小学生時代の私はお世辞にもお勉強ができるタイプではなく、学年でも最下位層を争う成績でした。中学受験を考えたものの偏差値が40以下で、当時はその成績での中学受験は全く意味のないものでしたので辞めました。
中学2年になり、高校受験用の当時有名な進学塾に通い、そこで非常に良い講師に出会い、そして自ら有用な塾の利用の仕方や勉強法に気づき、わずか2年の通塾で俗に言われる難関校・一流校と言われる学校に合格しました。 わずか2年で偏差値40が70近くになったのです。(代表・高橋談)


代表取締役兼CEO/教育・進学コンサルタント 高橋 嘉之のプロフィール


生年月日 1966年1月15日生まれ。埼玉県さいたま市出身。
父が転勤族だったため、小学校就学までに北九州・千葉・埼玉・東京と引越し。
小学1年時、3校の転校を経験した。(思えば、進度がまちまちだったために、この頃から勉強は??状態)

小学校2年〜小学校4年
早生まれで精神的にも体格的にも幼いタイプで、学力的も全く目立たず地味な幼少期を過ごすが、一丁前に初恋はする。彼女は学年でも3本の指に入るくらいの優等生。この女性が将来、私の妻になると一体誰が想像したことでしょう(笑)。
旧友に数十年ぶりに会うと必ず、「なんで高橋があの○○さん(妻の旧姓)と結婚したのか?」と必ず言われます。

小学校5年
学校の成績は学年レベルでも下から5本に入るくらいの超劣等生。とにかく机に向かうのが嫌いなタイプで、授業もチンプンカンプン。近くの補習・進学塾に通うが、勉強というより、塾に遊びに行く感じだった。

小学校6年
今ほどではないにしろ、やはり中学受験の話が周りからちらほら聞こえてくる。悪友Aは小学校4年までは私と似たような成績だったが、いつからか受験体制に入っていたようで、そのAから何気なく受験を勧められる。(私や親は中学受験の知識は全くなし)
受験勉強もしたことがないのに、「最低でも海城や城北にいく」と親に言ったらしい。塾に相談に行くが、鼻であしらわれる(笑)。

塾先生:「お子さんは偏差値40にも達していませんので、今から準備しても受けられるのは○○館(今も存在し、学校改革途中の学校の為、校名は隠します)くらいでしょうか?」
夏の暑さ厳しい時期に、受験の素人がのこのこと・・・。今思えば、塾側も何で?って感じだったでしょう。親も知らないような学校、しかもようやく塾側の口から出てきた学校で、今でも親には恥をかかせてしまったなーと懺悔です(笑)。
これ以降、我が家では私に関する中学受験の話は一切ありませんでしたが、『中学受験』という言葉を知ってしまった親が、弟の時は意識するのはしごく当たり前のことでした。(とりあえず、弟は、当時有名だった四谷大塚の準会員にはなれたようでしたが・・・)
尚、悪友AはW中に合格し、周りはみんながびっくりしていました。その他、開成・麻布・慶應中等部・ラサールに進学した同級生がいました。

中学校1年
地元は教育熱の高い比較的安定した地域でしたので、公立中学でもそんなに雰囲気は悪くなかった。ただし、家は小学5年の弟という中学受験生を抱え、受験というものがようやく自分にも感覚的にわかってきた。勉強のできなかった小学生の私でも東大や早稲田・慶應くらいの名前は知っていたが、当時の私の理解では、「早稲田や慶應がいい大学ということは、学校で言ったら真ん中以上にいればいけるレベル?」という程度の認識。それが・・・・。
中学生になって、現実が少しづつわかってきた。
「このままではとんでもない状況になってしまうのではないか?」
「弟の中学受験が成功したら、兄としての面子は・・・?」

こんな何とも言えない不安感から、確か中学1年の夏に、大学に行くための超長期勉強計画表を作ったのを覚えています。(中身はどうだったか忘れましたが・・・)ただし、学校の成績は350人中170番くらいと、ごく平凡でした。

中学校2年・3年
そんな折、中学2年の2月、弟の中学受験も終わりました。受験に関してにわか仕込みの知識しかない家庭でしたので、やはり塾任せになっており、塾でもなかなか成績が上がらず、今のように抑え校受験というのもない時代でしたので、入りたい学校(早稲田・慶應・明治など付属と学芸中)を受けただけでした。結局、弟の中学受験は今でいう『全滅受験』となり、地元の公立中に通うことになりました。

そして、私と弟にとって、人生の転機ともいうべき出会いが起きました。
それは、当時、首都圏では有名だった高校受験塾が地元に教室を開くことになったことです。その新規オープンからそこに通うことになったのです。(私は新中2、弟は中学受験終了後に新中1から)
新規・小規模な教室でしたので、KSK(国立早慶の略)クラス、1コース、2コースの3クラスでしたが、私は偏差値50〜60の1コーススタートでした。厳密には偏差値50を切っていたので2コースでしたがおまけの1コースでクラスでも下の方でした。

その塾で、私はI先生という英語の非常に熱心な良い先生に出会い、初めて、勉強の仕方というものを教えてもらったのです。そして、2年弱の時を経て、私は偏差値40台から68くらいまで上昇し、俗にいう難関校という学校に合格しました。(ちなみに弟も2年後に私と同じ高校に入学してきました。)

生まれてこの時まで、とかく勉強に関しては劣等感の塊で、勉強を面白いと思ったことがなかったのですが、今やるべきことを具体化・可視化して、それが成績という形でダイレクトに返ってくるのがわかると、勉強というものが面白くなっていくものです。そして学力とは勉強の仕方・正しい方向を向いた努力を続けていれば、必ず上がって行くということです。成績が上がらないのは、やり方や向かっている方向が間違っているからです。やるべきことを具体的に絞り込んでいないからです。

この結果、高校入学でもその勢いは止まらず、入試は6番での合格。中間・期末は常にBEST10に入るくらいのがり勉タイプで、ちょっと欲をかいて、当時有名だった駿台予備校に通うため入塾テストを受けました。すると何と「東大選抜コース」なるものに受かってしまったのです。その意味では勉学に対する意欲は非常に湧いていましたが、1年間の駿台通塾を通じて、「自分は何で付属に入ったんだろう?」。自問自答の毎日でした。
付属とはいっても、学内成績順で志望学部が優先的に決まる仕組みでしたが、高2が終わるころには、高3で留年以外のどんな成績であろうと、ほぼ希望する学部に進学できる権利は確保していました。しかし、何か空しい。
そういう状況が結局は大学卒業そして社会人というごく普通の道に誘っていったのでしょう。そんな中、激動の社会情勢・経済情勢がおこり、ここに今の教育に関する起業家としての自分のルーツがあったのかもしれません。

よく、勉強はしているが成績が上がらないという人は、現在の学力ではまだできない問題を延々と考えてしまったり、すでにできるレベルの問題を何度も解いてしまっているケースがいかに多いことか・・・。これは単なる時間の浪費です。この部分をきちっと進捗管理すれば、最難関校の次のレベルくらいまでには誰でもなれるということを、身に持って体験しました。そして、この方法が息子たちの中学受験や、カウンセリングで対応した方全員にピタリと当てはまり、偏差値で言うところの40台であれば、ある期間(できれば2年)あれば、確実に60〜65以上にできる方法として理論的に体系化できた(特許出願中)と思っています。

私が皆様に提供するのは、まさにこのノウハウとその確実な実行を推進するためのコンサルティングサービスであり、このメソッドやノウハウは知ることより実行することに難しさがあります。


代表取締役兼CEO/教育・進学コンサルタント 高橋 嘉之の学歴・職歴


1981年4月 明治大学付属明治高等学校入学
1984年3月 同高等学校卒業
1984年4月 明治大学商学部商学科入学(徳永豊ゼミナールでマーケティングを専攻)
1988年3月 同大学卒業
1988年4月 山一證券株式会社に入社
ホールセール(法人営業)・リテール(個人営業)において、資本市場を通じたファイナンスコンサルティングや某ストレージメーカーや某ゲームソフト会社など数社の株式公開(IPO)にも従事。日本証券アナリスト協会の検定会員資格(証券アナリスト)を取得しディーリング業務に従事するも、1997年11月に自主廃業が発表され、1998年2月に同社を退職(在職期間約10年)。最終職責は課長代理。
   
1998年3月 株式会社日立製作所に入社
情報システムのダウンサイジングの中、情報システムという社会インフラの拡大によ
る社会貢献を考え、同社の中央官庁をターゲットとした公共システム営業統括本部に
配属。霞が関の国家レベル的な情報システム関連の仕事に従事。また、新規事業開発としてスウェーデンのanotoAB社の技術を利用したデジタルペンソリューション事業の立ち上げに従事。海外とのアライアンス業務を遂行した。職責は部長代理。2008年3月にステップアップのため同社を退職(在職期間約10年)。
   
2008年4月〜2010年12月 情報システムのサービス化の流れの中、自らのスキルアップを考え転職。
株式会社CSK(現在のSCSK)の金融業務ソリューショングループや株式会社インターネット・イニシアティブのクラウド推進事業などの部長職歴任。2010年12月に今後の有意義な人生の在り方・次世代に通じる何らかの社会貢献をじっくり考えるために、思い切って、企業組織から離れることを決断し、退職。
   
2011年 数回の北欧へ旅行を通じて、心身ともにリフレッシュを図ると共に、日本にいてはじっくり考えられないことを、海外という場所に身を置くことによって考えた。上場企業の管理職を通じて、日本の経済現状や国際競争力を目の当たりにし、そこには常に、グローバル化に適応できる人間力の育成が重要であると感じていた。そして、自身の教育や子どもの教育などに携わってきた経験から、我が国の教育事情が実はこの半世紀何も変わっていないことを実感し、また、教育の底上げ効果を官民ともに行っていない事実に気が付き、特に『次世代の日本を担う人間の育成』『我が国における次世代層の教育水準の底上げ』ということを起業のキーワードとして考えるに至る。

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