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別在の十界

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月28日(日)14時30分51秒 i60-34-120-234.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  御隠尊猊下に曰く『「悪鬼」というのは幽界の命とも言えます。目に見えるものしか信じない人も
多いけれども、世の中の存在には、目に見えない種々の界があるのです。すなわち別在の十界を信ず
べきであり、そこには地獄界も餓鬼界もあり、悪霊も存するのです。例えば、通力のある人は、山の
中の稲荷の後などを歩くと、そこに長い間住んでいた狐の魂などを感ずることがあるのです』

                         (平成15年度 第1回法華講夏期講習会)

先ずは『別在の十界』との表現は、宇宙法界に冥伏せし十界の生命をして、まことに要を得た表現で
あると思うものである。抑も、それら別在する生命、つまり「空」の状態で冥伏している十界の生命
については、恩師戸田先生も述べられている所であり、小生も男子部時代、何度も読み返したもので
ある。長文ではあるが此に明示しよう。

恩師に云く『【死んだ人が迎えに来た】そういう事はありうるのです。なぜこういう事がいえるかと
言いますと、この大宇宙というものは、十界の生命なのです。地獄もあり、畜生もあり、仏界もあり
ます。ところが、この大宇宙に、その十界がありながら、何も邪魔にならない。たとえて言えば、
いつも言うことですが、ここにドイツの言葉もあるのです。また、アメリカの言葉もあります。
ラジオ東京もあります。NHKもあります。だが決して邪魔になってはいません。
(今しゃべっている)私の語の邪魔になっていません。ところが、ここに機械をすえつけたら、
邪魔どころか、うるさくて話などしていられません。同じように、大宇宙の中へ、我々の生命は
溶け込むのです。そして、おのおのは地獄なり、餓鬼なり、あるいは畜生なり、それぞれの生命の
性格の中へ溶け込む「我」というものが存在します。それは、霊魂ではないのです。また、死霊
などというものでもない。「我」なのです。この苦しみが持つ生命の波長というものが、
(今の世に)生きているものも、十界の生命を持っていますから同じその波長を受ける時に、そういう
言葉で聞こえたように思え、もしこれを精神学者に言わせれば「幻覚」というのです。
また、本人にはそういうふうに見えたり、感じたりする夢のようなものなのです。それは死後の生命
の波長の影響なのです。これを生きているものが強くて、こちらから題目を送れば向こうが浮かぶの
です。そうでしょう。同じ波長は通ずるのですから、こちらの生命力で仏界の生命力の題目を波長を
向こうへ送ってやれば勝てるのです。逆にこちらが弱いから、向こうの生命の波長を受けて、
ちょうどラジオの機械みたいになってしまいます。そして、その音を自分だけが聞くのです。
自分だけは見えるのです。そういう事は、仏法上、説明はできます。だが、こちらの生命力が本当に
強ければ、そんな事はありません。絶対に受けません。逆に向こうを救ってやれます。それが仏法の
哲理です』と。 【戸田城聖先生 質問会集 P143  昭和38年初版発行】

応に文中の『向こう』とは、宇宙法界に冥伏した死後の生命を指すものであり、其の『向こう』をして
『別在』と表現するに、何の誤りも無いのである。つまり、恩師が云われているとおり、此の宇宙法界
には、生きている者の十界と、死せる者の十界があり、又、其々の十界の波長は、相互に於いて感応し
得るという事である。つまり、我らからして其は『別在の十界』という事である。

つまり『別在の十界』とは、冥界に於ける十界の存在を言われたものであり、つまり、死後の生命に
於いても十界が存在し、其れは空(有ると云へば有り、無いと言えば無い、而して在るにして無く、
無きにして在る)という状態で存在するという事である。而して、諸天や悪鬼や魔なども、其の状態に
於いて感応する、という事である。

見れば、現創価の小会員などが、此の御隠尊猊下の『別在』という表現を以って、御書にはそういう
語句は無い、そんな表現は初めて聞いた、などとギャーギャー騒いでおる様だが、其の示される語句
に於いて内容が同義であるならば、その時々の表現が初出であっても、別段、その説く所の意に於て
問題はないのである。ったく『御書にそのものズバリの語句などは無い! 聞いたことのない表現だ!』
とは、いつもながらの創価莫迦の文句ではあるが、お前ら新興宗教の存在意義などが、抑も、どこの
御書にも示されていないのである。ったく、そんな連中が『別在とはなんだぁ~!』と騒いでおる。呆笑。
まことに、『どーしようもない連中』である。哀。

>今や日蓮正宗門徒内では、真顔で「別在の十界」などという目に見えない存在を信じろと強弁して
>いるのです。

果たして此の文句は、彼の阿部日ケ~ン(陰性)のものであるが、此の文句こそは『目に見えない存在を
信じろと言われても其れは無理だ』という事であり、其れこそは恩師の指導に違背するものである。

何? 恩師の指導は、宗門との和合時代の指導であって、今の我々には通用しない、だと? 呆笑。

ならば、上記の恩師の指導が、組織の破門によって、邪説となる、という根拠を示しなさい。
つまり、日亨上人、日淳上人、日達上人、そして日顕上人の途中までは、恩師の指導は正論であるが、
破門以降は、御世辞の指導であり、無知の指導であり、誤謬の指導であり、邪説である、という事を
証明しなさい。ったく、ある蝗蟲などは、平成十七年、つまり破門されて十四年後の会長指導でさえ、
邪説であるなどと言っておる。お前ら本当に大丈夫か。哀笑。

ブレてブレてブレまくり、其れこそ、民主党よりも百倍のブレ様である。ったく、政治ならまだしも
宗教団体として情けないとは思わんのか。哀。

>ないものを「ある」と定義するのは大ウソつきか、見当識障害といったような精神的機能障害が
>疑われます。

哀笑…はて。無いものを在る、と定義するのは大ウソつきで、精神的機能障害が疑われる、とな。
ならば、在るものを無い、とする定義はどうであるか。これも精神病も一種であるのか。哀。

無量義経徳行品第一に曰く

『其身非有亦非無(其の身は有に非ず亦(また)無に非ず』と。(開結 72)

哀。お主から言わせれば、これも精神的機能障害の一文となるのか。何とか申せ!

ここで一言、付け加えよう。

小生の祖母は、恩師が出席された一般講義に於いて折伏されて入信したのであるが、其れまでは
色々な邪神を祀って拝み、一番怖かったのは、白蛇の神を拝んでいた時で、夜中になると布団から
這い出て、部屋の隅に膝をかかえて座り、舌をペロペロと出しながら、寝ている子供たちをギョロ
ギョロと見ていた、と小生の母からいつも聞かされた。勿論、祖母は創価学会に入り、日蓮正宗の
信心をして、見事、謗法から解放されて完治したのである。又、祖父や母からは、当時住んでいた
山口県の屋代島(大島)に、稲荷山という小高い山が海沿いあって、その山を夜な夜な通ると、キツネ
に化かされる、という話があって、いつもの一本道を歩いていると、何やら身体が冷たく感じ、ふと
気が付いたら、そこは海の中だった、というものである。

つまり、感応は道交し、其れら十界の生命は、其の有無に於いて此の法界に遍満しているのである。
今世であれ、冥界(幽界)であれ、十界は存在し、其れは断常の二見を超越するものであり、其の空に
して我なるを『別在の十界』と表現するは、此れまったく要を得たものであると、小生は改めて思う
ものである。

ったく、小生から言わせれば、お前ら創価学会の存在自体が、日興門流からして別在の宗教であり、
そんな新興宗教に現(うつつ)を抜かす、お前ら小会員こそが、我ら興門からして、別在、否、別物の
輩(やから)なのである。哀。

小笑。其れにしても、今に成って恩師の僧侶に対する呵責などを羅列しているようだが、ったく、
その背景などを敢えて隠匿して掲載する、怪文書フェイクの姑息な姿よ。哀。

よいか聞け!

恩師の信心指導について、小生と対決するならば、いつでも来い! 見事、粉砕してしんぜよう!
 
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