2010.5.11
(前回のあらすじ)
80年代、ジャーナリスト・上杉隆は東京は新宿に暮らすゴルフに夢中な中学生だった。彼と5人の仲間たちは、新宿区戸山公園をゴルフコースに見立てた「箱根山CC」で、有賀園ゴルフのパター練習場を勝手に名づけた「新宿パターGC」で、毎日のように「ゴルフ」を楽しんでいた――。
石川遼が夢のスコアを出した翌日、
コンペで奇跡が起きた……
石川遼がまたもや「夢」をかなえてくれた。
中日クラウンズの最終日、あの名古屋GC和合コースで、12バーディ、ノーボギーの58という驚愕のスコアで回り、奇跡の逆転優勝を果たしたのだ。
パー70、6500ヤード強という条件ではあっても、それが夢のスコアであったに違いない。たとえば全ホールすべてバーディという奇跡のラウンドを果たしても54である。
50台を出すことがどれほど難しいことであるかは、過去、日本ツアーではそれを倉本昌弘以外に成し遂げていない記録であることからもわかる。
夢の50台といえば、80年代当時、私たち少年ゴルファーの思い浮かべる選手はただひとり、アル・ガイバーガーだけであった。
米テネシー州コロニアル・カントリークラブで開催された「ダニー・トーマス・メンフィス・クラシック」で、ガイバーガーが13アンダーの59を叩き出したのが1977年のこと。それ以降、1991年にチップ・ベックが同じ59を出すまで、米ツアーでも50台のスコアを出した選手は誰一人いなかった。
石川が、夢のスコアで優勝を果たした翌日、私は、小さな夢であった自身のコンペ(第一回東京脱力新聞杯)を初めて主催した。
場所は、大学時代の私の「ホームコース」であった富士屋ホテル仙石ゴルフコースである。ホームコースといっても会員権など買えるはずもない(そもそもパブリックだが…)。富士屋ホテルで働いていた頃、優先的にラウンドさせてもらっただけの話だ。
さて、そのコンペに参加した友人の中には元少年ゴルファーの「ヨデブ」と「鈴っちゃん」も混ざっていた。二人はさっそく石川の58を話題にしている。
「『みんゴル』でも12アンダーは難しいよなぁ」
と「ヨデブ」が振れば、「鈴っちゃん」は、
「いや、昔のファミコンのゴルフゲームでも難しいよ」
と応じている。そして、
「下手すれば、あの頃のハーフのスコアだよ」
と語り、三人で頷き、笑い合った。
その決定的な発言から数時間後、驚くべきことに「夢の58」は、当の「鈴っちゃん」のスコアカードにも降臨した。
80年代当時の筆者。「新宿パターGC」と勝手に名づけた有賀園ゴルフのパター練習場にて。
足元にあるのが、“勝者の証”赤い缶コーラだ。
誰が、二日連続の「奇跡」を信じられよう。しかもコンペ参加者は32人。その中で「夢の58」を叩き出したのはもちろん「鈴っちゃん」ただひとりである。だが、彼の顔には少しの笑顔も認められない。代わりに少年時代と変わらぬ憂いの表情がその顔を支配している。
「58も叩くなんて…」
6人の中学生がゴルフを始めてからすでに四半世紀が経つ。その間、「鈴っちゃん」が、勝利の美酒ならぬ「勝利のコーラ」に酔ったことは一度もなかった。当時、最少ラウンドで回った者には、仲間内から冷たいコーラや熱い缶コーヒーが振舞われた。それこそが勝者の証でもあった。
上杉隆
(うえすぎ・たかし)
1968年福岡県生まれ。
ゴルフは中学時代から始め、関東ジュニア出場の経験を持つ。大学卒業後、箱根富士屋ホテルのホテルマンを経て、ニューヨークタイムズ誌の契約記者となる。その後独立、現在は政治を中心に剛毅果断なジャーナリストとして活躍。著書に「ジャーナリズムの崩壊」「小泉の勝利 メディアの敗北」「民主党政権は日本をどう変えるのか」など多数。ゴルフは「趣味以上の存在」と語る。