創価学会・顕正会・正信会からの脱会を考える会

創価学会、顕正会、正信会からの脱会の相談に応じます。黒川和雄 186-090-9626-7585 当方大阪在住です。 大阪の方大歓迎(#^.^#)

December 2012

恐れることはありません。勇気を出して脱会しましょう。

私の所属寺院は「日蓮正宗大阪南布教区妙輪寺支部法華講」。

お寺は天王寺から阪堺線(チンチン電車)で20分。姫松下車、進行方向へ100m。左側にございます。

妙輪寺住所
〒558-0054
大阪府大阪市住吉区帝塚山東1丁目12-14

日蓮正宗立正安国論正義顕揚750年サークル(会員制・非公開)
全国法華講員のための交流の場です。
http://www.c-player.com/ac56004/intro
法華講員の方は是非御参加ください。

久遠元初の御本仏 最終 Why Nichiren Daishonin is a True Buddha in the latter day of the law.【 Final】

久遠元初22


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久遠元初の御本仏 ⑥ Why Nichiren Daishonin is a True Buddha in the latter day of the law.

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久遠元初の御本仏⑤ Why Nichiren Daishonin is a True Boddha in the latter day of the law.

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久遠元初の御本仏 ④ Why Nichiren Daishonin is a True Buddha in the latter day of the law.

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久遠元初の御本仏③ Why Nichiren Daishonin is a True Buddha in the latter day of the law.

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久遠元初の御本仏 ② Why Nichiren Daishonin is a True Buddha in the latter day of the law.

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久遠元初の御本仏 ① Why Nichiren Daishonin is a True Buddha in the latter day of the law.

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2

久遠元初3

御受戒について・・。

御授戒の戒は「いましめ」と読みます。これは信心を始めるにあたって、仏様の教えをしっかりと守ります、と約束することです。

初めに、勤行・唱題おをします。続いて、受戒者は御僧侶の前にすすんで合掌し、授戒文(じゅかいもん)を受けます。

受戒者は御僧侶に合わせて「持ち奉るべし」(たもちたてまつるべし)と題目を三唱しながら、御僧侶が手に持たれる御本尊様を頭に頂戴して、御授戒が終わります。

授戒文は、とても難しいのですが、簡単に言うと「大聖人様の教えを守って、正直に(嘘をつかずに)、御本尊様を信じて、お題目を唱えていきますか?との質問です。これに対して「はい、しっかりと信心してゆきます」と御本尊様にお誓い(約束)する儀式が御授戒なのです。

日蓮正宗では、入信する総ての人が御授戒を受けます。そして、大聖人様の教えに従って御本尊様をお持(たも)ちし、御本尊様を信じて勤行・唱題していくことが、そのまま戒を持つことになります。

これを「受持即持戒」(じゅじそくじかい)と言います。

また、日蓮正宗の戒は「金剛法器戒」(こんごうほうきかい)と言います。これは、一度「誓います」と約束したならば、たとえ途中で信心をやめて、その報いとして大変苦しい悪道に堕ちたとしても、戒は破(やぶ)られず、やがて戒の徳があらわれて、正しい法と巡り合い、成仏することができると言う、とても素晴らしい戒なのです。

池田大作氏・浅井昭衛氏のような救い難い輩も、いずれ成仏を遂げることが叶うのが此の戒の力用(りきゆう)なのです。

【参考資料】

『御義口伝』
「頭に南無妙法蓮華経を頂戴(ちょうだい)し奉る時名字即なり」(新編 1765頁)

『最蓮房御返事』
「結句は卯月(うづき)八日夜半寅(とら)の時に妙法の本円戒を以て授職潅頂(かんじょう)せしめ奉る者なり」(新編 587頁)

【受戒文】

「今身(こんじん)より仏身(ぶっしん)に至(いた)るまで爾(に)前(ぜん)迹(しゃく)門(もん)の邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持(たも)ち奉(たてまつ)るや否(いな)や」

「今身より仏身に至るまで爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や」

「今身より仏身に至るまで爾前迹門の不(ふ)妄(もう)語(ご)戒(かい)を捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち奉るや否や」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上、mixi千眼院 覚心氏の許可を得て転載。

元創価支部長・現保田妙本寺の信徒 竹本良一君の珍論を破す。ーその①-

【所感】

さて、この竹本良一君とは数回法論をしたことがある。最近では本年3月ごろだったか、当方が「保田妙本寺の人本尊と称する大聖人の御影は「唯のお人形信仰である」と言ったことに対し猛反発をしてきた。「お人形」と下されたことが、相当気に食わなかったのであろうと想像する。真言宗では「本堂」には大日如来等が祀られているが、その他に「太子堂」と呼ばれる堂宇がある。ここには弘法大師の像が祀られている。保田妙本寺というのはこれとほぼ同じ思考なのだ。では、竹本良一君の説により、簡単に現在の保田妙本寺の概要を紹介する。

既に破折済の資料(最近のものから順次下に古い法論へとなっています)
http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/search?q=%E7%AB%B9%E6%9C%AC%E8%89%AF%E4%B8%80

竹本良一君曰く、

①本堂には「人本尊である大聖人の御影像が祀られている。法本尊である曼荼羅本尊は無い。
②保田妙本寺では「人本尊=御影像」、「法本尊は曼荼羅本尊」である。
③法本尊は「お虫払い法要」の時、一年に一回、万年救護の本尊が拝観できる。
④一般信徒の本尊は日興上人の本尊の形木本尊である。

まぁ、こういったことであるが、果たして信徒の各家庭に、彼らが言う「人本尊のお人形」があるのか、法本尊だけなのか、あるいは保田妙本寺の教義に忠実に「人本尊としてのお人形」と「法本尊としての曼荼羅本尊」の両方が祀られているのか甚だ疑問である。要するに保田妙本寺という寺は「未だ本尊が定まっていない」というのが現状だ。

さて、この人間の信仰経歴を簡単に述べる。この人物は、このような経緯で現在保田妙本寺に籍を置いている。

創価支部長⇒日蓮正宗⇒鳥本雄行【元日蓮正宗の離脱僧、放火犯として実刑7年の判決を受け服役中】⇒保田妙本寺

要するに「渡り信仰者」ということだ。鳥本雄行から「河辺メモ」なる創価デッチゲの説明を受け、「本門戒壇の大御本尊は偽物」ということを信じ込み脱講に至ったと言っているが、真相はそうではないであろう。「河辺メモ」なるものは既にそのデッチアゲが証明されているからである。

まぁ、いずれにせよ真実は本人しか分からぬことであるので、ここでは無駄な邪推は論じないこととするが、氏は鳥本雄行にゾッコン惚れ込んでいた時、ホームページ上でこのように述べている。

「随分廻り回りましたがやっと真実の仏法にめぐり会えました。感謝感激、涙が止まりません。一講を任されました」

と後日放火犯で逮捕された、鳥本雄行にペコンペコンと惜しげもなく頭を下げていたのである。

で、鳥本雄行が放火魔で逮捕されるや否や、すぐさまホームページを閉鎖し、一転、保田妙本寺信徒に早変わりし現在に至っている。ここでも同じよう、ペコペコと頭を下げ、人形信仰の総本山に対し、「随分廻り回りましたがやっと真実の仏法にめぐり会えました。感謝感激、涙が止まりません。一講を任されました」とのたまいている。

さて一連の氏の書き込みの「一講を任されました」という言葉に注目して頂きたい。ようにするにこの人物は信仰よりも、「役職」が欲しかったのであろう。これは取りも直さず、当方との対論にもよく出てきた言葉である。その典型の一例を紹介する。

当方が「では、御影像が人本尊であることを御書を以て証明せよ」と問い掛けると「御書根本?、これは創価と同じく御書根本、大聖人直結である」との珍論を吐く。その他あらゆる対論中に同じように「創価・・・・」云々と。これは取も直さづ、心理学的に言うと「回帰願望」があると推察する。要するに創価支部長時代の偉そうに振る舞っていた「偉い自分」が忘れられない、ということに他ならない。最初から日蓮正宗を離脱することが分かり切っていた人物という他あるまい。

さて、その後、当方の質問である「では、御影像が人本尊であることを御書を以て証明せよ」という問いに対し、出してきたのが、日我の文献であった。「どうだ!」と自慢げに出してきたのであるが、当方の質問は「御書根本というのであれば、日蓮正宗歴代猊下の文証を出し、お人形が人本尊であることを証明せよ」ということに他ならない。莫迦である!当方の質問を誤魔化しているのだ。ついに追いつめられた竹本良一君は日寛上人の「観心本尊抄文段」及び、「法華取要抄文段」を出したのであるが、この文段のどこにも「人本尊=御影像を拝みなさい」との記述は見当たらない。これら文段は「人法一箇の曼荼羅本尊が大聖人の魂であり、その究極の本尊は本門戒壇の大御本尊である証明文」なのです。まさに習い損なった人物と言わざるを得ない。また保田妙本寺という寺は「人法別箇」の邪宗と言わざるを得ない。

そもそも大聖人の記述に「御影像=人本尊」という記述は皆無である。従って歴代御法主上人の記述にもそのような記述は無い、このことは日蓮正宗が即ち、大聖人の正当門下であるという証明である。しかしながら氏が示した日我の文献には「人本尊=お人形」という記述があるのだ!大聖人の教えに無いものが保田妙本寺に存在するということは「途中の習い損ないの人師によって正法が歪められた」という証明であり、竹本良一君自らが異流義を証明したということに他ならない。

以上であるが、氏は最初から最後まで、「お人形信仰の正当性」を証明することは出来なかったのである。

では後日より、各論に入り、氏の珍論を破折する。

http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/54308431.html



保田妙本寺のルーキー、竹本良一君、またもや敗北!

日蓮正宗側=黒川和雄
保田妙本寺側=竹本良一

■■■■■■■■■■
さて、私は日記にて数品の食品添加物の危険性を紹介させて頂きました。

コーヒーフレッシュ、コンビニのおにぎり、スーパーで売られている安物のミートボール…。

これらのニセ商品を私たちは「本物」と思い込み「買わされている」のであります。

そして「美味しい!」と!!

これは創価のニセ本尊にも通じますね。創価員曰く、「君たちがニセという本尊で僕は功徳をもらっている、だからニセではない!」と・・・。

一連の創価員の功徳というものは食品添加物と同じであり、「功徳風味のニセ功徳」ということです。

但し、食品の場合は毎日食べ続けるわけではありません。しかし信仰というものは深く自身の心の中に入り込み、自身の生命を犯し続けるのであります。功徳風味のニセ功徳を食べ続けると、どうなるでしょうか??

大聖人様はこのように仰せであります。

「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣・万民、始めは事なきやうにて終(つい)にほろ(亡)びざるは候はず」」(聖人御難事)

最後には地獄に堕すということです。保田妙本寺も同じです。正信会、顕正会も同じです。

■■■■■■■■■■プチ法論開始■■■■■■■■■■
保田妙本寺

師走でんな(´∀`)。。【食品添加物 vs 本尊】でっか〜。
かなり牽強附会の僻見やね・・・それは。
何せ大聖人曰わく『法華経の題目 を以て本尊とすべし』や、
創価のCG本尊、身延の土産物本尊、オタクらの毛筆本尊、悉く本尊でっセ。
無茶言うたらアキマヘン。
『法華経の題目』=本尊でおます。
誰ぞの専売特許やオマヘンで。

法華講

おう、竹本良一君じゃないか! 
添加物本尊いや、添加物のお人形は元気かな??

保田妙本寺

ワヤクチャ言うたらアキマへん。
謗法でッセ。
===============================
【日興上人御遺跡の事」】
日蓮聖人御影竝御下文、園城寺申状、上野の六人の老僧方、巡に守護し奉る可し、
但し 本門寺建立の時は本堂に納め奉る可し、
此の条 日興上人の仰せに依って支配奉る事此の如し、
此の旨に背き異を成し 義を失たらん輩者 永く大謗法成る可し、
仍誡之状件如し
一、日蓮大聖人御影
一、御下文
一、園城寺申状
正慶ニ年癸酉二月二十三日
日善(花押)
日仙(花押)
日目(花押)
===============================
▲さ〜テと、戒壇板漫荼羅チュ〜のはオマヘンで。ヽ(´o`;
どないしまヒョ。

法華講

アハハ、竹チァンらしいね、で、お人形を拝むべし、とどこにありますか? 竹チァンはそれを証明しなきゃね!

また北海道の放火魔みたいな保田に騙されますよ。

保田妙本寺

その前に弘安2年10月12日チュ〜のは何の記念日オマすヤロかいねぇ?
証明してみなはれ!

まぁ、この先、本気で応酬するのも、構いまへんが、
貴兄の名誉もあるやろし、
同じ名誉でも【幻の名誉会長】さんを
喜ばすだけヤネ。

> 北海道の放火魔
◆古るゥ〜!!
何処の務所にお勤めか知りまへんか?(^O^)


法華講

証明してみなはれ、とのことですが既に半年も前に証明済みです。再アップしますか? で貴殿、住職さんが近々「お人形さん信仰の正当性を論文にする」と言っておられたが、どこにありますか?

保田妙本寺

【再掲】

> 既に半年も前に証明済みです。

スマンの〜。
オタクらの勝手なルール抜きで証明してミ。
誰もが得心する科学的な方法でナ。

> 正当性を論文にする

論文いらんでしょ。
2012年12月5日 15:59
【日興上人御遺跡の事】に詳述されてマ。

それより、
創価出身者は、大石の寺ではどこまでも準信徒扱いらし〜ノ。
ゆえに、
根檀家さんなら誰でも知っている
御影尊を「お人形さん」としか分からんのだナ。

そうそう、
創価出身者は、ペラペラの紙本尊しか下付されんからネ。

お気の毒〜ポテチン。

ホナマタ

法華講

> 保田妙本寺さん

創価出身ね〜、貴殿は放火魔出身ですか?(>_<)

でお人形、抱いてお寝んねしてまんのん?

保田妙本寺

まあ、法華趣味もよろしいけど、
そろそろ創価イジメも飽きたから、
商売に勤しみまっサ。
おおきニィ〜*\(^o^)/*

法華講

老人廃人のゴミ箱だ。

保田妙本寺
創価ズリ薫習者の掃き溜めが、大石寺やな。
数珠は揉んだらアカン!

法華講
法華講員の9割以上が、
元創価員じゃ〜、

そだろうね、で、それがどうしたの?

http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=25695067&id=1883685095

保田妙本寺

ワカラン人やね。
創価が広めた日寛教学、創価が霊感商法もどきで収奪した往時の資金で成り立っている(創価の燃えかすに等しい)大石寺にしがみつくような恥を捨てて、伸び伸びと御信心なさることです。

ましてや、創価狂学で強迫的に植えつけられた【神天上の法門】などの恐怖から逃れて、元旦は大阪の人なら住吉大社さんへ、京都の人なら八坂さん、東京もんなら明治神宮へ初詣にお参りしなはれや。

心身ともにスッキリしまっせ。

法華講

はよ、ぼくを破折しなはれ
三沢抄の「内々の法門」とはなんだ?

無駄口がどうも貴殿はお好きなようだね。

保田妙本寺

貴兄は、パナソニックと言えずに時代遅れの松下電機を語るような方ですね。
まさにこのあたりの柔軟性が無い化石のような硬直性が、創価教宣部とウリだね。
流石!創価仕込みの狂学だけのことはある。

いいですか!
『三沢抄』で説かれる「内々申す法門」とは、
『観心本尊抄』、『開目抄』の二大重要御抄に蓮祖の真実の教えをお説きになられているということをご教示なさっておられるのであって、
禁止内々申す法門が、最近できた新興宗教大石寺教の坊さんの脳ミソの中身を内々と言っているのではないですぞ。

もっとも、
法華経読誦を所破&所用と勘違いし、
その法華経を説いた釈迦如来を脱仏と唾棄するのだから、
そもそも、創価&日蓮正宗のコラボでは、 法華経に書かれている事を無視した相伝(?)を以信得入しておるのですから、
話しになりませんぞ。

恥を知りなさい!

法華講

アハハハ、貴殿オツム 大丈夫か?
観心本尊抄は1272年作
開目抄は1273年作
三沢抄は1278年作

一人で頑張りなはれ! ゲラゲラゲラ

保田妙本寺
アハハハハハハハ。。。
さ〜て、時系列を出すとヤバイぞ。

貴殿が準信徒として所属している宗派では、
10月1日、御述作の聖人御難事を出世の本懐としながら、
その12日後の板(痛)本尊のことが触れられていないのだね?
所生になってご高説を拝聴しようではないか!

せいぜい恥を拡散しなはれ。
体のイイ逃げ口上だね。
貴兄は、
【一切衆生悉有仏性】を信解出来ていないネ。

まぁ貴兄の実力からすれば、
大作(タサク)誹謗をまともに相手するアベヒくらいが程よいでしょう。

安房妙本寺を背伸びして論難するにはまだ早いね。

せいぜい、
素行の良い創価員さんだけを相手してなはレ。

アハハハハハ

まあ金輪際
> 最後には地獄に堕すということです。保田妙本寺も同じです
などと背伸びした発言をしないことですな。

チマチマと不相伝の(日)道門の仲良し、
創価宗と権勢を競う範囲に止めておいた方が、
貴兄のキャラが活きるちゅ〜もんです。

せいぜい初詣は、
名刹「太鼓橋」の住吉さんでもお参りして、
スッキリなさってくださいや。
ぷっくっくな顔マンマンチャン・アンあせあせ

あ!上京の折にはぜひ蓮祖正嫡の
安房の妙本寺の参詣をお忘れなく。

ほんならまた。

ナマンイダ〜、ナマンダ〜
ポテチン衝撃

法華講

貴殿は駄文が多いのが欠点ですね。
全く真面目さが感じられません。

保田妙本寺

駄文ね。。。
所詮、
真偽定かでない(ホンマかウソか判らん)信仰じゃないですか!
法華趣味もほどほどに人生をエンジョイなさってくださいや。

逆に「自讃毀他」の信仰は、
十重禁戒の第7に違背する謗法です。

ホドホドになさって下さいね。

法華講

アハハ、それは僕が竹チァンに言うセリフだよ。人法別箇の宗派だからね。人法別箇の正当性を教えて下さい。

保田妙本寺

貴兄は「人法一箇」しか理解の及ばないようですね。

基礎的な用語からお勉強しましょう。
オタクらの先師も(←パクリ法門)いわく、
『久遠本因妙の釈尊、人法体一なる事の一念三千・・・』やないですか。

分からんようなら1つ問いましょう。

富士山オタクら(大石寺)の本堂はどこにありますか?

法華講

駄文と憎まれ口は止めましょうね。

人法別箇の証明をしてください。質問返しはしないことですよ。

保田妙本寺

質問返しではありません。

演繹法では理解が及ばないようなので、
帰納法で理解を促しているのです。

ですので、
(大石寺)の本堂はどこにありますか?

そこから理解を深めましょう。

法華講
アハハ、竹ちゃん、大変だね、貴殿10ヶ月前から一歩も進歩していませんね。

貴殿の言いたいことは、昔の本堂は御影堂である。御影堂には本尊と御影像がある。だから上代は法と人を分けており、人法別箇だとね。これって既に本年二月に破折済みのことであり、貴殿は反論不能であったのと違いますか??
http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53623064.html

一句献上、

「保田の駒 動けば 功徳千倍 人形屋」

保田妙本寺

ようやく答えが返って来たようですね。
お疲れ様。

それでは、
その御影堂(本堂)に、
「板」漫荼羅が安置されたのは何時ですか?
正確な記録文書を持って証明してください。

法華講

http://youtu.be/RIS2nbzKoyo

保田妙本寺

(゚Д゚≡゚Д゚)?〜。
一生懸命なのは分かりますが、
「板」漫荼羅が安置されたのは何時ですか?
正確な記録文書(モンジョ)を持って証明してください。
答えになってませんね。

法華講

御本尊のことは御本尊に書いてあります。

寛永9年(1632) 敬台院殿日詔、御影堂を寄進

延宝7年(1679) 御影堂本尊(宗祖本尊模刻)造立

本尊脇書(日精上人)

「深見広信 之を彫刻す。願主□本市左右衛門 江戸下谷常在院」

では

保田妙本寺

ほぉ〜。

貴説に拠ると、
敬台院が御影堂を寄進するまで
「本堂は無かった」となりませんか?

法華講


いや、有ったでしょう。

日精上人著の家中抄、「日鎮伝」に、こうありますから。

 「大永二壬午年伽藍を建立す、所謂本堂、御影堂、垂迹堂、諸天堂、惣門等なり]

ですから敬台院が建立する、更にその前に本堂と御影堂があったのですよ。それをまとめたのが敬台院寄進の御影堂ですね。

で、それがどうしたのでしょうか? 

保田妙本寺

> いや、有ったでしょう。

随分、頼よんない回答ですが、
クロ爺の想像では「あった」のですね。

※これ↓ですね。
http://sudati.iinaa.net/mieidou/keidaizu.gif

それで、
「あった」とされる所謂(いわゆる)「本堂」には、
何が祀ってあったのでしょうか?

さらに、
> それをまとめたのが敬台院寄進の御影堂
には、何が祀ってあったのでしょうか?

おおよそ、富士八本山の境内は、
山門をくぐると石畳の階段があって、
その突き当たり正面には本堂がありますね。

例えば、日興上人との縁が濃密な北山の場合、
http://park16.wakwak.com/~honmonji/hondou.html
のとおり。

西山も(犀角ポッポが記していますが)
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51802166.html
のとおり。

何処も、
祖師堂もしくは御影堂=本堂であり、
当然、そこには御影尊(一部では御尊像とも称す)が祀られています。

つまり、
富士八本山=日興門流の化儀に於いては、
御影尊(一部では御尊像とも称す)を根本とするのが、
相伝なのでしょう。

法華講

御影尊(一部では御尊像とも称す)を根本とするのが、
相伝なのでしょう。

■■■■■■■■■■

相伝ではないでしょう。貴殿の言う相伝とは化儀のことかい?
大石寺の相伝とは、唯受一人の血脈相承です。

御影堂というのは御影様が祀られているので御影堂というのです。御影堂に御影像があるから御影像を拝む??藁

では、御影像を拝みなさい、という文証をおだしなさいな。藁

保田妙本寺

> 文証をおだしなさいな。藁

出た〜。創価狂宣の慣用句。

そもそも「文証」とは証拠が無い場合に引用するもの。
伝統化儀として伝承されているものに今更「文証」は要らんでしょう。

そうするとだな、
大石寺で多額の資金を投じて、
建て替えている御影堂の御影さんは、
拝ませるのものではなく、
陳列のオブジェなんだな。
どうだ!

法華講

建て替えている御影堂の御影さんは、
拝ませるのものではなく、
陳列のオブジェなんだな。
どうだ!

■■■■■■■■■■

君は本当にオバカさんですね。大石寺が今のように広大になったのは戦後ですよ。

上代では、恐らく建物の数、多くは無かったでしょう。従って本堂、御影堂、垂迹堂ぐらいだったのでしょう。小さなアパート暮らしの人は、仏間、リビング、寝室、全てが兼用でしょう。・・・何も大石寺に限ったことではない。他宗のお寺もそうでしょうね。

貴殿の保田妙本寺が富士門流を語るのであればその源流である大聖人の教義に基づいて話を進めるべきであります。大体において、大聖人御在世時代に大聖人の御影像があるのかい??莫迦も休みやすみいいたまえ。 要するに貴殿の反論は教義に基づかず、ただの「阿呆の喚き声」ということです。

保田妙本寺

> それだけですか。
アジェンダは山盛りですねんけど。…

逃げたらアカンよ。

大石の寺の御影像は、
◆陳列のオブジェ◆なのか、違うのか?
教義に照らして答えてちょうだいや。

速よ、早よしてな。

あとのアジェンダに進めまヘンよってに。

法華講

教義に照らして答えてちょうだいや

■■■■■■■■■■

アハハ、御影が大聖人御在世に存在したのか、否や!!!
勝負あり!

貴殿頭大丈夫か?

宗祖日蓮大聖人の教義に無いものの正当性をいくら叫んでみても意味はない。

貴殿は一体何を信仰しているのですか? 形式信仰か? すでに大聖人の御書を通してお前さんの愚論は破折されている。

まぁ、せいぜい負け犬の遠吠えを思い存分言いなさい。

「キャイーン!」とな…。

以上を以てこのプチ法論を終了する。

===================負け犬の遠吠え集==============

相変わらずスカタンやの〜(爆笑)

> アハハ、御影が大聖人御在世に存在したのか、否や!!!

誰が、御在世に造立せられたと申しましたか?
▼拙論
<<大聖人滅後、日興上人が相伝を以て造立された御影尊が初造立である。大聖人の三回忌に造立>>
http://nichiren-tokyo.seesaa.net/article/245067453.html

(小生)大石の寺の御影像は、
◆陳列のオブジェ◆なのか、違うのか?
教義に照らして答えてちょうだいや。

>(クロ爺いわく) 要するに貴殿の反論は教義に基づかず、

要するに、
(クロ爺は)教義では御影像の説明は出来なかった。

反論不能でクロ爺大敗危険・警告
〜ポテチン〜

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

敗者復活の慈悲を与えよう。

(問う)古来、大石寺宗では寺院のみならず檀家宅では御影尊+漫荼羅本尊がセットで祀られているが、
では、戦後勃興した某新興教団の幹部が、大石寺の御影堂に入堂した際、
『あの人形はなんだ』と言ったという有名な話しがあるそうだが、
その新興教団の名称を挙げよexclamation & question

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はい。クロ爺の敗走決定exclamation ×2
♪(*^-^)ノ■☆■ヾ(^-^*)♪

> 宗祖日蓮大聖人の教義に無いものの正当性をいくら叫んでみても意味はない。
> すでに大聖人の御書を通して

手(パー)これって、
創価狂宣部の言う
『御書根本』
『大聖人直結』
の同義語でんな。

いやしくも、日興門流・富士八本山に於いては、
当たり前に祀られている宗祖御影像を最後まで「お人形」と揶揄する。

これもまた、
かつて創価幹部であった和泉覚が、
総本山の御堂に入堂した際、
『あの人形はなんだexclamation & question』と言ったという有名な話しに共通する日興門流の化儀に『無知』であったことを如実に示すものでありましょう。

貴兄は、日興門流・富士八本山属する信者なのか?
はたまた、
『人形が邪魔で漫荼羅本尊が見えんではないかexclamation
と、細井日達を罵倒して、
宗祖御影像を脇にドケさせた、とされる戸田城聖の弟子なのか?

ハッキリさせることだ。

それが出来ないなら、
今の貴兄の立ち位置は、
創価門下の脱会組信徒に留まっておくことだ。

マンマンちゃん、ア〜ン。
*ポテチンるんるん

ーーーーーーーーまぁ、せいぜい頑張りなさいーーーーーーーーー

所感

要するに御影堂なるものは大聖人御在世時代にはなかったものであり、当然宗祖大聖人が御影堂及び、御影像に関し、その存在意義述べられたことは無いのである。つまり教義に無いものに対しいくら法論をしても無駄ということだ。つまり現在の保田妙本寺には法本尊と人本尊を区別し祀るという人法別箇の邪義を唱えているのである。

大聖人の教義は何処までいっても人法一箇の御本尊にあるのであり、その究極の本尊は本門戒壇の大御本尊に収まるである。

保田妙本寺側に人法別箇の文証を出しなさい、と問えば、全く出せないのだ。哀れなものである。

それにしても保田妙本寺の莫迦者は御影堂がどうのこうの、全く莫迦というしかない。既に頭が真っ二つに割れているのであろう。

以上、























創価発行の怪文書「フェイク」のデタラメを破す。

【平成24年12月8日発行分】

>「驚嘆スヘキ戦果 感謝ニ堪エス」と訓諭
>開戦の日に想う 軍部に媚び諂った日蓮正宗
>時の法主・日恭は大石寺の大火の中で焼死

>きょう十二月八日は昭和十六年(一九四一年)に日本軍がハワイ・真珠湾の米軍基地を攻撃し、
>約三年半に及ぶ大戦の火蓋が切られた日である。この日、当時の法主・鈴木日恭(六十二世)は
>「宗内一般」に対して「訓諭」(下に掲載)を発した。その冒頭、日恭は「本日米國及英國ニ對シ
>畏クモ宣戦ノ 大詔煥發アラセラレ洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)感激ニ堪エス」と述べていた。

>宣戦布告について「恐懼感激ニ堪エス」、つまり「恐れ多くも感激した」という。法主自らが
>「訓諭」で日本が戦争を始めたことに感激したと明かしていたのだ。


先ずは爰(ここ)までとしよう。

鼻笑。其れにしても此奴、当文中の「感激」の意を単に「感激」という文意を以って解釈しておる。

バカよ。ここで仰せの「感激」とは、応に記(しる)されている処(ところ)の「恐懼(きょうく)感激」
の意であって、つまりは「有り難さに恐れ謹み、深く感じ入って心が奮い立つ事」の意であり、別に
戦争を始めた事に関して感動しているものではない。つまりは天皇陛下が大国米英に対して宣戦布告
の大詔(おおみことのり)を決せられた、その陛下の御決意に対して「恐懼感激」したものである。

…哀。

それにしても何でお前らはそーやって、物事の深意を軽口するのか、つまりは其の脳髄が軽いのか、
つまりは莫迦という事なのか。つまりは、フェイクを発行する者共などは、物事を単純に、しかも
幼稚に理解する事しか出来ない、脳足らずの連中だと云う事である。加えて、それら単純フェイクを、
何の疑いもなく、其れこそ夢遊病者がごとく掲示板に貼り付ける連中などは、小生からしてハエの脳
よりも軽い、人非人の痴れ者であるという事を、ここに断言しておこう。哀。ったく、哀れな連中で
はある。

次!

>更に、日恭は「訓諭」の中で「幸ヒ帝國ハ御稜威ノ下忠勇無双ノ陸海軍アリ既ニ戦端開始第一日ニ
>於テ驚嘆スヘキ戦果ヲ挙ケラル我等感謝ニ堪エス」とも述べていた。この「御稜威」とは神格を有
>する天皇陛下の威光という意味であり、「現人神」の下にある陸海軍が開戦日の十二月八日に多大
>な成果を挙げたことに「感謝」し、海軍機動部隊による真珠湾への奇襲攻撃の戦果を「驚嘆スヘキ」
>と喜んでいたのであった。

小笑。

本より、其の当時に於いては天皇陛下の御威光は絶大であり、其れこそは日本国民からして「現人神
(あらひとがみ)」として尊仰されたのである。

果たして其れが何なのだ。

初代・牧口会長が云く『今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち 天照大神を初め奉り、御代々の
御稜威は現人神であらせられる 今上陛下に凝集されてゐる のである。されば吾々は神聖にして犯す
可らずとある 『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には 天皇に帰一奉るのが国民
の至誠だと信ずる』と。(昭和17年12月31日/於:創価教育学会第5回総会報告の座談会)

よいか。ここでいう「驚嘆」とは、お前ら教宣部が翻訳する「喜んでいた」などという意味ではなく、
思いも呼ばぬ物事(結果)に対して「驚き感服した」意を述べたものである。ったく其れを「喜んだ」
などと単純に理解しおって…。お前らはまことに阿呆か。哀笑。

尚、言っておくが大東亜戦争は、抑もが侵略戦争に非ず、これこそは米英らによる経済封鎖という
「兵糧攻め」に対する国土防衛戦であった、という事をお前らは理解すべきである。つまり、真珠湾
への奇襲は、国土防衛の一端であり、侵略を目的として為されたものではない、という事である。
いや、其れよりも米国は、日本からの宣戦を待っていた節がある。ったく、そういう事も考えずに、
単純に痴文を連ねるお前らこそが「阿呆」なのである。哀

>そして「本宗宗徒タルモノ須ク聖慮ヲ奉體シ 佛祖ノ遺訓ニ基キ平素鍛錬ノ信行ヲ奮ヒ(中略)
>未曾有ノ大戦ニ必勝ヲ期セムコトヲ 右訓諭ス」と結んでいる。
>「聖慮」、即ち「現人神」である天皇陛下の考えを戴いて「佛祖ノ遺訓ニ基キ」
>つまり、日蓮大聖人の教えのままに戦争に勝利するよう呼びかけていた。

バカよ。当時の大日本の国民をして敗戦を祈る莫迦がどこにおるか!!
居るとすれば、お前ら外道のみであろう! いや、共産党も日本の敗戦を祈っていた、という話も
耳にした事がある。つまりは、お前らこそが平成の売国奴なのである!

ったく、自分の息子が米兵と戦火を交えるに「戦争は悪だから負けて来なさい」と諭(さと)す母親が
どこにおるのか! いや、居るとすれば、最早お前ら創価外道信者の類(たぐい)しか居らんだろう!

言うまでもなく、本門寺の大戒壇建立を大聖人の御遺命と拝し、平素から信行学の鍛錬を望んで其の
達成を願うは是れ富士大石寺の根旨であり、其の為を思って土台たる国土日本の勝利を願うは当然の
事ではないか。

よいか、其の開戦当時に於いて、日本国が戦争に負けるよう願い呼びかける宗教団体など有ろう筈も
なく、本より創価学会に於いても、戦勝の祈願は当然に為されたのである。

云く「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る、といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を
安堵せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以である。それは銃後に
於けるすべての生活の理想の要諦でもある」と。(牧口常三郎全集/第10巻129頁)

よいか、今になってお前らは「反戦・平和」などと美辞を並べておるが、其の当時に於ける学会の
原点は、天皇陛下への尊崇であり、其の皇国をして戦勝を期さんとする、報国教団であったという
事を先ずは知るべきであろう。よいか、其の当時に於いて『報国』は国民の義務であり、集団組織に
於いても必須とされたのである。果たして金属が要る、木材が要る、それが無ければ戦線に於て支障
をきたすとなれば、日本国に在する者として鋭意拠出するは当然の事ではないか。

>この他、僧自らが伊勢皇太神宮の神札を受容したばかりか、信徒にも神札を受けるよう強要したの
>をはじめ勤行の御観念文の改変、御書の要文の削除など宗旨建立以来、未曾有の大謗法を犯した。

小笑。何度も言わせるでない。宗門は神札を単に受け取ったのであり、宗門をして祀ったものでは
ない。つまりは、便宜上受け取って、その後は「放置」したまでの事である。別に何て事はない。
其れにしても「強要」などと…。呆笑。其れこそは「教導」であろうが。

日亨上人が曰く『広布の道程にある間は為政者に対して理を責め道を推して・臣民の礼節を全ふして・
諌暁し上ることは、無論なりといへども熱心に激して妄断する事はあるべからざるなり』と。
                            (富士宗学要集/第1巻159頁)

つまり、神札の受け取りを拒否し、憲兵の前で焼却し「我こそは日蓮大聖人の御教えが如く謗法厳戒
の正僧なり! 今こそ神道の邪義を摧(くだ)いて天皇尊崇の邪想を破すものなり!」と声高々に叫ぶ
ことが「妄断」なのであり、其の「妄断行為」を推奨するお前らフェイクこそが馬鹿なのである。

哀。

何、御観念文の改変とな。では此れも拙(まず)いのか。

●〔初座〕生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・
     天照大神・正八幡大菩薩等惣じて法華守護の諸天善神・諸天昼夜常為法故而衛護之の
     御利益法味倍増の御為に

●〔四座〕奉祈念(きねんしたてまつる)・天皇陛下護持妙法・爾前迹門の謗法退治・一天四海
     本因妙広宣流布大願成就・御祈祷の御為に。

言っておくが、上記の御観念文の内容は、小生が少年部員の時に持っていた勤行要典に記(しる)され
ていたものである。これが拙いのか。ならば、創価学会も謗法団体であった、という事になるよな。
本より「天照大神」とは皇祖神の事であるが、其の神をして法味を求めんとするに、其れを謗法とは
何とも阿呆な連中である。お前らは御書をもっとよく読みなさい。哀笑。

尚、一部御書の削除などは、其の時の「対処」であり、別に削除した内容を否定したものではない。
ったく「削除」する事と「否定」する事の区別も判らぬ莫迦者め。

>その結果、終戦二か月前に大石寺は客殿をはじめ主要な堂宇を焼失。日恭は大奥の食堂の竃(かまど)
>に嵌まって焼死した。その姿は、上半身は真っ黒に焦げ、下半身は生焼け状態だった。
>この日恭の焼死を宗門側は「覚悟の自殺」と説明したが、竃に入って自殺する者などいない。
>酒豪が高じ腹部がビヤ樽状に変じた日恭は逃げ遅れたのであり、明らかに大罰の現証である。

小笑。しかし、性懲りもなく、未だに此の様な事を言っておるのであるから、お前らは本当に馬鹿で
あるよな。果たして一体、ビヤ樽状に肥大した腹部が、逃げ出せぬ程にすっぽり嵌ってしまう竈とは、
どういう竈であるのか。小笑。お前らは、その竈の寸法を提示しなさい。出せるかバカよ。鼻笑。

恩師が云く『焼けただれた管長室には、第62世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔に自ら焼き、
端座したままの姿であられたのである。しかも、正装であり、袈裟をかけた、お姿である。そして、
一閻浮提総与の大御本尊を、御安置した、御宝蔵の方に向かっていた』と。
(人間革命 第1巻「千里の道」)

果たして小生が男子部時代『現代の御書』と教わった上記人間革命第1巻の内容と、お前らフェイク
が述べる事と、一体どっちが本当であるのか。して、お前らフェイクの痴文が本当であるならば、
お前ら自らが『現代の御書』を改変した事となり、宗門の戦時下に於ける対処について一々文句する
資格など無くなるのである。其れよりも何よりも『ビヤ樽状に変じた日恭上人が竈に嵌って焼死した』
などと云う証言を誰から得たのか。其の氏名なり証拠なりをお前らは此に提示しなさい。こちらには、
上記人間革命に記された内容に沿った証言がある。莫迦よ。早く証拠を出しなさい! 哀笑。

>国をあげて戦争へ突入していった時代とはいえ、軍部権力に媚び諂った日蓮正宗には、大聖人の
>末流を名乗る資格はない。

鼻笑。

国をあげて戦争に突入していない、この平成の時代に於いて、立正佼成会や神社本庁に媚びるお前ら
池田創価学会に、日蓮大聖人の末流を名乗る資格など無いし、まして直結の信心など笑止千万である。
お前らこそは戦時下に於ける宗門の対処を中傷する前に、其の腐りきった根性を立て直すべきである!

云く『世界平和の確立や文化の振興など有意な活動を推進しておられる貴団体(新日本宗教団体連合会・
全日本仏教会・神社本庁)をはじめ宗教界の皆様方とは、本来ならば公党として、広く御意見などを承
(うけたまわ)る機会をお願いすべきでありましたが、従来心ならずも疎遠になっておりましたことに
ついては、大変申し訳なく存じている次第であります』と。(平成11年10月7日/3団体挨拶文)

哀。創価をして国家権力に進出せる公党の挨拶文。読んでいて反吐(へど)が出る。果たして『従来心
ならずも疎遠になっておりましたことについては、大変申し訳なく存じている次第であります』とは
何ぞ!! 是れこそは恩師戸田先生による邪宗撲滅・大折伏戦などは「心ならずも」の事であったと
云う事か! 「大変申し訳なく存じている」とは如何なる事か! ふざけるものではない!!

外道創価よ。加えて痴文をフェイク(偽物)に載せてほくそ笑む莫迦者どもよ。一体お前らに邪宗謗法
を語る資格など有するのか。鼻笑。有るわけが無かろう。哀笑。あまり笑わせるものではないぞ。

尚、当室は今後、怪文書フェイクの痴文を順次破折していく所存である。又、其れこそは夢遊病者が
如く漫然とフェイクをベタ貼りする、無能者どもへの呵責も含めてのものである。

いずれにしても、莫迦と阿呆には『言葉のげんこつ』を加えるしかない、と云う事である。
まして其れらの者共が、邪義に染まったバカとアホであれば尚更の事である。

フェイク、これこそは莫迦・阿呆が生(な)せる下賤な発行物である。今にして容赦するものではない。


※破邪の欄室、大月天氏の投稿より転載。

正法を誹謗した人間は必ず「十五の悪相」を現じ、無間地獄に堕す。

死後の世界は必ずある。

阿闍世王が釈尊に質問をしたというのです。「仏様、あなたの言われるとおりなら、悪衆生は死後、地獄に堕ちるわけですが、どうして、それを知ることができるのでしょうか。誰か、見てきた人でもいるのでしょうか。また、死後に餓鬼界や畜生界に堕ちる、あるいは人界や天界の衆生として生ずる、ということを、どうして知ることができるのでしょうか。誰か、見てきた人がいるのでしょうか」と。

これは今日においても、世間の謗法の人々を折伏した時に、往々にして出る質問であります。「死んだ後のことなど、どうして分かるのか」「死んで帰ってきた人はいない、誰が見てきたのか」等という質問がそれです。

これに対し、釈尊は「よく聞きなさい。わかるように説明してあげるから」と言われて、臨終の相に差別があることを説かれています。

すなわち、「人が命を終えて地獄に堕ちた場合には、15種類の相が顕われる。餓鬼界には8種類、畜生界には5種類、人界・天界にはそれぞれ10種類の相がある。だから、臨終において、15種類の地獄の相が顕われたなら、その人は地獄に堕ちたのである」と仰せられたのです。

何故、このように臨終の相に違いが顕われるのか、といいますと、生と死の境である臨終は、一生の総決算であるとともに、死へのスタートです。それ故、臨終の相には、その人が生前、どういう生き方をしてきたのか、死後、その生命がどうなってしまうのか、ということが如実に顕われるのであります。

もし臨終において、皆、同じ相になって差別がなかったなら、死後に成仏や堕地獄という差別がある、といっても信じられないかもしれません。ところが、臨終の相には厳然たる違いがあって、正法を信仰して成仏した人は成仏の相、謗法を犯した人は地獄の相になって、亡くなるのです。

つまり、死後の命に差別があるからこそ、その違いが臨終の相に顕われてくるのである、と釈尊は示されたのです。

では、地獄に堕ちた場合の15の相とはどのようなものか、一つずつ見ていきましょう。

「一には、自らの夫妻・男女・眷属において悪眼をもって瞻視す」ーー集まってきた家族などを険しい目つきで見上げる。臨終の時には、すでに地獄の苦しみが始まっていますので、恐怖と苦しみのあまり、黒目が上を向いて、険しい目つきとなってしまうのです。

「二には、その両手を挙げて虚空を捫す」ーー悶絶して、手で空を掴む。

「三には、善知識の教に相い随順せず」ーー臨終に至ってなお、成仏の法に従おうとしない。周囲でお題目を唱えるように言っても、嫌だといって従わない、という姿です。

「四には、非号啼泣嗚咽して涙を流す」ーー狂乱して泣き叫び、嗚咽して、涙を流す。

「五には、大小便利を覚せず知ぜず」ーー本人の意志と関係なく、大小便が垂れ流しになる。

「六には、目を閉じて開かず」ーー苦しみのあまり、固く目を閉じてしまう。

「七には、常に頭面を覆う」ーー苦しみのあまり、手で顔面をかきむしったり覆ったりする。

「八には、側に臥して飲す」ーー倒れたまま飲み食らう。本当に、喉が渇いたり、お腹が空いたというのでなく、神経に異常をきたして、手あたり次第に飲み食いする、という状態です。

「九には、身口臭穢なり」ーー身体が腐って、口や皮膚の毛穴から腐敗臭が出てくる。これは、医療に従事している人からよく聞く話です。たとえば、癌の患者が亡くなる時などは、生きているうちから凄まじい臭いが出て、病室の前を通っただけで、身体に臭いが移ってしまうことさえあるそうです。

また生前に限らず、臨終の後においても、腐敗臭を放つのは地獄に堕ちた相です。現代では、遺体をドライアイスで凍らせた上、棺に消臭剤を入れたりして、腐敗臭を防いでいますが、この経典の説かれた3千年前には、ドライアイスも消臭剤もありません。ですから、そのような処置は取らない、遺体を自然のままにしておく、ということを前提にして、腐敗臭が出てくるのは地獄に堕ちた姿だというのです。

「十には、脚膝戦掉す」ーー恐怖のために、足や膝が震えてしまう。臨終は生と死の境ですから、臨終が近付いてくると、死後の恐ろしい地獄の苦を感じ始めるため、恐怖して震えだすのです。

「十一には、鼻梁欹側す」ーー鼻筋が曲がって、生前と全く人相が変わり悪相となってしまう。まるで般若の面でも被せたような相に変貌してしまうこともあります。

「十二には、左眼動す」ーー黒目が完全に横にいって、白目がむき出しになってしまう。

「十三には、両目変じて赤し」ーー両目が真っ赤に血走ってしまう。

「十四には、面を仆して臥す」ーー苦しみのあまり、顔を枕に臥して悶絶し息絶える。

「十五には、身を屈めて左の脇を地に著けて臥す」ーー苦しみのあまり、身体をエビのように屈め、横になったまま息を引き取る。

釈尊は、この15の相を挙げて、「もし臨終に臨んで、これに該当する姿が顕われたなら、その人は間違いなく無間地獄に堕ちたものと知りなさい」と説かれました。

これはもう救うしかない。

大石寺こそ正統・富士門流たる証し

今から遡(さかのぼ)る事、約720年前の昔。大御本尊御図顕の日と同じくする正応三年(1290年)の
十月十二日、富士大石寺は御開山・日興上人によって建立され、翌十三日、日興上人は譲座御本尊を
認(したた)められて、日目上人に授与されたのである。

さても、不信心の莫迦者どもが言うには、この事を以って『日興上人が大石寺の住職を務めたのは、
たった一日だけだった』などと揶揄するのである。

小笑。

本より、譲座御本尊を授与されしは、日興上人から日目上人への御内附を意味するものであり、
唯授一人血脈相承の証でもある。

つまりは、御本尊首題直下の日蓮大聖人の御花押の左方下に、御開山日興上人の御判形を入れず、
御歴代上人の御判が記される事こそが、応に御本尊七箇之相承に示された『代々の聖人悉く日蓮なり
と申す意なり』との師弟相対の相貌なのであって、全く其の原点こそは譲座御本尊に示された御相貌
(首題直下の左方に日興上人御自らの御判形を入れず、日目上人の御名を記された)に在るのである。
応に是れこそが日興上人、日目上人を始めとする唯授一人血脈相承の厳格な御証文なのである。

ったく、其のような事も解からずして『日興上人が大石寺の住職を務めたのは、たった一日だった』
などと莫迦な事を言い『譲座御本尊の模刻御本尊には日目上人の御名がない』などと騒ぐのである。

哀笑。

つまり、これらの者共は、前例のない事を以て偽作と断定しようとする、所謂、文献莫迦の悪癖なの
であって、これらの阿呆どもは、特別とは抑も前例を超える処にある、という単純な理屈さえも理解
出来ないのである。

『見たことがないから偽作だ! 聞いた事もないから嘘だ!』

ったく、悲しい連中ではないか。哀笑。

尚、日興上人は、譲座御本尊を日目上人に授与されし後、大石寺の譲状たる日興跡条々事を以って
日目上人への御付嘱を名実共に決せられたのである。

曰く『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし』

と。

而して、当宗の碩学たる日亨上人は、此の日興跡条々事を以って『正本大石寺に蔵す』と御明示し、
当然の事として正文書とされている。本より我ら富士大石寺の信徒は、日興跡条々事をして日興上人
の御正筆である事を確信するものであるが、応に其の根拠こそは、日亨上人が申される処の「重大な
正史料」とのご判断より更に上の「正文書」であるとの御判断、しかも御正筆である、との御判定に
於いて、我々はより一層の確信を得るのである。

仍って日亨上人は、御文中の『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』の御意について、
『戒壇本尊とは書かれなかったのは、大いにこの味わいがある』として、将来の本門寺戒壇を理想
する、日興上人の悠大なる御真意を汲まれたのである。だからこそ日亨上人は『開山上人はこれを
(戒壇の大御本尊を)弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、
上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古の時代)からか、遠き広布を
待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となったのは、
もったいない事である』と仰せになられたのである。

よいか! この日亨上人による戒壇の大御本尊に対する御教示こそが、上人が成した大研究の根本で
ある、という事をお前らは肝に銘じるべきである!

ところで、この日興跡条々事を、未だ偽書ではないか、つまりは証拠はないが富士大石寺が唯一、
蓮・興・目たる正統・富士門流である事が如何せん許せない、との瞋恚修羅の心で、偽書ではないか、
偽作ではないか、と小騒ぎしている連中も居る様であるが、日亨上人が仰せの如く、本より本状が
御正筆なのであるから仕方あるまい。

尚、これら文献莫迦が小騒ぎしておるのは、其れら大事な日興跡条々事の正本に元号が入っていない
のはおかしい、と云い、正本に於ける添削と写本の多種をして偽書と云うのである。

はて、これらの者。一体全体、どこの馬の骨であるのか。

本より、これらの者をして『馬の骨』と名付けるは、抑も日興上人に南無し奉り、日目上人に感謝申
し上げる者ではないのではないか、という事である。

つまりは、旧信徒たる創価学会員ではなく、弁哲を尊信する一致派であるのか、それとも日志の太刀
持ちたる北山の端くれであるか、それとも閃き相承の顕本であるのか。つまりは、そういう類の骨で
あるか、という事である。哀。

而してもし、其の『馬の骨』の正体が、日興上人に南無し、日目上人に感謝する創価学会員であった
ならば、其れらの者は『馬の骨』どころか『馬鹿の骨』とも成り得るが、もしそうであるならば、
一信仰者として其の面従腹背の醜さに、反吐(へど)が出るというものである。

さて、上記の日興跡条々事への疑難であるが、何れも枝葉末節の難癖であって、本状中『日興が身に
宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』の御文が『日目に之を授与す』に係っておれば、本状の骨子は
其れで完結するのである。

其れは何故か。本より本状が唯授一人血脈相承の御文証であり、まさに相伝授与される御内証こそは、
実に本門戒壇の大御本尊の御魂魄に帰一するからである。

尚、此に付録として枝葉を破すならば、先ず、案文・正本ともに元号が入っていない事について文句
を言うなどは、全く阿呆な勘ぐりであって、其の当時の国家の状況(天皇方対鎌倉幕府)からして、
もしや諫暁、もしや天奏の時、真の弟子たる付属書の提示を要求されて、その付属書にある元号が、
もし敵対天皇及び敵対幕府の元号であったならば、その宗門は、其れこそ敵対勢力から認知された、
或は加担した宗団として拒絶されるのみならず、さもすれば、天奏者は其の場で捕縛されて、遂には
その頸を刎ねらるやも知れないのである。

仍って付属書に於ける元号の記入は、此の当時に於いては無記入というご判断こそが最も慎重にして
正解だったのである。逆に言えば、お前らの様な知恵の浅い者共などは、到底、天奏への準備など務
まらないという事にもなるのである。小笑。

次に正本に於ける添削であるが、要は添削された内容が何であったか、という事よりも、其の添削を
誰が行なったか、という事であろう。

聞けば其れは日興上人御本人であったと云い、又聞けば御本人ではないとも云う。

而して何れにしても、其れは御正筆の上での添削であり、又、其れ以外に加筆があろうとも、重要
本文について御手が入っていない以上、本状を偽作とする根拠などは成立しないのである。つまりは
『見たことがないから偽作だ!』と言っているに過ぎない、という事である。又、だからこそ『鑑定
だ! 鑑定だ!』と大騒ぎするのであろう。

鼻笑。

ったく、わざわざ偽書を作成するのに、其の作成年月日も入れず、しかも本文を削ったままにする
などは、其れこそ、其の偽書としての信憑性、つまり偽作者の目論見自体が損なわれてしまうので
あるから、偽作者は必ず、その意図からして、其の偽書を真書ならしむ為に、作成年月日は入れた
がるのであり、まして本文を削ったままにするなどは、其の目的からして矛盾するものである。

(だから見よ。すでにお前等が本状に年号が入ってない事を以って疑念を呈しているではないか…)
小笑。 つまり其の事を逆に言えば、未記入・添削の其れ自体が御正筆の証しともなるのである。

尚、他門による写本の氾濫については、本より正本が発端なのであるから、後はどの写本が正本に
一番近いか、というパズルのお勉強が残るのみである。

まぁ、時間が有ればやってみても良いのではないか。

何れにしても、日興跡条々事(大石寺譲状)の御正筆は、日亨上人も仰せの如く、富士大石寺に格蔵
されているのであり、其の厳然たる事実こそは誰も動かす事は出来ないのである。

曰く『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし』

と。

仍って日亨上人に曰く『これをもってかんがうれば、本門戒壇にはむろん本門の大曼荼羅を安置
すべきことが、とうぜんであるので、未来建立の本門戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、
大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊である』と。

さて今回、小生から不信心の者共に示した〝御下文〟は、果たして理解出来たであろうか。鼻笑。

『聞いてないよ! 見てないよ! だから其れは嘘なんだ!』 哀笑

もう、いい加減そういう駄駄は止めた方がよろしい。

尚、言っておくが、当文に反論ある者は、先ずは己(おのれ)が信奉する本尊を示し、加えて己(おのれ)
が所属する教団を明示し、更に己(おの)が信条として所属教団の教義に信順するや否やを、信仰者の
資格として其れを宣べるべし!

果たして、其の理由は如何。

本より、己が身を置く教団教義に違背する者に、抑も相手が信奉する教義に批判を加える資格など
無いからである。

そういう信仰の初歩さえ判らぬ者は、先ずは学者の番犬として生きるがよろしかろう!

勿論、そういう類(たぐい)も「だめだ、こりゃ」の一例ではあるが。鼻笑。

まぁ、精々頑張りなさい。

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破邪の欄室、大月天氏の書き込みより転載。

Fake Honzon mady by himself



ahotan

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