政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」がきのう、東京であった。61年前の4月28日、連合国による占領が終わり、日本は独立を果たした。安[記事全文]
政府式典と同じ時刻、沖縄県宜野湾市ではこれに抗議する集会があった。集会の最後、1万人の参加者が「がってぃんならん」(合点がいかない=許せない)と、5度スローガンの声を合[記事全文]
政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」がきのう、東京であった。
61年前の4月28日、連合国による占領が終わり、日本は独立を果たした。
安倍首相の肝いりで、初めて政府主催で開かれた。
首相は式辞で「未来へ向かって、希望と決意を新たにする日にしたい」と語った。そのこと自体に異論はない。ただ、気がかりなことがある。
じつは、この式典には伏線がある。自民党などの有志議員らが1年前に開いた「国民集会」である。そこへ、一国会議員だった安倍氏はこんなビデオメッセージを寄せた。
独立したのに、占領軍が行ったことに区切りをつけず、禍根を残した。占領軍によって作られた憲法や教育基本法、そのうえに培われた精神を見直し、真の独立の精神を取り戻す。次は憲法だ――。
再登板後も首相は、憲法を改正し、日本も米国を守るために戦う集団的自衛権の行使を認めるべきだと唱えている。
ただ、4・28を語る際、忘れてはならない視点がある。なぜ日本が占領されるに至ったのかということだ。
言うまでもなく、日本が侵略戦争や植民地支配の過ちを犯し、その末に敗戦を迎えたという歴史である。
占領下の7年間、日本は平和憲法を定め、軍国主義と決別して民主主義国として再出発することを内外に誓った。
だからこそ、国際社会への復帰が認められたのではないか。
そのことを忘れ、占領期を「屈辱の歴史」のようにとらえるとしたら、見当違いもはなはだしい。
最近の政治家の言動には、懸念を抱かざるを得ない。
168人の国会議員が大挙して靖国神社を参拝する。首相が国会で「侵略という定義は定まっていない」と侵略戦争を否定するかのような答弁をする。
これでは国際社会の疑念を招くばかりだろう。
とはいえ、式典開催を求めてきた人々の思いも決して一様ではない。
そのひとり、自民党の野田毅氏はこう説く。
同じ敗戦国のドイツは、全国民的に過去の総括にとりくみ、国際社会での立ち位置を定めた。その経験にならい、日本人も占領が終わった4・28と、戦争が終わった8月15日を通じて、左右の立場の違いを超えて総括しよう。
そんな節目の日とするというのなら、意味がある。
政府式典と同じ時刻、沖縄県宜野湾市ではこれに抗議する集会があった。
集会の最後、1万人の参加者が「がってぃんならん」(合点がいかない=許せない)と、5度スローガンの声を合わせた。
地元紙などの事前の世論調査では、約7割の県民が政府式典を「評価しない」と答えている。県民感情に配慮して仲井真弘多知事は式典を欠席し、副知事が代理出席した。
61年前のこの日、沖縄、奄美、小笠原は日本から切り離され、米国の施政下に入ったからだ。沖縄で「屈辱の日」といわれるゆえんである。
もっとも、沖縄の人々が「4・28」に寄せるまなざしは、はじめからこうだったわけではない。当時の地元紙を読むと、本土から切り離されたことを嘆くより、祖国の独立を素直に喜ぶ論調があふれている。
それがなぜ、かくも隔たってしまったか。その後の沖縄の歴史抜きには語れない。
本土では主権回復後、米軍基地が減る一方、沖縄では過酷な土地接収で基地が造られた。
72年の本土復帰後も基地返還は進まず、いまも米軍基地の74%が集中する。米兵による犯罪や事故も絶えない。
それだけではない。県民の反対にもかかわらず、政府はあくまで普天間飛行場の辺野古移設にこだわっている。
一方で、在日米軍に特権を与えた日米地位協定の改正には触れようとせず、オスプレイの配備も強行した。
「がってぃんならん」ことが現在進行形で続いているのだ。
「沖縄には主権がない」「本土による差別だ」。そんな声さえ聞かれる。
沖縄の人々が、主権回復を祝う式典に強い違和感を抱くのは無理もあるまい。
政府だけの話ではない。知事が求める普天間の県外移設にしても、オスプレイの配備分散にしても、引き受けようという県外の自治体はほとんどない。
沖縄の異議申し立ては、そんな本土の人々にも向けられていることを忘れてはならない。
安倍首相は、政府式典で「沖縄が経てきた辛苦に思いを寄せる努力を」と語った。
その言葉が本当なら、政府はまず、辺野古案にこだわるべきではない。地位協定の改正も急がなくてはならない。
やはり4・28に発効した日米安保条約の下、沖縄の犠牲の上に日本の平和は保たれてきた。
47分の1の「ノー」が持つ意味の重さを、私たち一人ひとりがかみしめなければならない。