【コラム】ドイツと日本の態度が違うワケ

人がいい隣の家のおばさんという印象が漂うドイツのメルケル首相がドイツ語を話すという事実に今更ながら気付かされた。それも非常にはっきりとした語調だった。「ナチスの台頭は、彼らと共に歩んだ当時のドイツのエリートや、彼らを黙認した社会があったため可能になった」「数百万人に対して行われたむごたらしい犯罪や、与えられた苦痛は決してなくなることはない。どれだけ補償をしたところで、その事実を変えることはできない」

 今年1月30日は、ヒトラーが政権を掌握してから80周年に当たる日だった。そのころ、メルケル首相はこのような演説を行った。ナチス政権に対する反省は政界だけの話ではない。ドイツを訪れた観光客たちは各地で、ナチスの蛮行についての写真や映像を目にする。また、スマートフォン(多機能携帯電話端末)のアプリ(アプリケーション=応用プログラム)をダウンロードすると、歴史的な建物の中を背景に、ナチスの犯罪についての説明を受けることができる。ドイツ全域が、ナチスの犯罪についての「展示室」になっているというわけだ。首相までが明白な侵略行為について「観点によって解釈が異なり得る」と発言する日本とは雲泥の差だ。

 一体なぜ、このような違いが生じるのだろうか。ドイツは全国民が良心的な文明国である一方、日本は良心が退化した未開な国なのか。そんなはずはない。

 もちろんその背景には、戦後の米ソ冷戦による人為的な国際秩序の再編や、国家レベルの近代的な倫理意識の差など、さまざまな理由があるだろう。

 このような論理が目につく。「ドイツは最初から徹底していた」という考えは空想にすぎないというものだ。ナチス政権の幹部たちの中に、戦後のドイツで幸せな老後を送った者も少なくなく、処罰を免れた者も多かったというわけだ。

 このような主張をする人たちは、ドイツと日本の戦後の態度の違いが「被害者の力」によるものだと話す。人類の歴史の中で枚挙にいとまがない虐殺事件の中で、ホロコーストだけが「最悪の犯罪」と認識されているのは、被害者がユダヤ人だからだというわけだ。

 ユダヤ人たちは世界各地でカネや権力、文化をコントロールし「加害者ナチス」を執拗(しつよう)に攻撃してきた。アカデミー賞で『ソフィーの選択』や『ライフ・イズ・ビューティフル』など、ホロコーストを扱った映画が数多く受賞するのも、ユダヤ人から資金が提供されたり、ユダヤ人の監督や俳優、評論家たちが団結したりするために可能となった。ユダヤ人の学者たちはナチスの犯罪記録を詳しく調べ、資産家たちは財団をつくって支援を行った。

 残念なことだが、人類の歴史の中で、加害者からの同情によって十分な被害の救済が行われたためしはない。国際犯罪の被害者に対する救済は「力の論理」に基づいて行われている。ドイツが反省を「強制」された証拠はあちこちに見られる。反対することのできない反省ムードが形成されることにより、ドイツは「十分に反省する国」という評価を意図せずに得たというわけだ。

 もちろん韓国も、植民地支配を清算しようという取り組みを続けてきた。「売国奴」「親日派」という評価は、ほかのどんな評価よりも厳しいものだ。だが、韓国が追い求め、分析し、批判の対象とするのは主に韓国人だった。その中には一時的に親日行為に関与し、後に独立や建国のために身をささげた人もいたが、容赦なく「裏切り者」呼ばわりされ、辱めを受けてきた。

 だが、韓国人の手で、侵略戦争に関与した日本の政治家や軍人、知識人を見つけだしたり、その悪行を暴いたりしたという話は最近聞いたことがない。近隣の悪党がわが家を修羅場にしたというのに、その悪党を断罪するのではなく、悪党と親しかった自分の家族を断罪する方に力を入れてきた。韓国で親日行為の清算を行うことは有意義なことだ。しかし、それが日本の責任を問うことに対する「怠惰」や「責任の放棄」を正当化することはあってはならない。最近の日本による「新たな加害」は、韓国のこれまでの怠惰がもたらした産物だ。

朴垠柱(パク・ウンジュ)文化部長
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