美少女戦士の根底を猛り狂わせる 衣装・マジカルアイテム・ペットの秘密:『ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室』第2回
posted by ナガタ / Category: 戦闘美少女研究室, 寄稿記事 / Tags: マンガ, アニメ, 古典, 美術, 柴田英里,
「戦闘美少女」というテーマで美術家の柴田さんが、その歴史的側面と物語的な側面、そして視覚要素を分析する連載「ケンタッキー・フランケンシュタイン博士の戦闘美少女研究室」。大好評だった前回に引き続き、今回は美少女戦士たちの衣装・アイテム・ペットといった「付属品」に注目します。名付けて「トランス・コード」。『ダヴィンチ・コード』のもじりですね。
軽妙な語り口で紐解かれる連載「戦闘美少女研究室」、お楽しみください。

※「トランス・コード」という書籍は存在しません。
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※「トランス・コード」という書籍は存在しません。
前回は、女児・少女向け作品としての魔女っ子・魔法少女・戦闘美少女の歴史を振り返ってみたが、今回は少し視点を変えて、メインターゲットが女児・少女である児童向け作品(以下児童向けとする)だけでなく、近年爆発的に増えている大人向け深夜放送の戦闘美少女たち(以下大人向けとする)も含めて、変身ヒロインたちの衣装・マジカルアイテム・お供のペットなどについて考察したい。
魅せる衣装と見られる衣装
魔女っ子・魔法少女・戦闘美少女の活躍する作品は、児童向け商品の販売を目的の一つに製作されていたということは、前回述べたとおりだ。セーラームーン以降も、『おじゃ魔女どれみ』シリーズや、『プリキュア』シリーズを筆頭に、児童向けの変身ヒロイン・戦闘美少女作品は多数ある。
近年ではそれ以上に、主に深夜放送のハイティーン・大人向けアニメ作品に、変身ヒロイン・戦闘美少女が多く登場している。
「児童向け」と「大人向け」の装いの違いは、「児童向け」は装着者本人が「着たい・こうありたい・かわいい」と思う「魅せたい自分を演出する衣装」の要素が強いことに対し、「大人向け」は、装着者本人が着たい衣装と言うよりも、本人以外の(主にヘテロ男性)視聴者に鑑賞されることを前提とした「一方的に見られる衣装」の要素が強い。「児童向け」は羨望、「大人向け」は欲望の視線を受ける衣装と言っても良い。
具体的に言えば、初期の東映魔女っ子シリーズに見られる1970年代の赤・白・青のトリコロールカラーにピンクと黄色を差し色にしたパッキリとした色みのコーディネート。
『クリーミーマミ』に代表とされる、1980年代のネオンカラーやパステルカラーを取り入れたファッションと、アイドルブーム。
『セーラームーン』や『ウエディングピーチ』に顕著に表れる1990年代のボディ・コンシャスなデザインと、ミニスカートにブーツという女子高生ブームとの相似。
そして『プリキュア』の衣装に顕著に表れる過剰なフリルや装飾性と、ゴシック・ロリータファッションや小悪魔ageha風ヘアスタイルの関係性。
児童向け変身ヒロイン・戦闘美少女たちは、基本的にはその時代時代の女児服・女性服のトレンドに影響を受けた衣装を着ている。また、体型も女性ファッション誌のモデルのようにスレンダーで、『フレッシュプリキュア』のキュアパッションや『スイートプリキュア』のキュアミューズのように、敵から味方に立場が変わったとたんに、グラマラスな体型から凹凸のあまりない体型に変わる少女もいる。
一方の大人向け作品に登場する変身ヒロイン・戦闘美少女たちは、古典から最新までファンタジー系作品の女性戦士の定番衣装の一つである「ビキニアーマー」や「ハイレグ・アーマー」をはじめ、女児服・女性服のトレンドに関係無く、タイトでボディラインが強調されるデザインの衣装がほとんどである。
どう見ても下半身はパンツ一丁の『ストライク・ウィッチーズ』や、ハイレグ水着(?)にマントという痴女と疑われても否定出来ない格好の『奥様は魔法少女』のアニエス・ベルを筆頭に、不自然なまでに衣服や下着が身体に食い込んでいたり、やたらと胸や性器付近の布が破れたり、そうした状況がクローズアップされるカメラアングルが多用されることから、女性身体そのものを鑑賞するための衣装だと言える。少女の体型も、超グラマラスであったり、超幼児体型であったりと様々だ。
なお、児童向け、大人向けともに、変身ヒロイン・戦闘美少女が身に纏う衣装は、防御力や機動力が優れているとは到底思えない、決して戦闘に適したものではない。むしろ不適切であると言えるものがほとんどである。
そして、児童向けヒロインは、私利私欲や復讐のために力を使おうとすれば力自体が凍結してしまう。
それだけでなく、『Yes!プリキュア5』において、秩序を重んじる生徒会長の水無月かれんは、義務感からプリキュアに変身しようとして失敗したことがある。変身は、「法と秩序」ではなく「愛と救済」の精神によってもたらされるのだ。
「愛と救済の精神」は、「女の子」というジェンダーから不可避のものとして描かれることも特徴的だ。
前回、『劇場版セーラームーンR』においてちびうさが言った「大丈夫、セーラームーンはみんなのママだから」という台詞が、月野うさぎがセーラームーンになることによって後天的に獲得した母性であると述べたが、変身ヒロインが「魅せたい自分を演出する」とびきりカワイイ衣装に身を包むことによって母性を獲得する事例は他にも沢山ある。
『プリキュア』シリーズでは、「男の子(男の娘も)」はプリキュアになれないことはもちろん、戦闘時に新たな力を手に入れる場合や、物語後半で2段階変身する場合、単純な戦力の強化としてではなく、か弱き妖精や踏みにじられた他者を救済するために与えられた新たな力という描写がされる。また、どれだけ理不尽なワガママや幼児性により厄介事を引き起こす妖精に対しても優しく、守り育てる。
『おじゃ魔女どれみ』シリーズでは、赤ちゃんを健康に育てることが、魔女になるための試験であった。
魔法少女になることそのものが、自分以外の全ての人の命を救うという契約であった『魔法少女まどかマギカ』のまどかの壮大な愛と自己犠牲の精神も忘れてはならない。
これは、変身ヒロインは、装飾的な衣装に変身することによって、超母性・超女性性を獲得すると言えるだろう。
日本の戦国武将の鎧兜やヨーロッパの織物、歴史的に見れば装飾は、女性というジェンダーではなく、権力の象徴として示されてきた。だから、「装飾=パワーアップ・選民意識」という図式ならわかるが、「装飾=超母・女性性」という図式はどこかおかしい。なぜこのようなことになったのか。
後述していくが、答えは『プリキュアシリーズ』において、「装飾=超母・女性性」という図式が、傍らに「女児とその保護者の意向」がぴったりと寄り添うことによって強化されていったことにある。
また、変身ヒロイン・戦闘美少女ともに、主人公の少女の衣装やマジカルアイテムのメインカラーはピンク色であることが多いが、これは1980年の『魔法少女ララベル』以降に顕著になる。
サリーもアッコも、初期は衣装・マジカルアイテムともに、メインカラーは赤と白であったが、1980年代後半・1990年代初頭のリメイク時に、サリー・アッコの衣装・マジカルアイテム(サリーの2代目タクト、アッコのコンパクト)ともにピンク色がメインになった。
ピンク=女性主人公の色という図式は、2013年現在も『プリキュア』シリーズや『アイカツ!』といった児童向けアニメの定番となっているが、大人向けアニメの変身ヒロイン・戦闘美少女では、『魔法少女リリカルなのは』シリーズ、『戦妃絶唱シンフォギア』『ビビッドレッドオペレーション』『インフィニットストラトス』などをはじめ、この法則は特にあてはまらない。
準武器としてのマジカルアイテム
大人向け作品における戦闘美少女は、マジカルアイテムで戦う場合もあるが、どちらかといえば『ストライクウィッチーズ』や『ガンスリンガーガール』のように本物の武器を使用したり、『うぽって』や『武装神姫』のように少女自身が武器やロボットであったり、『インフィニット・ストラトス』や『ストライクウィッチーズ』のように身体を露出させたまま機械を装着したり(半機械化・奇形化)する傾向が強い。その他、剣やナイフやチェーンソー、時には戦車まで使って敵を殺傷する。
玩具タイアップなどは行っていない深夜アニメでは、マジカルアイテムを使用しなくても良いし、マジカルアイテムを使用するにしても、玩具化する必要がないので、より幅広いデザインと効果を持つアイテムを使うことができる。
円盤の売り上げが一番の収入となる深夜アニメでは、より派手な演出ができる武器、絵的に目立つ武器の方が好都合であるからだ。
それに対して、児童向けの戦闘美少女は、玩具メーカーとタイアップしなければならないので、戦闘は必ずマジカルアイテムを使用する。主な購入層が女児であるので、女児の保護者が女児に買い与えやすい(と思われている)形態のものでなくてはならない。
だから、いくら派手な効果が出せても、ロケットランチャーやガンソードがマジカルアイテムとなることはない。無論、トカレフやベレッタ、トンプソンなどの実在の銃やアサルトライフル、釘バットや出刃包丁といった、攻撃の効果が生々しく予測可能なものも使用できない。
そもそも、マジカルアイテムは殆どがステッキやタクトといった、力いっぱい叩き付ければ多少痛い位の準武器や、コンパクトなどのメイク道具のような、投げつけられてもたいして痛くなさそうなものが殆どである。
武器の形態をしたマジカルアイテムで戦う戦闘美少女は極めて少なく、またそのような場合の武器は弓か剣で戦うことが多く、銃で戦う児童向け戦闘美少女はいない。武器に弓が多いのは、日本の神事では弓を使うものが多いことや、弓道着をまとった袴姿が巫女のイメージに類似する為、神秘性を表現しやすいからであろう。
なぜなら、児童向け戦闘美少女のマジカルアイテムは、殺傷能力よりも浄化能力に特化した、武器というよりも神器としての役割を持つからである。
そして、なぜだかわからないが、女児は男児と違い、武器の玩具を持ってはならない、と思われているようだ。 男児向きのアニメ・特撮タイアップ玩具に銃や剣といった武器の形をしたものは昔から多い。水鉄砲やエアガンも、男児・男性の遊び、趣味とされてきた。
徴兵などがあった第二次世界大戦中までならわかるが、終戦後も銃と剣は男性が所有するべきもの、男児は武器をモチーフにした玩具、女児は化粧や宝石をモチーフにした玩具を喜ぶに違いない。ということが信じられてきたことは、保護者や製作者の勝手な思い込みに過ぎないかもしれない。
積み木やボールなどのジェンダーレスの玩具の次に与えられる、対象年齢3歳からの玩具に、非常に保守的なジェンダー観に基づいて作られたものが多いことに、玩具を与える側はもっと自覚的になり、深く考えるべきである。
そしてこれは、大人向け戦闘美少女たちが、武器を持ち、武器となり戦う目的に、男性の恋人・上官を守ることが含まれたり、女性しか武力を持てない、女性しか存在しない世界という要素が加わることと、戦闘美少女の存在が、男性の恋人・上官や視聴者の所有物に近づくこととは無関係ではないことも表す。
『そらのおとしもの』や『ガンスリンガーガール』の戦闘美少女が、そもそも男性に所有されることを目的に作られた存在であることが顕著である。
とりわけ後者は障害を持った少女が自我も記憶も排除され、生きることも死ぬことも選択できない状況で、年上の男性を守ることにのみ幸福を感じるように改造されている。という設定だ。
そして物語はそんな状況の上でもロマンチックラブを見いだそうとする歪んだヘテロセクシャリティへの批評を含んでいるように見せかけて、「女が子供を生むのはすなわち希望、それで万事はOKだよ」というどうしようもなく独りよがりで身勝手(上記の生死の自己選択すら許されない少女の1人、トリエラの卵子を密かに持ち出し、生まれた子供に「スペランツァ=希望」と名付けることに関して)な幸福論によって大団円を迎えるという、文化庁メディア芸術祭でもお墨付きの一大妊娠物語なのである。
また、少女の変身は化粧と関連づけられることが多いが、少女の変身アイテムと実際の化粧品のデザインの傾向は基本的に大きく異なり、対照的ですらあった。
ピンクとホワイト、柔らかいパステルカラーを基調とした少女の変身アイテムとは異なり、百貨店に並ぶ化粧品は、『No.5
ベーシックとゴージャス、無機質と冒涜性、これらの単語の核には「洗練」がある。
近年では『スマイルパクトシャイニーフェイスパウダー』といった女児・少女文化の逆輸入という形で見られたり、比較的新しく化粧品部門に参入した、ジル・スチュアートやポール・ジョー、アナ・スイやラデュレなどのガーリー・デコラティブ系統のブランドのデザインにより、「化粧により少女性・未成熟性を全肯定する」というイメージが新たに書き加えられたが、ベーシック・ゴージャス、ガーリー・デコラティブ、どの系統の化粧品ブランドも、「化粧(装飾)=超母・女性性」というイメージは打ち出していない。
むしろ、容器デザインが少女の変身アイテムと一番似ているガーリー・デコラティブ系統のブランドが打ち出す「化粧により少女性・未成熟性を全肯定する」というイメージは、少女の変身と真逆のイデオロギーを持つと言っても良い。
勝利条件と行動理念
児童向けのマジカルアイテムは浄化能力に特化しており、武器というよりも神器としての役割を持つ。これは先にも述べたが、児童向け作品と大人向け作品の戦闘美少女たちの、戦闘の勝利条件と行動理念の違いの問題でもある。
児童向けの戦闘美少女の勝利条件は過酷だ。とことん犠牲を出さず、敵を殲滅ではなく浄化する。これだけでも十分に無謀なのに、無償の愛と思いやり精神を行動理念している為か、危険手当などの報酬も死亡保険もない。士気が高まるのさえ難しそうだ。
その上『プリキュア』シリーズが顕著であるが、児童向け戦闘美少女は、士気が高まったとしても、目的が「敵の殲滅」や「武力の渇望」であった場合には、戦闘が出来ない。
つまり、彼女たちは、愛情とケアの精神以外では戦えないというまことに扱い辛い能力の持ち主であることが多いのだ。
軍隊や組織に属し、男性に所有される破壊兵器そのものとして描かれることも少なくない大人向けの戦闘美少女の中にも、愛情とケアの精神で戦う者たちはいる。
『輪廻のラグランジェ』が記憶に新しいが、この作品は内容よりも「失敗アニメ」として話題になることが多かったことが特徴である。
地域ステマがわざとらしすぎるだけならまだしも、地域ステマの影響で戦闘により街が破壊されたり死者が出る演出ができなかったことと、ロボットを日産がデザインしてしまった為に、派手な破壊行為や、エヴァンゲリオンのように暴走させることも出来なくなってしまったこと。
この2つがロボットアニメの爽快感を大いに減らしてしまった最大の要因であると思うのだが、街を破壊させない。ロボットを暴走させない。そのための物語上の第一の要因である、主人公少女たちの愛情とケアの精神「ジャージ部魂」が、はっきり言ってウザかったことが、上記の理由を何倍にも増幅させている。
なぜ、プリキュアでは毎年細部は違えど継承、賛美されている「愛情とケアの精神」が、ラグランジェではウザいものとして機能してしまったのだろうか。
それは、千葉県鴨川市自治体と日産の方針との対比で、「愛情とケアの精神」というものが、人間が有限の生き物であるという大前提をあまりにも蔑ろにしてきたことを、図らずも露呈させてしまったのだ。
当たり前だが、人間の体力や精神力や時間は有限で、消耗するものである。無限の愛情や、無償のケア精神では、自己保存すら出来なくなる生き物なのである。
『輪廻のラグランジェ』という作品は、児童向け変身ヒロイン・戦闘美少女アニメで繰り返し賛美されてきた、少女の無償の愛情と自己犠牲の精神に図らずも「実際ムリだしウザくない?」という理性的な批評を入れ込むことになった。
この点だけは『輪廻のラグランジェ』は傑作であると言いたい。
ペット
深夜の大人向け変身ヒロイン・戦闘美少女と違い、児童向け変身ヒロイン・戦闘美少女たちは、初期のサリーや寮生活のキューティーハニーを除いて、ほぼ例外無くペットを飼い、その動物をお供にしている。『花の子ルンルン』など1970年代の作品では猫や犬といった実在の動物を飼っていたが、1980年代に入って、関連商品である菓子や玩具の種類が充実してくると、実在の動物ではなく妖精をペットにするようになる。また、例え実在の動物であっても、著しく形態を変えて描かれるようになった。
理由は簡単だ。主人公の少女と仲良く暮らす愛らしい「アメリカン・ショートヘア」や「ポメラニアン」が人気を博し、ペットショップでそれらの動物が沢山売れても、玩具会社は一銭の徳にもならないからである。
だからこそ、主人公少女は、どこのペットショップにも売っていない、かわいらしい「妖精さん」をペットにする必要があるのである。
この「妖精さん」たちが人型ではなく小動物の形をすることにも意味がある。
積み木やボールといったジェンダーレスの玩具の次に与えられる玩具に、非常に保守的なジェンダー観に基づいて作られたものが多いことは先ほども述べたが、こうした児童を対象とした玩具の代表に人形とぬいぐるみがある。
着せ替え用の服にも生産コストがかかる人形に比べて、ぬいぐるみはそれひとつで商品となるので在庫管理もしやすい。
また、シルバニアファミリーなどの動物のぬいぐるみを収集する児童は、バービーやリカちゃん人形を収集する児童よりもメイク道具や宝石モチーフの玩具に興味を持たない傾向があることなどから、こうした児童をターゲットとする意図もあるだろう。
そして、ペットを育てることにより、保護者層に非常に受ける主人公少女の「母性」や「自己犠牲」の描写を自然に増やすことができる。
ペットが余りにも定番・マンネリになれば、主人公少女に未来の子供や謎の赤ん坊を育てさせる(所詮ファッション育児なのであるが)という、母性愛カンフル措置を施すこともある。
なお、この場合はその子供のケアアイテムや、赤ん坊のぬいぐるみが商品となるためか、主人公少女は学業をおろそかにしても、育児と戦闘行為は両立させ、育児ノイローゼや子育て鬱になることはない(無論、ファッション育児であることも大きいが)。
こうした、一連の児童向け変身ヒロインのペット界のセオリーを大きく裏切り、同時に変身ヒロインのボーイフレンド界のセオリーも大幅に裏切ったキャラクターに、『Yes!プリキュア5』『Yes!プリキュア5GoGo!』のココとナッツがいる。
ココとナッツは、本来はフェネックとリスのような形をした妖精であるが、普段は茶髪と金髪の20台前半のイケメン男性の姿をして、国語教師とアクセサリーショップの店員という職も持ち、主人公少女たちをはじめ、女性にモテるという、変身ヒロインのボーイフレンド役である。
しかし、頭を打ったり、強い衝撃を受けた程度で妖精の姿に戻り、肝心な戦闘シーンでは、役に立たないどころかいない方がマシレベルで戦闘の足をひっぱることもしばしばという、変身ヒロインのボーイフレンド史始まって以来の、いざとなったとき助けてくれないどころか泣いて震えるダメンズ。という性質を持つキャラクターであった。
そんな彼らだが、普段のイケメンさと、ピンチの時のヘタレ小動物っぷりが、「ギャップ萌え」と捉えられたのか、児童たちだけでなく、腐女子にまで絶大な人気を誇った。
主人公の戦闘美少女である夢原のぞみとココは、劇場版でキスまでしている恋仲であった。しかし、人間と小動物(妖精)という異種間であることや、中学の国語教師とその生徒であるという、セクハラ監査委員会が黙っていないシュチュエーションであった為か、以降のプリキュアシリーズでは、小動物のような姿をした妖精がイケメンに変身することはなくなった。
そればかりか、プリキュアシリーズ自体、次作『フレッシュプリキュア』以降は恋愛感情自体が描かれなくなっていく。
一方で、敵を倒すのではなく癒し浄化する、前述の「愛情とケアの精神」は、この作品からより明確な行動理念となっていく。
なお、この作品でもう一つ特筆すべきことは、2話で放映された、主人公少女たちのうち1人のシャワーシーンや、「告る」「カレシ」等の発言、変身後のヘソだしファッションに対して、メイン視聴者である児童の保護者たちから多くの苦情が届いたことだ。
これは、親による娘の娯楽への検閲は、息子の娯楽に対するものより厳しいことを表す良い例であると思う(のべつまくなしに風呂に入り覗かれているドラえもんのしずかちゃんや、特撮ヒーローものの悪の幹部として露出度の高いファッションで登場するグラビアアイドルには、ここまでの苦情が寄せられることはなかったであろう)。
長らく恋愛ヒロインがスタンダートであった児童向け変身ヒロイン・戦闘美少女の物語で、近年の『プリキュアシリーズ』における恋愛感情の排除傾向と、最新作『ドキドキプリキュア』における処女懐妊に近い描写がとりわけわかりやすく示す、無償のケアの精神の母性特化に、今後も注目していきたい。
そして、ここまで読んでいただければ、なぜ深夜の大人向け変身ヒロイン・戦闘美少女が、ペットを育てる必要がないかも簡単にわかってくる。
第一に、彼女たちは強い戦闘能力を持ちながら、一方で男性キャラクターや画面に映らない視聴者に精神的に依存するペットの要素を持つからであり、第二に、大人向けアニメの視聴者は、「お母さんの判断」によってグッズ購入することがないからである。
ボーイフレンド
さて、衣装・マジックアイテム・お供のペットの有無や傾向・行動理念と勝利条件など、大人向け、児童向けの変身ヒロイン・戦闘美少女には数多くの明確な違いがあることは述べてきたとおりだ。だが、どちらにおいても、ヒロインの少女がヘテロセクシャルの恋愛ヒロインである場合は、一途であり、どれだけ容姿端麗であっても、「逆ハーレムを作る!」とか「イケメン最高、略奪二股おかまいなしだ!」「モテてモテてモテまくってやる!」などとは思わない。絶対に思わないのだ。
変身ヒロイン、戦闘美少女に唯一ゆるされる恋愛の心変わりは、『プリンセスチュチュ』や『新白雪姫伝説プリーディア』などがわかりやすく示す、「華やかな見た目のヤサ男Aより、無愛想だけどいざというとき頼りになる質実剛健なBの方が好き!」という選択のみである。
「Aは観賞用、Bは実務用にキープ」などという発想は、ヒロインとして言語道断なのである。
つまり、手っ取り早い言い方をすると、大人向け、児童向け問わず、恋愛変身ヒロイン・戦闘美少女業界ではビッチはアウト、というわけだ。
ヒロインが優柔普段であって良いのは「モンブランとチョコレートケーキ、どっちを食べようか」くらいのことまでなのである。
しかし、ヒロインが一途だからといって、彼女が思いを寄せる相手まで一途であるとは限らない。
実は、児童向けの変身ヒロイン・戦闘美少女のボーイフレンドにはヤリチン厳禁、優柔不断な態度も禁止、ヒロインのことを一途に思い続けなければならない。というルールがあるのだが、大人向けの変身ヒロイン・戦闘美少女のボーイフレンドには、こうしたルールは適用されないことが多い。
『インフィニット・ストラトス』のようにヒロイン全員はもちろん、副担任の女教師のフラグまで立たせる抜け目無さも、「鈍感力」によりどうとでもなる。
『ゼロの使い魔』のように最終的に1人のヒロインに決めるにしても、「バレなきゃOK」「向こうが勝手にやったことだから関係無い」「ラッキースケベは不問」などという裏ルールがあったりする。
これは、「男と女の二元論」などの問題ではない。単にクリシェ化した物語、良妻賢母市場主義の脳みそを解きほぐす必要があるだけだ。
美少女戦士・コード
さて、以上のことは、変身ヒロイン・戦闘美少女に隠されたコードの一部である。「魅せる衣装と見られる衣装」「準武器としてのマジカルアイテムの在り方」「戦闘美少女の勝利条件と行動理念」「ペットを飼うことと、ペットになること」「恋愛に関する姿勢とボーイフレンドの条件」。
次回は、これらを踏まえて明治以降の日本の文化・教育と戦闘美少女のイデオロギーを論じて行こうと思う。 (つづく)
参考文献
『聖母像の到来『魔女っ子大全集〈東映動画篇〉
『魔女っ子マテリアル (マテリアルシリーズ)
『魔女っ子デイズ (Sweet Design Memories)
『魔法少女アニメ45年史
『紅一点論
『少女民俗学
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