創価学会・顕正会・正信会からの脱会を考える会

創価学会、顕正会、正信会からの脱会の相談に応じます。黒川和雄 186-090-9626-7585 当方大阪在住です。 大阪の方大歓迎(#^.^#)

大月天

恐れることはありません。勇気を出して脱会しましょう。

私の所属寺院は「日蓮正宗大阪南布教区妙輪寺支部法華講」。

お寺は天王寺から阪堺線(チンチン電車)で20分。姫松下車、進行方向へ100m。左側にございます。

妙輪寺住所
〒558-0054
大阪府大阪市住吉区帝塚山東1丁目12-14

日蓮正宗立正安国論正義顕揚750年サークル(会員制・非公開)
全国法華講員のための交流の場です。
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法華講員の方は是非御参加ください。

創価発行の怪文書「フェイク」のデタラメを破す。

【平成24年12月8日発行分】

>「驚嘆スヘキ戦果 感謝ニ堪エス」と訓諭
>開戦の日に想う 軍部に媚び諂った日蓮正宗
>時の法主・日恭は大石寺の大火の中で焼死

>きょう十二月八日は昭和十六年(一九四一年)に日本軍がハワイ・真珠湾の米軍基地を攻撃し、
>約三年半に及ぶ大戦の火蓋が切られた日である。この日、当時の法主・鈴木日恭(六十二世)は
>「宗内一般」に対して「訓諭」(下に掲載)を発した。その冒頭、日恭は「本日米國及英國ニ對シ
>畏クモ宣戦ノ 大詔煥發アラセラレ洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)感激ニ堪エス」と述べていた。

>宣戦布告について「恐懼感激ニ堪エス」、つまり「恐れ多くも感激した」という。法主自らが
>「訓諭」で日本が戦争を始めたことに感激したと明かしていたのだ。


先ずは爰(ここ)までとしよう。

鼻笑。其れにしても此奴、当文中の「感激」の意を単に「感激」という文意を以って解釈しておる。

バカよ。ここで仰せの「感激」とは、応に記(しる)されている処(ところ)の「恐懼(きょうく)感激」
の意であって、つまりは「有り難さに恐れ謹み、深く感じ入って心が奮い立つ事」の意であり、別に
戦争を始めた事に関して感動しているものではない。つまりは天皇陛下が大国米英に対して宣戦布告
の大詔(おおみことのり)を決せられた、その陛下の御決意に対して「恐懼感激」したものである。

…哀。

それにしても何でお前らはそーやって、物事の深意を軽口するのか、つまりは其の脳髄が軽いのか、
つまりは莫迦という事なのか。つまりは、フェイクを発行する者共などは、物事を単純に、しかも
幼稚に理解する事しか出来ない、脳足らずの連中だと云う事である。加えて、それら単純フェイクを、
何の疑いもなく、其れこそ夢遊病者がごとく掲示板に貼り付ける連中などは、小生からしてハエの脳
よりも軽い、人非人の痴れ者であるという事を、ここに断言しておこう。哀。ったく、哀れな連中で
はある。

次!

>更に、日恭は「訓諭」の中で「幸ヒ帝國ハ御稜威ノ下忠勇無双ノ陸海軍アリ既ニ戦端開始第一日ニ
>於テ驚嘆スヘキ戦果ヲ挙ケラル我等感謝ニ堪エス」とも述べていた。この「御稜威」とは神格を有
>する天皇陛下の威光という意味であり、「現人神」の下にある陸海軍が開戦日の十二月八日に多大
>な成果を挙げたことに「感謝」し、海軍機動部隊による真珠湾への奇襲攻撃の戦果を「驚嘆スヘキ」
>と喜んでいたのであった。

小笑。

本より、其の当時に於いては天皇陛下の御威光は絶大であり、其れこそは日本国民からして「現人神
(あらひとがみ)」として尊仰されたのである。

果たして其れが何なのだ。

初代・牧口会長が云く『今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち 天照大神を初め奉り、御代々の
御稜威は現人神であらせられる 今上陛下に凝集されてゐる のである。されば吾々は神聖にして犯す
可らずとある 『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には 天皇に帰一奉るのが国民
の至誠だと信ずる』と。(昭和17年12月31日/於:創価教育学会第5回総会報告の座談会)

よいか。ここでいう「驚嘆」とは、お前ら教宣部が翻訳する「喜んでいた」などという意味ではなく、
思いも呼ばぬ物事(結果)に対して「驚き感服した」意を述べたものである。ったく其れを「喜んだ」
などと単純に理解しおって…。お前らはまことに阿呆か。哀笑。

尚、言っておくが大東亜戦争は、抑もが侵略戦争に非ず、これこそは米英らによる経済封鎖という
「兵糧攻め」に対する国土防衛戦であった、という事をお前らは理解すべきである。つまり、真珠湾
への奇襲は、国土防衛の一端であり、侵略を目的として為されたものではない、という事である。
いや、其れよりも米国は、日本からの宣戦を待っていた節がある。ったく、そういう事も考えずに、
単純に痴文を連ねるお前らこそが「阿呆」なのである。哀

>そして「本宗宗徒タルモノ須ク聖慮ヲ奉體シ 佛祖ノ遺訓ニ基キ平素鍛錬ノ信行ヲ奮ヒ(中略)
>未曾有ノ大戦ニ必勝ヲ期セムコトヲ 右訓諭ス」と結んでいる。
>「聖慮」、即ち「現人神」である天皇陛下の考えを戴いて「佛祖ノ遺訓ニ基キ」
>つまり、日蓮大聖人の教えのままに戦争に勝利するよう呼びかけていた。

バカよ。当時の大日本の国民をして敗戦を祈る莫迦がどこにおるか!!
居るとすれば、お前ら外道のみであろう! いや、共産党も日本の敗戦を祈っていた、という話も
耳にした事がある。つまりは、お前らこそが平成の売国奴なのである!

ったく、自分の息子が米兵と戦火を交えるに「戦争は悪だから負けて来なさい」と諭(さと)す母親が
どこにおるのか! いや、居るとすれば、最早お前ら創価外道信者の類(たぐい)しか居らんだろう!

言うまでもなく、本門寺の大戒壇建立を大聖人の御遺命と拝し、平素から信行学の鍛錬を望んで其の
達成を願うは是れ富士大石寺の根旨であり、其の為を思って土台たる国土日本の勝利を願うは当然の
事ではないか。

よいか、其の開戦当時に於いて、日本国が戦争に負けるよう願い呼びかける宗教団体など有ろう筈も
なく、本より創価学会に於いても、戦勝の祈願は当然に為されたのである。

云く「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る、といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を
安堵せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以である。それは銃後に
於けるすべての生活の理想の要諦でもある」と。(牧口常三郎全集/第10巻129頁)

よいか、今になってお前らは「反戦・平和」などと美辞を並べておるが、其の当時に於ける学会の
原点は、天皇陛下への尊崇であり、其の皇国をして戦勝を期さんとする、報国教団であったという
事を先ずは知るべきであろう。よいか、其の当時に於いて『報国』は国民の義務であり、集団組織に
於いても必須とされたのである。果たして金属が要る、木材が要る、それが無ければ戦線に於て支障
をきたすとなれば、日本国に在する者として鋭意拠出するは当然の事ではないか。

>この他、僧自らが伊勢皇太神宮の神札を受容したばかりか、信徒にも神札を受けるよう強要したの
>をはじめ勤行の御観念文の改変、御書の要文の削除など宗旨建立以来、未曾有の大謗法を犯した。

小笑。何度も言わせるでない。宗門は神札を単に受け取ったのであり、宗門をして祀ったものでは
ない。つまりは、便宜上受け取って、その後は「放置」したまでの事である。別に何て事はない。
其れにしても「強要」などと…。呆笑。其れこそは「教導」であろうが。

日亨上人が曰く『広布の道程にある間は為政者に対して理を責め道を推して・臣民の礼節を全ふして・
諌暁し上ることは、無論なりといへども熱心に激して妄断する事はあるべからざるなり』と。
                            (富士宗学要集/第1巻159頁)

つまり、神札の受け取りを拒否し、憲兵の前で焼却し「我こそは日蓮大聖人の御教えが如く謗法厳戒
の正僧なり! 今こそ神道の邪義を摧(くだ)いて天皇尊崇の邪想を破すものなり!」と声高々に叫ぶ
ことが「妄断」なのであり、其の「妄断行為」を推奨するお前らフェイクこそが馬鹿なのである。

哀。

何、御観念文の改変とな。では此れも拙(まず)いのか。

●〔初座〕生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・
     天照大神・正八幡大菩薩等惣じて法華守護の諸天善神・諸天昼夜常為法故而衛護之の
     御利益法味倍増の御為に

●〔四座〕奉祈念(きねんしたてまつる)・天皇陛下護持妙法・爾前迹門の謗法退治・一天四海
     本因妙広宣流布大願成就・御祈祷の御為に。

言っておくが、上記の御観念文の内容は、小生が少年部員の時に持っていた勤行要典に記(しる)され
ていたものである。これが拙いのか。ならば、創価学会も謗法団体であった、という事になるよな。
本より「天照大神」とは皇祖神の事であるが、其の神をして法味を求めんとするに、其れを謗法とは
何とも阿呆な連中である。お前らは御書をもっとよく読みなさい。哀笑。

尚、一部御書の削除などは、其の時の「対処」であり、別に削除した内容を否定したものではない。
ったく「削除」する事と「否定」する事の区別も判らぬ莫迦者め。

>その結果、終戦二か月前に大石寺は客殿をはじめ主要な堂宇を焼失。日恭は大奥の食堂の竃(かまど)
>に嵌まって焼死した。その姿は、上半身は真っ黒に焦げ、下半身は生焼け状態だった。
>この日恭の焼死を宗門側は「覚悟の自殺」と説明したが、竃に入って自殺する者などいない。
>酒豪が高じ腹部がビヤ樽状に変じた日恭は逃げ遅れたのであり、明らかに大罰の現証である。

小笑。しかし、性懲りもなく、未だに此の様な事を言っておるのであるから、お前らは本当に馬鹿で
あるよな。果たして一体、ビヤ樽状に肥大した腹部が、逃げ出せぬ程にすっぽり嵌ってしまう竈とは、
どういう竈であるのか。小笑。お前らは、その竈の寸法を提示しなさい。出せるかバカよ。鼻笑。

恩師が云く『焼けただれた管長室には、第62世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔に自ら焼き、
端座したままの姿であられたのである。しかも、正装であり、袈裟をかけた、お姿である。そして、
一閻浮提総与の大御本尊を、御安置した、御宝蔵の方に向かっていた』と。
(人間革命 第1巻「千里の道」)

果たして小生が男子部時代『現代の御書』と教わった上記人間革命第1巻の内容と、お前らフェイク
が述べる事と、一体どっちが本当であるのか。して、お前らフェイクの痴文が本当であるならば、
お前ら自らが『現代の御書』を改変した事となり、宗門の戦時下に於ける対処について一々文句する
資格など無くなるのである。其れよりも何よりも『ビヤ樽状に変じた日恭上人が竈に嵌って焼死した』
などと云う証言を誰から得たのか。其の氏名なり証拠なりをお前らは此に提示しなさい。こちらには、
上記人間革命に記された内容に沿った証言がある。莫迦よ。早く証拠を出しなさい! 哀笑。

>国をあげて戦争へ突入していった時代とはいえ、軍部権力に媚び諂った日蓮正宗には、大聖人の
>末流を名乗る資格はない。

鼻笑。

国をあげて戦争に突入していない、この平成の時代に於いて、立正佼成会や神社本庁に媚びるお前ら
池田創価学会に、日蓮大聖人の末流を名乗る資格など無いし、まして直結の信心など笑止千万である。
お前らこそは戦時下に於ける宗門の対処を中傷する前に、其の腐りきった根性を立て直すべきである!

云く『世界平和の確立や文化の振興など有意な活動を推進しておられる貴団体(新日本宗教団体連合会・
全日本仏教会・神社本庁)をはじめ宗教界の皆様方とは、本来ならば公党として、広く御意見などを承
(うけたまわ)る機会をお願いすべきでありましたが、従来心ならずも疎遠になっておりましたことに
ついては、大変申し訳なく存じている次第であります』と。(平成11年10月7日/3団体挨拶文)

哀。創価をして国家権力に進出せる公党の挨拶文。読んでいて反吐(へど)が出る。果たして『従来心
ならずも疎遠になっておりましたことについては、大変申し訳なく存じている次第であります』とは
何ぞ!! 是れこそは恩師戸田先生による邪宗撲滅・大折伏戦などは「心ならずも」の事であったと
云う事か! 「大変申し訳なく存じている」とは如何なる事か! ふざけるものではない!!

外道創価よ。加えて痴文をフェイク(偽物)に載せてほくそ笑む莫迦者どもよ。一体お前らに邪宗謗法
を語る資格など有するのか。鼻笑。有るわけが無かろう。哀笑。あまり笑わせるものではないぞ。

尚、当室は今後、怪文書フェイクの痴文を順次破折していく所存である。又、其れこそは夢遊病者が
如く漫然とフェイクをベタ貼りする、無能者どもへの呵責も含めてのものである。

いずれにしても、莫迦と阿呆には『言葉のげんこつ』を加えるしかない、と云う事である。
まして其れらの者共が、邪義に染まったバカとアホであれば尚更の事である。

フェイク、これこそは莫迦・阿呆が生(な)せる下賤な発行物である。今にして容赦するものではない。


※破邪の欄室、大月天氏の投稿より転載。

大石寺こそ正統・富士門流たる証し

今から遡(さかのぼ)る事、約720年前の昔。大御本尊御図顕の日と同じくする正応三年(1290年)の
十月十二日、富士大石寺は御開山・日興上人によって建立され、翌十三日、日興上人は譲座御本尊を
認(したた)められて、日目上人に授与されたのである。

さても、不信心の莫迦者どもが言うには、この事を以って『日興上人が大石寺の住職を務めたのは、
たった一日だけだった』などと揶揄するのである。

小笑。

本より、譲座御本尊を授与されしは、日興上人から日目上人への御内附を意味するものであり、
唯授一人血脈相承の証でもある。

つまりは、御本尊首題直下の日蓮大聖人の御花押の左方下に、御開山日興上人の御判形を入れず、
御歴代上人の御判が記される事こそが、応に御本尊七箇之相承に示された『代々の聖人悉く日蓮なり
と申す意なり』との師弟相対の相貌なのであって、全く其の原点こそは譲座御本尊に示された御相貌
(首題直下の左方に日興上人御自らの御判形を入れず、日目上人の御名を記された)に在るのである。
応に是れこそが日興上人、日目上人を始めとする唯授一人血脈相承の厳格な御証文なのである。

ったく、其のような事も解からずして『日興上人が大石寺の住職を務めたのは、たった一日だった』
などと莫迦な事を言い『譲座御本尊の模刻御本尊には日目上人の御名がない』などと騒ぐのである。

哀笑。

つまり、これらの者共は、前例のない事を以て偽作と断定しようとする、所謂、文献莫迦の悪癖なの
であって、これらの阿呆どもは、特別とは抑も前例を超える処にある、という単純な理屈さえも理解
出来ないのである。

『見たことがないから偽作だ! 聞いた事もないから嘘だ!』

ったく、悲しい連中ではないか。哀笑。

尚、日興上人は、譲座御本尊を日目上人に授与されし後、大石寺の譲状たる日興跡条々事を以って
日目上人への御付嘱を名実共に決せられたのである。

曰く『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし』

と。

而して、当宗の碩学たる日亨上人は、此の日興跡条々事を以って『正本大石寺に蔵す』と御明示し、
当然の事として正文書とされている。本より我ら富士大石寺の信徒は、日興跡条々事をして日興上人
の御正筆である事を確信するものであるが、応に其の根拠こそは、日亨上人が申される処の「重大な
正史料」とのご判断より更に上の「正文書」であるとの御判断、しかも御正筆である、との御判定に
於いて、我々はより一層の確信を得るのである。

仍って日亨上人は、御文中の『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』の御意について、
『戒壇本尊とは書かれなかったのは、大いにこの味わいがある』として、将来の本門寺戒壇を理想
する、日興上人の悠大なる御真意を汲まれたのである。だからこそ日亨上人は『開山上人はこれを
(戒壇の大御本尊を)弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、
上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古の時代)からか、遠き広布を
待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となったのは、
もったいない事である』と仰せになられたのである。

よいか! この日亨上人による戒壇の大御本尊に対する御教示こそが、上人が成した大研究の根本で
ある、という事をお前らは肝に銘じるべきである!

ところで、この日興跡条々事を、未だ偽書ではないか、つまりは証拠はないが富士大石寺が唯一、
蓮・興・目たる正統・富士門流である事が如何せん許せない、との瞋恚修羅の心で、偽書ではないか、
偽作ではないか、と小騒ぎしている連中も居る様であるが、日亨上人が仰せの如く、本より本状が
御正筆なのであるから仕方あるまい。

尚、これら文献莫迦が小騒ぎしておるのは、其れら大事な日興跡条々事の正本に元号が入っていない
のはおかしい、と云い、正本に於ける添削と写本の多種をして偽書と云うのである。

はて、これらの者。一体全体、どこの馬の骨であるのか。

本より、これらの者をして『馬の骨』と名付けるは、抑も日興上人に南無し奉り、日目上人に感謝申
し上げる者ではないのではないか、という事である。

つまりは、旧信徒たる創価学会員ではなく、弁哲を尊信する一致派であるのか、それとも日志の太刀
持ちたる北山の端くれであるか、それとも閃き相承の顕本であるのか。つまりは、そういう類の骨で
あるか、という事である。哀。

而してもし、其の『馬の骨』の正体が、日興上人に南無し、日目上人に感謝する創価学会員であった
ならば、其れらの者は『馬の骨』どころか『馬鹿の骨』とも成り得るが、もしそうであるならば、
一信仰者として其の面従腹背の醜さに、反吐(へど)が出るというものである。

さて、上記の日興跡条々事への疑難であるが、何れも枝葉末節の難癖であって、本状中『日興が身に
宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』の御文が『日目に之を授与す』に係っておれば、本状の骨子は
其れで完結するのである。

其れは何故か。本より本状が唯授一人血脈相承の御文証であり、まさに相伝授与される御内証こそは、
実に本門戒壇の大御本尊の御魂魄に帰一するからである。

尚、此に付録として枝葉を破すならば、先ず、案文・正本ともに元号が入っていない事について文句
を言うなどは、全く阿呆な勘ぐりであって、其の当時の国家の状況(天皇方対鎌倉幕府)からして、
もしや諫暁、もしや天奏の時、真の弟子たる付属書の提示を要求されて、その付属書にある元号が、
もし敵対天皇及び敵対幕府の元号であったならば、その宗門は、其れこそ敵対勢力から認知された、
或は加担した宗団として拒絶されるのみならず、さもすれば、天奏者は其の場で捕縛されて、遂には
その頸を刎ねらるやも知れないのである。

仍って付属書に於ける元号の記入は、此の当時に於いては無記入というご判断こそが最も慎重にして
正解だったのである。逆に言えば、お前らの様な知恵の浅い者共などは、到底、天奏への準備など務
まらないという事にもなるのである。小笑。

次に正本に於ける添削であるが、要は添削された内容が何であったか、という事よりも、其の添削を
誰が行なったか、という事であろう。

聞けば其れは日興上人御本人であったと云い、又聞けば御本人ではないとも云う。

而して何れにしても、其れは御正筆の上での添削であり、又、其れ以外に加筆があろうとも、重要
本文について御手が入っていない以上、本状を偽作とする根拠などは成立しないのである。つまりは
『見たことがないから偽作だ!』と言っているに過ぎない、という事である。又、だからこそ『鑑定
だ! 鑑定だ!』と大騒ぎするのであろう。

鼻笑。

ったく、わざわざ偽書を作成するのに、其の作成年月日も入れず、しかも本文を削ったままにする
などは、其れこそ、其の偽書としての信憑性、つまり偽作者の目論見自体が損なわれてしまうので
あるから、偽作者は必ず、その意図からして、其の偽書を真書ならしむ為に、作成年月日は入れた
がるのであり、まして本文を削ったままにするなどは、其の目的からして矛盾するものである。

(だから見よ。すでにお前等が本状に年号が入ってない事を以って疑念を呈しているではないか…)
小笑。 つまり其の事を逆に言えば、未記入・添削の其れ自体が御正筆の証しともなるのである。

尚、他門による写本の氾濫については、本より正本が発端なのであるから、後はどの写本が正本に
一番近いか、というパズルのお勉強が残るのみである。

まぁ、時間が有ればやってみても良いのではないか。

何れにしても、日興跡条々事(大石寺譲状)の御正筆は、日亨上人も仰せの如く、富士大石寺に格蔵
されているのであり、其の厳然たる事実こそは誰も動かす事は出来ないのである。

曰く『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし』

と。

仍って日亨上人に曰く『これをもってかんがうれば、本門戒壇にはむろん本門の大曼荼羅を安置
すべきことが、とうぜんであるので、未来建立の本門戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、
大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊である』と。

さて今回、小生から不信心の者共に示した〝御下文〟は、果たして理解出来たであろうか。鼻笑。

『聞いてないよ! 見てないよ! だから其れは嘘なんだ!』 哀笑

もう、いい加減そういう駄駄は止めた方がよろしい。

尚、言っておくが、当文に反論ある者は、先ずは己(おのれ)が信奉する本尊を示し、加えて己(おのれ)
が所属する教団を明示し、更に己(おの)が信条として所属教団の教義に信順するや否やを、信仰者の
資格として其れを宣べるべし!

果たして、其の理由は如何。

本より、己が身を置く教団教義に違背する者に、抑も相手が信奉する教義に批判を加える資格など
無いからである。

そういう信仰の初歩さえ判らぬ者は、先ずは学者の番犬として生きるがよろしかろう!

勿論、そういう類(たぐい)も「だめだ、こりゃ」の一例ではあるが。鼻笑。

まぁ、精々頑張りなさい。

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破邪の欄室、大月天氏の書き込みより転載。

創価学会の信者など在る訳がない

抑も、創価学会員に於いて、我が日蓮正宗の法義に対して文句する元手は、その殆どが日蓮正宗の
上代、又は中代に於ける、枝葉末節の例外部分であり、後は該当する事項が御書に載っているか、
いないか、延いては、其のものズバリの文章が書かれているのか、いないのかを理由にして文句する
しかないのである。それはどういう事か、つまりは、其の元からして創価学会には『教義』というも
のが無いからであり、其の流布する処(ところ)は、須らく日蓮正宗の教義だったからである。

本より、御書に記(しる)されていない事目などは、多々在るのであって、抑も、大聖人の御本懐たる
御本尊の御図顕からして、其の一々などは御書に記(しる)されてはいないのである。

仍って『御書根本』などと云う謳い文句は、其の記(しる)されていない化儀化法に対しては、全くに
して無力なのである。さても『御書根本』などとは言っておるが、其の釈論は一体、どういう相伝を
以って示されるのか。

つまりは、本からして無教義の信者組織が、其の破門後に於いて、俄(にわか)に作成された教義教学、
つまりは、其の不相伝の教学を以って、示された諸御書の一文を解釈するしかないのであろう。

仍って、二箇相承の鑑定書を持って来い、と駄駄を捏ねる学会員や、御義口伝は二の次資料なとど疑
う学会員や、本因妙抄・百六箇抄をして偽書だ、と断定する学会員や、遂には日蓮大聖人は御本仏で
はない、などと云う創価大学の教授などが、ボロボロと出でくるのである。

して、これも皆、相伝の無い新興組織の証拠たる、鵺(ヌエ)現象なのである。哀。

恩師の肉声に云く『創価学会の信者なんてある訳がねーじゃねーか。みんな日蓮正宗の信者だよ。
創価学会に君らに信心してもらうものなんか何もねーよ!』と。

さても、記(しる)されていない化儀、又は、其の周知をして記(しる)す必要のない化儀、そして敢えて
記さなかった化儀。そして又、年代を重ねて行くごとに荘厳される化儀。

本より、お主ら新興宗教の輩(ともがら)に、理解出来る門義ではないのである。

日蓮大聖人に曰く『此の経は相伝に有らざれば知り難し』と。

加えて中興・日寛上人が曰く『口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな』と。

結句は創価、我ら、正統・富士門流に責められて、

『日蓮大聖人の仏法に、別してもへったくれもないんだよ!!』と、其の椅子を蹴飛ばして立ち去る
しかないてのある。哀。

『創価学会に信心してもらうものなんか何もねーよ』

応に此の一言が、創価学会の会長にして、まこと足し引きのない、恩師の偽らざる御指導なのである。

小笑。

『破門されたから、我らの教義を作りました。以後よろしく』

鼻笑。まこと、お目出度い連中である。
http://6238.teacup.com/tsurutaro33/bbs/44155

大月天殿 破折文書

少し辛口を以って申します。

>行学二道を根本に信行し、根本尊崇をどのようにするかが今後の私の課題です。
>しかし管理人様のところのグループの方々は手厳しいようで閉口頓首しておるわけです。

本より信仰の世界とて、其々、十人十色の個性の持ち主が居るのでありますから、其れら対人の成り
行きを信仰の主題とするのではなく、応に御貴殿が言われているとおり、根本の尊崇を以って行学に
励むべきであると心得るべきでありましょう。

>さても、創価外道大儀と為し、小生もそのような扱いを受けながら石山信仰は差別信仰かとの疑念
>を抱いて止みません妻もこちらの掲示板を拝読しておりますが、妻云く『狂ってる』と発狂寸前で
>ございまして、手に負えぬようでしたら一旦精神病院に搬送することも考えておるわけです。

はてさて、我らが正統・富士門流信徒が、現創価学会の教義をして『外道』と看破する事が、御貴殿
からして『石山信仰は差別信仰ではないか』と思い至る処(ところ)に、根本尊崇への疑迷が窺えるの
であります。

本より、正義を以って邪悪を破すは、これ差別に匪(あら)ず。

其の事は、創価学会に於いても教えておりましょう。

はて、其れはもはや昔の事であって、今は四箇の格言を捨てて、池田太作が言う様に、万教同根の
精神を以って、あらゆる宗教が協調して、人類に貢献しなければならない、と教えられたのであり
ましょうか。もし、そうであるならば、其れこそ「外道義」と我らから呵責されるでありましょう。

実に「石山信仰」などと、矮小されておりますが、応に日蓮正宗の宗義こそが、日蓮大聖人の法義に
則ったものであり、其れこそは一門下の寺院信仰などという代物ではないのであります。

其れにしても、当室を閲覧して、奥様が「狂ってる」と発狂寸前になられるとは、何とも心外では
ありますが、精神病院に搬送などとは穏やかではありません。兎も角、御心をお大事にとしか申し
上げるしかありません。当面は、当室の閲覧などは控えられた方がよろしいでしょう。

>日蓮大聖人が差別宗教をこの世に顕したのならば、『変態日蓮経』と戒名をつけてあげようかと
>思うくらいです。即ち、三身即一身は末法の御本佛日蓮大聖人、本門弘通の大導師日興上人を末法
>外道の悪道師に考え直さねばなりません。

ナショナリズム殿。

もし、大法を以って邪教を蔑み、其の低劣な歪教を摧破するを「差別宗教」と御貴殿が思っていると
すれば、其れは大いに問題でありますぞ。もし、そうであるならば、即刻、悔改を以って取り消した
方がよろしい。

いや、さに匪(あら)ず、其れこそは人間の生命に於いて、其の差別一切なし、との御見解で申してい
るとしても、其の人の持する法が、其の人の貴賤を決する、という究竟の法則がある以上、御貴殿が
申される平等観は、あくまで生物の命という次元での発想でしかない、と思うものであります。

而して、其れを言うならば、豚の命と、人間の命に於いて、其の差別はあるのか。もし有るとすれば、
其の基準となるものは何か。して、其の基準を作成したるは、何者であるのか。又、もし差別がない、
とすれば、何故、豚は家畜とされ、我ら人間の食欲によって、殺されるのか。

言うまでもく、相互の平等に於いて、一方が一方の都合によって抹殺されるは平等に匪(あら)ず。
つまり、そこには差別が有るという事であります。

尚、日蓮大聖人は、我ら信徒を指して『愚痴の者ども』と仰せになり『出家は上皇の師、在家は左右
の臣下』とも云われております。

加えて大聖人に曰く『頼基(四條金吾)が良観房を蚊・虻・蝦蟇の法師なりと申すとも、経文分明に候
はゞ御とがめあるべからず』と。

更に申さく『故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・
長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頸をはねよと申す、御評定になにと
なくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召
し出だされぬ、奉行人の云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず
申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・
御存生の時より申せし事なり』と。

さても、邪宗の師は須らく「蚊(か)」であり「虻(あぶ)」であり「蝦蟇(がま)カエル」であり、邪宗の
寺院は焼き払うべきであり、道隆や良観などは、其の頚を刎ねるべきである、とは、当に日蓮大聖人
の御言葉であります。

して、此の御言葉を以ってすれば、其れこそ御貴殿の認識からして『差別宗教』ではないのですか。
となれば、御貴殿が申されるが如く、日蓮大聖人には『変態日蓮経』との戒名が付けられる、という
事でありましょうか。

果たして、小生が示した文を以って、御貴殿に改悟の念が生じたのであれば、憤怒怨嫉の念を捨てて、
即刻、宗開両祖に対する『変態日蓮経』『末法外道の悪道師』等の表記について訂正された方がよろ
しい。批判と謗法の境界線。信心の一分があれば判る事でありましょう。

>日蓮大聖人の御教示を賜れば、『日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は、万年の外未来までも
>流布すべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。この功徳は
>伝教天台にもこえ龍樹迦葉にもすぐれたり。』(報恩鈔)

>要するに慈悲のないところに功徳などはなく、瑪羅門ファミリーになってしまうということです。

言うまでも無く、『慈しむ』と『親しむ』とでは、其の命の発動に於いて差異があります。

本より、境涯の貧しい者には、人を慈しむ事などは出来ません。しかし、同類と親しむ事は出来ます。

仍って、そこにも境涯の差別が生じるのであります。

さても、慈悲とは、正境に因って生じるものであり、又、正境より生じた慈悲を以って、呵責(慈折)
する場合もあります。而して、正境に迷い、邪境に染まれば、其れこそは偽善・小善の類に転落する
のであります。

とまれ、世間の平等観によって仏法を推し量るは、これ創価学会の得意でありますから、もし其れに
同調されているとなれば、いち早く、其れら習慣から脱皮される事を、老婆心ながら願うものであり
ます。

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