石の上三年2
現象を動かすという点について、元出家者他で麻原教団を評価する声があります。「物事を現象化させることについて教団は凄かった」「教団に居たときはもの凄く現象が動いた」と。これは否定しようもない事実です。麻原教団に現象化する力がなければ、あれだけの人モノ金は集まらなかったでしょうし、サリン製造含め事件を引き起こすこともなかったでしょう。これは事件を肯定するという意味ではなく、現象化する力は偉大だったが使い道を間違えたので事件になった、という意味です。
しかし教団内における現象化能力は、あくまで(ほとんど)教団内だけで通じる借り物に過ぎません。苫米地流に言えば、麻原が作った「臨場感空間」において成立するモノで、その「臨場感空間」から離れれば、魔法のように消えてしまいます。作った麻原の現象化能力は偉大でも、それ以外の人は麻原のフンドシを借りたに過ぎません。
具体的に何が違うのかと言えば、個別事案で他の人が黙っていても同じ信仰の下、協力してくれます。世間一般で言うより遥かに結束が強く融通が利く人脈・モノと金の流れが味方してくれます。また出家者は世間的なものを全て捨てていますから、これ以上失うモノがありません。一般人なら「会社をクビになったら…」「家族がいるから…」など様々なしがらみ・責任が、行動にブレーキをかけます。
教団においては、失敗しても自分で責任を取る必要がありませんでした。個人で責任を負うことはなく、全て麻原もしくは教団が責任を負うというリスクフリー。小生が今思い出す限りでは、戒律違反が絡むことがなければ、ワークで失敗したことで降格になった例はありません。「グルの意思」として麻原から指示があるとして、成功すればステージ昇格のチャンスです。失敗してもリスクがない、成功すればステージ昇格という、ノーリスク、ハイリターン。どこにもブレーキをかける要素がありません。
実際には、与えられた課題が難しく、その観念がブレーキをかけていたというのが小生の経験ではあります。しかし教団内で色々なことを現象化したというのは、上記ノーリスク、ハイリターンという無責任思考がなさしめた業でもあります。小生も当初あおりましたが「どうせハルマゲドンが来るから、後のことは考えずに…」というヤツです。小生はその後始末をボツボツやっているという現状があります。
これらの現象化能力は、麻原の作った臨場感空間から離れると、魔法が解けて無くなるように消えるものです。信者らの脱会者に対する手の平返しは、ここでも散々書きました。しかしそういう人モノ金の要素以外に、ノーリスク・ハイリターンではなくなる所も大きいです。現実社会の大人は、何をやるにもその責任を取らなければなりません。換言すれば、それは誰かに依存するという信仰により担保され守護されていたものが無くなることです。家族関係・社会のつながり含め全て捨ててきた、どころか周囲は迷惑を被って憤慨している。その現実にハタと気づかされるわけです。ローンの担保が無くなり、あるいは期限の利益喪失により、多額の住宅ローン一括返済を迫られるようなものです。
よって教団における現象化能力は、あくまで借り物で、個人のモノとは別物と考えるべきです。大企業の部長でも、会社辞めればタダの人のように。但し、その部長に人望と人脈があり、会社の取引先お得意先そっくり引き継いで新会社設立なんていう例もあります。ひかりの輪はそれに近いかも知れません。しかし人望と人脈がなければ、孤立して「ザマア…」です。上祐氏と比較すれば小生のことに当たるでしょうか。
いずれにせよ現象化する力は、誰かのフンドシを借りれば比較的簡単に付きます。というか信仰等の特定の臨場感空間に入っている限りは有効。しかしそれは個人の力とは別です。このような借り物を好まないとすれば、自分で臨場感空間を形成する、つまり自分の責任で自分の世界を作るしかありません。それは自分の実力より高望みしてもどうしようもないことです。今現在やれることを積み上げていくしかありません。
実はこないだの3月20日、集会で話をしてくれ、という依頼がありました。主催者の人も見ているかも知れないですが、7人しか来て無くて申し訳なかったです。でもこれが小生の現在地点でしょう。
現象化能力 野田 < 上祐 << 麻原 ≒ 苫米地
苫米地さんを麻原と比較すると、苫米地さんは怒るんですが、いつの間にかチベット仏教大阿闍梨とからしく、何となく似てます。
(しばらく後につづく)
記事と関係ないですが、ボストンマラソン爆破事件は、
自作自演という説があります。
元々膝から下がない男性が爆破事件の被害者として
俳優の役割をしているようです。
写真A
爆弾などで両足を失うと、大腿動脈からの出血のため1分で体内の血液は半分になります。2分後には死亡します。鋭利でない破片による損傷の場合の出血はさらにひどくなります。肉が切られるのではなく裂かれるために、動脈も脈管組織もさらに露出することになるからです。人間の体には5リットルから6リットルの 血液があります。鋭利でない破片を浴びるようなかたちで両足を失うようなことが実際にあれば、血の海になります。その負傷者はそこで全身血まみれになるは ずです。さらに負傷個所の動脈からの血液の噴出が見られるはずです。その負傷者は血の気が引き蒼白になって嘔吐し、朦朧として気を失います。
写真に見られる止血処置ですが、縛られてもいませんし、帽子の男が上から吊り下げているだけです。これでは動脈裂傷には何の役にも立ちません。そもそも写真の人物の右足には何の止血処置もありません。そして一滴の血液も垂れていません。地面をよく見てください。これはあり得ないことです。顔と手の色は血液の 循環を示しています。両足を失った人間の血色ではありません。
これは“役者”です。これは“演出”です。~以下略~
フレーム6:
この両足を吹き飛ばされたはずの男は左端にいます。地面に横たわって後頭部を起こしているのが見えます。この男は元々膝から下がありません。
~以下略~
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