はじめに。
私のような若輩者が彼のような大外交家(もしくは革命家)を語るには
彼はあまりにも大きすぎた。私みたいのがほんの少し本を読んだだけですべてが解ってしまうほど彼は簡単では無かったのだ。この二週間以上を彼の為に時間を費やしてきたが、浅はか者の私には未だに彼の全容を掴めないのである。
よって今回のレポートはビスマルクが宰相と呼ばれるまでの経緯と引退後に的を絞ってみようと思う。
しかし、私がこれから語るビスマルクは私と言う色眼鏡を通して語られたビスマルクなので必ずしもこれが正しいとは云えない。私は親ビスマルク派なので、たとえすべてを公正に書こうとしていてもビスマルクに悪意を向けては書かない。ただ、言葉と云うものはとても面白いものでたった一つの言葉でも何通りも解釈が出来るのだ。だから、私が今回、資料として読んだビスマルク関係の八冊の本も教科書もすべてが正しいとは思っていない。
その点を注意して読んでいただきたい。
2002年11月30日
1815年4月1日、プロイセンのブランデンブルグ州のシェーンホイゼンに一人の男子が生まれた。この子供こそ後にドイツ統一を成し遂げ、ドイツ帝国を作り上げた鉄血宰相オット・フォン・ビスマルク(Otto Eduard Leopold Furst Von Bismarck)である。ビスマルクの家は元々武人揃いの家系であった。ビスマルクの曽祖父にあたるアウグスト・フリードリッヒ(August Friedrich Von Bismarck)はフリードリッヒ大王の七年戦争で戦死、祖父のカール・アレクサンダー(Karl Alexan-der Von Bismarck)も武人でビスマルクの父カール・フェルディナント(Karl Wihelm Ferdinand Von Bismarck)は1806年10月ブランスウィツ公の指揮のもと仏軍と戦い、カイゼルスラウテルンの役にて負傷。それが元で後年病死した。又、父の美しい庭園も昔仏軍の為に散々荒らされその乱行暴挙の記念が庭の大木に弾丸の後を留めている。それを見て成長した少年ビスマルクの頭脳には自然と仏国を憎悪する念が植え付けられた。ビスマルクは晩年、「私の家系にはこの三百年間誰一人として仏人と戦わなかった者はいない。」と残しているが、当時のドイツおよびフランスの敵対関係以上にビスマルク家と仏国は歴代の宿敵関係にあったのかもしれない。
ビスマルクの母ヴィルヘルミネ・ルイーゼ・メンケン(Wilhelmine Luise Von Ged Mencken Bismarck)はプロイセンの内閣参事官の娘で、代々の武人でユンカー(土地貴族)でもあるビスマルク家とは相応の家柄であった。また、彼の母にはその昔ビスマルク家に嫁ぐ前に面白いエピソードがある。
1797年3月22日、王ヴィルヘルムと王太子妃の間に第二皇子が生まれた。この第二皇子が後の初代ドイツ皇帝として歴史を飾る人となるとは当時、父母両殿下の夢にも考えなかった事である。丁度、その頃、プロイセン政府の内閣参事官メンケンはポツダムに美しい庭園を持っていた。兄弟の両皇子は家庭教師に伴われてよくこの庭園に遊びに来ていた。メンケンの愛娘ヴィルヘルミネ嬢はいつも喜び迎え、我が子のようにコレを愛した。両皇子の特に弟君は嬢を母の如く慕い、一緒に嬉々として遊ぶのを何よりも楽しみにしていた。ある日の事、弟君がいつものように嬢に手を引かれて園内を散歩しているとそこに巫女がやって来て、運勢を見てあげようと行った。嬢は面白半分に「宜しい。お願いしましょう。」と云って、手を出すと、巫女はやがて嬢の手筋を見て「貴女は立派な武官の奥様になられる相がある。」と云った。その頃、付近に住む騎兵の士官でしばし嬢の邸を訪れる青年に多少の思いを寄せていたヴィルヘルミネ嬢は巫女の言葉を聞くや否や顔を紅潮させたと言う。巫女はさらに言葉を続け、「貴女の息子さんは非常に立身出世し、公爵にまでなられます。そして、貴女の息子さんが引き立てる方は偉大な皇帝となる方です。」と、云い、皇子を指差し「その御方は現にこちらに居られるこの坊ちゃんです。」と、占った。これを聞いた嬢は噴き出し、皇子は怪訝な顔をして巫女を見つめた。この問答を立ち聞きしていた下僕の一人はドイツ帝国の建設後まもなく死んだが、その死の際に「自分は昔の巫女の占いがまさしく的中したのを見て死ねるのだからとても満足だ。」と、語ったらしい。この話の真偽は置いておくとして、兎に角、ヴィルヘルミネ嬢はその後、騎兵中尉のカール・フェルディナンド・ビスマルクに嫁しオットを産み落としたのある。さらに余談だが、カール・フェルディナンドとヴィルヘルミネ嬢が結婚する際、フェルディナンドの兄フリードリッヒもヴィルヘルミネ嬢に求婚していて、ヴィルヘルミネ嬢が最初恋心を抱いていたのはカール・フェルディナンドでは無く兄のフリードリッヒだったと言う説もある。
オット・ビスマルクは兄弟姉妹合わせて六人でオットは第四男である。父は彼が二歳の時、ポメラニア州のクニエホフ村に移り、質素に暮らしたので、彼も幼少にして質朴な生活の感化を受けた。七歳の時に父に伴われてベルリンに行き、プラマンと云う学者の私塾に入った。この私塾はスパルタ式に乗っ取った粗食苦役の極めて厳酷な教育法で少年の彼は随分泣いた事があった。彼はここに居る事五年にして更にグラウエ・クロスター・ギムナジウムに進んだ。ギムナジウムにては優等生で、特にラテン語には秀逸であった。彼が後年よく文章に簡潔なラテン語を要したのはその時代の名残であろう。かくして、彼は1832年17歳にして優秀な成績でギムナジウムを卒業したが、彼は幼少の頃から強情の腕白者で、家庭においてもいずれかと云えば愛薄く、彼も父以外には殆ど畏敬を表さず、家に居ても近所に居ても孤独な人であった。ギムナジウム卒業前後彼は信仰にとても懐疑的になり無政府主義的な思想もあり、時には共和政治を謳歌する事もあった。
そんな彼に対して父は神学、宣教師の道を奨め、母は外交官を望んだが、彼は結局、ゲッチンゲン大学の校風が気に入り、ゲッチンゲン大学法学部に入学した。この道は多少なりとも母親の希望にそったものであった。大学生の彼は入学三ヶ月で乱暴学生の標本とまではいかなくともその首領株の一人となった。多くの学生がそうであったように彼もまた学業よりもビールを好み、酔えば争い、争えば、好んで決闘を遣りだす始末で現に在学中決闘する事28回で、顔面には終生の傷を残した。その乱暴には舎監も毎度てこずり、彼は酔ってはビール瓶を外に投げたり、タバコを吸いながら街道を闊歩するなりして校則に触れ、罰金を課せられたり、禁足を命じられたりした事が多々あった。けれども、他の面において、彼の人望は良く、多くの学友を惹き付け、また交友も広かった。
彼はこの大学にて二人の親友を得る。一人は米国からの留学生ジョン・ロウスラプ・モットレー(John Lothrop Motley)とロシア領クルランドから来たアレクサンダー・フォン・カイゼルリング伯(Graf Alexan-der Keyserling)である。モットレーは幼少より学才があり、後年有数の歴史家となり、駐英の米国公使となって外交界にも名を馳せた。けれども、ビスマルクから見たモットレーは溌剌とした外交家よりも真摯の学者肌の人であった。逆にモットレーから見たビスマルクは常に冷静な人だった。モットレーの「モートンの希望」という小説の中に、酒場や路上で騒動を引き起こすが、自分の部屋に戻ると道化の仮面を捨て、冷静に友と語る姿があり、ビスマルクが乱痴気騒ぎの生活に満足しているかと友人に尋ねられると「子供っぽい振る舞いだけど、年齢から言えば僕はまだ子供なんだよ。」と、答え、自分を客観的に見ているビスマルクが描かれている。それを裏付けるように後年の彼の政策にも見られるように彼は常に一歩先を、どんなに困難な時でも、一歩、否、二歩先を見据えて冷静に行動する人間であった。どんな馬鹿騒ぎを起こしても、常に冷静な自分が一歩下がった所で自分自身を見据えていたのだ。在校中のビスマルクは一時、汎神論を信じ、遂には共和主義肯定者にもなった事があるが、そう極端までは走らず、思想の中に留めた。
彼がそのような思想を得るよるようになったのにはモットレーの影響も多少なりともあったと言われている。一方、カイゼルリングは後年、物理学者として成功し、一時には官界にも入ったが、官界の水が合わず、多くは研究室内で身を送った。この二人は共にビスマルクより年長であり、その思量に富める人物だったので、ビスマルクも自然と二人を尊敬し、彼らによって自分に足らずと感じていた克己自制の精神を養った。彼の学友連中には他に米国人のコッフィンが居た。ビスマルクはある時、彼とドイツ連邦の将来を論じ、今から二十年の間に連邦は必然と統一出来ると述べたビスマルクに対し、コッフィンは不可能と主張したので賭けをする事になり、負けたものはシャンパン二十本と大西洋を渡る旅費を支払うと言う約束をした。しかし、二十年目の1853年、ドイツの統一は未だに成らなかった。後年ビスマルクはこの約束を思い出し、急に債務を勝者に支払おうとコッフィンの消息を調べた所、コッフィンはすでに他界しており、彼は随分残念がった。ビスマルクは学友からの人望はあったが、教職員からは嫌われ者であった。彼はゲッチンゲン在学一年半となる頃、過去の愚かしさを悟り、今少し、法律の研究に精励すべく決心し、1833年、親友のモットレーと共にベルリン大学に転学した。この転学に際し、ゲッチンゲン大学の教職員中誰一人として彼との別れを惜しんだ者はいなかった。寧ろ、ていの良い厄介払いが出来たと喜んだくらいであった。
彼がベルリン大学に転学してから卒業に到るまでの経緯のページが丁度欠落していたので私はその間の彼の行動を知る得る事が出来なかった。なので話は少し飛ぶ事になる。
彼は文官任用試験に合格し、ベルリン地方裁判所の見習いに任命される。これが彼の官界への踏み出しであるが、当時の彼は外交官を望んでいた。しかし、外務省は彼の採用を好まなかったので彼は厭々裁判所の小役人となったのである。後年の世界的大外交家も眼識の無い外務省の職員には三文の値打ちも認められなかったのである。1836年、実務試験を得てエイ・ラ・シァペラ裁判所の司法官候補に転じるが、元々が厭々の仕事だった為、不満が多く、上司、同僚ともに亀裂が生じた。彼にとって受難の時代の始まりである。しかし、公務でベルリンの宮内省に出入りし、初めてプロイセン王弟に拝謁する機会を得る。彼が後に皇ヴィルヘルムに宰相として指名されるのはこの機会が元である。
彼はエイ・ラ・サァペラにて、飲む打つとで大借金を作り、二回の婚約をする。しかし、二回の婚約とも破談になってしまう。二回目の婚約の時は婚約者の家族と共にスイスに旅行をしている。しかも、この旅行は役所には無届ですべてが厭になったビスマルクはスイスから辞職願いを出す。そして、職も恋人も失い借財だけを背負って父の家に戻ってくるが、彼は別段落ち込んだりする事無く大手を振って帰って来たので、逆に両親、郷友が心配してしまいビスマルク本人に断ることなく就職先を探し、漸く、ポツダム裁判所の司法官候補に職を見つけ採用されたが、この際に今後は必ず仕事に勤しむように宣言させられた。しかし、ここでも三ヶ月で辞職。流石にこのままではいけない思ったのか、どんな事をしても逃げる事が出来ない一年契約で軍に入る。翌年、無難に除隊となるが、七十歳近くの父が事業に失敗し、財産の大部分を失い、長年住み慣れたポメラニアを去り、郷里のシェーンホイゼンに退き移り隠居の身になった。父はポメラニアに残した余財の整理を彼とその兄に委任したので、彼は除隊後、ポメラニアに移り田舎生活に入った。今まで散々無茶をし続けていたビスマルクも最初はこの穏やかな田舎生活を気に入り、農業に勤しもうとグライフスワルド大学の聴講生となり、農業の研究などもやってみたが、2,3ヶ月で止めてしまった。安らぎを求めての田舎生活だったが、結局彼には合わなかった。
1839年、ビスマルクの母ヴィルヘルミネ・ルイーゼ・メンケンが永眠の途についた。彼は虚栄心の強い母にあまり愛情を感じていなかった。後に彼の妻に宛てた手紙で母について「母は私が大いに学び、大物になる事を望みましたが、私には厳しくて冷たいとよく思いました。幼き頃、私は心底母が嫌いでしたが、後には上手く偽って母を騙していました。」と語っているが、母を失った彼は悲嘆にくれている。彼が本当に母を嫌っていたか否かは解らぬが、嫌いだからのすべてで母を見捨ててしまえるほど彼にとっての母の存在は軽くはなかったのだ。
喪期が終わるとビスマルクはかねてからの希望と環境を変えるチャンスとして、大旅行の計画を立てた。そして、1842年の春27歳の時、ついに念願の渡英の途についた。彼は大英帝国の大いなる文明を目の前で目撃し、幾多の点において感銘を受けたが、特に食べ物の豊富なのが彼はとても気に入った。彼がロンドンから父に送った手紙の一つにこのような記述がある。「この国は大食い者の国です。とても御想像の及ばぬ大切れの肉が朝食の時からすでに食卓に置かれ幾ら沢山食べてもよろしく、しかも勘定書には影響が無いのです。」彼の大食い癖はもしかしたら、この時が始まりかもしれない。英国を気に入った彼はドイツに帰る途中でフランスにも寄りここでも大いに見聞を広め、先進文明国の空気を十二分に吸って帰った。
さて、彼はいざ帰ってみると万事が田舎くさく見えて面白くない。ましてやポメラニアなどもってのほかだ。外遊の念を再び起し、今度はエジプトから小アジア方面に出てあわよくばインドに赴いて英国の役人にでもなってみたいと思い詰めた。しかし、諸事情から結局は外遊など出来ず悶々とした日々を送った。程なくして1845年、これに先立つ事六年母を失った彼は今又父の長逝にあった。彼はその配当された父の僅かばかりの遺産を要して永住の地と予定しているシェーンホイゼンに移り住んだ。そして、そこで推されて堤防および湾岸工事の監督となった。この工事監督職は地方議会と職務上の関係が密接である所から彼は同議舎に出入りする間に知り合いも多くなり、ついに選ばれて議員になったのである。1847年、中央政界への登場と同時に彼の宰相へと続く時代が始まる。これもまた過酷な時代の到来である。
さて、時は少し前後するが、ビスマルクの父が死ぬ少し前、つまり1844年頃、彼が当時付き合っていた敬虔主義者(教会にたよらず聖書と個人の宗教的体験を重んじるキリスト教徒の一派)のアードルフ・フォン・タッデン・トリーグラフの娘マリー・フォン・タッデンにビスマルクは魅了された。マリーもまた力と情熱にあふれたスケールの大きいビスマルクに惹かれたが、当時、彼女にはすでにモーリッツ・フォン・ブランケンブルクと云う婚約者が居り、敬虔主義者である彼女は善良なモーリッツと別れる事は考えなく、自分の感情をハッキリと自覚してはいけなかった。また、一方のビスマルクの方もマリーを略奪しようなどと云う考えも無く、強い意思力で自分の感情を抑えた。お互いの心の中に恋心を秘めながらも二人はその気持ちを押し留めた。この頃のビスマルクの手紙には社会的に許されない二人の関係への苛立ちが反映して陰湿かつ空虚さを見せている。そして、何事も無く1844年十月、マリーはモーリッツと結婚する。一歩間違えれば取り返しのつかない危機を感じたマリーはビスマルクに親友のヨハンナ・プットカマー(Johanna Von Geb Von Puttkamer)を紹介した。格別美人でもなく、マリーの様に気軽にビスマルクに冗談を言ったり出来るタイプの女性では無かったヨハンナにビスマルクは最初あまり興味を示さなかった。そして、ビスマルクがマリーの父アードルフ・フォン・タッデンの支援を受けてシェーンホイゼンの堤防および湾岸工事の監督職についた年に、ビスマルクの最愛の人、マリーが当時流行していた熱病にかかってあっけなくこの世を去った。ビスマルクはこの悲報に悲しみもがき苦しんだ。
彼はこの悲報について、「理性に照らし合わせてその祈りがもっともなものなのか、あれこれ考える事無く、心の底から熱烈に祈り、子供の時以来忘れてしまっていた涙があふれた。」と、語っている。ビスマルクはマリーの死によって初めて熱心に神に祈る事が出来たのである。彼は神そのものの存在を否定しなかったが、神の意志を人間が知ることは出来ないと云う考えをもっていた。その為、神の意志を知ると称する牧師や司祭の仲介を拒否した。「聖書に神の言葉が含まれている事は信じます。だが、それが、どれほど神聖でもやはり罪と誤解を免れない人間を通して我々に手渡され伝えられる事が出来たと言う事に留めて信じているのです。」聖書も結局は人間の解釈次第であると言うのが彼の考えであり、神との関係は教会を通すのではなく、彼にとってはあくまでも個人的な関係であった。そして、むやみに神に頼るのではなく、自分の力を十二分に使い、自分の決断や行動が神の摂理に合致する事を望んだ。
そして、悲しみに明け暮れるビスマルクを救ったのはマリーの親友であったヨハンナである。彼女はどことなく清楚で気品があり、温厚で家庭的な温かみを持っていた。今までの生活に疲れを感じ始めたビスマルクがヨハンナに求めたのは癒しと家庭であった。後年、彼が政治の世界に没頭できたのはヨハンナと云う強い存在があったからかもしれない。そして、ヨハンナの方も特にビスマルクを嫌がる風も無かったので、ついにビスマルクは決意し、結婚切望の事を彼女の父に手紙で伝えた。両親から見れば降って沸いたような話に驚いたが、当時、「狂ビスマルク」と渾名される位粗暴な人と認知されていたビスマルクとの結婚に両親は当然許さなかった。しかし、ヨハンナの心はすでに決まっており、ヨハンナ自身の説得もあり、兎に角、親しく人物を見なくては・・・と、ある日、食事に彼を招いた。ビスマルクは意気揚々とやって来た。そして、馬車を降りて玄関に入るや否や、いきなり、ヨハンナを抱擁し、大胆にもキスした。その行動に両親はあっ気に取られたが、熱心な彼らに動かされ遂に納得し、つつがなく婚約できた。しかし、ビスマルクは過去に2回の婚約破棄があり、やぶれた原因を今は問わずとして、今度と云う今度は双方とも慎重に慎重を重ね、半年後の1847年末、彼らは遂に華燭の典をあげた。新郎32歳、新婦24歳である。そして、この年を期にして彼の活動は大いなる変動を迎えるのである。
ここから先は政治的要素が多くなり、今の私にはあまり把握出来る事柄では無かったので少し縮小して資料からの抜粋を基本とする。
彼が初めて中央政界へ顔を出した1847年の連合主議会時点で、彼は正統の保守主義者であり、48年の革命に際しては、農民軍を組織して国王の下に馳せ参じようとしたほどの反革命主義者であった。しかし、1851年に任じられて59年初頭まで勤めた連邦議会プロイセン代表としての経験、またその後の1859年の駐ロシア大使、1962年の駐フランス大使で得た政治的経験は彼の視野を広げ、従来の狭い正統主義を次第に改めさせた。彼は、ドイツにおけるオーストリアの制覇とプロイセンの国家利益は両立しない事、むしろプロイセンの国家こそを目指すべきであり、その為には国民の統一への願望も、それがプロイセンの国益と結びつくならイデオロギーに拘らずにこれを利用すべきであるとする現実政治家に成長し、ドイツ統一を目指すようになる。そこで1962年プロイセン王ヴィルヘルム一世に登用されてプロイセン宰相になると、独自の方法でドイツ統一の事業に突進した。すなわち、プロイセンを盟主とするドイツの国民的統一を成就するためには、オーストリアを中心とする反対勢力、および外国の干渉に対抗する強力な武力を備える必要があると感じ、「ドイツの問題は鉄と血で解決しなければならない」と云う、彼が鉄血宰相と呼ばれるに至った有名な演説を行って、議会の反対を無視して軍備の大拡張を逐行した。
ついでビスマルクは自国の国際的地位を有利に導く為様々な外交工作を行い、まずイタリアと同盟を結び、ロシアの歓心を買い、フランスのナポレオン三世に中立を約束させた上で、66年シュレスヴィヒ・ホルシュタインの主文に関する係争を機会に、オーストリアと開戦した。(普墺戦争)この戦争におけるプロイセンの電撃的勝利と早期収束は、プロイセンの軍事力、参謀総長モルトケの作戦、そしてビスマルクの外交の一体となった結果であり、この戦いに敗れたのは単にオーストリアとそのドイツ連邦だけではなかった。長期戦に加入する事を策していたナポレオン三世、そしてビスマルクを否定し続けていたプロイセンとドイツの自由主義者もまた敗者であったのだ。その二年後、豊かな工業力を背景に国力を増大させたプロイセンは、ドイツ統一の傷害をなしていたフランスを排除すべく1870年、普仏戦争を起し、ナポレオン三世を降伏させたのちパリを囲んで、翌年これを陥れヴィルヘルム一世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位した。ここに北ドイツ連邦は解体し、旧加盟国と新たに南ドイツの4国とフランスから割取したアルザス・ロレーヌ2州を加えたドイツ帝国が成立して、ドイツ国民多年の宿望は達せられた。しかし、ドイツの統一はビスマルクの鉄血政策によって実現されたものであったから、新帝国は近代国家として完全なものとは言えずあちこちに綻びが生じてくる。けれども、新帝国初代の宰相となったビスマルクはドイツを強国にしようと奔走する。
この間の彼は極度の不眠症や神経症に悩まされ、酷い時には顔面麻痺で口が動かない事もあった。また、彼は稀に見る大食い者で、大酒飲みであった。彼がベルギーに行った折に立ち寄ったある料理屋で名物の牡蠣を注文した。一皿に50個の牡蠣が積んであり、それを彼は皆平らげた。それを見た料理屋の婆さんが唖然とした顔でビスマルクを見つめ、その視線に気がついたビスマルクは、もう一皿食べたらあの婆さんはどんな顔をするか一つ見てやれと、更に50個注文した。そして更に一皿、またまた一皿と遂に175個の牡蠣を食した。と、云うのは彼の自慢話である。ビールも水の如く飲み、最高132キロの体重を記録した事もある。しかし、時は進み、時代に新しい風を運んでくる。そして、その風は彼の時代の終わりを示すモノであった。
1888年、老帝ヴィルヘルム一世が91歳で崩御。新帝フリードリッヒ三世の統治も長くは続かず、同じ88年崩御。そして、29歳のヴィルヘルム二世が即位する。ビスマルクとまるっきり異なった考えをもつヴィルヘルム二世はビスマルクを排除すべき行動に出る。ヴィルヘルム二世もまた自分流のやり方で国を動かしたかった。しかし、新しい、自分流のやり方で国を動かすには、ビスマルクは存在が大きく邪魔者であったのだ。様々な確執を経て90年3月、ビスマルクは辞職引退した。これによってドイツの外交は一変するがそれはまた別の話である。
引退した彼は住まいをフリードリッヒスルヨーに移した。引退した後にも彼のもとには幾多の人が集まり、誰もがフリードリッヒスルヨーを訪れた。1892年、オーストリアの首都ウィーンを旅行するが、ヴィルヘルム二世側からは警戒され、ウィーン側からも冷遇を受ける。これに不快を感じたビスマルクは談判を試みようとするが、77歳の老大政治家は無闇に戦うのも大人気が無いと考え直し、オーストリアの新聞紙を通じて多少の鬱憤を洩らすに留まった。しかし、その新聞を見たオーストリアの宰相は自分の機関紙を使って反撃し、論戦は相次ぎ欧州諸国特にドイツ・オーストリア両国の言論界は大いに賑わった。彼がオーストリアよりの帰途ミュンヘンに滞在中、ブルガリアの君主フェルディナンド公が彼の元を訪問し、ブルガリアの国王としての心得を彼に仰いだ。ビスマルクは公に、「他人に反感を持たすような事は努めて避けて通すように。そして、殿下は泳ぐが如く世界の前に出たが、泳ぐにしても決して流れに逆らって泳ぐ事は無く、身を流れの上に任されよ。だが、時が経てば、習慣の力は殿下の最強の見方とし、敵を怒らすような事を一切避けられよう。敵を挑発するような事さえしなければ、時と供に世界はブルガリアの国王として殿下を認識するに到るであろう。」と、述べた。周りに何の前触れも無く国王となったフェルディナンド公はブルガリアからは歓迎されたが、周りの諸国からは未だ承認されていなかったのである。これを聞いた公は深く感得し、後に、「私は大偉人と語ること僅か半日。しかし、実に幾十の人々と長時間語る以上の偉大なる賜物を得た。」と、人に語ったが、ビスマルクの右の進言は他の国王宰臣をも戒めるものであった。
その後、ヴィルヘルム二世には何程か折れ、親しくビスマルクの隠邸を訪れ、彼を慰む所もあったので、両者の仲は多少温まった。けれども、多情多恨の彼を慰めたものは、皇帝の甘言よりも、過去48年間の唯一の好伴侶、老妻ヨハンナの始終計らざる温かき同情であった。世に神と老ヴィルヘルム一世帝以外に恐るべきもの無しと云い、すべての人間を敵として戦った彼も、家庭においては別人の如く、その愛情は密の如くであった。嘗ては1854年、時の国王フリードリッヒ ヴィルヘルムは或る時怒って、「ビスマルクと云う奴は君国よりも家庭を重しと思って居る奴だ。」と云った位である。また、1874年、老帝が送った銀婚式での御祝いにおいて「上帝が卿に与えた多くの恵みの中で、卿の家庭ほど偉大なる恵みは無い。卿がその繁劇なる国務に堪えたのは一に卿の貴き且つ楽しき家庭の賜である。」と記されていた。彼は如何なる敵と悪戦苦闘し、或いは苦難の夜を迎えたとしても、一度家に帰れば、ヨハンナ夫人の捧げる温かき愛で、常に身の疲労を忘れたのである。 ヨハンナは公爵夫人と云う言葉が似合わず、素朴で、極めて誠実であった。こざっぱりとした風采と供に気品もあり、且つ極めて謙譲の奥ゆかしい美徳を供え、女性の最大の誇りは単に華やかな生活をする事ではないと云う事を良く理解し、時めく宰相の夫人の地位など鼻にかけたことも無く、あくまでは自分は家庭の良妻賢母を目指し、それを実行した女性である。彼女はドイツ大宰相の夫人であっても、自分は極めて素朴で、一平民の主婦達と変わる所が無かった。また、ある宴席において、客が彼女を「公爵夫人閣下」と呼びかけるのに対して、彼女はこれを遮り、「どうかそんな尊称は止めて下さい。私はそんな尊称を受けるような人間ではありません。“ビスマルクの家内”で沢山です。いつかはエルベ湖畔の隠宅に退き、ささやかな田園生活を楽しもうと考えている私達なのですから。」と、云った。それを聞いた夫ビスマルクは「そうだ。この世に我々の存在が何の必要も無くなった時にはそう言う時が来るよ。」と、云って共鳴した。
彼女は全く文字通りの良妻賢母の典型であった。彼女はは夫の公事には一切の口出しをせず、ただ一身を良人と子女への愛に捧げた。ビスマルクも彼女を終始一貫文字通りのベターハーフを賞し、常に「私の今日があるのは全く妻の賜だ」と語った。夫人はピアノの名手であるが、ビスマルクがピアノにあまり趣味を持たないので、殊に彼の瞑想を妨げてはならぬと、晩年には殆ど弾かなかった。また、ビスマルクへの来客があまりにも長座すると、彼女は良人の身を案じ、召使いを来賓室にやってその安否を伺うのを常とした。或る時、某国大使がビスマルクの元を訪れ、散々長座した末「閣下も時には長談義に迷惑する事もあるだろう」と云い、ビスマルクは「実際、迷惑する事もあるが、そういう場合は常に妻が機転をきかし、拙者を室外に連れ出して助けてくれる」と答えた。すると、そのとたん召使いの一人が入ってきて、「奥様が一寸御用と云う事です。」と、述べた。大使はそら来たと思いすぐに辞去したと言う話がある。
しかし、夫思いのヨハンナも1894年の秋、予てから悩めていた喘息が長じ、その11月、老夫を後に残し70歳にて永眠した。流石のビスマルクも天を仰いで泣いたのは無理もない。「私は妻の先に逝きたくない。けれども、妻の他界後に生き延びたくも無い。」とは、彼が引退後しきりに口にした言葉だった。鉄血の彼もヨハンナの遺骸に寄り付き、男泣きに泣き、傍に居た諸人をそぞろに深き感慨に打たしめた。
翌1895年の4月1日、ビスマルクは80歳に達し、盛大なる誕生祝が行われた。その十年前に行われた70歳の誕生祝の折には、彼を崇拝するドイツの有志者が全国に激を飛ばし、ビスマルクへの献上金を集め、これを以って彼の誕生地シェーンホイゼン所在の祖先の土地にしてその後他人の手に渡ったものを買い戻し、これをビスマルクに献じて彼に対する深厚な経緯を表した。集まった金は土地の買い戻しに使われたが、なお、120万マークが残った。このお金も彼に献上し、彼はこのお金でシェーンホイゼンの奨学金、特に貧困の大学生の給付費及び小学校教員の未亡人の養育費の基金に使うべき依頼をした。この依頼を受けたシェーンホイゼンの機関は目的を達成する為、一大財団を組織し、特にこれを国家の直接監督の元に置くと制し、財団理事長にはプロイセンの上院議長を充て、ビスマルクの記念施設として不朽にこれを世に伝える事にした。その後、同地出身の俊才がこの恩恵にあずかれたものは実に数知れない。
さても、ビスマルクの80歳の誕生祝は70歳のそれにも増して盛大で、殆ど世界的の一出来事と云われた位であった。ドイツの国内各地よりは勿論、欧州各国の王室、政治家、各種の団体、その他の著名人からの祝電が雨の如く注がれた。その折、彼の退隠地フリードリッヒスルヨーの郵便局長の報告によれば、右の誕生日を挟む一週間以内に内外より接受された祝電は11475通、この語数約453000語、ビスマルク邸に配達される普通郵便は451000通、小包郵便1245個、局内に30人の臨時増員を行い、辛うじて処理出来たとある。そして、ハムブルクにおいては、3月31日の夜は全市イルミネーションで飾り、市の中央のロームバード橋にガス灯火68000個を臨時増点して祝意を表し、フリードリッヒスルヨーは、全村挙げて花と旗のトンネルで、同地を管轄するアルナトナ州知事は特に軍楽隊6個隊を要し、公園その他にて終日終夜祝楽を演奏させた。各地よりの賓客は増える一方で、その為鉄道局はフリードリッヒスルヨー駅に発着する35回の臨時汽車を増運転した。これらの光景や当日の主人公の動静を報道するが為に同地に集まった新聞記者は70名を越したといわれる。当のビスマルクはこの熱誠なる祝賀に対し真摯に感謝した。
ビスマルクは勲章よりも名誉学位の方が多く与えられ、1874年7月ハーレ大学より哲学博士、1885年3月にはゲッチンゲン大学より法学博士、同年4月1日の誕生日にはエルランゲン大学より法学博士、テウビンゲン大学よりは政治学博士、1888年11月にはギッセン大学より他の諸大学と聊か異なり神学博士、1896年7月にはイエナ大学からも、これまた思い切って医学博士を贈与された。彼は五種の学位を有する名誉的な大学者でもあった。けれども、夫人を喪った後のビスマルクはもはや世に何の楽しみも無い。彼は晩年好んで読書にふけった。彼は歴史を好み、特にナポレオン一世伝の愛読者で、ナポレオンに関するものはすべて読み漁り、殊にマルモン元帥の回想録には少なからず感興を惹いたとある。小説も彼は好んで読み、その中でもゾラ作「デバークル」を愛し、西欧の文学を高からしめたのも無理はないと客に語ったこともあった。彼はバイロンの愛吟者であり、又シェイクスピアの愛読者でもあった。無論英原本でである。特にシェイクスピアは一字一句残さず覚えた。ある時彼は「ハムレット」の“He slew the sledded Polack cn the ice”の一句中の“sledded”の語は、橇に乗れるポーランド人であるか、もしくは、橇槌に手を乗せるポーランド人という儀かと云う事を、彼の元を訪問中だった英国の一文士に尋ね、その文士を面食らわせた事があった。彼はカーライルの大の礼賛家で、カーライルもまたビスマルクを常に賞賛した。カーライルが英国政府より高級の文芸勲章を授与された時に、ビスマルクは自筆の祝電をこの一大文豪に送った。また、この祝電はロンドンのチェルシー街のカーライル記念館に陳列されている。ビスマルクが殺風景の一政治家だけではなく多面な顔をもつ好紳士であったのは、このような文学的趣味から来たものであろう。しかし、彼の読者の好伴侶は実はヨハンナ夫人であった。彼は音楽にあまり趣味を持たなかったが、それでも稀に夫人がピアノを演奏すると、楽しんでこれを聞いたのである。だが、今やその好伴侶であり、何ものよりも得がたかった夫人を喪ったのであるから、彼の悲嘆は尋常では無かったのである。彼には三男一女の子供がおり、長女のマリーは後にオランダ駐在の大使となるランツァウ伯に嫁し、三男いずれも好配偶を得、孫も大分出来て、一族多い方であったが、彼自身の家庭は夫人の死後急に淋しくなり、多年の友人も次第に遠ざかり、彼の晩年は孤独の境涯であった。精神も段々陰鬱に偏し、特にドイツの将来を案じる時は打ち沈む風であり、晩年のビスマルクはまさに陰鬱病患者の如くであった。彼は自然を愛し、樹木を親しみ、殊に松と樅を好んだ。彼の庭園内には世界各地の松樅類が網羅し、日本の松もあったと言う。それらには皆彼自身が書いたラテン語の立て札があり、それからも窺い知れるように彼は植物学上の教養も多少はあったのである。彼は園芸的な草花よりも堂々たる大木を愛した。従って、深山幽谷を愛し、殊に鬱蒼たる森林を散策するのを無上の楽しみとした。かのフリードリッヒスルヨーの居宅は古病院を改造したもので、公爵の隠邸としてはいささか小さく、諸室の飾りつけも質素で、彼の寝室を拝見するのを許された外国人の記者はあまりの簡潔さに驚き、「公の寝室には質素な木星の寝台と、風呂樽一個と、体操道具一つがあるのみで、装飾品は殆ど無く、極めて清楚であたかもスパルタ式の簡素に値する。」と記事に載せた。兎に角、邸宅居室は質素で質朴であった。けれども、庭園は広く、中に世界の殆どの樹木を植え付け、これを唯一の誇りとし、客が来れば供に歩き、これを賞するのを唯一の楽しみにした。
そして、時は進み早3年。夫人を喪った悲しみが衰える事は無かったにしろ、彼はこの三年を緩やかに過してきたが、彼の健康は衰えつつあった。特に神経痛は酷くなり、時には激痛を訴える事も暫しあった。彼は元来健康体の持主であり、大の健啖家であった。彼が一度の食事に鶏卵を15個食べる事は珍しくなかった。彼の健啖は歳と共に何ほどか衰えたが、音声は晩年にいたるまで太かった。音声の太いのは健康の証とあるが、彼の音声は高い方でないにしろ、底力のある太い音声であった。彼の侍医は、彼の体の諸機関がことごとく均一に発達し、すべての調和がよく取れていると感じ、これが真の健康体であるといった事がある。されども、晩年のビスマルクは酷い神経痛および顔面神経痛に悩み、「これは喰い過ぎ、飲み過ぎ、喋り過ぎの罰だ。」と告白した。彼が大酒飲みであると言う事を前にも書いたが、実際、彼の邸にはミュンヘンの醸造所から随時送られてくるビール樽が山積したものである。ある時彼は病後の疲労を訴え、彼の親友の一人が彼に強い葡萄酒2ダースを送り、毎夕食に2杯に限り強壮剤として飲むように勧めた。数日後、ビスマルクはその友に一行の効能が無いと云ったので、どのくらい飲んだのかと尋ねると、彼は「足下の命じた通り毎夕食に2本ずつ」と答えて相手を吃驚させた。彼が宰相を辞してベルリンを引き上げ、フリードリッヒスルヨーに退隠するや、持ち運ばれた葡萄酒は実に13000本。多くは国内各地の醸造所からの贈り物であった。但し、彼はドイツ製のシャンパンだけは嫌った。これには面白い話がある。
彼はある時ヴィルヘルム二世と食事を共にした。卓上のシャンパンにちょっと舌を当てて見たところとても喉を通りそうも無い。やがて召使いがその瓶を捧げて彼の傍に来たので、一体何処のシャンパンかラベルを見てやろうとしたが、瓶が白布で包んであるのでそれが見えない。程なく彼は帝に「この御酒は何処から御仕入れになったものですか?」と伺いを立てた。帝は即座に「これはドイツの国産だ。これを飲むのには訳がある。一つは、経済から、また一つは愛国心から、好んでこれを常用し、かつ、私の将校にも、シャンパンを飲むならこれを飲むこそ愛国心だと強く申し付けてある」と、得意気に語られた。ビスマルクはすかさず「それは結構な事であるが、臣においては、愛国心は胃袋の入り口近くで停止するにちがいない」と、言上し、帝のご機嫌を頗る斜めにした。ヴィルヘルム二世とは酒の趣味も合わなかったらしい。
加えるに彼は、晩年不眠症にも悩み、衰弱も頓に加わり、殊に持病の神経痛にて苦痛を訴える事が多くなった。彼の80回の誕生祝の折、客が彼に祝いを述べ、尚、寿の長き祈ると、彼は「私はもう生を欲したりはしない。ただ、この神経痛から開放されるのなら、私はいっそう死にたくなる」と、語り、相次いで親しいレンバッハ伯が祝辞の祝辞を述べると「私には将来幸福の日が一回だけある。それは寝て再び目の覚まさぬ日だ。」と、述べた。
しかし、克己の精神に、家門の名誉を重んじる彼は決して、自殺の道は選ばなかった。けれども、1898年に入り、彼は自分の先がそう長くない事を予感した。この年の彼は、聖書を読むのを日課とし、特にヨブ記の第二十九章を熟読した。そして、同年、1898年7月下旬、彼の衰弱は益々酷くなり、同月30日の夜、その朝まで近親者と談笑し、殊に平素念頭より離れられぬ対ロシア政策についての考えを述べたりしていた彼は、急に胸部の激痛を訴え、午後10時、折から老父の額の汗を拭っていた愛嬢に“Ich danke Dir Mcin
Kind”の一語を残し、そのまま眠るが如く大往生を遂げた。
享年83歳である。
この悲報にドイツ全土が揺れ、フリードリッヒスリューは勿論、フリードリッヒスリューより25キロ離れたハムブルグも全市店舗を閉じ、公私の建物、港内の船舶は悉く半期を掲げて弔意を表した。彼は華美が大嫌いで、墓も出来る限り質素にするように在命中家人に命じ、彼の愛した森林に埋葬するように希望したので、遺族はそれを実行すべく、国葬も辞退した。従って、葬儀は華美ではなかったが、皇帝親臨の下に淑やかに行われ、その三年前に先立った夫人の傍に埋葬された。彼の墓標には「ヴィルヘルム一世帝のドイツの一僕ビスマルク公此処に眠る」と言うのが五行に割って書かれた。偉大なるドイツの大外交家オット・フォン・ビスマルクはこれにて幕を閉じるのである。
最後に。
あなたはビスマルクと言うとどのようなイメージを持つだろうか?
ドイツ統一をなし得た男。
好戦的で鉄と血の男。
ヒトラーの悪への道を作った男 etc…
ビスマルクのイメージは色々あるが、あまり良いイメージのものはない。
確かに彼は好戦的であったし、考えによってはヒトラーの悪への道を作った男かもしれないし、鉄と血と持って解決しなければ云々や、われらドイツ人が怖れるのは神のみである。この地上にはそれ以上何もないのだ云々のような事も言った。けれども、彼は本当に好戦的で鉄と血の男だったのだろうか?私はビスマルクが好きだ。何故、好きなのかを問われると返答に困ってしまうが、兎に角、好きなのだ。だから、偏見の目を持ってビスマルクにあたっているのかも知れない。本当は冷血な男だったのかもしれない。それでも、私の目には、彼は誰よりも和平を望んだ平和主義者だったように見える。考えて欲しい。本当に冷血だったら、何故、彼はあれほど神経痛、不眠症などで悩んだのだろう?和平を望み、真にドイツ帝国の将来を案じたが為にあれほどの病に悩んだように見える。ビスマルクが宰相時代だったドイツは勿論、戦争もしたが、第一に外交による解決を一番に考えた。しかし、時は移り、ヴィルヘルム二世統治下においては武力を優先するようになった。ビスマルクが供えた軍事力がドイツ帝国を作り、ヴィルヘルム二世が軍事色濃いドイツを作り、帝政が廃止された後もその軍事色は受け継がれ、20世紀最大の悪夢と言われるナチス帝国を作りあげた。前にも散々述べたが、私は未だビスマルクを把握出来得ていない。それだから、ビスマルクに対してこんなにも好感を持てるのかもしれない。しかし、時が経ち、私もいつかビスマルクを把握出来るようになるだろうその時は、ビスマルクについてどう思うか私自身、予想できないが、とりあえず今はこの愛すべきタヌキおやじが大好きだ。
2002.12.05
参考文献:
οビスマルクの外交 時野谷 常三郎 1945.10.01発行
οビスマルク傳 信夫 純平
1932.5.20発行
ο人と思想 ビスマルク 加納 邦光 2001.8.06発行
οビスマルク―白色革命家 ロータル・ガル 訳 大内 宏一 1988.3.20発行
ο生粋のプロイセン人・帝国創建の父 ビスマルク
エルンスル・エンゲルベング 訳 野村 美紀子 1996.3.20発行
οドイツ史 林 健太郎 1956.4.30発行
οドイツ史(新版) 林 健太郎 1977.3.30発行