」 「制海」にならぶ「制空」の概念が成立することを意味した。
 この思想に山本五十六も影響を受けたと見られているが、なりよりも熱烈に指示したのが当時米国陸軍中佐、あのヘンリー・アーノルドである。


『英国陸軍野外要務令』1920
目的・集中・攻勢・警戒・奇襲・協調・機動・戦力の節約

『TR10−5』米国陸軍 1921
目的・集中・攻勢・警戒・奇襲・協調・経済・機動・簡明


『兵語の解』1923 大日本帝国陸軍大学校
 この書は帝国陸軍の兵術思想を終戦に至るまで律し続けた規範であった。
 この中で戦略とは、「作戦の目的を定め、作戦目標、方向、戦略正面、戦略縦長及び連絡線等を操縦し、もって会戦を拡充する方策」と定め、また戦術とは、「戦闘実施のための術なるも、行軍宿舎の実施も又戦術の範囲に属する」と定め、ジョミニ、モルトケの流れを汲んでいる。


『英国陸軍野外要務令』1924
目的・集中・攻勢・警戒・奇襲・協調・経済


Von Neumann MINI−MAX理論 1928
意思決定の行動理論として開発された。
対立のゲームは本質として「二人零和ゲーム」(two-person zero-sum game)である。これは、対立の結果、一方がなんらかの利益を得たとき、他方は同じだけの損失を蒙ることを意味します。このためゲーム理論としては、出きるだけ利益をあげつつ、できるだけ損失をさける行動を選択することになります。またここから戦略マトリックスへと発展した。


『世界最終戦争論』石原莞爾
戦闘単位の変移に関する考察は、今日の軍事革命や対テロといった分野につうじるものもある


 『国防地政学』1932年 ハウスフォーファー


『総力戦論』ルーデンドルフ 1935
 WW-1での独で戦争指導にあたったローデンドルフは、この戦争を回想して『総力戦論』を書き記した。このなかで、
 全国民を戦争努力に積極的に駆りたて、総力戦の実施は軍隊だけでなく全国民であること。
 戦争に大衆が参加するので、宣伝を手段として国民の士気を昂揚するするとともに、敵国民の政治的結束を弱めるような特別の努力の必要性。
 総力戦の準備は公然たる戦闘開始以前から始めねばならない、軍事的・経済的及び心理的戦争は現代社会の平時の政策に影響を与えること
 戦争努力を総合しかつ能率良くするため、総力戦は一人の最高指導権威者即ち総司令官が主宰しなければならないとしている。
 ただこれらの思想では帷幄統帥権の混同に注意が必要である。




『毛沢東選集』『中国革命戦争の戦略問題』1936 『抗日遊撃戦争の戦略問題』1938? 『持久戦論』1938 毛沢東 
「われわれは、軍需工場に権利を持っており、しかも敵の輸送隊がこれを運んでくる。これは真理であって決して笑い話ではない」
「主導権とは、すなわち軍隊の自由権である。軍隊が主導権を失って受動的な立場においこまれると、その軍隊は行動の自由を失い、打ち破られるに至るであろう。もともと、戦略的防禦戦や内線作戦では主導権の確保はより困難であり、侵攻的な外線作戦の方が主導権をとるのにより容易である。」
「いま日本に侵攻されている中国は主導権をとりにくい立場にあるが、敵は兵力不足、他国内での戦争、指導のまずさという三つの弱点をもっているから、遊撃戦によって次第に優劣を逆転し得る。」
「戦争は、他のどんな社会現象にもまして、見通しを立てにくいものだ。つまり、その動きは、必然的であるというよりむしろ蓋然性に支配される点が多い。しかし、戦争も人間の思い及ばぬ神秘なものではなく、やはりそれなりの法則性をもつ社会現象である。したがって、孫子の”彼を知り、おのれを知れば百戦殆うからず”という命題は、やはり科学的な真理といってよい」
「戦略問題とは戦争の全局についての法則を研究するものである」
「全般的な戦争指導法則を研究するのことが、戦略学の任務である。局部的な戦争指導法則を研究するのが、戦役学と戦術学の任務である」
としている。
また、
「すべての戦争指導法則は、歴史の発展にしたがって発展し、戦争の発展にしたがって発展するのであり、一定不変なものはない。」
という点から、戦理を否定し、科学技術重視のように批判されることもあるようだが、上記のもあるように、戦理的な原則をみとめつつも、近代戦争における科学技術の発展にともなう軍事技術の革新について取り残されることのないように述べたものなのかもしれない。



『健全なる軍事判決』1942 米国海軍
 米国海軍において発表されたこの論文の中で、
 「戦略とは、戦術を導いて戦略目的達成を寄与させ、また戦略目的に適合させるように保障するのが戦術のつとめである。」そして「戦略は、戦術が正面に出たときに退くものでもない。」とし、従来の時間系列からの定義から離れ、偉大な先達であるマハンに縛られることもなく、戦略と戦術の相互補完的な一体性に踏み込んだ。

グデーリアン 1888〜1954年 ドイツ
電撃戦の理論家であり実践者。


『FM100−5』米国陸軍 1949
戦いの原則「9原則」の集大成

『作戦原則』警察予備隊 1952 FM100−5の邦訳

『戦いの原則』陸上自衛隊 ? FM100−5の日本版

『10原則』英国陸軍 ???
目的・管理・士気の維持・柔軟性・精力の節約・戦力の集中・攻勢動作・奇襲・警戒・協調

『Strategy』リデル・ハート 1954
 WW-2までの戦争を回顧して、如何に多くの戦争がクラウゼヴィッツ流の殲滅戦略によって血塗られてきたかとして批判し、『孫子』への傾斜を深めた。そのなかで、敵との正面対決を避けながら、敵の弱点を衝くことによって、敵を敗勢に追い込むことができることを強調し、戦いの狙いは多くの血を流すことにあるのではなく、敵の心を撃つことにあるとした。従って戦略の目的は「攪乱」にあり、その手段は「我の分散」−「敵の分散」−「我の集中」になるとして、「間接近接戦略」を唱えた。
 また彼は、「大戦略」を唱え、「大戦略」とは、「戦争の政治目的達成に向かって、全資源を調整し、統制する。」、「戦争を指導する政策(戦争指導)」、そして「政治、軍事、経済、外交、思想等の総合運用」であり、更にそれは「戦後平和に対する展望」を含まなければならない国家の戦略であるとした。


『1962年の米国国防政策』
 このなかで米国は「国家戦略」の定義を行い、「国家戦略とは、国家目標達成のため、国家の政治的、経済的、自然的、科学的、地理的、精神的、軍事的一切の資源を使用するための総括的な計画である。これは、採用される戦略構想に基づき国家政策の指示に従う。これは、しばしば大戦略と呼ばれる。」とした。

攻撃 悪の自然誌  コンラート・ローレンツ著 1963年
 動物行動学の見地から動物の攻撃について考察。動物行動学の古典的名著。

『現代の戦略』『戦略入門』ボーフル 1965? フランス陸軍大将
「戦略とは、政策によって決められた諸目標達成にもっとも効果的に貢献するように力を適用する術」とした。
 また、戦略には軍事戦略、外交戦略など各種種類があり、軍事戦略の中でも陸軍戦略と海軍戦略は内容が異なります。だが、これら各戦略をピラミッド型に置き換えてみると、各種戦略は相互依存的な関係が存在します。このピラミッドの頂点にあって、かつ政府、すなわち政治的権威の直接的コントロール下にあるのものが「全体戦略」になります。これは国家戦略など言い換えることも出来ます。この下部レベルとして、外交戦略、軍事戦略などが存在し。軍事戦略は陸軍戦略や海軍戦略などに対して、「包括的戦略」として下部レベルの戦略に任務を割り当てるとともに、それら戦略間を統合的に行動を調整します。


『軍事戦略』1964 V.Dソコロフスキー監修
クラウゼヴィツの理論構成に従う

『大戦略』コリンズ 1973
戦略の組み合わせとして4つの形を設定した。まず、連続的戦略と累積戦略があり、連続し相関連する戦略の行使と、一つ一つの戦略行動が独立していながら、それらの結果が累積して一つの結果を生み出す関係があり、この二つはお互いに補完しあっています。さらに直接戦略と間接戦略が複雑に組み合わさっているとした。

「宇宙空間の戦争におけるクラウゼヴィッツの判断の有効性」
 レイモンド・B・ヴァーロング中将(元アメリカ空軍大学学長) 1976年


『人民の戦争・人民の軍隊』ボー・グエン・ザップ

『戦争のテクノロジー』『戦争回避のテクノロジー』ジェイムズ・F・ダニガン
過去の戦争をデーターベース化して戦争をシミューレーションしながら、戦争・軍事・戦略について考察。劇場版『パトレイバー2』の後藤警部補はかなりこれに傾倒しているようだ。

『戦争なき自由とは―現代における戦時と戦略の使命』クラウゼヴィッツ学会編 クラウゼヴィッツ研究委員会訳 1980年

『軍事戦略―理論と応用』 アメリカ陸軍大学編 1982〜83年


佐藤大輔 
 1980年代ではボードゲームのデザイナーとして活躍。レッドサンブラッククロスなど名作SLGを生み出した。また、藤大輔の名義でコミックの脚本・製作などにもかかわり、ボムコミックの「第三次世界大戦」「スペツナズ」などにも関った。1990年代からはシミュレーション作家として活躍しはじめ、著作を通じて多くの軍事好事家達に影響を与え続けている。

小説以外の著作としては
コマンドマガジン日本語 No.1 1995.1 (創刊号)
・ウ号、一号作戦の一側面について

主砲発射準備よし! 徳間書店
・シーパワーとしての空母
 空母の特性は、航空兵力、高いサヴァイヴァビリティー(生残性)、機動力を1隻の艦が合わせ持っていることにある。これらの特性が、シーパワーとしての空母に大きな柔軟性を与えている。
 空母搭載機は、いかなる場所にでも(航続距離さえ許すなら)様々な規模の攻撃を行い、戦争の展開をコントロールすることができる。このような真似はSLBM搭載原潜にはどう転んでもできはしない。
 空母の持つ力が理解されてゆくにつれ、全ての艦艇が空母を守るために存在するようになった。海軍というものにこれほど革命的な変化を与えた艦種は存在しない。
 高速で移動できる空母は戦場を選ぶことができる。高い機動性が、空母に敵よりも大きな柔軟性を与える。
・湾岸危機シミュレーション
 軍事問題分析に絶対的な指標は存在せず、帰納法/経験則から導き出される相対的な指標しかない。このシミュレーション・ゲーマーなら誰しも知っている事実を彼らは直視することができなかったのだ。(国立大学で行なわれた政治モデルのコンピュータ・シミュレートの失敗について)
2006.1.3更新


戦理研究序説--「対抗不能性」の概念を中心に     兵頭二十八  1990年
 (日本の防衛力再考 銀河出版 1995年巻末附録)
 戦理について
 「戦理とは、人間が人間に及ぼすことのできる諸力に関する学(Science:ある表現、作業、達成の他者による再現を保証せんとする意識活動や解明の集成)である。」と定義している。
 しかし、権力については
「権力の大きさは、当該個人または集団の、将来に於ける、飢餓並びに不慮死からの、見込みの間合いの早さに等しい。」
 としている。たしかに、独裁者は飢えることはないし、事故死や病死にあう確立は低いであろう。だからといって、これらからの間合いの遠さ=権力とするのはどうであろうか。シンプルに他者に対する統制力の大きさといった定義でもいいような気がする。
 クラウゼヴィッツは敵戦力撃滅を唱えたが、戦争が立体化した現代では戦力が残っていても、政略的に「詰む」場合があり、これを「対抗不能性」という概念で考察している。
 特に独裁政権対民主政権との戦いにおいて、ここで述べられている「対権力直接アプローチ」は非常にわかりやすい。

日本でよく使われていた「兵は拙速を貴ぶ」のフレーズについて    『日本の海軍兵備再考』P30
「Initiative(イニシアティブ)」と「独断専行」、「先制」について      『日本の海軍兵備再考』P40
日本型組織の盲点について    『戦記が語る日本陸軍』p192とp207
「フェーデ」なき文化          『武侠都市宣言!』  四谷ラウンド




『航空作戦』(The Air Campaign)1997? ジョン・A・ワーデン 元米国空軍大佐 元米国空軍指揮幕僚大学校長 
 航空戦力は戦争において戦争で勝利をおさめるための支援的な存在ではなく、今日では相手の国家機構を麻痺させることを可能としている。
 また、第2章では攻勢に出るべきか、防勢すべきかの葛藤に対する考察がおこなわれている。軍事知識がない政治指導者にとっては攻勢はリスクを感じさせ躊躇させるものだが、防勢・攻勢どちらかに考えをとらわれることなく、それぞれの航空作戦独特の特徴を理解しつつ、国家戦略に適した選択すべきことを述べている。
 航空優勢、攻勢か防勢、攻勢作戦、防勢作戦、制約された選択枝、航空阻止、近接航空支援、予備部隊の運用、戦争の構成、航空作戦の計画の全10章で構成されている。
 航空作戦の特徴からかこの論文では
      我         敵
 ケース1 敵国を攻撃できる  我が国を攻撃できる
 ケース2 敵国を攻撃できる  我が国を攻撃できない
 ケース3 敵国を攻撃できない 我が国を攻撃できる
 ケース4 敵国を攻撃できない 我が国を攻撃できない
 ケース5 敵国に到達できない 我が国に到達できない
と5つのケースに分類して話しを進めている。


















『漢書芸文志』カンジョゲイモンシ 現存する世界最古の図書目録。後漢時代の学者、班固(紀元32〜92)によって作成。約600の目録の中で、「兵書」は53種がしるされているが、今日にほとんど伝わっていない。
(それより200年以上前の韓信や張良が整理した時代には、兵書だけで182種あったとされている)


『作戦要務令』「為サザルト遅疑スルトハ指揮官ノ最モ戒ムペキトコロトス」に司馬法とつながるところがある


『軍隊の歴史』ジョルジュ・カステラン S30訳 仏国政治家ギベール「概存の偏見を振り捨て、敵を包囲し、敵を驚かし、敵に息をつく暇をどこにおいても与えず、敵に戦闘するか、または退却せねばならないようにしいるがごとき将軍・・・・」




『軍事組織と社会』   S・アンジェイエフスキー 坂井達朗訳 新曜社 2004年
 S・アンジェイエフスキーは比較社会学者。社会学での古典的名著。

『国富論』 アダム・スミス著
 経済学の古典的名著。この書における軍事的に注目される点としては、第5編1章1節の「防衛費」の分析。

『人はなぜ戦うのか――考古学からみた戦争』 松木武彦著 講談社 2001年
 考古学を専門にする研究者によって考察。





『戦略的コミュニケーションの演習』 杉野定嘉著
 旧日本陸軍参謀本部編「対敵宣伝法の原理」の要約あり




『補給戦』  マーチン・ファンクレフェルト著 

『太平記』            不明
『闘戦経』            大江家伝
『武田信繁家訓』         武田信繁家訓
『孫子諺解』           林羅山
『秘伝抄』            由井正雪?
『兵法三十五箇条』        宮本武蔵
『甲陽軍艦末書』         小幡景憲(編)
『景憲家伝』           小幡景憲
『武備陣法国字解』        小幡景憲(訳)
『士鑑用法』           北条氏長
『孫子外伝』           北条氏長
『慶元記』            北条氏長
『兵法奥義』           山鹿素行
『兵法神武雄備集』        山鹿素行
『兵法要鏡録』          山鹿素行
『武経三等録』          山鹿素行
『七書講義』           山鹿素行
『武教本論』           山鹿素行
『武教全書』           山鹿素行
『武教要録』           山鹿素行
『武教小学』           山鹿素行
『兵法或問』           山鹿素行
『中朝事実』           山鹿素行
『配所残筆』           山鹿素行
『山鹿素行先生日記』       山鹿素行
『孫子句読』           山鹿素行
『孫子諺義』           山鹿素行
『手鏡要録』           山鹿素行
『信玄全集末書』         山鹿素行(編)
『武田兵術文稿』         香西成資
『武田兵法全書』         香西成資
『兵要録』            長沼澹斎
『澹斎先生行状記』        不明
『ツ録』             荻生徂徠
『孫子国字解』          荻生徂徠
『孫子始末論』          小峰弘致
『孫武兵法択』          新井白石
『孫武兵法択副言』        新井白石
『本朝軍器考』          新井白石
『孫子副詮』           佐藤一斎
『学論』             松宮観山
『国学正義』           松宮観山
『武学為入門説』         松宮観山
『天智円巻詳解』         松宮観山
『士鑑用法直旨鈔』        松宮観山
『武学口授』           徳田*興
『合伝流伝来口授』        徳田*興
『合伝流闘微録』         徳田*興
『孫子事活鈔』          徳田*興
『兵法家伝書』          柳生宗矩 
『甲陽軍艦』           小幡景憲(編)
甲州流の兵法書ともされているが、実際のところはよくわかっていない。
『兵学小識』           鈴木春山(訳)
『迅発撃銃図説』
『象山浄稿』           佐久間象山
『省*録』            佐久間象山
『書簡各種』           佐久間象山
『象山先生小伝』         飯島忠夫
『訂正及門録』          信濃教育会(編)
『孫子評注』           吉田松陰
『武教全書講録』         吉田松陰
『幽囚録』            吉田松陰
『将及私言』           吉田松陰
『水陸戦略』           吉田松陰
『西洋歩兵論』          吉田松陰
『海戦策』            吉田松陰
『戦法論疑』           吉田松陰
『異賊防禦策』          吉田松陰
『急務策一則』          吉田松陰
『操習茎蹄総論』         吉田松陰
『茎蹄稿本』           吉田松陰
『文武稽古意見書』        吉田松陰
『明倫館再興意見書』       吉田松陰
『海國兵談』           林子平
『孫子詳解』           伊籐鳳山
『古文孫子正文』         桜田廸(校)
『古文孫子略解』         桜田廸(述)
『孫子纂註』           恩田仰岳
『鉄舟随筆』           山岡鉄舟

『英雄伝』
『ガリア戦記』
『戦争を考える』レイモン・アロン
『東鑑』
『仁侠史伝』平井吉夫H11
『春秋左氏伝』左丘明
『孟子』孟子
『史記列伝』司馬遷
『隋書経籍志』魏徴
『明史日本伝』張廷玉
『武備志』茅元儀
『孫子批釈』王世貞
『孫子十家註』孫星衍
『趙註孫子十三篇』趙本学
『武経総要』曽公亮
『武経開宗』黄献臣
『七録』阮孝緒
『孫子直解』劉寅
『孫子集註』黄邦彦
『孫子著作時代考』斉思和
『今釈新編孫子兵法』郭化若
『メッケル将軍の思出』      大井成元(述)
『孫子新釈』           藤塚鄰・森西洲
『孫子十三篇の作者』       竹内義雄
『作戦要務令』
『赤軍とその戦略』        ア・ゲロイ 著  飯村穰 訳
『日本古戦法』          参謀本部編
『日本武学史』          佐藤堅司
『世界兵學史話』         佐藤堅司
『ナポレオンの政戦兩略』     佐藤堅司 S19
『鈴木春山兵学全集』       佐藤堅司(編)S12
『孫子の体系的研究』
『古今戦法』伊藤芳松 M34
『クロパトキン回想録』参謀本部編 M43
『長期戦研究』総力戦研究所編
『パルチザンの理論』カール・シュミット 1963 S47新田訳
『戦争類型史論』酒井鎬次 S18
『クラウゼヴィッツ戦争要論』マレー少佐 S12 戦の字が表示できず
『全體主義戦争論』フラー将軍 1936
『戦争革命の理論』古賀* 1952
『戦争哲学』ヴァルター・マルムステン・シェリング S17
『職業軍の創設を!』ド・ゴール H9小野茂氏訳
『クラウゼヴィッツの戦争論』T・D・ピルチャー S13
『戦争史論』岩畔豪雄 
『軍人と国家』サミュエル・P・ハンチトン 1979
『核兵器と外交政策』H・A・キッシンジャー 1958
『統帥綱領・統帥参考』
『兵器の歴史』シャルル・アイユレ 1954訳
『大陸国家と海洋国家の戦略』佐藤徳太郎 1973
『核兵器白書』ウ・タント国連事務総長報告 1978訳
『戦争と平和』アルビン・トフラー ハイジ・トフラー 1993
『21世紀の戦争』ジャイムズ・アダムズ
『戦争論−戦争の原則とその指導』S13
『戦争と平和――カント、クラウゼヴィッツと現代』シセラ・ボク H2訳
『戦術書』ポリュアイノス H11訳
『春秋穀梁伝』  「上手にやぶれるものは、亡びることはない」
『春秋』
『太田道灌兵法秘書』天和2 江島長左衛門為信
『国語』
『佐(氏)伝』
『尚書』 『書経』ともよばれる 中国古代の歴史書
『史記』
『国際政治哲学』モーゲンソー 1948
『アナバシス』クセノフォン従軍戦記
『太白陰経』李茎
『論語』孔子
『孔子家語』孔子
『易経』孔子
『イーリアス』ホメロス
『世界戦略論』ロバート・マクナマラ 1986
『核兵器との共存』ハーバード核研究グループ S59

『クラウゼヴィッツの生涯と思想』  李風石編著 博英社、1986年
『『戦争論』の読み方 クラウゼヴィッツの現代的意義』 郷田豊・李鐘學・杉之尾宜生・川村康之著 芙蓉書房出版 2001年

戦略論大系1〜7   芙蓉書房出版 2001〜2004年
 1 孫子   杉之尾宜生編著  
 2 クラウゼヴィッツ 川村康之編著
 3 モルトケ 片岡徹也編著
 4 リデルハート 石津朋之編著
 5 マハン 山内敏秀編著
 6 ドゥーエ 瀬井勝公編著
 7 毛沢東 村井友秀編著

『軍事力とは何か――日本の防衛を考えるために』    江畑 謙介著
『これからの戦争・兵器・軍隊―RMAと非対称型の戦い』 上下巻   江畑 謙介著
『情報と国家――収集・分析・評価の落とし穴』   江畑 謙介著
『「情報」と国家戦略』   太田 文雄著
『ナポレオン戦争全史』    松村 劭著
『戦術と指揮――命令の与え方・集団の動かし方』   松村 劭著
『オペレーショナル・インテリジェンス―意思決定のための作戦情報理論』   松村 劭著
『次世代の陸上自衛隊―将来戦をかく戦う』   森野軍事研究所編
『戦うコンピュータ 軍事分野で進行中のIT革命とRMA』   井上孝司著   2005年 毎日コニュニケーションズ
『エア・パワー その理論と実践』   石津朋之・立川京一・道下徳成・塚本勝也 編著 2005年 芙蓉書房出版
『航空戦力』 上下巻  郷田充著  1978年
『現代戦略の系譜――マキャヴェリから核時代まで』  ピーター・パレット編 1986年 邦訳1989年
『戦争――その展開と抑制』    加藤朗・長尾雄一郎・吉崎知典・道下徳成著 1997年
『戦争の本質と軍事力の諸相』   石津朋之著
『シーレンの秘密――米ソ戦略の狭間で』  大賀良平著 1983年 潮文社 
『日本陸軍用兵思想史』   前原透著  1994年
『新戦略の創始者――マキャベリからヒトラーまで』 エドワード・ミード・アール編著 山田積昭 他訳 原書房 1978年
『戦略の歴史――抹殺・征服技術の変遷――石器時代かサダム・フセインまで』 ジョン・キーガン著 遠藤利国訳 心交社 1997年
『戦史に学ぶ勝利の追及――ナポレオンからサダム・フセインまで』 ブライアン・ボンド著 川村康之監訳 東洋書林 2000年
『日米戦略思想史――日米関係の新しい視点』 石津朋之、ウィリアムソン・マレー編 彩流社 2005年
『名著に学ぶ国際関係論』 花井等編 有斐閣 2001年
『イスラム社会はなぜ没落したか?――西洋近代と中東』バーナード・ルイス著 臼杵陽監訳 日本評論社 2003年
『イギリスの情報外交――インテリジェンスとは何か』 小谷賢著 PHP新書 2004年
『戦国水軍の興亡――海の武士たちの戦国史』 宇田川武久著 平凡新書 2002年
『一国平和主義の錯覚』   樋口恒晴著 PHP研究所  1993年
『速度と政治――地政学から時政学へ』 ポール・ヴィリリオ著 市田良彦訳 平凡社 2001年
『戦争と文明』 アーノルド・トインビー著 社会思想社 1968年
『陸と海と――世界史的考察』 カール・シュミット著 福村出版 1971年
『大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇』 堀 栄三 著 文芸春秋  1989年
『海上護衛戦』 大井篤著 学研M文庫  2001年
『戦争と政治とリーダーシップ』エリオット・A・コーエン著 中谷和男訳 アスペクト 2003年
『クーデターの技術』 クルツィオ・マラパルテ著 矢野秀訳 イザラ書房 1971年
『軍隊と革命の技術』 キャサリン・コーリー著 神川信彦・池田清訳  岩波書店 1961年
『戦綱典令原則対照  孫子論講』 尾川敬二著 菊地屋書店 1934年
『日本陸軍の「戦訓」の研究――大東亜戦争期「戦訓報」の分析』 白井明雄著 芙蓉書房出版 2003年
『日本を滅ぼした国防方針』 黒野耐著 文芸春秋 2002年
『日本兵捕虜は何をしゃべったか』 山本武利著 文芸春秋 2001年
『日本共産党』 筆坂 秀世 著  新潮社 2006年
『日本共産党の研究』 全3巻 立花隆 著 講談社
『中核VS革マル』 上下巻 立花隆 著 講談社
『外交敗北――日朝首脳会談の真実』 重村 智計著 講談社  2006年
『自壊する帝国』 佐藤優著 新潮社 2006年
『ニッポンFSXを撃て  たそがれゆく日米同盟』 手嶋龍一著 新潮社  1991年
『一九九一年日本の敗北 ( 文庫題名「外交敗戦―130億ドルは砂に消えた 」)』 手嶋龍一著 新潮社  1993年
『日本古代兵制史の研究』 直木孝次郎著 吉川弘文館 1968年





2006/08/18更新


軍事百科事典トップページ   戻る


直線上に配置